日露戦争の原因(2)~ロシアと清の密約~
■ワイロと露清密約
清国の重臣「李鴻章(りこうしょう)」は、ロシアからワイロをもらって、国を売った。
ロシアに遼東半島を譲渡し、東清鉄道の敷設権を与えて、ロシアが勝手にハルビンに街を建設するのを見て見ぬふりをしたのだから。
そこに至る歴史は、まさに「小説より奇なり」・・・
この頃、中国の王朝は清朝で、「清」、「大清」、または「清国」とよばれた。
19世紀末、清国は列強に領土を食い荒らされ、惨憺たる状況だったが、国土の広さと人口では誰にも負けない。そこで、外国からは「眠れる獅子」と一目置かれていた。
ところが、日清戦争で大敗すると、清国の評価は一変した。「眠れる獅子」から「借りてきた猫」へと。
さらに、これに呼応して、列強の清国に対する対応も一変した。ソロリソロリから、ガンガン行こうぜ!
一方、1895年4月、日本と清国は、「日清講和条約」を締結した。この条約で、日本は遼東半島、台湾、澎湖列島、さらに、賠償金2億テールを獲得した。
ところが、その2週間後、ロシア・ドイツ・フランスの三国が、日本に遼東半島を返せと脅迫してきた。歴史の授業にも登場する三国干渉である。三国相手ではどうしようもないので、日本は遼東半島を返すことにした、断腸の思いで。
それにしても・・・
一旦締結した条約がチャラ、というのもヘンな話だ。しかも、言い出しっぺが、当事国ではなく、部外者だというのだから。
もちろん、不自然なものには理由がある。
じつは、当事国の李鴻章が、ロシアと裏取引していたのである。これが冒頭の「ワイロをもらって国を売った」につながるわけだ。
三国干渉の1年後、清国の欽差大臣・李鴻章はモスクワにいた。ちなみに、「欽差大臣」とは、清国で一番エライ大臣。そのエライ大臣とロシアの大臣が、1896年6月3日に「露清密約」を結んだのである。
密約?
イエス!
人に言えない秘密の条約。というのも、この密約が中国民衆にバレると李鴻章の命が危ない。それは興味津々・・・バレるとまずい「秘密」やらをのぞいてみよう。
1.清国とロシアは、片方が日本と戦争になったら、いっしょに戦う(軍事同盟)。
2.日本が返した遼東半島をロシアが租借する(民衆はなんと言うだろう)。
※租借:期限付きで領土を貸すこと。実質は「自国領土」とかわらない。
3.清国はロシアに東清鉄道の敷設権を与える(民衆はなんと言うだろう)。
どうみても、完全無欠の不平等条約、早い話がロシアの丸儲け。
では、なぜ、李鴻章はこんな不公平な条約をのんだのか?
ロシアから多額のワイロをもらったから。
・・・・・
では身もフタもないが、それだけではない。
じつは、李鴻章はワイロ以外にもロシアに弱みを握られていたのである。
日清講和条約で、賠償金は2億テールと決められたが、その後、三国干渉で、日本が遼東半島を返すことになった。その代償として3000テールが加算されたのである。つまり、全部で「2億3000テール」ナリ。
ちなみに、「テール」とは中国の貨幣の単位で、「1テール=銀37gの価値」。これで計算すると、
2億3000テール=当時の日本の国家予算の4.5倍=現在の価値で432兆円!
こんなとてつもない大金を貧乏な清朝が払えるわけがない。
ただし、清朝は初めから貧乏だったわけではない。建国当初は、世界有数の大金持ち王朝だったのである。
1644年、清国が建国されたとき、清朝の支配者たちは、父祖の地「満州」から莫大な資金を中国に持ち込んだ。しかも、歴代の皇帝たちは、勤勉で質素だった。だから、お金は腐るほどあったのである。
ところが、19世紀末の清国は、ヨーロッパ列強・ロシアに領土を浸食され、鉄道の敷設権や鉱山の採掘権まで奪われた。あげく、日清戦争で大敗けして、陸軍は大損害、海軍は壊滅・・・お金があるわけがない。
そこへ、2億3000テール払えって?
432兆円ですよ・・・ムリ。
そこで、李鴻章の耳元で、悪魔がささやいた。
「フランスの銀行からお金を借りれるように、便宜を計らってあげますよ、ムフフ」
こうして、ロシア皇帝の口利きで、清国はフランスの銀行から、お金を借りることができたのである。メデタシ、メデタシ・・・
とはならなかった(あたりまえ)。
問題はその代償。
前述した究極の不平等条約「露清密約」を押しつけられたのである。清国にしてみれば、搾取されるだけで、いいことは一つもない。借金の口利きとワイロが、こんなに高くつくとは。
それにしても、かつての清国の威光はどこに行ったのだ?
全盛期の清国は、ローマ帝国に匹敵する大帝国だった。時代は違うが、西のローマ帝国、東の清国といっても過言ではないのだ。
それほどの大帝国が、なぜここまで落ちぶれたのか?
謎はそれだけではない。
李鴻章のような小者が、どうやって、清朝の中枢にのし上がったのか?
外交と兵馬の権(軍事権)を独り占めにする比類なき権力者なのだ。李鴻章に命令できるのは、皇帝をしのぐ権力をもつ西太后のみ。ところが、李鴻章は、支配民族の満州族ではなく、被支配民族の漢族出身。しかも、王族でも貴族でもない。
西太后に可愛がられたから?(ヘンな意味でなく)
李鴻章が西太后のお気に入りだったことは確かだ。でも、それだけではない。李鴻章は、この時代が創りあげた必然の権力者だったのである。
「李鴻章の力」は、「清朝の中央集権力」と反比例の関係にあった。つまり、清朝の中央集権体制が弱体化するほど、李鴻章の力が増大したのである。
このメカニズムは、満州の歴史を読み解くとハッキリ見えてくる。
その前に、素朴な疑問がひとつ・・・
現在、満州は中華人民共和国の領土だが、その前は「大日本帝国」、その前は女真族の「後金」、さらに、その前は同じ女真族の「金」が支配していた。
では、満州は元々誰のもの?
■満州族の歴史
満州は、元は「女真族(じょしんぞく)」の土地である。
女真族は森林地帯に住む狩猟採集民で、「女直(じょちょく)」ともよばれた。狩猟民とはいえ、1115年には「金」という都市文明を築いている。高度な文化を誇る王朝で、全盛期には中国の北半分を支配した。つまり、中国の征服王朝の一つなのである。
征服王朝とは、漢族以外が中国を支配した王朝で、これまでに、
1.遼(契丹族):916年~1125年
2.金(女真族):1115年~1234年
3.元(モンゴル族):1260年~1398年
4.清(女真族):1644年~1912年
の4つがある。
この年表をみると、女真族は「金」と「清」で、2度中国を征服している。最初の「金」は、1234年にモンゴルに滅ぼされたが、中国・明の時代に再び盛り返す。シベリアでテン・キツネ・ミンクなどの毛皮を獲り、黒龍江の森林で朝鮮人参、さらに、淡水産の真珠を採取して、明との交易で一財産築いたのである。
その頃、女真族は部族間の抗争が絶えなかった。それを巧みに利用したのが、隣国の明だった。女真族の各部族にうまい話をもちかけ、敵対心をあおって、結束させないようにしたのである。
ところが、16世紀末、女真族に不世出の英雄が出現する。清国の初代皇帝となるヌルハチである。ヌルハチは「愛新覚羅(あいしんかくら)」氏出身で、後に満州国皇帝に祭り上げられる「溥儀(ふぎ)」の先祖である。
ヌルハチは政治と軍事に長けた文武両道の指導者で、力技も寝技も得意だった。この巨人の出現で、女真族は統一に向かうのである。
1616年、ヌルハチは朝鮮人参の商売から足を洗って、明から独立した。父祖の地「満州」で「後金」を建国したのである。
これに驚いたのが明だった。恐れていた満州の統一がなったのである。
そこで、明は数十万の大軍を満州に送り込んだが、10万のヌルハチ軍に粉砕される。この頃、ヌルハチ率いる女真軍は無敵だった。数倍の漢軍に勝利したのだから。
その後、ヌルハチの後を継いだホンタイジは、朝鮮に出兵した。朝鮮が寝返り、明に付いたからである。結局、朝鮮は敗北し、後金に屈服した。こうして、後金の力は増すばかりだった。
そして、1636年、「後金」は「大清(清国)」にグレードアップする。
ホンタイジが、女真族、モンゴル人、漢人の推戴をうけて、「大清」皇帝に即位したのである。
その後、第3代皇帝「順治帝」の時代に、明に侵攻し、首都の北京を陥落させた。こうして、270年続いた明は滅亡した。満州族が中国の新たな支配者となったのである。
じつは、ヌルハチは満州を統一した頃から、自分たちを「女真」ではなく、「満洲(マンジュ)」と呼ぶようになった。「女真」は「隷属民」を意味するからである。本当はさんずいの「満洲」なのだが、ここでは「満州」とする(深い意味はない)。
ところが、「女真」が「満州」に変わった後、女真族のアイデンティティが薄れていく。「満州族」が、民族としての「女真族」と一致しないからである。
具体的に説明しよう。
清国の支配層は「八旗」という組織で構成された(八色の旗で識別されたから)。
ヌルハチは、自分の配下の部族を4つの旗に分類したが、ホンタイジの時代に、人口が増えたので、八旗になった。
八旗に所属する者は「旗人」とよばれ、政治や軍事のエリートとして清朝を支えた。清の皇帝一族はもちろん、大臣や将軍も八旗から選ばれ、残りの旗人も役人か軍人になることができた。つまり、「旗人」であれば、最低「公務員」が保証されたのである。
ところが、その後、モンゴル人や漢人の中にも「八旗軍」に入る者が現れた。
そして、ここが重要なのだが・・・
「八旗に所属する者」は、行政上すべて「満州人」として扱われたのである。
つまり・・・
「満州人」というのは、民族でもなければ、種族でもない。八旗という「集団」の構成員なのである。だから、「女真族」のアイデンティティが希薄になっていったのだろう。
一方、清朝の故地は「満州」だが、支配地の大部分は中国である。もちろん、そこに住むのは漢族。つまり、清国は少数の満州族が大多数の漢族を支配する帝国だったのである。
とはいえ、このような統治構造は、歴史上珍しくない。代表的なものとして、古代のスパルタ、ペルシャ帝国、アレクサンダー帝国、13世紀のモンゴル帝国があげられる。
そこで、このようなハンディを克服するため、清朝は強固な中央集権体制を確立した。具体的には、古代のペルシャ帝国同様、地方の統治は、中央から派遣された任期のある知事や大臣が行った。こうすれば、土着の勢力が台頭するのをおさえられるから。
さらに、知事や大臣は、地方の情報を記した報告書を皇帝に送ることが義務づけられた。その結果、古代ローマ帝国に匹敵する精緻な「文書行政」が確立されたのである。
このような、強力な中央集権体制があったからこそ、少数の満州族が、大多数の漢族を支配することができたのである。
さらに、清朝は君主にも恵まれた。特に、第4代・康煕帝、第5代・雍正帝、第6代・乾隆帝は傑出した名君だった。この三皇帝は、国際感覚に優れ、聡明で、行動力と決断力を有していた。そして、何より、無類の働き者だった。支配地から上がってくる報告書にすべて目を通し、自ら決済するのである。そのため、勤務時間は、1日十数時間にもおよんだという。
ロシアのプーチン大統領なみの精励ぶりですね(見習わなくては)。
結果、この時代、清国は空前の平和と繁栄を謳歌した。歴史上、これに匹敵するのは、ローマの五賢帝時代ぐらいである(歴史の授業で習うネルヴァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウスの五皇帝)。
名著「ローマ帝国衰亡史」を著したギボンは、この時代を人類史上もっとも幸福な時代と考え、「パクス・ロマーナ(ローマの平和)」と呼んだ。じつは、清国の三賢帝時代もそれに比肩しうる時代だったのである。
では、なぜ、そんな超大国が不平等条約に甘んじるようになったのか?
衰退の芽は、すでに17世紀初頭に現れていた。
1637年に、清国の西北に強敵「ジュンガル帝国」が出現したのである。
この強敵に敗北して、衰退した?
ノー!
勝利して、衰退したのである。
ジュンガル帝国は、ジュンガル盆地を本拠地とする遊牧民の国で、歴史上最後の遊牧帝国となった。1676年、英雄ガルダンがハーンに即位すると、領土は拡大し、外モンゴルのハルハ部まで侵攻した。ハルハ部はジュンガル帝国に蹴散らされ、隣の大国「清国」に泣きついた。結果、ジュンガル帝国と清国の戦争が始まったのである。
ところが、このときの清国の皇帝は名君「康煕帝」、さすがのガルダンハーンも苦戦を強いられた。
1697年、一代の英傑ガルダンハーンが没すると、ジュンガル帝国は衰退にむかった。その後も、清国との戦いは続いたが、劣勢はまぬがれず、1755年に滅亡した。この頃、清国は乾隆帝の治世に移っていたが、領土はジュンガル盆地、東トルキスタンまで及んだ。
じつは、今の中華人民共和国は、この時代の版図が、中国本来の領土であると主張している。理由はいたってカンタン、乾隆帝の時代、中国は最大版図だったから。
ところが・・・
乾隆帝の治世の末期から、清国の衰退は加速する。まず、ジュンガル帝国と度重なる戦いで、財政が悪化した。さらに、清国を支えた「八旗軍」も弱体化した。宿敵のジュンガル帝国が滅んで、気が抜けたのである。
そして、この「八旗軍」の弱体化が清朝の命取りになった。
地方で起こる一揆や反乱に、国の正規軍「八旗軍」が対応できなくなったのである。一揆・反乱やりたい放題なら、政治も経済もへったくれもない。ただの無法地帯である。そこで、地方の実力者「郷紳」がお金を出しあって自警団をつくることにした。このような私兵を「郷勇」、「郷団」という。
やがて、清朝は、地方の治安維持を「郷勇」や「郷団」にゆだねるようになった。反乱が起こると、正規軍は出動せず、各地の「郷勇」や「郷団」に鎮圧させるのである。その見返りが「就地自籌」だった。
就地自籌(しゅうちじちゅう)?
「郷勇」や「郷団」などの地方軍が、直接、地方税を徴収して、軍の維持費にあてることをいう。もちろん、「多めに徴税してフトコロに入れる」は想像に難くない。これでは、中央集権体制など夢のまた夢。その後、清朝は「就地自籌」を取り消そうとしたが、地方軍から拒否された。あたり前田のクラッカー(古いかも)。一度もらった権利を手放すバカはいない。そもそも、地方軍なしでは治安を維持できないのだから。
こうして、中央の力は衰退し、地方の力が強くなっていった。中央集権から地方分権へ、帝国が滅びるサイン(前兆)である。
そして、この流れはさらに加速する。
「郷勇」や「郷団」が「軍閥」にグレードアップしたのである。その中で、有力なものが「淮軍(わいぐん)」と「湘軍(しょうぐん)」だった。「軍閥」といえば聞こえはいいが、しょせんは地方の私兵。しかも、この時代、中国で兵士になるのは「ならず者」と決まっていた。
というのも、中国にはこんなことわざがある。
「良い鉄は釘にしない、良い人は兵隊にならない」
ところが、地方の私兵「淮軍」が、最大軍閥の「北洋軍閥」にのしあがったのである。そして、あろうことか、国軍の「八旗軍」に取って代わってしまった。つまり、
清朝の主力軍=私兵の北洋軍閥。
そして・・・
この北洋軍閥の親玉が李鴻章だったのである。
李鴻章が被支配民族でありながら、大出世した理由はここにある。激動の時代に、ものをいうのは「力」、それは昔も今も変わらない。そして、漢族の李鴻章は、満州族がつくった清朝に思い入れはなかった。だから、ワイロをもらって好き勝手したのである。
ちょっと、言い過ぎたかな~
かわいそうなので、李鴻章に代わって弁解しておこう。
李鴻章は、日清戦争後の「日清講和条約」の清国側の代表だった。そこで、日本に遼東半島、台湾、澎湖列島を割譲され、賠償金まで取られて、ムシャクシャしていた。そこで、元祖「反日」になり、ロシアとくっついて日本に仕返したのである。
これで弁解?
■滅び行く清朝と満州族
結局、三国干渉で、ロシアが大得、ドイツ・フランスが小得、日本が小損、清国が大損をした。
ところが、事はそれですまかった。歴史の歯車が大回転を始めたのである。
まずは、日本。
三国干渉の結果、日本はロシアに恨み骨髄だった。日清戦争で血を流して、勝ち取った遼東半島を清国に返還させられたあげく、ロシアに横取りされたのだから。こうして、ロシアは日本の最大の仮想敵国となった。
つぎに、ロシア。
遼東半島と不凍港(旅順)と東清鉄道を獲得したのに、満足しなかった。というのも、ロシアの望みは桁違いで、満州全土と朝鮮半島の支配をもくろんでいたのである。
じつは、先の「露清密約」で、ロシアは、東清鉄道の敷設にくわえて、「付属地」の利用も認められていた。「付属地」とは、鉄道沿いと駅周辺に設定された「おまけの土地」である。ロシアはここに目をつけた。「付属」をテキトーに拡大解釈して、鉄道から遠く離れた都市や鉱山まで「付属地」として、支配したのである。
1897年、ハルビン市の建設と、東清鉄道(支線)の建設が始まった。ハルビンを起点として、満州最南端の旅順まで鉄道を敷くのである。東清鉄道(支線)が完成すると、満州の交通の便が格段によくなった。船で旅順まで行けば、そこから鉄道で満州のどこへでも行けるのである。
すると、面白い現象がおこった。
南方の食い詰めた漢人が労働者として満州に出稼ぎに来たのである。結果、満州には、たくさんの漢人が暮らすようになった。一方、これが清朝の衰退に拍車をかけるのである。
なぜか?
清朝の故地「満州」は、中国本土にくらべ、自然が厳しい。冬の平均気温はマイナス15度で、北方の大河、黒龍江や松花江は半年間も凍り付く。そのため、清朝を支配する満州族は、温暖な中国に慣れてしまい、満州に行きたがらなくなった。満州の田畑を、貧しい漢人に耕させ、年貢で暮らすようになったのである。
こうして、明を滅ぼした勇猛な満州族は、牙を抜かれ、ひ弱な都会人になっていた。日本でいう「おゆとり様」世代である。くわえて、中央政治は李鴻章のような漢人に任せ、地方統治は、漢人の郷紳、郷勇、郷団におんぶにだっこ。これでは国が滅んで、あたり前田のクラッカー(しつこいかも)。
一方、中国の漢人の中にも、清朝に対する不信感が生まれていた。特に、清朝の威光が届かない中国南部では、満州族ではダメだ、漢族が取って代わろう、という意識が高まっていた。特に、日清戦争で大敗した後、この傾向が強くなった。そこで、多くの漢人が清朝に見切りをつけて、日本に留学した。日本が明治維新でいち早く、近代化に成功したからである。
やがて、日本に留学した漢人エリートたちが、中国の近代化に着手する。辛亥革命の「孫文」や、後に中華民国を建国する「蒋介石」もその一人である。
ところが、漢人エリートが革命を起こす前に、民衆が暴発してしまった。
李鴻章は、不平等条約「露清密約」をひた隠しにしたが、領土と利権が減っていくのは誰にでもわかる。そこで、一足早く、中国民衆が暴れ出したのである。これが、歴史上有名な「義和団事件(義和団の乱)」である。
初めは、「西洋人なんかやっちまえ!」の毎度のガス抜き暴動だったのに、「清国Vs列強8ヶ国」の戦争にまで発展するのだから、何が起こるかわからない。
ところが、話はそこで終わらなかった。
世界の目が「義和団事件」にクギ付けになっているスキに、ロシアが満州全土を制圧したのである。それに反発した日本とイギリスが日英同盟を締結、さらに、日露戦争が勃発・・・
ささいな事件が、ドミノ式に事件を引き起こし、相乗効果で増幅され、思いもよらぬ大事に発展する。
ブラジルで蝶が羽ばたけば、テキサスでトルネードを引き起こす・・・カオス理論で言うところの「バタフライ効果」ですね。
参考文献:
真実の満州史、宮脇淳子【監修】岡田英弘、ビジネス社
by R.B