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週刊スモールトーク (第34話) 織田信長(4)~桶狭間の戦いの真実~

カテゴリ : 人物歴史

2006.02.04

織田信長(4)~桶狭間の戦いの真実~

■信長の女踊り

信長公記によれば、織田信長が「踊りの興行」を行ったという。しかも、信長みずから天人の衣装をまとい、小鼓をうち、女踊りをしたというのである。庶民的で気さくで、「第六天魔王」のイメージからはほど遠い。どうみてもかぶき者である。信長が女踊りをしたのは、津島の堀田道空の屋敷の庭で、それを見た津島の人々は大いに感激した。そこで、津島五か村の年寄りたちが踊りのお返しをしようと、信長の居城までやってきた。そのときの様子を、信長公記はつぎのように伝えている。

信長公は年寄りたちを御前にお召しになって、これはひょうきんだとか、これはよく似ているなどと、それぞれ親しく、気やすく、いちいちお言葉をおかけになり、もったいなくもご自身で扇であおがれ、お茶を飲まれよ、とすすめられた。かたじけないことであると、年寄りたちは炎天下での疲れを忘れ、ありがたく、みな感涙を流して帰っていった。(※)

ここに登場する信長は、「桶狭間の戦い」の覇気も、数十万人の一向宗をなで切りにした残虐さも感じられない。ひょうきんで、気配りのゆきとどいた親分という風だ。もともと、場をとりつくろうことがない人物なので、庶民の遊びを純粋に楽しんでいたとしか思えない。信長公記を読んでいると、こんな信長の別の顔を発見できて面白い。

■武田信玄

信長公記には、武田信玄が、甲斐を旅する尾張の僧侶から、信長のことを聞き出すところがある。信長のみならず、武田信玄の性格もかいま見え、興味深い。信長公記のその部分を要約すると・・・

ここに天沢という天台宗の僧侶がいた。すべての仏典を2度くりかえし読んだという人である。あるとき、関東に下る途中、甲斐の国で、
「武田信玄公にごあいさつして行くがよい」
と役人が言うので、あいさつを申し上げた。信玄公は
「上方はどこの生まれか」
と聞かれたので、天沢は
「尾張の国の者でございます」
と答えた。すると信玄公は
「信長公のごようすをありのままに残らず話せ」
と言われた。そこで天沢は
「信長公は毎朝馬に乗られます。また鉄砲の稽古をなさいますが、師匠は橋本一巴でございます。市川大介をお召しになっては弓のお稽古、ふだん平田三位という人をそばちかくにおいて兵法を学ばれます。しげしげと鷹狩りにお出ましです」
と申しあげた。信玄公はつぎに
「そのほかに、信長公に趣味はあるのか」
とお尋ねになった。
「舞と小唄がご趣味でございます。清洲の町人で松井友閑と申すものをお召しになり、ご自身でお舞になります。けれども、敦盛一番の外はお舞になりません。人間五十年、下天の内をくらぶれば夢幻のごとくなり、この節をうたいなれた口つきで舞われます」
と申し上げると、
「変わったものが好きであるな」
と信玄公は言われた。(※)

偉大な心理学者、武田信玄の片鱗がうかがえるエピソードである。僧が尾張出身ということで、信長の行状を徹底的に聞きだそうとしている。信長公記によると、この後、天沢が信長が小唄も好むという話をすると、信玄はその歌が何かを聞き出した上、天沢にその真似をさせるシーンがある。天沢が辞退しても、「ぜひぜひ」とせがみ、無理矢理うたわせている。執拗なまでの情報収集欲と、心理分析の姿勢がそこにある。武田信玄の卓越した人心掌握術が、こんな所にも現れているようで、面白い。

隣国のライバル上杉謙信にくらべ、武田武士団の結束は強かった。信玄の重臣たちは、信玄公の馬前で死ぬことを夢見ていたのである。それほど、信玄は部下の心をつかんでいた。
「人は石垣、人は城」
は有名な武田節の一節だが、人材こそが石垣であり、城であるといっている。実際、信玄は本国では城を築かなかった。信玄が住んだつつじが崎の居城は、城ではなく館(やかた)であった。信玄を囲む家臣団の「無形のシールド」こそ、彼の城だったのである。

また、ここに登場する、
「人間五十年、下天の内をくらぶれば夢幻のごとくなり」
は信長が好んだ一節と言われる。桶狭間の戦いのときも、これを舞った後に出陣している。「下天」とは、仏教でいう天界の1つで、1日が人間界の50年にあたるという。そのまま訳せば、
「人間の一生はせいぜい50年。下天においてはわずか1日に過ぎず、夢幻のようなものである」
信長の無常観をあらわす有名なエピソードである。

■織田信長の人生

織田信長の人生は、大きく2つの時期に分けられる。桶狭間の戦い以降の天下布武を目ざした時期、それ以前の尾張統一に追われた時期である。前者は、外交も戦いもスケールが大きく、登場人物も華やか、何もかもが絵になる。一方、後者は、陰湿な策略と陰謀で占められている。父の織田信秀は、尾張国を半分を支配する織田達勝の3奉行の1人にすぎず、動員兵力が限られていたからである。織田家存亡をかけた桶狭間の戦いですら、動員兵数2000。こんな兵力事情では、陰謀・策略に頼るしかない。

信長の面白さは、戦略と戦術の変幻自在にある。兵が数百のときは、策略と陰謀で切り抜け、兵数が2000ほどになると、桶狭間の戦いのような奇襲にでる。兵力が数万になると、敵を圧倒する大軍で押し寄せる。つまり、織田信長は、陰謀も、奇襲も、大戦略もすべてこなせる万能型だった。もちろん、信じられないような運もあったが。その最たるものが桶狭間の戦いである。どんな説明をされても、奇跡としか思えない。織田軍の兵数2000に対し今川軍4万5000、つまり、兵力差20倍。

■桶狭間の戦い~戦い前夜~

歴史上有名な桶狭間の戦いは、20倍もの兵力差を逆転した戦いである。信長はどんな魔法を使ったのだろう。ここで、信長公記の首巻の24章「桶狭間の戦い」をみてみよう。

永禄3年(1560年)5月17日、今川義元は軍兵をひきいて沓懸(くつかけ)に侵攻した。佐久間大学らは清洲城の信長公に、今川軍の動向をご注進申しあげた。ところが、信長公はその夜の話も、世間の雑談ばかりで、軍議に関することは一切なく、
「もう夜もふけたから、みな帰宅せよ」
とお暇を出された。家老衆は、
「運勢が傾くときには日ごろの知恵も曇るというが、このようなときを言うのだろう」
と信長公をあざ笑ってみなお帰りになった。(※)

織田信長は家老衆の前で、なぜ真意を明かさなかったのか?後の信長の行動をみれば、この時点で奇襲を決断していたことは間違いない。奇襲のような危険な作戦を成功させるには、事前の打ち合わせは欠かせない。にもかかわらず、出陣寸前まで、誰にも明かしていない。ひょっとすると、織田方に、今川のスパイが忍び込んでいたのかもしれない。とすれば、家老衆の前で作戦をうち明けるわけにはいかない。

また、桶狭間の戦いでは、信長にしては珍しく、あっちへ行ったり、こっちに来たり、けっこうバタバタしている。初めから、臨機応変を決め込んでいたのかもしれない。とすれば、事前の打ち合わせなど必要ない。なんといっても、兵力差20倍。これでは、作戦もなにもあったものではない。

■桶狭間の戦い~信長出陣~

明け方に、鷲津城(わしづ)に今川軍が攻めかけたという情報を得て、信長は行動を起こす。信長公記では、このときの様子が生き生きと描かれている。

このとき、信長公は敦盛の舞を遊ばされた。
「人間50年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか」
とうたわれて、
「法螺貝(ほらがい)をふけ、武具をよこせ」
と仰せになり、ただちに鎧をお召しになり、立ちながら食事をとられると、兜をお着けになってご出陣なされた。午前8時ごろ、東の方角では鷲津、丸根の砦は陥落したとみえて煙があがっていた。このとき信長公につき従う者はわずか6騎、雑兵200名ほどであった。(※)

なんという性急さ。その後、信長は馬で駆けめぐり、家臣たちがあわてて追いかけていく。信長特有の周到な準備、緻密な計画は全く見られない。まるで鉄砲玉だ。こうして、桶狭間の戦いは始まったが、信長に届くのは悪い知らせばかり。今川義元は、今川軍が織田軍を撃破していく様をみて喜び、
「義元の矛先は天魔鬼神もふせぐことはできまい」
とゆうゆうと謡(うたい)までうたわせている。戦況は予想どおりの展開であった。

■桶狭間の戦い~ゲリラ戦~

出陣後、信長は家老衆が引き留めるのも聞かず、丹下の砦、善照寺、そして中島へと危険なルートを疾走する。信長公記では、信長が領地を馬をもみにもんで駆けめぐる様子が描かれている。信長公記で最もドキドキするシーンだ。このとき、必死で信長を引き留めようとする家老衆に、信長は有名な言葉を吐いている。

「おのおのよく聞かれよ。今川の武者どもは、夜通し兵糧を運び、鷲津、丸根に手を焼いて、疲労しきっている。こちらは新手の兵である。小勢だからといって大敵を恐れるな。勝敗の運は天にある、ということを知らぬか。敵が攻撃をかけてきたら退き、敵が退いたら追撃せよ。何としても敵を追い崩せ。たやすいことである。分捕りにするな。斬り捨てにせよ。戦いに勝ちさえすれば、この場に参加したものは家の面目、末代までの高名であるぞ。ひたすら励めよ」(※)

桶狭間の戦いはゲリラ戦であった。少なくとも、織田信長にとって。ベトナム軍に完敗したフランスも、ベトナムから撤退したアメリカも、このゲリラ戦にやられたのだ。もちろん、ゲリラ戦がいつも成功するとは限らない。信長の先の台詞ではないが、
「勝敗の運は天にある」
信長は天運に賭けた、いや賭けざるをえなかったのだ。

■桶狭間の戦い~神の手~

信長公記によると、桶狭間の戦いのさなか、信長は先の台詞を何度も繰り返し、周知徹底させている。出陣後の信長は、出陣前夜、世間話にうつつをぬかした脳天気な殿様ではなかった。張り裂けんばかりの覇気、エンジン全開である。やがて、天候が信長に信じられないような助いの手をさしのべる。桶狭間の戦況が、一変する瞬間だ。映画やドラマでは必ずハイライトシーンとなる場面。信長公記によれば・・・

突然、にわか雨が石や氷を投げつけるような勢いで、敵のほうに向かって降りつけた。味方には後ろのほうから降りかかる。沓懸の峠の下の松の根元に2かかえ、3かかえほどの楠の木がこの雨と風で、東のほうに吹き倒された。あまりの出来事に、
「このたびの戦いは熱田大明神の神いくさであるのか」
とみな口々に申したことである。やがて、雨も収まり雲の切れゆくようすをご覧になって、信長公は、
「すわ、かかれ、かかれ」
と仰せになった。黒煙を立てて打ちかかる信長勢をみて、敵は水をまき散らしたように、あわてふためいて、後ろへわっと崩れさった。弓、槍、鉄砲、のぼりが散乱し、「算を乱す」ということばどおりのありさまであった。義元の輿もうち捨てて、逃げ去ったのである。(※)

■桶狭間の戦い~奇跡~

こうして、桶狭間の戦いは終わった。圧倒的兵力、緒戦での連戦連勝、謡(うたい)をうたわすほどの余裕、そんな今川軍がなぜ大敗したのか?並の天候であれば、信長軍が突撃してみたところで多勢に無勢、各個撃破されただろう。戦争の歴史では、奇襲は一番人気だが、成功する確率は意外に低い。勝敗はおおむね兵数で決まるからだ。

通常の雨風突風であれば、今川軍があのように算を乱すこともなかっただろう。問題は信長公記の一節、
「突然、にわか雨が石や氷を投げつけるような勢いで
である。これで、今川軍は肝をつぶしたに違いない。しかも、今川軍のほうに向かって降りつけ、信長軍には後ろのほうから降りかかったとある。ウソのような話だが、織田軍にとってこんな都合のいい雨風はない。

これにくわえ、楠木が吹き倒されるほどの突風。強い雨風は視界を極端に悪くするため、恐怖心も増幅する。しかも、その直後の思いもよらぬ信長軍の突撃。集団ヒステリーに陥ってもおかしくはない。人と自然が一点に凝縮された、神懸かり的な異常現象と言ってもいい。このようなものを、人は奇跡と呼ぶのかもしれない。

さらに、今川方にとって致命的だったのは、今川軍が逃げ去った後、総大将の今川義元が取り残されたことだ。信長公記によると、初めは300騎ほどが輪をつくり、義元を守っていたが、2度3度、4度5度と返し合っているうちに、しだいに軍兵も減り、50騎ほどになった、とある。総大将を守る4万5000の軍兵が、雷鳴と突撃で50騎に・・・戦さとはこのようなものなのだろうか。恐ろしい話である。桶狭間の戦いの最終局面は、信長公記には次のように記されている。

信長公も馬から下り、若武者どもと先を争い、敵を突きふせ、突き倒される。血気にはやる若者たちも、負けじと乱れかかってしのぎをけずり、刀のつばを割り、火花を散らし、火炎をあげて戦った。お馬廻り、お小姓衆の負傷者、死者は数え切れぬほどであった。(※)

お馬廻り、お小姓衆とは、総大将を守る近衛兵のことである。織田信長の面前で手柄をたてようと、阿修羅のごとく斬り合う若武者たち。壮絶で生々しい戦場だ。この後、今川義元は、毛利新介によって首を討ちとられた。20倍の兵力を誇った今川軍が、一瞬のうちに逆転されたのである。また、
「上総介信長公は、お馬の先に今川義元の首をつり下げて道をお急ぎになった」
とある。これもまた、生々しい戦国時代の現実だ。こうして、桶狭間の戦いを制した織田信長は、一躍、全国区の大名に名を連ねるのである。

■歴史はカオス

桶狭間の戦いで織田信長が勝つ見込みは万に一つもなかった。20倍の兵力差では手の打ちようがないのだ。では、本来の歴史とは?今川義元が桶狭間の戦いで勝利し、織田信長の首をとって、上洛に成功する。一方、武田、上杉、北条を打ち砕く力はなく、戦国時代は延々と続く。この世界は、今とは全く違った世界になっていただろう。その正史を、桶狭間の戦いが歴史年表から消し去ったのである。

《つづく》

参考文献:
(※)太田牛一著榊山潤訳「信長公記」富士出版

by R.B

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