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週刊スモールトーク (第17話) イエス・キリスト(2)~奇跡~

カテゴリ : 人物

2005.10.08

イエス・キリスト(2)~奇跡~

■ローマ帝国

イエス・キリストが十字架刑に処せられた罪状はただ一つ、「自分は神に等しい」と公言したこと。ユダヤ教徒たちはこれを神への冒涜とみなし、イエス・キリストを支配者ローマ帝国に訴えた。とはいえ、ローマ側も神を「法」で定義できない以上、イエス・キリストが神か否かを判断することはできない。ユダヤ側の訴えをうけたローマ側も困惑した。ローマ帝国は「法」を重んじる国家である。この偉大な帝国は、輝かしい征服事業の合間に様々な「法律」を成立させている。また、法にからむ歴史的事件も多い。そのため、ローマの歴史は法の歴史と言っていいだろう。

たとえば、歴史の教科書にも登場するグラックス兄弟。イエス・キリストが生きた130年前、この兄弟にからむ恐ろしい事件がおこった。事の始まりは「農地改革」。当時のローマ帝国の自由農民は貧困にあえいでいた。兵役で農地を耕す暇がなく、農地を手放さざるをえなかったのだ。その土地を買い占めた貴族は大土地所有者に成り上がり、貧富の差は拡大する一方だった。そして、この貧しい農民のために、立ち上がったのがグラックス兄弟である。グラックス兄弟は、大スキピオを祖父とする名家の生まれである。

かつて、ローマ帝国は滅亡寸前に追い込まれたことがある。敵は強国カルタゴ、その精兵を率いるのが古代世界の名将ハンニバルだった。ローマ正規軍はハンニバル軍に連戦連敗、絶望の淵にあった。このとき、ローマを救ったのが祖父スキピオであった。兄グラックスは裕福な環境に育ったが、貧しい民を救おうとする正義の人であった。彼は、貧しい農民に公有地を分配する農地改革法を可決させた。ところがその後、驚くべき事件が起きる。法案に不満をもった元老院議員たちが兄グラックス一派300人を殺害し、テルベ川に投げ込んだのである。その後、弟グラックスが兄の意志を継ぐが、さらなる悲劇がおこる。今度は、弟グラックス一派3000人が殺害されたのである。しかも、首謀者はローマの執政官(国家元首)。現代では考えられない政治闘争だ。

このような無法と血の歴史の上に、法治国家ローマはあった。だから、「イエス・キリストが神と言ったから罰する」などという稚拙な論理で人を裁くことはできない。ところが、結局、ユダヤ教徒の願いは叶う。イエス・キリストは裁定をたらいまわしにされたあげく、十字架刑に科せられたのである。イエス・キリストを追い込んだのは、ローマ帝国ではなく、ユダヤ教の司祭者と信徒たちだった。このイエス・キリストの受難は映画「パッション」で忠実に描かれている。

■ユダヤ教

イエス・キリストが活動したガリラヤ地方は、2000年前はローマの植民地だった。イエス・キリストの布教はガリラヤを中心に行われ、そこから遠く離れることはなかった。キリスト教が世界宗教に発展するのは、弟子の時代になってからである。ガリラヤはローマ帝国領ユダヤ州に属していたが、その州総督がポンテオ・ピラトだった。イエス・キリストの歴史に欠かせない悪役だが、実在したことは間違いない。カエサリアで発見された碑文に、「ポンテオ・ピラト」の名が記されているからだ。

ポンテオ・ピラトは、ローマ本国の反ユダヤ主義者に任命されたこともあり、ユダヤ人を弾圧していた。征服者ローマと弾圧されるユダヤ民族、分かりやすい構図だが、現実はもう少し複雑だった。この時代、首都エルサレムのユダヤ社会の権力者はヨセフ・カヤパといった。カヤパは、ユダヤ教の大祭司にして、ユダヤ最高議会の議長、いわば政教一致の頂点にあった。さらに、カヤパは、ユダヤ社会の名門アンナス一族の婿。カヤパは、アンナス一族に支えられ、一方でローマ総督ピラトにも取り入った。

ローマ総督ピラトにしてみれば、支配地でテロや反乱が頻発すれば、責任問題。ユダヤ社会をたばねるにはカヤパの力が必要だった。カヤパは、このような力学にあぐらをかき、エルサレムの神殿で物品販売や両替まで行った。こうした商行為は、神聖な神殿を汚すものだったが、カヤバの権勢を怖れ、それをとがめる者はいなかった。ところが、イエス・キリストは違った。イエスは、神殿に入り、並べられた商品をひっくりかえし、商人を追い出したのである。穏やかで、慈悲深いキリストとは別の顔。これを見て、パリサイ人のなかにも、イエス・キリストの賛同者があらわれた。パリサイ人とは、一言でいえば、ユダヤ教の中核派の祭司である。

■イエス・キリストの奇跡

このような状況の中、西暦31年の「過越(すぎこし)の祭り」がはじまった。この祭りは、ユダヤ人の「出エジプト」を祝う歴史的な行事である。人々はエルサレムで神殿に屠(ほふ)られた小羊を家に持ち帰り、種なしパンと苦菜とともに食べて祝う。この年、イエスはエルサレムにはのぼらず、ガリラヤ湖に近い丘で、説法をしながら、祭りを祝った。イエスの説法は単純で明快であった。

「ときは満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じよ」

このとき、イエス・キリストは数千人の信者に囲まれていたが、そこである奇跡を行った。イエスが持ち込んだのは「パン5個と魚2尾」だったのに、食べ残しのパンくずだけで12のかご一杯になったという。信者たちは、彼こそはメシア王に違いないと言い合った。「メシア」とはヘブライ語で「聖油をそそがれた者」という意味である。祭司や王がその地位に就くとき、儀式として身体に油を注いだが、それが、救世主にも使われたのである。

イエス・キリストの奇跡は、これにとどまらなかった。ある時、イエスは、ガリラヤで農民の婚礼に招かれた。そこで、イエスは大きな石がめをプレゼントする。その石がめには水が入っていたが、いつのまにか葡萄酒にかわっていた。ある者は驚き、ある者は怪しんだ。だが、石がめの葡萄酒より、もっと注目すべきことがある。イエス・キリストが村人の婚礼を祝い、ともに楽しんだことである。

イエス・キリストの師ヨハネは、そのようなことは決してしなかった。ヨハネは、後にヘロデアンティパス王に殺される聖人である。ヨハネは、酒を断ち、メシア到来にそなえて悔い改めるよう、ひたすら説いた。宴席に同席することなどありえない。ところが、イエスはそれをした。人々の生活を尊重し、彼らといっしょに、祝い、楽しんだのである。それは、「絶対にして比類なき愛」の表れであった。こうして、イエス・キリストの評判は広まっていった。

■ユダヤ教との対立

イエス・キリストの布教は順風満帆のようみえたが、やがて暗雲がたちこめる。エルサレムのベテスダという地に、温泉が湧き出る療養所があった。そこに、たくさんの人が治癒に来ていたが、その中に、38年間も病気が治らない者がいた。イエス・キリストは、この者の病を治し、こう言った。「床を上げて帰りなさい」ところが、その一言が大問題だった。というのも、その日は安息日で、ユダヤの律法では、安息日に床を上げることは禁じられている。つまり、イエスはユダヤ教の律法を破ったのである。ユダヤ社会では大罪であった。

イエス・キリストの周りには、大祭司カヤパのスパイがつねに目を光らせていた。この事件はすぐにエルサレムに報告された。驚愕したユダヤ最高議会は、使者をイエスのもとに送り、詰問する。ところが、イエスは驚くべき反論をする。

神の子である私は、父(神)と同等の権威をもつ。それゆえ、安息日の定めより上にある」

これを聞いた大司祭カヤパは言い放った。「彼は神を汚した。これ以上、証人の必要があろうか!」ユダヤ教は一神教である。2神は許されない。イエス・キリストの発言は唯一神ヤハウェに対する冒涜(ぼうとく)だった。このことは、またたく間にエルサレムに広まった。ここにおよんで、アンナス一族に批判的だったパリサイ人も、イエス・キリストの告発に賛同する。この瞬間、イエス・キリストの運命、そしてキリスト教の未来は決まったのである。

《つづく》

参考文献:弓削達「ローマ帝国とキリスト教」河出書房新社

by R.B

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