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週刊スモールトーク (第199話) 中国共産党の歴史(11)~満蒙開拓団~

カテゴリ : 戦争歴史

2013.03.24

中国共産党の歴史(11)~満蒙開拓団~

■関東軍と西安事件

確率「99.99%」の「蒋介石の中国」が消え、確率「0.01%」の「毛沢東の中国」が現実になった直接の原因は、西安事件にある。

では、西安事件を引き起こした原因は?

蒋介石率いる南京政府の内部対立。蒋介石は、日本に対し融和策をとり、中国共産党を殲滅しようとしていたが、張学良と楊虎城はそれに反対だった。真の敵は同族の中国共産党ではなく、日本だと。そこで、2人は蒋介石に「反共→抗日」を呑ませるためクーデターを起こした。これが西安事件である。

ところが、張学良は本当は中国共産党を忌み嫌っていた
「中共(中国共産党)は山賊だ」
と言い触らしていたほどだから。では、なぜ、張学良は反共から抗日に変心したのか?

紅軍(中国共産党)討伐が連戦連敗で、嫌気がさしたから。もちろん、それもあるが、本当の理由は満州に居座る日本の関東軍にあった。関東軍は、満州全土の制圧を目論んでいたからである。そして、ここが肝心なのだが、満州は張学良の故地であり、本拠地でもあった。

とはいえ、日本はポーツマス条約で満州の権益をロシアから引き継いだのだから、国際法上、問題ないのでは?

ノー。

じつは、その権益は限られていた。

具体的には、

①日本が朝鮮を独占的に支配する(ロシアは朝鮮から手を引く)。

②ロシア軍は満州から完全撤退する。

③ロシアが清朝から租借していた関東州を日本に譲る。

④旅順から長春までの鉄道経営権を日本に譲る(南満州鉄道)。

つまり、日本の権益は、旅順・大連を含む関東州の租借権、南満州鉄道の経営権と鉄道の附属地の租借権に限られていたのである。つまり、「点と線の支配」↓

Manchuria_Map

ところが、南京政府はポーツマス条約そのものを認めていなかった。そんな中、関東軍は「点と線」どころか、満州全土、「面の支配」を目論んだものだから、話はややこしくなった。

ここで、「IFの歴史学」。

もし、日本がポーツマス条約を遵守し、関東州と満州鉄道とその附属地に満足していたら・・・

南京政府内での「抗日」は弱まり、「反共」が強まっただろう。その場合、「中共嫌い」の張学良は「反共」にむかうので、西安事件は起きない。結果、1936年10月の政府軍(中国国民党)の大攻勢で、紅軍(中国共産党)は壊滅する。そうなれば、毛沢東と周恩来の活躍も、中華人民共和国も、歴史の時間軸から消える。

つまり・・・

日本のイケイケの帝国主義と関東軍の独断専行が、西安事件を引き起こし、「中華人民共和国」を誕生させたのである。それから60年経った今、その中国に「日中尖閣戦争&核戦争」で脅かされているのだから、皮肉な話だ。

では、日本にとって、「毛沢東の中国」より「蒋介石の中国」の方が良かった?

そうでもない。

「蒋介石の中国」が実現していれば、戦後の日本の高度経済成長「東洋の奇跡」も歴史から消える。中国はアメリカの支援をうけて、資本主義国家として目覚ましい発展をとげるから。つまり、
「資本主義×民主主義×巨大人口→史上初の超国家誕生」

そうはいっても、「蒋介石の中国」は民主主義国家なので、まだマシなのでは?

そうとも言い切れない。

中国は民族主義の強い国である。しかも、中国は世界の中心という「中華思想」が宗教のように信じられている。実際、この時代すでに、国民党に右派と左派があった。だから、国民党内部から極右政党が台頭しても不思議ではない。その場合、「蒋介石の中国」は覇権主義に走り、日本・韓国・北朝鮮を隷属させる可能性がある。なぜなら、「蒋介石の中国」は「毛沢東の中国」よりはるかに強力だから。

「毛沢東の中国」は農民共産主義なので、第二次世界大戦後、技術も資本も蓄積が遅れた。ところが、「蒋介石の中国」はスタートから資本主義なので、技術も資本も蓄積が速い。くわえて、あの途方もない人口だ。早々に、アメリカを抜き去るだろう。スタートが遅れた「毛沢東の中国」でさえ、もうすぐアメリカを追い抜こうというのだから。というわけで、日本・韓国・北朝鮮を隷属させることはそれほど難しくない。

■満州は日本の生命線?

話を関東軍にもどそう。

なぜ、関東軍は満州に執着したのか?

理由は4つある。

第一に、日本がイケイケの帝国主義だったから。

実際、関東軍はスキあらば満州を侵食しようと虎視眈々だった。しかも、本国の了承を得ない独断専行で。一方、日本政府もなんかんだ言いながら、追認を続けていた。まぁ、国が一丸となって満州をわがものにしようとしていたわけだ。その意気盛んなこと、覇権主義をひた走る今の中国に優るとも劣らない。

第二に、満州が軍事上の重要拠点だったから。

この時代の兵器テクノロジーを考慮すると、飛び道具(大砲・爆撃機・ミサイル)の射程が短く、効果はしれている。そのぶん、地理的条件が国と国の利害関係に大きな影響をおよぼす。これを研究するのが「地政学」だ。ところが不思議なことに、日本では地政学は「錬金術」の扱い。そもそも、一般大学の講座では見たことがない。こういう講座をもうけると、またどこかの国が侵略主義とかで大騒ぎするからだろう。

その「地政学」の良い例が、この時代の満州だ。例えば、ソ連が満州をおさえると、日本の安全保障は大きく脅かされる。なぜなら、次にソ連は朝鮮半島に侵出するから。そうなれば、狭い日本海を介して、ソ連の大軍と対峙することになる。これは日本にとっては一大事だ。実際、ソ連は朝鮮半島の支配を企て、それがもとで日本と対立し、日露戦争が起こっている。

つまり、日本にとって、満州は国家安全保障上の重要地域。中立ならまだしも、敵対国の手に渡すわけにはいかない、と日本は考えたわけだ。

第三に、満州が生産拠点として重要だったから。

たとえば、撫順には炭坑(石炭)があり、鞍山には鉱山(鉄鉱石)があった。しかも、撫順と鞍山は120kmしか離れていない。近場に燃料の石炭と、原料の鉄鉱石が集中しているわけで、製鉄業に最適だ。実際、日本は鞍山に鞍山製鉄所を建設し、大量の鉄を生産していた。

第四に、日本人の口減らし(品がないけど本当なので)。

1929年の世界大恐慌は、1930年以降、日本にも波及し、未曾有の大不況を引き起こした。農村部では、食うにも事欠く有様で、「娘の身売り」が相次いだ。そこで、「満蒙開拓移民団(満蒙開拓団)」を募集し、満蒙(満州と内蒙古)に移住させたのである。つまり、口減らし。

では、開拓団の農地はどうしたのか?

先住民の農地を安く買いたたき、開拓団に分け与えた。これでは、「抗日」が起きないほうが不思議である。

というわけで、満州は、軍事拠点、生産拠点、さらに、日本人の口減らしとして大いに期待された。ところが、満州には先住民がいるわけで、彼らとのトラブルが後を絶たなかった。

それでも、日本は満州に固執した。たとえば、満鉄副総裁から衆議院議員に転じた松岡洋右は、1931年、議会でこんな発言している。
満蒙は我が国民の生命線である」
これが松岡洋右のオリジナルかどうかは分からないが、その後、日本のデファクトスタンダートになった。

ところが・・・

太平洋戦争が終わると、一転して、満蒙開拓団に悲劇が襲う。紅軍(共産党)と政府軍(国民党)とソ連軍が侵攻し、満州は日本人に対する殺戮・略奪・凌辱の場と化したのである。

■試験移民

1932年10月、最初の満蒙開拓団が満州に送り込まれた。全員に小銃が渡され、関東軍が護衛した。満州は匪賊(ひぞく)が出没するからである。匪賊とは民間の武装集団をさすが、ここでは山賊、盗賊の類(たぐい)。

というわけで、開拓団というより、命知らずの先遣隊、「試験移民」と言ったほうがいいだろう。

試験移民・・・TVドラマ「宇宙家族ロビンソン」を彷彿させる。

「宇宙家族ロビンソン」は、昭和40年代のアメリカのSFドラマで、日本でも一世を風靡した。地球の人口爆発を解決するため、宇宙移民を送り込もうというのである。その「試験移民」第一号がロビンソン一家だった。目的地は地球に最も近い恒星「アルファセントリー星」、実在する恒星「アルファ・ケンタウリ」である。

ところが、人類にとって、宇宙はトワイライトゾーン。隕石衝突、惑星爆発、突如出現する凶悪な宇宙人、何が起こるか分からない。そんな危険な世界に飛び込み、目的地を目指すロビンソン一家。無事、アルファセントリー星に着けるのだろうか?それとも、宇宙の藻屑(もくず)と消えるのか?

というわけで、満州と宇宙の違いはあれど、満蒙開拓も宇宙家族ロビンソンも根本は同じ「人柱」。「試験移民」と言えば聞こえはいいが、片道切符と拳銃片手に危険な未知の世界へ飛び込んでいくのである。そのかわり、成功すれば、富と名声が得られるかも?

じつは、それもなかった。

宇宙家族ロビンソンも、満蒙開拓団も、アメリカ大陸に最初に移住したイギリス移民「ピルグリムファーザーズ」も、試験移民と名のつくものは何もいいことはなかった。もし、いいことがあるとすれば、その後に続く人たちである。

ピルグリムファーザーズは、未知の土地で食うにも事欠き、先住民(インディアン)の助けを受け、なんとか生きのびた。そして、その何世代か後、助けてくれたインディアンを追っ払い、自分たちの国を建国した。それがアメリカ合衆国というわけだ。だから、いい目にあうのは、いつも、何世代も後。

ところが、満蒙開拓団は初めから終わりまで苦労続き、あげく、最後は地獄だった。

■満蒙開拓団

満蒙開拓団は「農地開拓」が目的なので、基本、農民で編成された。とはいえ、最初の満蒙開拓団は危険な「試験移民」なので、30歳以下の予備役兵の中から選ばれた。予備役兵とは一度退役した準軍人である。総勢423名なので、軍隊で言えば大隊。大隊は、連隊についで大きい戦術単位なので、それだけリスクが大きかったのだろう。

開拓団が入植したのは、吉林省の「永豊鎮村」という寒村だった。元々、200戸ほどの農家があったが、匪賊に襲われて、70戸ほどに減っていた。冷静に考えればコワイ話だ。ところが、そんな弱みにつけこんで、1人につき5円で、土地を買い取り、開拓団に分け与えたのである。ちなみに、当時の「5円」は、開拓団に給付された1人1ヶ月分の食料補助金程度だったという(※)。土地の広さも生産高もわからないし、治安がどれほど悪いかもわからないが、きっと安いのだろう。

こうして、買い取られた土地は約450平方キロで、現在の金沢市に匹敵する。これで423人なら、管理するのも大変だろう。この入植地は、のちに弥栄村(いやさか)と名付けられ、満州移民のモデルケースになった。もちろん、今は名前も残っていない。

開拓団が主に生産したのは大豆だった。大豆は満州に適していたわけではないが、品種改良などで、後に、世界の一大生産地にまで成長する。満州にとって、大豆は「金の粒」だったのである。小麦も広く栽培されたが、稲作は気候にあわず、一部でしか行われなかった。

満州は広い。その広大な耕地を、満州族(女真族)や漢民族を使役して、開拓が行われた。その後、多くの農民が、狭くて夢のない日本の農業を捨て、新天地の満州に移住した。最終的に、満蒙開拓団は32万人に達したという。

ところが、その後、太平洋戦争がはじまり、1年ほどで戦局は悪化。その3年後の終戦間際、満蒙開拓団に未曾有の悲劇が襲う。

1945年8月9日、ソ連軍が満州に侵攻したのである。兵数174万、火砲3万門、戦車5000両、航空機5000機。とてつもない大軍である。一方、迎え撃つ関東軍は、南方に兵を割かれ、満足な武器もなかった。とはいえ、全盛期の関東軍でも総兵数65万。南方に兵を割かれようが割かれまいが勝ち目はなかった。

ソ連軍は関東軍を圧倒し、日ソ戦はわずか一週間で終了した。ところが、満州に残された日本兵と満蒙開拓団にとって、これが苦難の始まりだった。ソ連軍は、日本人捕虜を貨車に詰めこみ、シベリアに連行し、強制労働させたのである。その数は50万~70万人と言われる。

ソ連軍が満州に侵攻したとき、30万人の満蒙開拓団が取り残された。その後、ソ連軍にくわえ、中国の共産党軍と国民軍も満州に侵攻し、多数の日本人が暴行、略奪、陵辱、殺害された。また、軍人や責任者は公開処刑された。満蒙開拓団で、日本に帰国できたのはわずか11万人、2/3が祖国に帰れなかったのである。しかも、無事帰国できても、住む所も、食べるものもなく、「引揚者」として差別された。

さらに、悲惨を極めたのが子供たちだった。

満州からの引き揚げの混乱の中、多数の日本人の子供が中国に残されたのである。これが「中国残留孤児」で、日中国交正常化にともない、1981年から帰国が始まった。ところが、今ではすっかり忘れられてしまった。

■石原完爾

これほどのリスクを冒してまで、「満蒙開拓団」を送り込んだのは、日本が満州を「面」で支配するためである。

日本人の脳に刷り込まれた「満蒙は我が国民の生命線」・・・それがすべてだった。

この方針を忠実に推進したのが関東軍である。ところが、その関東軍が引き起こしたある事件がもとで、ひょうたんから駒(こま)が出る。張作霖爆殺事件である。

事件は1928年6月4日、満州の奉天駅の近くで起こった。奉天軍閥の首領「張作霖」が、列車もとろも爆破されたのである。主犯は関東軍の河本大作大佐。満州国を建国する上で、張作霖が邪魔だったのである。とはいえ、やり方があまりにもえげつない。そのため、河本大佐は責任をとる形で本国に召還された。代わりに関東軍に赴任したのが石原莞爾中佐だった。ということで、「駒」は石原莞爾(いしはらかんじ)。大日本帝国陸軍では切れ者で知られていた。

当時、石原莞爾は、持論の「世界最終戦論」を周囲に熱く語っていた。

来るべき、近未来・・・西洋の覇者「アメリカ」と、東洋の覇者「日本」との間で最終決戦が行われる。その時は、100万人単位の軍団が動員されるだろう。それを可能にするためには、膨大な戦争資源が必要だ。つまり、ヒト・モノ・カネ。ところが、日本にはそれがない。

ではどうすればいいのか?

戦争資源を中国で調達する(収奪とは言っていない)。あの無尽蔵の土地と人を取り込めば、勝機はある。その第一歩が「満蒙(満州と内蒙古)」というわけだ。中国人が聞いたら仰天ものだが、それゆえ、今の中国では、
「石原莞爾は極悪非道人、決して許すまじ」
ということになっている。

その石原完爾が満州に赴任した翌年の5月、板垣征四郎大佐が、関東軍高級参謀として着任した。以後、この2人は仲良しこよしの二人三脚で、独断専行、本国には後追い承認で満州作戦を推進していく。

その結果・・・

満州事変が勃発し、日中全面戦争に突入するのである。

《つづく》

参考文献:
(※)満州帝国50の謎森山康平(著),太平洋戦争研究会(編集)ビジネス社

by R.B

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