アーリア人植民地計画(3)~パラグアイ移住~
■出航
1886年2月15日、ボロボロの蒸気船がドイツのハンブルク港を出航した。ドイツ南部で結成された開拓団である。南米パラグアイに移住して、アーリア人植民地「新ゲルマニア」を建設しようというのである。
ここで、「移民団」ではなく「開拓団」と強調したのは理由がある。目的地がブラジルやアルゼンチンのような開拓済みの植民地ではなく、三国同盟戦争で焦土と化したパラグアイだから。何もない新地から町を建設するのである。
事実、この開拓団の意識は高かった。他の植民団のように「食いつなぐ」ためではなく、「アーリア人植民地=人種の純化」というイデオロギーを支えにしていたから。たとえ、それが人の道に外れたものであっても。
開拓団は、14家族100名で構成され、ニーチェの妹エリーザベトとその夫フェルスターが共同指導者に就いた。元々、この計画はフェルスターの独断と偏見の産物だったからである。
開拓団のメンバーのほとんどが、ドイツ南部のザクセンの出身だった。共同指導者のフェルスター夫妻がザクセン出身なので、手っ取り早く、出身地で募集した、わけではない。募集はドイツ全国で行われていた。
ではなぜ、参加者がドイツ南部に集中したのか?
「新ゲルマニア=アーリア人至上主義」をかかげていたから。この時代、ヨーロッパでは反ユダヤ主義が吹き荒れていたが、首都ベルリンはまだ良識が残っていた。だから、公然と反ユダヤを叫ぶことは、分別のないこととされたのである。
ところが、ザクセンは違った。
ドイツが経済的困窮にあるのは、ユダヤ人があこぎな商売をして、ドイツ人から搾取しているから・・・が共通認識になっていたのである。実際、ビヤホールで反ユダヤ主義をぶちまけると、酔っ払いが、ビールジョッキの泡を飛ばして、喝采してくれた。
そもそも、ドイツ南部のザクセン(州都:ドレスデン)や、バイエルン(州都:ミュンヘン)は、古くから、反ベルリン(反体制)の意識が強かった。ヒトラー率いるナチスが政界に進出したときも、ミュンヘンでは支持されたが、ベルリンではなかなか票が伸びなかった。つまり、ベルリンが嫌えば、ドイツ南部のバイエルンやザクセンが好む、そんな風潮があったのである。
それに・・・
ドイツ人にとって、パラグアイは地球の裏側にある未知の国だった。ライフラインも一から手造りという有様で、「文明」の「ぶ」の文字もない。じつは、それまでにも、パラグアイに入植したヨーロッパ人はいた。ところが、ほとんどが命を落とすか、行方不明になっていた。そんな物騒な所に移住するのは、よほど切羽詰まっているか、ものを知らない田舎者である。少なくとも、インテリを自負するベルリン市民ではない。
とはいえ、プライドの高いアーリア人(ザクセン人)がそれを認めるはずがない。
そんな風潮の中、フェルスターが、
「ユダヤ的害悪を廃した共同体をパラグアイでつくろう!」
と言い出したので、うってつけの大義名分ができたのである。
つまり、冒頭の開拓団は全員「アーリア人種基準」で選ばれた人々だった。少なくとも、開拓団員はそう信じていた。
ところで、開拓団は、その後どうなったのか?
■到着
開拓団が乗った船は、蒸気船とは名ばかりの、いつ沈んでもおかしくない老朽船だった。
航海は困難をきわめ、さながら大航海時代の奴隷船だった。女子供を含む100人の団員は、虫の食ったビスケットをかじりながら、半分腐った水をすすりながら、食いついないだのである。1ヶ月後、南アメリカのモンテビデオに着岸したときは、全員が疲労困憊だった(鉄人エリーザベトを除いて)。
とはいえ、370年前に、この地に上陸したマゼラン隊にくらべればまだマシだろう。
というのも、マゼラン隊に同行したピガフェッタの航海記によると、
「ビスケットは粉くずになって、虫がわき、水は腐敗していた。牛の皮、オガクズ、ネズミ、何でも食べた。隊員の歯茎が腫れて食べれなくなり、19人が死に、30人が重病になった。健康な者はわずかしかいなかった」
そこまでして、金銀財宝が欲しい?
なんて余裕をかましている人は、いつまでたってもビンボーのまま。いい思いをしたければ、リスクを冒さなくては!(程度にもよるが)
その程度を超えたのがマゼラン隊だった。3年におよぶ大航海を終え、スペインのサンルカール港に帰還したとき、5隻の船は1隻に、265名の乗員は18名に減っていた。
生還率「7%」!?
しかも、隊長のマゼランも、フィリピンの戦闘で、大岩に直撃され即死していた。だから、新ゲルマニア開拓団の航海などマゼランの世界周航からみればピクニックみたいなもの・・・とまでは言わないが、次元が違うのだ。
とはいえ、新ゲルマニア開拓団の苦労もハンパではなかった(現代人からみれば)。
腐ったビスケットと水を飲み込みながら、やっとモンテビデオに着いたのに、そこがゴールではなかったのだ。さらに、小型の蒸気船でパラナ川を北上するのである。夜になると、蚊の大群が襲いかかり、団員の皮膚の下に卵を産み付けた。かゆいのでかくと、皮膚がただれ、腫れ上がる。苛酷な気候に耐えきれず命を落とす子供もいた。
モンテビデオを出航して、5日後の1886年3月15日、開拓団はアスンシオンに着いた。現在のパラグアイの首都である。つまり、ここでやっとパラグアイ。
このとき、フェルスターは43歳、エリーザベトは39歳、「知力×体力×気力」が人生で最も充実する時期である。
じつは、フェルスターの最終目標は、パラグアイ植民地「新ゲルマニア」の建設ではなかった。南アメリカ全土を包含する「アーリア人共和国」の建国・・・壮年よ大志を抱け!というわけだ。
とはいえ、たった100名でどうやって領土を拡大するのか、を考えた形跡はない。
フェルスターは誇大妄想だった?
あたらずとも遠からずだが、驚くべきことに、計画の成功をフェルスター以上に信じる者がいた。妻のエリーザベトである。
エリーザベトは、開拓団の中で一際目立っていた。小柄な身体で、コマネズミのように動き回る。酷暑なのに、黒ずくめの服装を脱ごうともしない。まさに、鉄の心臓と小型原子炉を内蔵した怪物なのだ。
ところで、アスンシオンに着いた開拓団は、その後、どうなったのか?
足止めを食らって、前に進めなかった。
なぜか?
信じがたいことに、土地の譲渡契約がまだ締結されていなかったのである。
フェルスターが、「新ゲルマニア」に選んだのは、アスンシオンの北150マイルにあるカンポ・カサッシアという地域だった。面積は600平方キロメートルで、今の金沢市ぐらい。とはいえ、三国同盟戦争ですっかり荒廃し、インフラは皆無だった。だから、どう考えても二束三文。
ところが・・・
地主のソラリンデは、欲をかいて、法外な値段をふっかけてきた。フェルスターは仰天した。土地譲渡の契約がまとまらなければ、開拓団はドイツに引き返すしかない。
そこで、フェルスターは、パラグアイ政府を巻き込むことにした。
余談の許さない交渉が続いたが、ついに、落としどころがみつかった・・・
1.フェルスターはパラグアイ政府に手付け金2000マルクを支払う。
2.パラグアイ政府は地主ソラリンデに8万マルク払う。
3.ソラリンデはフェルスターに4万エーカーを譲渡する。
本来、フェルスターが払うべき「8万マルク」が「2000マルク」で済んだのだから、フェルスターの一人勝ち?
ノー!
そんなうまい話はない。とんでもない条件がついたのである。2年以内に最低140家族が入植しないと、土地は没収!
ちなみに、このときフェルスター夫妻率いる第一次開拓団は14家族だった。2年で、その10倍の家族が入植する・・・絶対ムリ。とはいえ、実現しなかったら、土地はすべて没収され、入植者から集めた金を返納しなければならない。そうなればフェルスターは破産だ。
ところが、こんな物騒な契約書に、フェルスターは嬉々としてサインした。
なぜか?
2年で140家族なんて楽勝!と思ったのだ。
一体、何を根拠に?
何の根拠もない・・・だから、3年後に自殺に追い込まれるのである。
こうして、命と引き替えの契約書が締結された。その後、開拓団はアスンシオンを出発し、パラグアイ川を船でさかのぼった。それから、ウシと牛車で陸路を行き、一週間後に目的地に到着した。新ゲルマニアの予定地カンポ・カサッシアである。
そのカンポ・カサッシアだが、写真で見るかぎり、ジャングル・・・
■建設
そのジャングルで、新ゲルマニアの建設が始まった。まずは、家とライフライン、中でも優先されたのが、フェルスター夫妻の邸宅だった。1888年3月、大邸宅は完成し、盛大な落成式がおこなわれた。このとき、エリーザベトは42才、アーリア人植民地「新ゲルマニア」の母であり、ゆくゆくは、ドイツ第二の祖国「アーリア人共和国」の女王になるのだ。
得意の絶頂にあったエリーザベトは、ドイツにいる兄ニーチェに手紙を書いた。
「新ゲルマニアには輝ける未来があります。兄さんも早くパラグアイに来てください」
それに対し、ニーチェはこう返信した。
「反ユダヤ主義者は、みんなまとめてパラグアイへ送りだしたらどうだろう?」
フェルスター夫妻の邸宅は完成したが、植民地建設はこれからだった。2年以内に140家族が入植しないと、土地は没収されるのだ。そこで、フェルスターとエリーザベトは、入植者を集めるため、新ゲルマニアを「希望の楽園」として宣伝した。
いわく・・・
現在、学校は建設中です。牧師を呼ぶための基金の計画も進んでいます。もうすぐ、新ゲルマニアと外部世界を結ぶ鉄道も開設されます。純朴なパラグアイ人が召使いになるために集まってきます。食べ物は木に成っているので、不自由しません。まるでエデンの園です。
さらに、「早い者勝ち」をあおることも忘れなかった。
いわく・・・
新ゲルマニアには、すでに、パン屋、靴屋、大工、鍛冶屋、製材所があります。でも、まだチャンスはあります。洋服屋、皮なめし職人、配管工、ビール醸造業者なら大歓迎です。
こんな希望に満ちた話が、ドイツのケムニッツ植民地協会の会長マックス・シューベルトに届けられた。そして、それが、そのまま入植希望者に。
ふつうに考えればキナ臭い話なのに、真に受ける者がいた。
というのも、その後2年間で、40家族がパラグアイに旅立ったのだ。ところが、その1/4が途中で断念し、結果、100の分譲地のうち70が売れ残った。
なぜか?
新ゲルマニアはフェルスター夫妻が言うような「希望の楽園」ではなかった。地上の「地獄」だったのである。
参考文献:
(※1)「エリーザベト・ニーチェ―ニーチェをナチに売り渡した女」ベンマッキンタイアー(著),Ben Macintyre(原著),藤川芳朗(翻訳)
(※2)長澤和俊著「世界探検史」白水社
by R.B