神は妄想である~ドーキンスの無神論~
■宗教批判者と無神論者
リチャード・ドーキンスは筋金入りの「宗教批判者」である。そして、鉄板の「無神論者」でもある。
では、宗教批判者と無神論者で何が違うのか?宗教批判者は「宗教」を否定し、無神論者は「神」を否定する。似たようなもんじゃん。ところが、そうでもないのだ。そもそも、「神」には2種類ある。信仰者が信じる「宗教上の神」と、科学者が疑う「宇宙の創造主」である。前者は説明不要だが、後者は補足する必要がある。
じつは、「宇宙は神の一撃で始まった」と主張する科学者もいるのだ。ところが、ドーキンスは、宗教側の神も、科学側の創造主も信じない。骨の髄までリアリストなのだ。だから、筋金入りの宗教批判者×鉄板の無神論者・・・ただし、ドーキンスの天秤を注意深く観察すると、ちょっとだけ、宗教批判の方に傾いている。つまり、ドーキンスからみた天敵度は「宗教>神」。実際、彼の著書「神は妄想である」を読んでいると、彼の無神論は宗教批判の方便に思えてくる。本当のところ、タイトルも「宗教は妄想である」にしたかったのでは?
そこで、論より証拠、その過激な内容を紹しよう(※1)。教会と国家の分離を訴える「宗教からの自由財団(FFRF)」の編集者に、こんな投書が届いた・・・ヘイ、このチーズ食いのクソ野郎。おまえたち負け犬よりも俺たちキリスト教徒のほうがいっぱいオるんだ。教会と国家の分離なんてありえネェー、負けるのはおまえたち異教徒だ。サタンを崇拝するクソ野郎・・・どうか、死んで、地獄へ行ってくれ・・・おまえたちが直腸癌のような辛い病気にかかって、長く苦痛に満ちた死を迎えることを俺は期待している・・・俺たちはおとなしく引き下がるつもりはない。もし将来、暴力に訴えることになったら、仕掛けてきたのはおまえたちだってことを忘れるな。俺のライフルには弾が詰まっているんだからな。(意味不明な部分、不適切な表現、意図的な誤字もあるがそのまま引用した)
これ対し、ドーキンスは反撃する(※1)・・・チーズがどうしたというのだ!なぜ、神をそこまで凶悪な手段で、まもってやらなければならないと考えるのか、私は驚きを禁じえない。神が自分の面倒を見るくらいの能力は十分にもっていると想定してもいいはずではないのか。さらに、ドーキンスは、進化人類学者ジョン・ハートゥングの論文を引用し、聖書をも一刀両断にする(※1)・・・(旧約)聖書は内集団特有の道徳意識の青写真であり、外集団の虐殺と奴隷化、および世界支配のための指示といった必須要素が完備されたものだ。しかし、聖書はそういった目的をもっているから、邪悪なのではない。それを言うなら、多くの昔の著作はみんなそうだ。
たとえば、「イーリアス」、「アイスランド・サガ」、古代シリアの物語や、古代マヤの碑文などを見てほしい。しかし、「イリアス」を道徳の手本として売り込んでいる人間は誰もいない。そこに問題がある。聖書は人々がどう生きるべきかの手引きとしてに売り買いされている。そして、それは、世界で常に群を抜いたベストセラーなのである。いやはや・・・聖書は内集団特有の道徳意識の青写真、外集団の虐殺と奴隷化、世界支配のための指示・・・ニーチェの「道徳の系譜」を彷彿させるではないか。実際、「道徳の系譜」の中にはこんな記述がある・・・「高貴な道徳」はどれも誇らしげにみずからを肯定するところから発展するものだが、「奴隷道徳」は最初から外部のもの、異なっているもの、自分以外のものに否といい、この否こそが、この道徳の創造的な行為なのだ(※4)。まぁ、ニーチェはさておき、ここまで、断罪されると、少しは宗教の肩を持ちたくなる。なぜなら、信仰によって心の安らぎを得ている人もいるから。
ところが、ドーキンスはこの「安らぎの効用」も全否定する。いわく・・・宗教的な信念がストレス性の病気から人間を守るという証拠が少数ながらある。しかし、ジョージ・バーナード・ショーの言葉を借りれば・・・「信仰者のほうが、懐疑論者よりも幸福であるという事実は、酔っぱらいのほうが、しらふの人間よりも幸せだという以上の意味はない」身もフタもない・・・というわけで、ドーキンスは鉄板の「宗教批判者」なのである。
■創造論Vs進化論
ここで、誤解されると困るのだが、ドーキンスを皮肉って面白がっているわけではない。たしかに、ドーキンスは寛容さに欠くかもしれないが、無教養なクレーマーというわけではない。教養も知性もあり、客観的だ。そして、ここが肝心なのだが、客観は主観より真実に近い。そもそも、ドーキンスが「神は妄想である」で言いたかったのは、「チーズがどうした!」ではなく、「神がいなくても人間は生まれる」では、人間はいかにして生まれたのか?
じつは、この論争には長い歴史がある。まず、中世から近代まで支配したのは、宗教(一神教)だった。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の共通のバイブル「旧約聖書」によれば・・・人間の始祖は神によって創造された、それが、「アダム」である。ところが、それを根底から揺さぶったのが「ダーウィンの進化論」だった。
もっとも、ダーウィンには盗作疑惑があって、本当は「ウォレスの進化論」だった可能性が高いのだが。まぁ、それはさておき、進化論は人間の誕生をどう説明したのか?地球上の生物種は、共通の祖先をもち、すべてそこから分岐した。われわれ人間も、その分岐のひとつに過ぎないのである・・・この瞬間、進化論は宗教の天敵となった。旧約聖書によれば人間は神の子なのに、猿のお仲間だというのだから。とくに、キリスト教の反発は凄まじかった。
たとえば・・・20世紀初頭、アメリカで、進化論を学校で教えることを制限する法律が制定されたのである(反進化論法)。主導したのは熱心なキリスト教徒だった。その後、その正当性をめぐって、裁判沙汰になったというから驚きだ。100年も前だから、仕方がないのでは?ところが・・・「反進化論法」に違憲判決が出たのは1968年だった。しかも、1981年になって、ぶり返し、アーカンソー州で授業時間均等法が制定されている。授業で「進化論」と「創造論」を均等に教えることが義務付けられたのである。
ここで、「創造論」とは・・・「偉大な知性(神とは言っていない)」によって、宇宙や人間が創造されたとする説で、アメリカ合衆国では「インテリジェント・デザイン(ID)」とよばれている。以前、アメリカ合衆国元大統領ジョージ・ブッシュがIDを支持するような発言をして話題になった。あの合理主義のアメリカで?イエス!というか、合理主義の国だからこそ、「インテリジェントデザイン」が幅を利かすのである。そもそも、宗教は信じるところから始まる。だから、疑り深い人間は生理的に受けつけない。一方、進化論は科学なので客観性が高い。そのぶん、へそ曲がりも耳を貸すというわけだ。インテリジェントデザインが「神」を持ち出さない理由はここにある。
進化論は単純明快だ。地球は有限の球体なので、表面積(資源)は決まっている。だから、「生物の数>資源量」になれば、資源の奪い合いが起こる。勝者が生き残り、弱者が滅ぶ弱肉強食である。この「自然淘汰(自然選択)」の累積によって、生物は進化するというわけだ。ということで、進化論は理論と証拠で完全武装している。証拠?じつは、古代の地層から「進化」を示唆する化石が発見されているのだ。もっとも、化石など調見なくとも、現実をみれば一目瞭然なのだが。
一方、旧約聖書の「アダム」説は分が悪い。客観性、論理性に欠けるうえ、物的証拠もない。そもそも、まず信じろでは、へそ曲がりは受けつけない。そこで、保守派、キリスト教派が担ぎだしたのが、「インテリジェントデザイン」なのである。創造主体を「神」ではなく、「偉大な知性」に言い換えて、理詰めで勝負しようというわけだ。人間の過半数を占めるヘソ曲がりを取り込むために。
■インテリジェント・デザイン
では、さっそく、インテリジェントデザイン(ID)の「理詰め」をみていこう。
じつは、この「理詰め」を体系化し、積極的に広めているキリスト教団体がある。全世界に700万人の信者をもつ「エホバの証人」だ。700万人?カトリック教会10億人、プロテスタント諸派5億人、東方教会5億人と比べると、桁違いに少ない・・・なんで?キリスト教異端だから。ここで、「異端」とは「正統派が認めない」という意味で、客観的、普遍的根拠があるわけではない。
ではなぜ、異端なのか?正統派(カトリック・プロテスタント・東方教会)が教義の柱とするのが・・・父と子(イエス・キリスト)と聖霊の3つの位格が1つになって神となる、これを「三位一体」説という。ところが、4世紀に排斥されたアリウス主義同様、エホバの証人はこれを否定しているのだ。それゆえ、キリスト教異端なのである。
とはいえ、エホバの証人は信者の数では劣るものの、布教の熱心さでは、他の宗派に負けてはいない。たとえば・・・今、金沢のはずれの小さな町に住んでいるが、こんなへんぴな所にも、エホバの証人の教会がある。そして、休日になれば、信者が町を巡回し、熱心に布教している。自分が信じる神のために、休日返上で、無休で働く?とても真似できませんね。その熱心さは、かつて、キリスト教の戦闘集団とよばれたイエズス会を彷彿させる。
ちなみに、織田信長と謁見し、「フロイス日本史」を著したルイスフロイスもイエズズ会士だった。「フロイス日本史」は、織田信長の家臣、太田牛一が著した「信長公記」と並ぶ信長物の名著とされる。そして、「フロイス日本史」といえば、きまって引用されるのが・・・(織田信長は)非常に性急であり、激昂はするが、平素ではそうでもなかった。彼はわずかしか、またはほとんど全く家臣の忠言に従わず、一同からきわめて畏敬されていた(※3)。
織田信長を端的に表した名文として知られるが、「フロイスの日本史」にはもっと興味深い話がある。信長が暗殺された本能寺の変である。じつは、このとき、イエズス会士が京都と安土にいて、この事件を目撃している。その一部始終が「フロイスの日本史」に記されているのだ。しかも、明智光秀が信長を裏切った理由まで言及されている。さて、熱心さでは、このイエズス会にひけをとらないエホバの証人だが、我が家にも来たことがある。妻が応対し、どこが気に入られたのかわからないが(じつは無神論者)、布教本をもらったという。あー、あれ、虫眼鏡で目を凝らさないと見えない、小さな文字で書かれた、地味な聖書・・・ではないのだ。カラーの写真とイラストをふんだんに使った250ページの大作。しかも、分厚いハードカバー付き。今どき、こんな豪華本は見たことがない。
ではなぜ、こんな高価な本をタダで配れるのか?教団が金持ちか、信者の熱心な持ち出しかはわからないが、まぁ、どっちでもいいだろう。こっちが、お金を出すわけじゃないし。ところが、貰った本のタイトルが興味深い・・・「生命~どのようにして存在するようになったか進化か、それとも創造か」巻末に、「ものみの塔聖書冊子協会」とあるから、エホバの証人のオリジナル本だろう。「ものみの塔」はエホバの証人が発行する機関誌だからだ。それにしても、こんな立派な本を企画・編集・製本するのだから、教団もお金持ちに違いない。おっと、話はそこではない。じつは、この本の中に、「インテリジェントデザイン」が熱く語られているのだ。
■究極のボーイング747
現在の進化論によれば、生物の進化は、突然変異から始まる。突然変異で、遺伝子が変更され、新しい種が生まれ、その中で、環境に適応したものだけが生き残る。その累積によって、生物が進化するというわけだ。
ところが、「生命~どのようにして存在するようになったか進化か、それとも創造か」によると(※2)・・・
ぺオ・コラーはこう述べています。「突然変異の大多数は、その変異遺伝子を持つ個体にとって害になる。成功した、もしくは、有用な突然変異一つに対して、有害なものは幾千もあることが、何度かの実験によって明らかにされた」突然変異が一般には有害なものであるために,アメリカーナ百科事典は次のように認めています。「実際のところ、生物学の教科書に例示される突然変異体は、『珍種』や『奇形』の集まりであり、突然変異は建設的というより破壊的な過程のように思われる」遺伝学者のドブジャンスキーはかつてこう述べました。「精巧な仕組みにおける偶発的な出来事、無作為の変化によってその仕組みが改良されることはまず期待できない。時計やラジオの器械装置の中に棒を突き入れ、それによってその器械の働きが良くなるようなことはめったにない」ですから、考えてみてください。生物に見られる、驚くほど複雑な細胞、器官、手足や種々の生理作用すべてが、実際には破壊の手順によって作り上げられてゆく、というのは道理にかなったことに思えるでしょうか・・・
ちょっとクドイし、若干つまみ食いの感もあるが、論点ははっきりしている。突然変異は、作るのではなく、壊している。でも、進化の本質は「壊す」ではなく「作る」。ゆえに、「突然変異で進化」は矛盾している。しかし・・・この論法は、肝心なところがスッポリ抜け落ちている。「時間軸」。進化は、何百万年、何千万年、何億年という長大な時間をかけて実現される。つまり、時間を忘れているのだ。たとえば、サイコロを6回振ったとして、出目が「1、2、3、4、5、6」と連続数字になることは、ふつうにはありえない。もし、起こったとすれば、何か仕掛けがあるのだ。早い話がイカサマ。でも、サイコロを4万6656回振ったらどうだろう?
そんな暇人はいない?
それはそうだろうが、この場合、「1、2、3、4、5、6」は1回は出てもおかしくないのだ(確率的に)。つまり、数をこなせば、奇跡も現実になりうるのである。一方、インテリジェントデザイン側も負けてはないない。彼らには「銀の弾丸」があるのだ。それが「究極のボーイング747」である。いわく・・・無方向でランダムな突然変異で、原始細胞が人間に進化するのは、台風がガラクタ置き場をかき回した結果、運良くボーイング747が組み上がるようなもの(※1)。つまり、人間のような複雑なものが偶然に生まれるはずがない。「偶然」でないとすれば「必然」、つまり、意図的に作られたというわけだ。なるほど。では、どっちが正しいのか?どっちも、半分アタリで、半分ハズレ・・・
参考文献
(※1)「神は妄想である―宗教との決別」リチャード・ドーキンス(著),垂水雄二(翻訳)出版社:早川書房
(※2)「生命ーどのようにして存在するようになったか進化か、それとも創造か」ものみの塔聖書冊子協会
(※3)松田毅一川崎桃太編訳「回想の織田信長」中央新書
(※4)「エリーザベト・ニーチェ―ニーチェをナチに売り渡した女」ベンマッキンタイアー(著),BenMacintyre(原著),藤川芳朗(翻訳)
by R.B