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週刊スモールトーク (第33話) 織田信長(3)~尾張の大うつけ~

カテゴリ : 人物歴史

2006.01.22

織田信長(3)~尾張の大うつけ~

■信長の父

織田信長は大名の生まれではない。信長の父、織田信秀は、尾張国を支配する織田達勝の3奉行の1人であった。しかも、織田達勝は尾張国すべてを支配していたわけではない。尾張国の半分、下4郡に限られたのである。残る上4郡は織田信安という人物が支配していた。つまり、織田信長は、尾張国半分をやっと支配する人物の、さらにその家来のせがれということになる。信長のライバル、今川義元、武田信玄、上杉謙信、さらには近畿の諸大名に比べ、かなりのハンディがあった。

とはいえ、表向きと実情は違う、というのはよくある話。織田信長の場合もそうだった。信長の父、織田信秀は家臣とはいえ、すでに、主家をしのぐ力があった。歴史年表には縁はないが、幅広い人脈を築き、かなりの財を築いていたらしい。自らは、勝幡(しょうはた)に居を構えたが、那古野(名古屋)にも城をつくり、その城主に嫡男の信長をすえている。信長が、まだ元服前のことである。つまり、信長は少年時代にすでに一国一城の主だったわけで、父、信秀の力の大きさをうかがわせる。その後あらわになる信長の唯我独尊は、このような環境で培われたのかもしれない。

このころ、織田信長は吉法師(きっぽうし)と呼ばれていた。一番家老に林通勝、二番家老に平手政秀があてられ、本人はかなり窮屈だったらしい。なんといっても、あの性格である。織田信長の家臣、太田牛一が著した「信長公記」によると、この頃、信長は、毎日、天王坊という寺に行き、勉学に励んだとある。あの信長がお寺で勉強・・・想像するのが難しい。後に「第六天魔王」と怖れられ、言動に寸分のスキもない信長にも、こんな少年時代があったのだ。

天文15年(1546年)、13歳のとき、信長は古渡の城で元服し、初めて、織田三郎信長を名のった。そして、その翌年には初陣を飾っている。もちろん、まだ14歳なので、大したことはできない。平手政秀が後見役となり、三河に侵入、あちこちに放火して、翌日には帰陣した。戦国時代の初陣というのは、およそこのようなものだった。

■まむし山城道三

信長の父、織田信秀は、天文16年9月3日、美濃国に侵入した。ところが、帰る途中に、美濃国主の山城道三に襲われ、総崩れとなる。さすがの織田信秀も、「まむし」と呼ばれた山城道三(斎藤道三)にはかなわなかったようだ。この事件は、織田信秀が歴史年表に登場する数少ないイベントの一つ。なんとも不名誉な話だが。

まむし、山城道三は、織田信長よりはるかに生まれが怪しい。道三の父は仏僧だったが、ある時、美濃国の守護、土岐氏(ときし)の家臣長井氏に仕えた。守護(しゅご)とは、源義経を討伐するため全国におかれた軍事行政官のことである。ところが、徐々に、軍権を超えて強大化し、のちに守護大名となる。

父の後を継いだ道三は、長井氏を倒し、さらに守護、土岐氏をも滅ぼし、自ら美濃国の国主に上りつめた。いわゆる下克上(げこくじょう)で、道三が「まむし」と呼ばれた所以(ゆえん)である。このような道三の素性や実績を憂いだ織田家は、家臣、平手政秀の発案で、山城道三との縁組みを申し出た。こうして、織田信秀の嫡男信長と、山城道三の息女、濃姫の婚儀が決まったのである。

■大うつけ信長

織田信長の性格は複雑怪奇だが、その一つに、突き抜けた覇気がある。本来、パーソナリティに属するのだが、信長の場合、身体能力と関係があるかもしれない。信長は16歳から18歳にかけて、積極的に武技に勤しんだが、その様子は信長公記にも描かれている。

朝夕に馬の稽古(けいこ)、また3月から9月にまでは川で水泳、弓の稽古、鉄砲の稽古、兵法の稽古、また鷹狩り(たかがり)もした。また、信長が水泳が非常に巧みであったことも記されている。この優れた身体能力と、鍛え抜かれた運動能力は、後の「桶狭間の戦い」を奇跡の勝利に導く。兵力に劣る織田軍は、総大将が先陣を切る、疾風の機動力に賭けるしかなかった。

永禄3年(1560年)5月17日、駿河の太守、今川義元が4万5000の大軍を率い、尾張に侵入した。目的は上洛だが、通り道にある織田領を踏みつぶそうというのである。今川軍4万5000にたいし信長軍2000、つまり、兵力20分の1。信長にとって、人生最初の絶体絶命であった。

この戦いで、織田信長は、幼い頃から知りつくした領地を駆けめぐり、一瞬のスキを突いて、今川義元の首をあげる。最後の局面では、信長も下馬し、雑兵と斬り合った。これが桶狭間の合戦である。並の身体能力では、命がいくつあっても足りない。信長は生来「グランドデザイン」を得意とする戦略家だが、この戦いでは真逆の才能も現している。信長の重要な特質「覇気」が突出したエピソードだ。

世界史をみわたしても、桶狭間の合戦のような大劣勢の勝利は珍しい。その1つが「ガウガメラの戦い」だ。紀元前331年、当時、世界最強の帝国アケメネス朝ペルシャを、アレクサンドロス大王が打ち破った戦いである。このとき、アレクサンドロス軍は歩兵4万、騎兵7000。一方のペルシャ帝国は、歩兵100万、騎兵4万。なんと、兵力差25倍。この合戦で、アレクサンドロス大王は、愛馬ブーケファラスをもみにもんで戦場を駆けめぐり、死中に活を見出した。ガウガメラの戦いと桶狭間の戦いはすべてにおいて相似である。

このように織田信長は、武技に勤しむ優等生だったが、素行には問題があった。まずはその身なり。信長公記によると・・・

その頃の身なりというと、湯かたびらの袖(そで)を外し、半袴(はんはかま)で、火打ち袋などをいろいろ身につけて、髪はちゃんせんまげにし、もとどりを紅やもえぎ糸で巻きた立ててお結いになり、朱ざやの太刀をさし、お付きの者にもみな朱色の武具をつけさせるとうありさまで・・・(※1)

意味不明だが、下品で派手な様子はうかがえる。また、このエピソードから、信長が正真正銘の「かぶき者」だったこともわかる。

信長公記はさらに続く・・・

信長公は、見苦しいことがあった。町を通るとき、人目をはばかることなく、栗、柿はいうまでもなく、瓜をがぶりと食べ、町中で立ちながらほおばり、人によりかかったり、人の肩にぶらさがるような歩き方しかなさらなかった。そのころは世の中も上品なときであったから、信長公を大うつけと言う人ばかりだった。(※1)

有名な「大うつけ(大バカ)」は本当だったようだ。これはよく知られたエピソードだが、信長のだらしのない無秩序な性格が見てとれる。ところが、これは後の信長の性質と真逆である。なんとも複雑な性格だ。ところで、
世の中も上品なときであったから・・・」
というくだりは面白い。時は戦国時代なのに。

天文18年(1549年)3月3日、信長の父、信秀は疫病で死ぬ。まだ、42歳であった。このときの葬儀のエピソードは有名だが、信長公記で再確認しよう。

信長公がご焼香にお立ちになる。そのときの信長公の身なりは、長柄の太刀、脇差をわら縄で巻き、髪はちゃせんまげにし、袴もお召しにならず、仏前へお出になって、抹香をかっとつかんで仏前に投げかけてお帰りになった・・・信長公に対しては例のごとく大バカ者よと、とりどりに噂しあった。(※1)

という具合で、歴史に流された風聞そのままである。脇差しをわらで巻くというのもすごいが、抹香を仏前に投げつける!?葬儀には何度も参列したが、こんな光景は見たことがない。奇行にゆるい現代でも、精神科に連行されるのは間違いない。性格などというカテゴリーをはみ出した恐ろしい「個性」だ。個性を尊重しようなどという主張が、どれほどバカげた妄想かがわかる。

■信長の不思議な性格

ここに、織田信長の性格をあらわす面白いエピソードがある。信長は、竹を割ったような性格と思われがちだが、実は執念深く、陰湿な面があった。信長の二番家老、平手政秀の長男、平手長政は、優れた名馬をもっていた。ある日、信長がこれを自分に譲るよう言ったところ、長政は丁重に断ってきた。それが、また憎たらしい言いようだった。
「私は馬を手放せぬ武者でございますので、おゆるしください」
と言ったのである。信長はこの事件を深く恨み、たびたびこのことを思いだしては、不快になり、2人の間は気まずくなっていった。このように、信長は感情をさっぱり水に流すことはできなかった。執念深く、しかも長く記憶していたのである。

一方で、武田信玄なみの大心理学者を示唆する事件もあった。桶狭間の合戦後、尾張一国が平定された頃で、信長公記の首巻の「信長、小牧山に移る」に記されている。

その頃、織田信長と家臣団は清洲に住んでいたが、清洲は尾張の中央に位置する歴史的に富裕の土地であった。あるとき、信長は家臣団を引きつれ、二の宮山という不便な山に登る。そこで、この山に要害を構築するから、皆ここへ家宅を移転するよう命じたのである。しかも、こと細かな指示もつけくわえられた。山谷のどこそこに、誰々というふうに、屋敷の割り当てまで指示したのである。家臣たちは、こんな山中に引っ越しするというのは、まことに難儀なめぐりあわせだ、と不平不満を言い合った。

ところがその後、信長は突如、小牧山に引き移ろうと言い出す。小牧山は山のふもとまで川が続いていて、家財道具を運ぶのに便利な土地である。みな、わっと喜んで引っ越したという。最初から小牧山と言えば、みな嫌がるのを見越してのことだった。太田牛一は、これは信長公の優れた策略であると記しているが、信長の思いやりともとれる。

一方、宣教師ルイス・フロイスが記した「日本史」には次のような一文がある。

(織田信長は)非常に性急であり、激昂はするが、平素ではそうでもなかった。彼はわずかしか、またはほとんど全く家臣の忠言に従わず、一同からきわめて畏敬されていた。(※2)

これほど性急で唯我独尊の人物に、「信長、小牧山に移る」のようなエピソードがあるのは不思議だ。一同からきわめて畏敬されていたとあるが、激しい気性だけではなく、予測不能な性格も一因かもしれない。巨大な恐怖より、未知の恐怖のほうが、ずっとコワイので。

■信長と道三の対面

天文18年(1549年)春、美濃国の山城道三から、信長に対面の申し出があった。富田の正徳寺まで出向くから、信長もそこまで来てくれという。唐突な申し出だが、道三の素性、性格を考えれば、何か魂胆があるに違いない。じつは、道三は信長の資質を試すつもりだったのである。というのも、道三の家臣たちは常々こう言っていた。
むこ殿(信長)は、大あほう者でござる

道三は、戦国の下克上を地でいくような人物で、人の話をうのみにする軽率さはない。
「そのように人々が言うからには、決して大バカではないだろう」
と周囲にもらしていたほどである。ところがその一方で、真偽を確かめたいという気持ちもあった。そのようないきさつで、この対面が申し出られたのである。一方、信長はためらうことなく快諾した。

山城道三は、茶目っ気のある人物だった。町はずれの家にこっそり隠れ、信長が来るのを待ち受けたのである。やがて、信長一行が現れたが、その姿はウワサにたがわぬ大うつけぶりであった。半袴に、火打ち袋、7つほどのひょうたんをぶらさげ、まるで猿使いである。

ところが・・・

信長は、正徳寺に着くやいなや、びょうぶを引き、髪を折り曲げに結び、褐色の長袴をはき、小刀を脇に差す。一変して、非の打ちどころのない正装である。とくに髪を折り曲げに結んだのは、生まれてはじめてのことだった。これを見た道三の家中の者は、日頃のあほうぶりはわざと作っていたのではと勘ぐり始める。

したくがすむと、信長は御堂にすすみ、縁の柱にもたれかかり、そのまま道三を待った。柱にもたれかかって義父を待つ?一体どういう神経なのだ。しかも、正装した道三の家臣が居並ぶ前で。これは性格と言うより、育ちかもしれない。信長はくつろいでいるのか、別のことを考えているのか、それも分からない。しかも、道三が入ってきても、信長はそれに気づかない。たまりかねた堀田道空が信長に、
「これが山城殿です」
というと、
「そうか」
と言って、道三に挨拶をする。そこでたがいに盃を交わし、道三との対面は終わった。

その後、道三は信長を見送るが、その間、苦々しい様子だった。また、美濃衆の槍は短く、尾張衆の槍が長いのを見て、さらにおもしろくない様子で、何も言わずに帰ってしまった。その途中、家臣の猪子兵介(いのこひょうすけ)が道三に、
「信長公はどう見ても、たわけです」
というと、道三はこう答えたという。

「まことに無念なことである。この山城の子たちが、あのたわけの門外に馬をつなぐことはまちがいないだろう

門外に馬をつなぐとは、その門の主人の家来になること。つまり、自分の子たちが信長の家来になると、道三は予言したのである。信長の中に、「性格」などというありきたりの尺度では計れない巨大な「器(うつわ)」を見たに違いない。その後、道三の前で、信長をたわけ呼ばわりする者はいなくなったという。やがて、道三の予言は的中する。美濃が、織田信長に征服されたのである。

《つづく》

参考文献:
(※1)太田牛一著榊山潤訳「信長公記」富士出版
(※2)松田毅一川崎桃太編訳「回想の織田信長」中央新書

by R.B

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