エリーザベト伝説(1)~ニーチェブランドの創作者~
■第二の人生
パラグアイのドイツ人植民地「新ゲルマニア」は崩壊寸前だった。
植民地の悲惨な状況が暴露され、入植する者がいなくなり、創設者のフェルスター夫妻でさえ植民地を去ったのだから。妻のエリーザベトは故郷のドイツへ、夫のベルンハルトは黄泉の国へと。もっとも、エリーザベトの場合は、去ったのではなく、追放されたのだが。
ところが、エリーザベトは落ち込まなかった。第二の人生を見つけたのである。兄ニーチェの著書を独占販売して金儲け!
兄の名声で金儲け?このバチ当たりが!
・・・ではなく、事実はその逆。
じつは、現在に到るニーチェの名声は、妹エリーザベトのおかげだったのである。もし、エリーザベトがいなかったら、ニーチェは無名の学者で終わっていただろう。ニーチェが発狂した時点で、主要な著書はまだ発表されていなかったから。もっとも、その場合、「ナチスの協力者」という汚名を着せられることもなかったが。
それにしても、エリーザベトの頭の切りかえの早さ、変わり身の早さはどうだろう。
人生をかけたプロジェクトが失敗し、夫が自殺したのに、落ち込むこともなく、新しいプロジェクトに、打ち込めるのだから。一体どんな神経をしているのだ?
と、悪口をいう前に、彼女を見習うべし!
彼女の辞書には、後悔、悩み、ストレスなど、金にならない単語は登録されていないのだから、と、誉めているのか、けなしているのか、自分でもわからない。
というわけで、エリーザベトは、第二の人生に胸を膨らませて、ドイツに帰国した。彼女が、ナウムブルクの実家に帰ると、ニーチェは以前より大人しくなっていた。大声をあげることも、暴れたりすることもない。一日中、黙って、宙を見すえているのだ。
ところが、エリーザベトは、この”痛ましい姿”をお金に替えることを思いついた。
兄の心の病で金儲け?
あさましい!と責める前に、一体どうやって?
天才哲学者、狂気の世界へ、波瀾万丈の人生・・・
でも、そんなベタなやり方でうまくいく?
同情で気を惹いても、一過性の話題で終わるのは見えている。大衆は、飛びつきやすく、飽きやすいものだから。
ところが、エリーザベトはこの難儀なプロジェクトを成功させた。驚くべき手法で。
■ニーチェ・ブランド
エリーザベトの兄ニーチェは優れた哲学者だったが、自分が構築した哲理に押し潰されてしまった。勇ましい「超人思想」をぶち上げ、自ら実践した結果、心の病にとりつかれたのである。しかも、最も重い統合失調症に。老馬が御者に鞭打たれるのをみて、泣き崩れ、そのまま発狂したというから、ことは深刻だ。
ところが、エリーザベトはその「痛ましい姿」を「超人」に昇華させたのである。
どうやって?
「狂人=弱者」→「狂人=普通じゃない=超越的存在=超人」
目の覚めるようなコペルニクス的転回だ・・・
でも、そんなカンタンにいく?
それが、うまくいくのだ。
じつは、狂人を超人にすり替えるのは難しいことではない。常識と論理を捨てればいいのだ。そもそも、正攻法で考えても、答えは見つからないから。
ではどうすればいい?
「神話」にすればいい。神話なら、なんでもアリだから。
ただ、エリーザベトが、論理的に考えて、この手法にたどり着いたとは思えない。そもそも、「自分が神話を作っている」ことにも気付かなかっただろう。彼女は筋道立てて考えるということができない。つまり、行動した結果、「ニーチェ神話」ができあがっていたのである。バカにしているのではない。天才だと言っているのだ。
じつは、天才エリーザベトには協力者がいた。彼女の側近のルドルフ・シュタイナーである。彼は詩人であり、詐欺師でもあったが、その才能を用いて、ニーチェをこう讃えた。
「ニーチェが、ひだのある白い部屋着に身を包んで横たわり、濃い眉の下の深くくぼんだ目を見開いて、バラモンのように凝視し、問いかけるような謎に満ちた顔をして、思索家らしい頭を獅子のように威厳に満ちて傾けるのを見れば、だれしも、この男が死ぬなどということはなありえない、この男の目は永遠に人類の上に注がれることだろう、という感じがするのだった」(※1)
だまされていはいけない。ここに書かれているのは、自分の身の回りの世話さえできない廃人なのだ。それが、シュタイナーの呪文にかかると、バラモン、獅子・・・超人?!
これほど見事に人をだませるのは、詐欺師しかいないだろう。
これが、言葉の力、宣伝の力、プロデュースというものなのである。
ところが、詐欺師、いや、協力者は他にもいたのだ。ニーチェの信奉者、ハリー・ケスラー伯爵である。彼は、慎重に言葉を選びながら、シュタイナーの主張を増幅させた。いわく、
「彼はソファーで眠っていた。その巨大な頭を右に傾けて垂れ、胸に沈めていた。まるで、重すぎて首では支えきれないかのようだった・・・病人とか狂人というよりも死人のようだ」
そして、驚くべきことに、協力者は音楽界にもいたのである。
1896年、音楽家リヒャルト・シュトラウスが、ニーチェの著書「ツァラトゥストラはかく語りき」をモチーフに交響曲を書いたのである。曲名もそのまま、「ツァラトゥストラはかく語りき」。この楽曲は、スタンリー・キューブリックのSF映画のカリスマ「2001年宇宙の旅」に使われ、一躍有名になった。
こうして、ニーチェは正気を失った後、急速に名声を得ていく。もちろん、すべて、エリーザベトのおかげ。ニーチェは自分の身の回りのことさえできないのだから。
ここで、エリーザベトの名誉のため少しフォローしておこう。このままでは腹黒い守銭奴で終わりそうなので。
じつは、エリーザベトは腹黒い守銭奴ではなかった。彼女は、兄ニーチェが有名になるのを心底望んでいたのである。兄ニーチェを心から尊敬し、偉大な哲学者、預言者だとかたく信じていたから。だから、複雑な守銭奴なのである(フォローになったかな)。
とはいえ、エリーザベトは自分を有名にすることも忘れなかった。彼女はこう言い切っている。
「フリッツ(フリードリヒ・ニーチェのこと)には、どこかたぐいまれなところがあることを幼いときから見て取り、その確信を口にした、たった一人の女の肉親が、妹のこの私なのである」(※1)
さらに・・・
エリーザベトは、ニーチェ本の編集にまで口を出した。
ちょっと待った、彼女は哲学を理解できるの?
ムリ。
エリーザベトの側近のルドルフ・シュタイナーによれば、
「(エリーザベトは)兄上の学説に関してはまったく門外漢だ・・・細かな差異を、いや、大ざっぱであれ、論理的であれ、差異というものを把握する感覚が一切欠けているのだ。あの人の考え方には論理的一貫性がこれっぽちもない。そして、客観性というものについての感覚も持ち合わせていない・・・どんなことでも、自分の言ったことが完全に正しいと思っている」(※1)
やっぱり、ムリ。
ところが、エリーザベトの編集付きのニーチェ本は評判がよかった。というか、飛ぶように売れたのである。エリーザベトは哲学の素養も論理的思考も持ち合わせていなかったが、セリフのセンスだけは抜群だったのだ。
たとえば・・・
新ゲルマニアはまがいもので、それを喧伝するフェルスター夫妻はペテン師だと、非難されたとき、エリーザベトは反論したが、返す刀で、反ユダヤ同盟を一刀両断にしている。反ユダヤ同盟は、夫のフェルスターと同じ反ユダヤ主義なのに、夫に資金援助をしなかったからである。
そのときのエリーザベトのセリフがふるっている。
「おお、反ユダヤ主義のみなさん、恥知らずにも、あなた方のもっとも理想的な指導者の一人を見捨てることが、あなた方の誠実さですか、勇敢さですか・・・」(※1)
エリーザベトは哲学や論理は苦手でも、大衆をたぶらかす言霊(ことだま)には精通していたのである。
■エリーザベトの野望
狂人を超人に仕立て上げ、話題性を高め、本の販売数を増やして一儲けする・・・エリーザベトの野望はそんなものではなかった。もっと、大きな野望があったのである。
「ニーチェ・ブランド」の確立。
そのための最初のステップが「ニーチェ資料館」の設立だった。この資料館をニーチェ・ブランドの象徴にすえて、露出を増やし、有名にして、書籍以外の商売をもくろんだのである。
具体的には、ニーチェの著作(ワンソース)を、多角的に活用して、書籍以外の形態で収入を得る。これは、現在のデジタルコンテンツの最先端手法で、「ワンソース・マルチ展開」とよばれている。
つまり、エリーザベトは、100年未来の最先端手法を駆使していたのである。プロデューサーの訓練も受けていないのに、どうやって閃いたのだろう。
1894年2月2日、ナウムブルクの実家で「ニーチェ資料館」が開館した。ニーチェの著書、手紙、そのほか、ニーチェにまつわるあらゆるものが詰め込まれた。ここに来れば、ニーチェ・ワールドが堪能できるわけだ。
1897年4月20日、ニーチェの身の回りの世話をしていた母フランツィスカが他界した。エリーザベトは、これを機に、兄とニーチェ資料館をヴァイマルに移そうと考えた。ヴァイマルは、ドイツ古典研究の中心であり、ゲーテー、シラー、リストなど著名な文化人を輩出している。だから、ニーチェにふさわしい町だと考えたのである。
とはいえ、ヴァイマルで新しい資料館を開館するには大金が必要だ。それはどうしたのか?
ニーチェを崇拝する友人で、お金持ちのメータ・フォン・ザーリスが出した。そのお金で、ヴァイマルを見渡す丘の上にある豪壮なジルバーブリック館を買い取り、資料館に改造したのである。一階には、ニーチェの著書、手紙、日記、絵画が展示された・・・ところが、その横に、パラグアイ時代のエリーザベトにまつわる品々、ベルハンルト・フェルスターの胸像まで展示された。ニーチェ資料館、それとも、エリーザベト資料館?
ヴァイマルに新しいニーチェ資料館(ジルバーブリック館)が開館すると、ヨーロッパ中の知識人が押しかけた。悲劇の天才哲学者ニーチェの世界を堪能しようと。こうして、ニーチェの知名度は増し、著書は難解な哲学書にもかかわらず、売れ続けた。ニーチェの健康が悪化すると、さらに名声は高まり、本の販売数もうなぎのぼりだった。すべて、エリーザベトの思惑通り。
そして、いよいよ「ワンソース・マルチ展開」の大攻勢が始まる。
1898年10月に、アルノルト・クラーマーが「椅子にすわる病めるニーチェ」と題する彫像を製作した。もちろん、アートとして。それを見たエリーザベトは閃いた。これで一儲けできる!
クラーマーの彫像をテンプレートにして、サイズの違うレプリカを製造・販売したのである。居間や書斎に飾れば、最強の知的オブジェになるし、いっぱしの哲学者気分にもひたれる。実際、このレプリカは飛ぶように売れた。エリーザベトの商売上手には脱帽だ。
1900年8月25日、ニーチェは風邪をこじらせて、あっけなく死んだ、まだ、55歳だった。
エリーザベトはこの機会を逃さなかった。「ニーチェの死」が下火になる前に、ジルバーブリック館を大改装し、「ヴァイマルにニーチェあり!」を大々的にPRしたのである。
ところが、エリーザベトの野望はこんなものではなかった。
この頃、毎年、バイロイトでワーグナー歌劇祭(バイロイト音楽祭)が開催され、多くの知識人が訪れていた。そのため、バイロイトはドイツ文化の中心の感があった。
そこで、エリーザベトは「ニーチェのヴァイマル」を得意の宣伝でピカピカに飾り立て、「ワーグナーのバイロイト」を蹴落として、ドイツ文化の中心にすえようとしたのである。
■力への意志
さらに・・・
エリーザベトは、ニーチェの著書を売るだけでは満足しなかった。なんと、ニーチェの未完の書まで出版したのである。
ニーチェは死んでいるのに、どうやって?
じつは、ニーチェのメモを理解できる人物が一人だけいた。ニーチェの信奉者で、親友のペーター・ガストである。そこで、エリーザベトはガストを再雇用した。
ガストは、ニーチェが書いたり、棄てたりした、試行錯誤の産物を継ぎはぎして、一冊の本を創りあげた(恐ろしいことにエリーザベトの指示に従って)。この怪しげな本は「権力への意志」と命名され、1901年にドイツで出版された。そして、ニーチェの代表作の一つになったのである。
しかし、忘れてはいけない。ニーチェは「権力への意志」という本は書いていない。書いたのはエリーザベトとその仲間なのだ。
とはいえ、この本がニーチェの哲理から大きく逸脱しているとは思えない。
なぜなら、エリーザベトにそんな創造力はないから。
この本に登場する「力への意志」は、ニーチェ哲学の根本をなす概念で、人間が高みを目指す力の源を意味している。この言葉は、ニーチェの代表作「ツァラトゥストラはかく語りき」に初めて登場し、超人思想やルサンチマンの土台となった。
というわけで、エリーザベトは、ニーチェの未完の書までお金に替えたのである。まるで、ギリシア神話のミダース王ではないか。触ったものすべてを黄金に変えるのだから!
こうして、ニーチェが死んだ後も、エリーザベトはこの世の春だった。ニーチェの著作で実入りはいいし、寄付を申し出る奇特な金持ちも後を絶たなかったから。
その中の一人が、スウェーデンの銀行家エルネスト・ティールだった。ある日、彼からエリーザベトに一通の手紙が届いた。寄付の申し出なのだが、金額がハンパではない。彼はニーチェの熱烈な崇拝者だったのである。
エリーザベトにとって、願ったり叶ったり、ところが、一つ問題があった。エルネスト・ティールはユダヤ人だったのである。エリーザベトは極めつけの反ユダヤ主義者で、ドイツ本国がユダヤ人に汚染されたからと、わざわざ、遠路パラグアイまで行って、アーリア人植民地を建設したのだから。
そんなわけで、ユダヤ人から寄付は受け取れません!・・・なら、いさぎよかったのだが、そうはならなかった。1907年9月、エリーザベトは30万ライヒスマルクを受け取ったのである。その後も、エリーザベトは、お金が必要になると、ティールに無心するのだった。それでも、ティールは文句一つ言わず、お金を出し続けた。30年間の寄付の総額は数十万マルク。もちろん、エリーザベトは、気がとがめることもなく、すべてを使い切った。
なんという女・・・いや、待てよ、むしろ、いさぎよいのではないか?
「ニーチェ・ブランド」という大義ために、偏屈な人種差別を我慢したのだから。
ノンノン、そうではない。
エリーザベトの反ユダヤ主義は、単に日和見的なものだったのだ。後に、エリーザベトはこのユダヤ人富豪が大好きになり、家族ぐるみで付き合うようになったのだから。
参考文献:
(※1)「エリーザベト・ニーチェ―ニーチェをナチに売り渡した女」ベンマッキンタイアー(著),Ben Macintyre(原著),藤川芳朗(翻訳)
by R.B