エリーザベト伝説(2)~ドイツ革命~
■第一次世界大戦
1914年7月28日、第一次世界大戦が始まった。
アーリア人至上主義、国粋主義、菜食主義に凝り固まったエリーザベトは血をたぎらせた。さっそく、気合いの入った論文を新聞に寄稿している。
「ツァラトゥストラは立ち上がれ、戦えという、ドイツ人への大いなる呼びかけである。すべてのドイツ人の中に、戦士が息づいている」
「ツァラトゥストラ」は、哲学者ニーチェの著書「ツァラトゥストラはかく語りき」に登場する主人公で、「超人」の象徴である。
つまり、
1.ツァラトゥストラは超人である。
2.ツァラトゥストラはドイツ人に宿る。
3.ゆえに、ドイツ人は超人である。
こんなベタな三段論法で、国民をそそのかしたのである。とはいえ、このような煽動は、ドイツ政府にとっても好都合だった。超人が戦争に負けるはずがない、たとえ、それが信じられなくても、国民の戦意ベクトルは増大するだろうから。
そこで、ドイツ政府はニーチェの著書「ツァラトゥストラはかく語りき」を前線の兵士に配布することにした。結果、「ツァラトゥストラはかく語りき」は大ベストセラーになり、版元のエリーザベトは大儲けだった。さすがはエリーザベト、商売上手ですね!
とはいえ、「ツァラトゥストラはかく語りき」を著した本人のニーチェは、草葉の陰で泣いていたことだろう。
ニーチェの高邁な哲理が、戦争のプロパガンダと金儲けに利用されたのだから。実際、このプロパガンダ本は、1914年から1919年にかけて16万5000部も売れた。今の日本で、3万部売れればベストセラーなので、「爆買い」ならぬ「爆売れ」である。
戦争まで商売に利用するとは、一体どういう性根なのだ!と憤慨する前に・・・じつは、エリーザベトは、本気で戦争に興奮していたのである。金儲けと戦争のどっちが大事だったかは、今となっては知る由もないが、この場合、大した問題ではないだろう。
戦争によほど興奮したのだろう、エリーザベトはこんな寄稿もしている・・・
「神の正義とドイツ国民の優れた力とは、この巨大で邪悪な嵐に打ち勝つことを我々に許すのだ。かくして、我々は多大の痛ましい犠牲は払ったものの、ドイツが伝説の英雄にして勝者となって、このまことに困難な時を乗り切るであろうことを、神とともに確信することができるのである」(※1)
何が言いたいのかサッパリだが、
「戦って死んでね、きっと、いいことあるから」
ぐらいの話だろう。
ところが、ドイツ兵がいくら死んでも、いいことはなかった。
ドイツは戦争に負けたのである。
■背後からの一突き
1918年11月10日早朝、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、全財産を特別列車に詰め込んで、オランダにトンズラした。国の最高指導者がイの一番に逃亡するのはいかがかと思うが、もっと大きな問題があった。残されたドイツである。上を下への大混乱に陥ったのである。
戦後のドイツは、君主制から共和制に移行し、国名も「ドイツ帝国」から「ヴァイマル共和国」に変わった。初代大統領は社会民主党のフリードリヒ・エーベルト、つまり、「社会主義革命」が起こったのである。この政変は「ドイツ革命(11月革命)」とよばれるが、日本では意外に知られていない。「フランス革命」は有名なのに、不思議な話だ。
ちなみに、エーベルトは元馬具職人だった。これに驚愕したのがドイツ国民である。ドイツ帝国の輝けるホーエンツォレルン王朝が一夜にして消滅し、馬具職人あがりの社会主義者が政権をとったのだ!
さらに、驚愕を超えて憤怒したのが、エリーザベトだった。彼女は、極めつけの保守主義者で、どこの馬の骨ともわかない馬具職人(かけことば?)が国家元首になるのが我慢ならなかったのである。
エリーザベトは、ドイツ国民にむかってこう訴えた。
「社会主義者が、勇敢なドイツ兵士たちを背後から刺したのだ!」
さらに、首相のマックス・フォン・バーデン公に戦争続行を訴える手紙を書き送った。ヴェルサイユ条約のような屈辱を受け容れればドイツは二度と立ち上がれないと。
とはいえ、ドイツ革命の引き金は、キール軍港のドイツ水兵の反乱である。戦争が嫌で反乱を起こしたドイツ兵を、どうやって戦場にもどすのだ?
こんなエリーザベトの行状を憂いだ人物がいた。ニーチェの崇拝者、ハリー・ケスラー伯爵である。彼は日記にこう書いている。
「この老婦人(エリーザベト)は、70代になってもなおハイティーン娘で、あの男にこの男にと、17才の少女のようにお熱をあげてしまうのだ」(※1)
ちなみに、「背後の一突き」は、歴史的名文句となった。つまり、エリーザベトの言い分は、あながち的外れというわけではなかったのだ。
事実、この時代、大多数のドイツ国民はこう考えていた・・・
ドイツは戦いに負けたのではない。社会主義の連中とユダヤ人どもが、卑怯にも背後からとどめを刺したのだ!
さらに、社会主義者たちはもう一つの汚名も着せられた。
「11月の犯罪者たち」。
1918年11月11日、パリのコンピエーニュの森で、第一次世界大戦の休戦条約が締結された。「休戦条約」とは聞こえはいいが、ドイツの「敗戦条約」である。しかし、問題はそこでははない。条約に署名したドイツ側の代表は、社会主義ドイツ「ヴァイマル共和国」のマティアス・エルツベルガーだったのである。つまり、「背後の一突き」の主犯。そこで、社会主義者たちは調印式の「11月11日」をとって、「11月の犯罪者たち」とよばれたのである。
皇帝の戦争の後始末をさせられた挙げ句、これでは浮かばれない。
■エリーザベトの破産
こうして、エリーザベトはムカツク毎日を送っていたが、1923年、さらにムカツク事件がおこる。この頃、ドイツはハイパーインフレが進行し、マルクが通貨としての用をなさなくなっていた。
1923年の為替レートを見てみよう。
・6月:1ドル=100万マルク
・8月:1ドル=500万マルク
・10月:1ドル=10億マルク
・11月:1ドル=4兆2000億マルク
マルクがドルに対し大暴落しているのがわかる(5ヶ月で42万分の1)。輸入物価が暴騰するのはあたりまえ。1ドルの輸入品を買うのに支払うマルクが、
「100万マルク→500万マルク→10億マルク」
とつり上がっていくのだから。
じつは、2015年の日本も、同じトレンドにある。政府が円安に誘導し、輸入物価が上がり、国内品の物価も上昇基調にあるのだ。
もっとも、日本の場合は、
・2011年10月:1ドル=75円
・2015年5月:1ドル=120円
4年間で「40%」の下落なので、大したことはない。1923年のドイツの「42万分の1」にくらべれば。
ちょっと待った!大事なことを忘れている。
1923年のドイツがどうであれ、ドルベース(世界基準)で円資産が40%も目減りしているのだ!インフレと円安から財産を守る手を打たないと、気が付いたら、財産が半減していたなんてことになりますよ。
話を1923年のマルクにもどそう。
11月15日、ドイツ政府は無価値になった「マルク」を廃止し、新通貨「レンテンマルク」を採用した。
これに仰天したのがエリーザベトである。それはそうだろう。80万ゴールドマルクにのぼるニーチェ基金が紙切れになったのだから。しかし、究極のプラス志向人間、エリーザベトはこう考えた・・・お金なんか、どこかのカモに、貢がせればいいのだ、ドンマイ、ドンマイ。
カモ?
ニーチェの崇拝者のこと。
事実、エリーザベトは「カモ」を取っ替え引っ替え、たくましく生き抜いたのである。
その中の一人が、ガブリエーレ・ダンヌンツィオだった。
ダンヌンツィオは、イタリア・ファシズムの先駆者で、独裁者ムッソリーニにも影響を与えた出来物である。もっとも、本業は詩を書くことで、ニーチェを讃える詩を書いてエリーザベトに捧げた。
さらに・・・
1908年、先のムッソリーニが、ニーチェの「権力への意志」を読んで感銘をうけ、エッセイ「力の哲学」の中で大いに讃えた。いわく、
「ニーチェは、19世紀最後の4半世紀で最も意気投合できる心の持ち主だ」
エリーザベトの照準がムッソリーニに向けられたことは想像に難くない。あとは、実弾を発射するのみ。その機会は20年後に訪れた。ムッソリーニが大出世したのである。
1929年2月11日、すでに、イタリアの政権をとっていたムッソリーニが、ローマ教皇とラテラノ条約を締結したのである。この条約の締結は、ムッソリーニの名声とカリスマをいやが上にも高めた。イタリア王国とローマ教皇庁の69年続いた対立「ローマ問題」を解決したからである。
ラテラノ条約により、ローマ教皇庁のあるエリアが「バチカン市国」としてイタリアから独立した。さらに、カトリックがイタリアで特別の宗教であることも認められた。そのかわり、ローマ教皇庁は対外的には中立であること、イタリア国内の政治に口出ししないことが定められた。
エリーザベトはこの機を逃さなかった。さっそく、ベルリンのイタリア大使に宛てて、こんな手紙を書いている。
「私は、もはや、閣下にムッソリーニ首相への私の全身全霊からの賞賛の意を表さずにはいられません・・・首相閣下はヨーロッパばかりでなく全世界の卓越した政治家であられますが、その尊敬すべき偉大な首相の行動力のうちに、いくばくかのニーチェ哲学が潜んでいることを見いだすことができましたことを、私はまことに誇りに存じております」(※1)
なんとも卑屈な文面だが、「ニーチェ哲学が潜んでいる」と手前ミソな文言を混入することは忘れていない。さすがはエリーザベト。
とはいえ、先のケスラー伯爵に言わせれば・・・「また、新しい男を見つけてお熱を上げた」。
つまり、詩人であれ、ファシストであれ、聖人あれ、悪党であれ、ニーチェを讃える者は、すべて、エリーザベトのカモなのだ。
ちょっと言い過ぎたカモ。
くだらないシャレはさておき、エリーザベトの財政難はどうなったのだろう?
マルクが紙切れになり、ニーチェ基金が空になったのだから、ジルバーブリック館(ニーチェ資料館)の維持はムリだし、贅沢な暮らしもおしまい。というのも、これまでの大スポンサー(大カモ)のエルネスト・ティールが破産寸前だったのである。
■新たなスポンサー
エリーザベトは痛感した。
どんな金持ちでも、個人には限界がある。長期間、安定して、資金援助できるのは巨大な組織のみ、たとえば政党、できるなら政権政党がいい。国家権力の保護を受けるのだから、これに優るものはない。
そこで、エリーザベトが目を付けたのが・・・なんと、ナチスだった。
悪魔に魂を売った老婆!と弾劾されそうだが、事実は少し違う。
元々、ナチスとエリーザベトは似た者同士だったのである。
ナチスの教義は、反ユダヤ主義、アーリア人至上主義、全体主義、侵略主義・・・どれをとっても人の道にはずれたものだが、エリーザベトもその熱烈な信奉者だったのである(日和見的ではあったが)。つまり、ナチスを悪魔というなら、エリーザベトも同類で、断じて、魂を売ったわけではない。
誉めているのか、けなしているのか・・・まぁ、どっちでもいいだろう。
ところが、この頃のナチス(ナチ党)は、政党の体をなしていなかった。演説も、ビヤホールで、酔っぱらい相手に、共和国政府と外国(特にフランス)を口汚くののしるだけ。
さらに、驚くなかれ、この頃、ナチ党の党首アドルフ・ヒトラーはムショ暮らしだった。クーデター(ミュンヘン一揆)に失敗し、刑務所に拘置されていたのである。
ナチ党は、与太者やゴロツキの集まりで、いわゆる烏合の衆だった。そこへ、親分のヒトラーが戦線離脱したものだから、党は大混乱。内部分裂をおこし、権力闘争にあけくれていた。1925年、ヒトラーが釈放されて、ナチ党を再結成したものの、国会の議席数は「14」。一方、第一党の社会民主党は「150」。これで、どうやって政権をとるというのだ?
ところが、1929年10月24日、ウォール街で株が大暴落すると、世界大恐慌が発生した。世界にとっては災難だったが、ナチ党には恵みの雨だった。ナチ党が大躍進し、ヒトラー内閣が誕生する原動力になったのだから。
じつは、世界大恐慌で最もダメージをうけたのはドイツだった。すでに、ハイパーインフレと大量失業で国は破綻寸前だったのに、未曾有の大不況が襲いかかったのだ。弱り目に祟り目とはこのことだろう。
こんな食うや食わずの状況で、平和や協調を訴えたところで、カエルの面にションベン。そこで、ナチ党は、敵をでっちあげて、猛攻撃し、大衆の怒りに火をつけたのである。「怒り」はどん底で生き抜く最良の栄養源なのである。
そんなナチ党の成長を、エリーザベトは注意深く見守っていた。
ナチ党は信条的には、エリーザベトのお仲間である。だから、ナチ党に取り入れば、資金援助を引き出せるかもしれない。そうなれば、昔のように、ジルバーブリック館をピカピカに飾り立て、エリーザベト自身も贅沢な暮らしができるというわけだ。
そのための条件は二つ。ヒトラー内閣が成立すること、政権内部にコネをつくること。
それを、エリザーベトは虎視眈々と狙っていたのである。
そして、そのときが、ついに来る。ヒトラーが政権をとったのである。しかも、合法的に。
それは、歴史の方程式が創り出した必然ではなかった。俗物図鑑から抜け出てきたような俗物どもが、私利私欲をぶつけ合ってできた産物、つまり、予測不可能な歴史だったのである。
参考文献:
(※1)「エリーザベト・ニーチェ―ニーチェをナチに売り渡した女」ベンマッキンタイアー(著),Ben Macintyre(原著),藤川芳朗(翻訳)
(※2)「ヒトラー全記録20645日の軌跡」阿部良男(著)出版社:柏書房
by R.B