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スモールトーク雑記

■信長の旅・安土城跡  2012.11.25

午後3時過ぎ、「安土城跡」に到着。といっても、目の前には、さびれた駐車場と、田んぼに浮かんだ氷山のような小山があるだけ。

じつは、安土城は安土山と一体化した城なのだが、本能寺の変で全焼し、石段と石垣しかのこっていない。

じゃあ、一体何を見るのだ?

安土山。

というわけで、半分、城跡の見物、半分、森林浴。ただし、信長に思い入れがある人なら、ジーンとくる聖域である。

安土城は、本格的な天守閣を備えた日本初の城だった。しかも、高さは46mと、木造建築では類をみない。

かつて、安土城を訪れた宣教師ルイスフロイスも、ヨーロッパの城に比肩すると絶賛している。

ところが、安土城の一次資料(当時の資料)は、テキストばかりで、絵や設計図のたぐいは一切残っていない。

その文字情報だけで、再現されたのが、「信長の館」にある安土城天主のレプリカだ。ただし、レプリカとはいえ、原寸大で、本物より立派(たぶん)。

駐車場に車を止めて、安土城跡に入ろうとすると、検問所のような小屋がある。イヤな予感がしたので、早足で通り過ぎようとすると、おばさんがひょいと顔を出して、「入場料(500円)をお願いします」

入場料?

20年前はタダだったぞ!と、くってかかるところだったが、おチビとカミさんの手前、我慢することにした。

「安土城跡」とはいえ、石段と石垣しかないのに有料?森林浴にカネを払う人がいる?信長オタクは別として。

実際、山内を1時間歩き回って、出会ったのは、老人一人だった。天守跡を背景に写真を撮ってくれというので、撮ってあげたが、みるからに学者風で、歴史の造詣(ぞうけい)が深そう。そんな物好きしか来ないだろう(失礼)。

戦国時代は、信長みたいな予測不能の天才が成功した唯一の時代で、安土城はそんな「日本の熱い時代」の象徴なんだぞ。だから、たくさんの人に見てもらうべきなのに、小銭を徴収して、少ない来訪者をさらに減らしている。本末転倒といおうか、狭量といおうか、愚かといおうか、日本の歴史をもっと大切にしてほしいものだ。

とはいえ、遠路はるばる来たわけだし、500円を惜しんで、きびすを返すのも大人げない。ということで、仏頂面で入場料を払うことにした。(大人げない)

入城すると、いきなり、長い石段がつづく↓

Aduti_Castle_Real_Stair

幅は広く、傾斜は急ではない。防御のための仕掛けは一切なく、城塞というよりは宮殿に近い。

最初の石段を少しのぼると、左側に羽柴秀吉の屋敷、右側に前田利家の屋敷がある。敷地の広さは500~1000坪ほどだが、さすがに建物はのこっていない。

安土城は、このような石の階段が、1本の道筋を形成し、深い森の合間をくぐり抜け、頂上へと導いてくれる。

石段と、たまに、かいま見える石垣と、美しい緑の木々が見事に調和し、得も言われぬ風情がある。

最高の森林浴だ。

石段沿いに、家臣や織田一族の屋敷跡があり、頂上に近づくと二の丸、本丸の跡、最後に天主(天守閣)跡がある。

さらに、山の反対側には寺院まで建立されている。信長はたしか、神仏を一切信じない超合理主義者じゃなかったけ?なんで、わざわざ、宮殿に寺院を建てるのだろう。信長の歴史には、まだまだ謎がありそうだ。

途中に、巨大な石垣を発見↓

Aduti_Castle_Real_StoneWall

安土山は標高199mあるので、これだけの石を運ぶのは、大変だっただろう。

昨日見学した「信長の館」に、安土城建設の様子を再現したミニチュアがあった↓

Aduti_Castle_Construct

まるで、エジプトのピラミッドの建設風景だが、本当にこんな大規模な工事だったのだろうか?

「フロイスの日本史」によれば・・・

信長は近江の国の安土山に、日本で最も壮麗だといわれる七層の城と宮殿を建築した。すべては切断しない石からなり、運び上げるのに4、5千人を必要とする石もあり、特別の石は、6、7千人が引いた。ある時、誤って石がすべりだし、150名以上が下敷きになり、おしつぶされ、砕かれてしまった・・・

「信長の館」のミニチュアは、誇張ではなさそうだ。

さらにのぼっていくと、頂上近くに本丸跡があるが、礎(いしずえ)しかのこっていない↓

Aduti_Castle_Real_Honmaru

そして、いよいよ頂上。ここに天主(天守閣)があったのだが、やはり、礎(いしずえ)しかない↓

Aduti_Castle_Real_Top

頂上から下界を展望すると、安土町のパラノマ絶景↓

Aduti_Castle_Real_TopView

ここから、信長は、自分が作った城下町を見下ろし、悦に入っていたのだろう。

ところで、信長は、なぜ、安土に居城をすえたのか?彼は筋金入りの合理主義者だから、「ここしかない」的な、強烈な理由があったはずだ。

安土城の築城がはじまったのは、1576年(天正4年)1月とされる。普請奉行は、信長の有力な家臣、丹羽長秀である。

じつは、その半年前の1575年6月、長篠の戦いで、信長は大鉄砲隊で、武田軍を殲滅している。この戦いで、武田騎馬隊は壊滅し、重臣も多数討ち死にした。結果、武田は、信長の敵ではなくなっていた。

また、浅井・朝倉もすでに滅亡しており、最大の難敵「本願寺一向宗」も弱体化し、信長に立ち向かえるのは上杉謙信ぐらいだった。そして、その上杉の前哨基地が、加賀(現在の金沢)だったのである。

つまり、安土城の築城が始まった頃、信長の重要な拠点は3つあった。

①京都(日本の都)

②尾張(織田の本国)

③加賀(上杉謙信の前哨基地)

もし、上杉軍が京都に進軍するとすれば、北陸街道を南進し、安土を通る。また、尾張本国を攻める場合も、北陸街道から安土を経由する。

つまり、地政学上、安土が一番の要衝になる↓

Aduti_Castle_Map

しかも、この頃、安土山は琵琶湖に面していたので、琵琶湖周辺地域に、水路で行き来できた。水路は陸路より、高速で、大量の荷が運べるので、交通の便もいい。

というわけで、信長は人生最後の居城を、安土にすえたのである。

余談だが、江戸時代に、琵琶湖と日本海をむすぶ運河の計画があった。もし、実現していれば、安土から朝鮮、中国まで、一本の水路で行けるわけだ。

夢をかき立てる壮大な計画だが、やはり、技術的にムリがあった。そのため、計画は早々に断念され、幻の運河となってしまった。

2012年現在、安土は、新幹線はおろか、特急も通っていない。日本の主要動脈から、完全にはずれている。しかも、JR安土駅は、どこからどう見ても「場末のJR駅」だ。

でも、僕は思う・・・

もし、信長が本能寺の変で倒れなかったら・・・

安土は、政治と経済の中心として栄え、日本の首都になっていたかもしれない。

そして・・・

琵琶湖と日本海を結ぶ「安土・日本海」運河、琵琶湖と太平洋を結ぶ「安土・太平洋」運河が開通し、安土から、水路1本で、世界のどこへでも行ける・・・

内陸にありながら、世界の海と直結するメガロポリス「安土」。歴史も今とは違うものになっていただろう。そんな「もう一つの世界」を、夢想するのである。

by R.B

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