究極のチェスゲーム ~コンピュータチェス〜
■コンピュータ知名度ランキング
歴史上最も有名なコンピュータはなにか?退屈な教科書や歴史年表の露出度からいけば、「ENIAC(エニアック)」だろう。なにしろ、肩書きがすごい・・・歴史上初のデジタルコンピュータ!今は使われない電子部品「真空管(※1)」を使い、1秒間に5回のかけ算ができた。少年少女の科学書では「大砲の弾道計算に使われた」と必ず紹介されている。
「IBM360」も、年季の入ったビジネスマンには懐かしい響きがあるだろう。1960年代、コンピュータの巨人IBMが開発した大型汎用コンピュータで、世界中のライバルを打ちのめした。IBM360は、一世代先をいくIC(集積回路)が使われ、大型から小型まで共通のOSが搭載された。このような洗練されたアーキテクチャ(基本概念)と高度な実装技術はライバルの想像を絶するものだった。
IBM360の開発費は280億ドル(現在の価値で3兆円)。ちなみに、広島と長崎に投下された原子爆弾を開発したマンハッタン計画は20億ドル(現在の価値で2兆円)。民間企業が投資する金額ではない。IBMはこの超マシンに社運を賭け、賭けに勝ったのである。時代を突き抜けていたという点で、IBM360は「歴史に残るコンピュータ」といっていいだろう。
この驚異のマシンで、IBMはコンピュータ業界のガリバーとよばれるようになった。ライバルと言えるのは独占禁止法をちらつかせるアメリカ政府ぐらい。その後、コンピュータは大型汎用機から、パソコンへとダウンサイジングし、IBMは一時に苦境におちいる。
一方、文明という高みに立てば、知名度ナンバーワンは「HAL9000」かもしれない。HAL9000は、スタンリー・キューブリック監督の不朽の名作「2001年宇宙の旅」に登場する人工知能コンピュータである。電子眼で物体を識別し、話すことも聞くこともできた。さらに、人間が描いたスケッチを批評するほどの”絵のセンス”もあった。
■知性の試金石
HAL9000の使命は、宇宙船デスカバリー号の運用にあったが、人間とチェスをすることもできた。ところで、ここでなんで、チェスなのか?2時間しかない貴重なフィルムに、「コンピュータチェス」をあえて入れた理由は何か?キューブリック監督がチェス好きだったから?あんな偏屈な完全主義者が趣味を優先するとは思えない。たぶん、HAL9000の価値は「知性」にあり、「知性」の象徴がチェスだったのだ。確かに、欧米社会では、チェスは知性の代名詞になっている。
チェスの歴史は古く、1500年前のインドの「チャトランガ」が起源とされる。一方、コンピュータの歴史はせいぜい200年、19世紀イギリスのチャールズ・バベッジの「解析機関」が起源である。もし完成していれば、歴史上初の機械式汎用コンピュータになっていただろう(完成しなかった)。ところが現在、この2つのアイテムは奇妙な補完関係にある。コンピュータが「知能」を目指し、その知能程度を計る試金石がチェスになったのである。
とはいえ、初期のコンピュータチェスはお粗末なものだった。歴史上初のコンピュータチェスは、1956年、ロスアラモス研究所でつくられた。ロスアラモス研究所といえば、先のマンハッタン計画を推進した研究所である。スタッフの優秀さは折り紙つきだが、当時のコンピュータでは荷が重すぎた。駒を減らしたミニチェスのルールでプレイするのがやっとだった。
その後、コンピュータのハードは劇的な進化をとげ、コンピュータチェスも強くなっていった。初めは相手にしなかったチェスのグランドマスターも、しだいに興味を示すようになる。グランドマスターとは、世界チェス連盟(FIDE)が認定するチェスプレイヤーの最高位で、世界チェス連盟(FIDE)とは、チェスの公的な元締め組織である。
■人工知能
コンピュータが進化するにつれて、退屈な業務用コンピュータの開発から解放されたエリート技術者たちは人工知能を目指した。この分野で歴史に名を刻もうとしたのが日本の「ICOT」だった。ICOTは、1982年に設立された(財)新世代コンピュータ技術開発機構で、世界中から優秀な研究者が集め、「第5世代コンピュータ」を目指した。メディアも大々的にとりあげ、人々はやがて医者に代わってコンピュータが診察すると信じ込んだ。
ところが、10年経っても何も起こらなかった。いつの間にか、プロジェクトは解散していたのである。非ノイマン型、推論、並列処理、華々しいキーワードが飛び交ったが、何も生まれなかった。こう言うと、かの研究者たちはこう反論するだろう。
「我々は並列推論マシンをつくったし、その上で走るOSも言語もつくった」
だから?何の役に立つか分からないものを見せられて、史上初だとか、歴史に残る大発明と言われても、困惑するだけだ。ムダに凄いだけでは?
「研究者の研究者による研究者のための文学作品」
と言われてもしかたがない。つまり、読みたい人が読むだけの技術。
一方、同じ頃、地球の裏側では、人工知能へのもう一つの試みが始まっていた。先のIBM360を世に送りだしたIBMである。担当したのは、IBMの基礎技術研究所「ワトソンリサーチ」。ノーベル賞を受賞した江崎玲於奈博士も在籍した世界有数の研究所だ。ワトソンリサーチの目標は、ICOTにくらべ、ずっと分かりやすかった。チェスの世界チャンピオンカスパロフに勝つこと・・・
旧ソ連生まれのガルリ・カスパロフは、チェスの世界で、歴史上最強のプレイヤーとみなされていた。22歳の若さで世界チャンピオンになり、その後12年間も王座に君臨していた。IBMがコンピュータの巨人なら、カスパロフはチェスの怪物であった。カスパロフは、自分の駒を犠牲にすることをいとわない攻撃的なプレイヤーとして知られていた。この歴史上最強のチャンピオンに勝てば、コンピュータが「知性」をもった証明になる。ワトソンリサーチは以後12年間もかけて、コンピュータチェスを開発する。
■ディープブルー
ワトソンリサーチは、2度敗北した後、驚くべき怪物を作りあげる。チェス専用コンピュータ「ディープブルー」である。ディープブルーは、IBMのワークステーション(※2)RS/6000SPをベースに、チェスの盤面を計算する専用プロセッサが512個追加された。いわば、チェスのスーパーコンピュータである。
OSは、IBMのUNIX「AIX」が採用され、チェスソフトはC言語で書かれた。C言語は、言語仕様が小さいので習得が容易で、高速なプログラムを生成できる。そのため、ゲームソフトや機械制御用ソフト、パソコンのアプリケーションソフトで使用されている。
ディープブルーの思考プログラムは6人で開発されたが、その中に、元全米チェスチャンピオン、ジョエル・ベンジャミンもいた。まず、過去100年の主な試合の序盤戦がデータベース化された。この定石を照合することで、ディープブルーは序盤戦を優位に戦うことができる。序盤戦の展開がデーターベースにあれば、必勝の手を瞬時に決定できたのである。
また、序盤戦がデータベースになければ、独自の方法で手が決められた。コンピュータは記号処理や論理的思考は苦手だが、単純な数値計算は得意だ。そこで、チェスを丸ごと数値化し、値の大小で、手を決めるのである。
チェスには16個の駒があるが、先ず、各駒を点数化する。ほとんどが前進のポーンは点数が低いが、全8方向にいくらでも移動できるクイーンは点数が高い。この点数をもとに、一つの盤面にある自分の駒の点数を合計し、敵の駒の合計を引き算する。その値が大きいほど、自分に有利な盤面となる。
もちろん、点数の高い駒がたくさんあっても、置かれた位置が不利なら、その分差し引かれる。逆もまた真なり。そのため、駒の配置が優位か、駒は動きやすいか、キングは安全か、などの要素も考慮される。そして、最高点の盤面が次に打つ手となる。
■ナンバークランチャー
ところが、この方法は原理はシンプルだが、計算量が半端でない。ここで、話を単純化するため、1つの局面で、次の1手が平均30あるとする。すると、2手先は30×30=900、さらに3手先は、900×30=27000と膨れあがる。深読みするほど、手の数が爆発的に増えることがわかる。
そのため、名人クラスでも7手先読むのが限界といわれる。しかし、ディープブルーは10手先を楽々読むことができた。もちろん、「何手」だけでなく、「精度」も重要である。2手先を読むといっても、素人と名人とでは天地の開きがある。
ところが、ディープブルーは、読む「質」より「量」を優先したようにみえる。思考プログラムがC言語で書かれているのがその証拠だ。人工知能言語なら、「Lisp」や「Prolog」が一般的なのに、なぜC言語なのか?「Lisp」や「Prolog」は記号処理や思考アルゴリズムに向くが、「計算速度」で劣る。つまり、ディープブルーは高度なアルゴリズムで盤面を読むのではなく、しらみつぶしに「計算する」のである。
人工知能言語で思考プログラムを工夫してみたところで、カスパロフの知能を超えることはできない。であれば、「知能を真似る」より「力まかせの計算」に徹した方が勝ち目はある。つまり、ディープブルーは「人工知能」ではなく「ナンバークランチャー(数値を喰らうマシン)」だったのである。
■歴史上最高のチェスゲーム
1997年5月3日、マンハッタンのホテルの一室で、歴史に刻まれるチェスゲームが始まった。「スーパーコンピュータ・ディープブルーVs世界チャンピオン・ガルリ・カスパロフ」の一戦である。ホテルには、観戦スペースも設けられ、報道陣をはじめ多くのチェスファンが詰めかけた。さらに、そのライブ映像はメディアを通して世界100カ国に報じられた。この一戦がこれほどヒートアップしたのは、「人間Vs機械」というより、「機械が人間の知能を超えるか」に注目が集まったからだろう。
第1局は、カスパロフの圧勝。カスパロフは自分の駒を敵陣に侵入させず、ディープブルーとの駒の取り合いを避けた。そのため、ディープブルーにとって差し迫った危険がなく、どの手を選択しても点数に差が出にくい。結果、点数の誤差の範囲で手を決めることになり、ミスを犯す可能性が増える。案の定、ディープブルーはミスを犯した。カスパロフはそれを見逃さず、攻勢に出て、勝利したのである。
盤面を単純計算する方法では差が出にくい局面をキープし、敵のミスを誘い、スキを突いて勝利する。カスパロフの胸のすくような作戦だった。この戦いの後、カスパロフは、
「私は自分の庭でプレイしていたすぎない」
とウィットに富んだジョークをとばした。まだ5局残っていたが、すでに勝負あったかのようにみえた。カスパロフ恐るべし。
■ディープブルーの反撃
第2局。ディープブルーの先手ではじまり、古典的な序盤戦となった。ディープブルーは、序盤戦のデーターベースを駆使し、優位に立つ。これに対し、カスパロフはデータベースにない奇策を用いて、ディープブルーを混乱させようとする。だが、チェスの序盤戦はすでに研究し尽くされ、定石は確立されている。極端な奇策はカスパロフにとって命取りになる。それでも、さすがはカスパロフ、一進一退でゲームはすすんだ。そして、いよいよチェスの歴史に刻まれる神の一手がうたれる。打ったのはカスパロフではなく、ディープブルーだった。
観戦していたグランドマスターたちは、ディープブルーの次の一手に、必勝の手を予測した。それは、最強の駒クイーンをカスパロフの陣深く打ち込むディープブルー会心の一撃で、これで勝負が決するはずだった。ところが、ディープブルーの第36手は、誰も予想しないものだった。クイーンではなく、ポーン(歩)を一歩前進させたのである。
それは、ディープブルーの機械の限界を露呈するような悪手に見えた。ところが、1人カスパロフだけが顔を引きつらせていた。実は、カスパロフも、ディープブルーの次の一手が先の「クイーンの突撃」と確信していたのだ。そして、誰もが信じた「とどめの一手」がうたれた直後、カスパロフは目の覚めるような大反撃をもくろんでいたのである。そして、この反撃により、カスパロフの名はチェスの歴史に永遠に刻まれるはずだった。ところが、ディープブルーはたった3分間の計算で、その歴史をひっくり返した。歴史に刻まれた神の一手は、カスパロフではなく、ディープブルーだったのである。
■ディープブルー神の一手
ディープブルーは、8手先まで瞬時に読むことができたが、その時点で先の「クイーンの突撃」に決めていた。この手が最高点だったからである。そして、9手、10手と先を読んでも、やはり最高点は「クイーンの突撃」。ところがここで、ディープブルーは”不安”を覚える。先を読めば読むほど、「クイーンの突撃」の点数が下がり続けたからである。
ということは・・・
もっと深読みすれば、この手が最高点でなくなるかもしれない。つまり、眼前の盤面は、前人未踏の20手先を読み切ったカスパロフの恐るべきワナかもしれないのだ。そんな神業はカスパロフにしかできないだろうが、ディープブルーは並のチェス名人を想定して作られていない。怪物カスパロフを打ち倒すために作られた専用マシンなのだ。ディープブルーは、この”不安”を現実と受け止め、他の手を捜すことにした。歴史的瞬間であった。
カスパロフは後にこう語っている。
「あの瞬間、私はディープブルーに『知性』を感じた」
だが、ディープブルーに「知性」はない。冷静に考えてみよう。ディープブルーは人間が書いたただのプログラムなのだ。カスパロフが感じた「知性」も、
「最高点の手を採用するが、もし深読みするほど点数が下がるなら採用しない」
というアルゴリズム(処理手順)に過ぎないのだ。
ディープブルーの驚異的な計算力をもってしても、時間内に20手先を読み切ることはできない。それをおぎなうための補助機能にすぎないのだ。もちろん、これは「知性」ではない。似て非なるものだ。ところが、カスパロフはこれを「知性」と感じた。これは、高度な技術は魔法と区別がつかないことを示唆している。結局、カスパロフは、このときの衝撃から立ち上がることができなかった。こうして、ディープブルーは歴史的第2局を制したのである。
第3、4、5局とドロー、そして第6局でついにカスパロフは敗北する。2勝1敗3引分、ディープブルーの歴史的勝利であった。マスコミもこぞって、
「人間の知性が機械に負けた」
と大々的に報じた。カスパロフの敗因は、世評どおり、第2局で受けた精神的ダメージによるのだろう。また、人間には疲労があるが、ディープブルーにはない。これは勝負を決する中盤から序盤にかけて、決定的な優位点だ。チェスに限らず、囲碁や将棋で、名人が信じられないようなミスをおかすのは、疲労によるところが大きい。
■チェスソフト
その後、人間とコンピュータのチェスゲームは続いたが、人間が勝利することはなかった。天才カスパロフをやぶったウラジーミル・クラムニクでさえ。クラムニクは、新型コンピュータチェス「ディープフリッツ」に、引き分けるのがやっとだった。おそらく、未来永劫、
「地球上最強のチェスプレイヤーはコンピュータ」
その後、クラムニクをやぶったディープフリッツはパソコンにも移植された。Windows版の「フリッツチェス11(Fritz Chess 11)」である。さっそく購入し、試してみた。英語版だが、日本語Windowsでもちゃんと動作する。対戦成績は現在のところ、1勝54敗。もちろん、この1勝はたぶん「バグ」。確か、勝った瞬間、
「あんたはカスパロフみたいや」
みたいなメッセージが表示された。
「フリッツチェス11」は、対戦中もおしゃべりしてくれる。こっちが下手な手を打とうものなら、
「Ithink your move c3-e4 leads to disaster.」(この手はあなたに災いをもたらす)
というわけで、けっこう面白い。それに、世界チャンピオンをやぶったコンピュータチェスと対戦していると思うだけでゾクゾクする。どうせ死ぬまで「フリッツチェス11」を超えられないから、このソフトは一生モノ。
■ディープブルーの正体
さてここで、ディープブルーを総括しよう。私見だが、ディープブルーに「知性」はないと思う。「チェスを思考している」のではなく、「チェスをシミュレーションしている」ように見える。
「1秒間に2億もの盤面を点数化し、深読みするほど点数が下がるなら警告」
程度の処理ならいくらでも組み込めるだろうが、第1局でカスパロフが仕掛けたあの鳥肌が立つような戦術はとても思いつかないだろう。
それでも、人間が考えた思考手順はいくらでも組み込めるだろうが、ディープブルーが思いついたわけではない。先のICOTもここで失敗したのだ。真の知性に「自発性」は欠かせない。今の人工知能の延長ではムリだろう。やっぱり、機械は人間にかなわない?いや、知性がないからといって、機械を侮るのは危険だ。
映画ターミネーターのTVドラマ版「サラ・コナー・クロニクルズ」で、主人公ジョンがこうつぶやくシーンがある。
「ロボットが自分自身を改良できるようになった瞬間、人類は滅びる」
人間を破滅させるのに”まともな”知性などいらないのだ。
考えてみれば、人間社会の思考もディープブルー方式に向かっているような気がする。企業では、人間の価値を点数化し、それで、給与とポストを決めている。最近では、教師まで民間の活力導入とかで、点数化されている。これでは、じっくり生徒を教えている余裕もないだろう。
ただ、「人間を数値化して評価するのは間違っている」と言うつもりはない。むしろ、逆だ。つまり、ディープブルーの勝利は、点数化による判断がけっこう有効なことを証明したともいえる。感情の絡まない思考というのは、案外、数値計算でこと足りるのかもしれない。
※1:真空管
現在のICやトランジスタが発明される以前に、電子回路で使われた基本的な電子部品。電圧を増幅する機能をもつ。現在では、一部超マニア向けのオーディオアンプに使用されている。
※2:ワークステーション
パソコンの1つ上のクラスのコンピュータ。主に、CAD、CG、複雑な科学技術計算など、パソコンでは荷が重い処理に使われてきた。しかし、現在では、パソコンの性能が向上したため、その存在意義が薄れつつある。
by R.B