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週刊スモールトーク (第195話) 中国共産党の歴史(7)~関東軍と満州~

カテゴリ : 戦争歴史

2013.02.24

中国共産党の歴史(7)~関東軍と満州~

■歴史ドラマ「朱蒙(チュモン)」

日本と韓国は、竹島問題、従軍慰安婦問題、仏像盗難問題で爆発寸前・・・70年前なら、今頃は「日韓戦争」だろう。そもそも、韓族は、16世紀末の2度の朝鮮出兵、1910年の韓国併合で日本に恨み骨髄。だから、本当は警戒すべきなのに、日本では韓流ブーム・・・めでたい話だ。

そんな話の後で切り出しにくいのだが、韓国の歴史ドラマ「朱蒙(チュモン)」を観た。もちろん、竹島問題に火がつく前の話で、今なら観ない。政治とエンターは別、と割り切るほど単純な人間ではないので。

で、そのドラマ「朱蒙(チュモン)」だが、中古屋で買ったDVDBOX全81話。朝鮮の高句麗(コグリョ)の創始者「朱蒙」を描いたものだが、これがなかなか面白い。衣装は華やかだし、役者はドハマリだし、何より、脚本がいい。

ところが・・・

ドラマ「朱蒙」の9割が作り話なのだという。だから、面白いのだろうが、それだけではないような気もする。

さて、ここで本題。

地図を見ればわかるが、朝鮮半島は中国と国境を接している。そのため、代々の朝鮮王朝は中国の圧迫を受けてきた。ところが、高句麗は別格だった。朝鮮史上、最強の王朝といっていい。実際、紀元前37年に建国後、中国の侵攻をことごとく退け、逆に、満州南部(遼寧省、吉林省)まで領土を広げている。

朝鮮王朝が満州南部を征服?

イエス。今では信じられないような話だが、本当だ。ちなみに今は中国領。

では、満州は元々誰の土地?

紀元前2世紀頃、満州には、「ワイ貊(わいはく)」とよばれる古代の種族が住んでいた。これが、高句麗を創始した種族の先祖といわれる。ところが、その後、満州の住人はコロコロ変わる。北方騎馬民族、中国、そして、7世紀~10世紀には謎の「渤海国」が支配した。ところが、これらの民族は「ワイ貊」ではない。

その後、満州は女真族が優勢になり、「金」王朝や「後金」王朝が興った。とくに後金は大成功をおさめ、最終的に中国全土を征服し、「清」王朝を建国する。ところが、この女真族も「ワイ貊」とは別の種族。さらに、朝鮮半島南部の韓族も「ワイ貊」とは違う。

以上を総括すると、満州は「ワイ貊」の土地。つまり、現在の「ワイ貊」の国に所属することになる。ところが、困ったことに、「ワイ貊」の国家は存在しない。それどころか、民族そのものが同化し、「ワイ貊」の文化も消失してしまった。

というわけで、領有権問題を理屈で論じるのは不毛。歴史をみればあきらかだが、この手の問題は武力でしか解決できない。つまり、解決方法は2つ、戦争かプレゼントするか?ただし、「選択肢」ならもう一つある。問題解決しないこと。日本が最も得意とする外交なのだが。

■関東軍

20世紀初頭、この満州を我がものにしようとしたのが日本とロシアだった。結果、日露戦争が勃発し、勝利した日本は、ロシアから満州の「関東州と南満州鉄道」を譲渡された(地図参照)。

中でも、満州鉄道は日本に大きな利益をもたらした。広大な満州に張り巡らされた鉄道の駅ごとに、「附属地」というおまけの土地がついたからである。日本はこの新天地に夢を託し、街や鉱山、製鉄所、遊園地とあらゆるインフラを構築した。

ただし、日本は満州全土を譲渡されたわけではない。日露戦争の戦後処理「ポーツマス条約」によれば、日本が利用できるのは、満州鉄道と附属地のみ。つまり、点と線。ところが、点と線を手に入れた日本は、次に「面の支配」を目論むようになる。

この野望は、時系列でみるとわかりやすい。

・1905年9月5日:ポーツマス条約締結。関東州と南満州鉄道を得る。

・1905年9月26日:関東州を統括する機関「関東総督府」が設置される。

その8ヶ月後の1906年5月22日・・・

「満州問題に関する協議会」が開催され、参謀総長の児玉源太郎大将がこんな発言をしている。

「満州経営の問題が、国内に持ち込まれれば、複数の省がからみ、取り扱いが煩雑になる。だから、満州を一括管理する官庁を新たにつくってはどうだろう」(※)

満州を一括管理?

気分はもう、「満州全土=日本」。

ここで忘れてならないのは、満州には先住民、つまり、漢民族や女真族が暮らしていたこと。それに、山岳部には馬賊もいる。当然、日本人とのトラブルが多発した。そこで、「関東都督府」に「陸軍部」がおかれ、守備隊が配備された。これが、「関東軍」の前身である。後に、関東軍は「泣く子も黙る」と恐れられたが、この頃の兵力は、つつましいものだった。

1907年4月に南満州鉄道株式会社が営業を開始し、その護衛のため、兵力が増強されたが、それでも総兵数は5000名ほど。軍事作戦を単独で遂行できる最小単位が師団だが、その半分にも満たない。しかも、現役兵ではなく、一丁上がりの予備役。満州の長大な「点と線」を守備するには、ちょっとお粗末なのでは?じつは、そうでもない。

日露戦争が終わったばかりで、当面、ロシアとの戦争はないだろうし、中国は内戦に忙しくて、日本にかまっているヒマはない。だから、この程度の戦力で十分だったのである。

ところが・・・

1911年10月10日、中国の湖北省の武昌で、清朝軍の革命派が反乱が起こした。この事件を皮切りに、反乱は中国全土に広がり、中国18省のうち14省が独立を宣言した。これが辛亥革命である。続く1912年1月1日、中華民国臨時政府が成立し、孫文が臨時大総統に就任した。ところが、清朝はまだ滅んではいない。つまり、中国は清朝と中華民国の2つの政府が並立したのである。

じつは、この対立には2つの側面があった。

①「主義」の対立:保守派(清朝)Vs革命派(中華民国)

②「民族」の対立:女真族(清朝)Vs漢民族(中華民国)

つまり、二重に対立しているわけで、歩み寄る余地がない。この混乱を千載一遇のチャンスとみたのが日本だった。そこで、満州の出先機関である関東都督府は、「満蒙独立運動」を扇動し、満蒙(満州と内蒙古)を中国から独立させようとしたのである。

そんなおり、清朝と敵対する中華民国の臨時大総統「孫文」は、清朝の大臣「袁世凱」に驚くべき提案をする。
「清朝の宣統帝を退位させてくれたら、大総統を(袁世凱に)譲る」

要するに、敵側の大臣に、
「こっちの親分(大総統)にしてやるから、そっちの親分(皇帝)のクビを取れ」
と言っているわけだ。

そこで、襟(えり)を正して、
「オレを誰だと思っているんだ、バカ者!」
と一喝したかと思いきや、袁世凱はこの話にホイホイ乗った。そして、清朝の重臣と宣統帝にニンジンをぶらさげて、退位をそそのかしたのである。

そのニンジンというのが・・・

①皇帝の尊号は残す。

②君主と同様の礼儀をもって皇帝を遇する。

③皇帝には歳費を支払い、紫禁城への居住を認める。

④私有財産はすべて保護する。

ん~、悪くない。

プライドの欠落したお気軽皇帝や、定年間近で一丁上がりの大臣なら、二つ返事でOKだ。そして、現実もそうなった。1912年2月12日、宣統帝は退位したのである。ちなみに、この「宣統帝」は後の満州国皇帝「愛新覚羅溥儀」である。つけくわえると、このニンジンは最終的にすべてチャラになった。

■満蒙独立運動

こうして、女真族の長「ヌルハチ」が興し、250年続いた清朝はあっけなく滅んだ。一方、ニンジンに目を奪われ、皇族の誇りを捨てた宣統帝一派に恨みをいだく皇族もいた。そこに目をつけたのが日本である。清朝の元皇族を担ぎ出し、宋社党という政治結社をつくり、満蒙(満州と内蒙古)で独立国家をつくらせようとしたのである。

女真族にしてみれば、中国の再征服はムリにしろ、故地の満州で独立国を建国できれば、めっけもの。昔にもどって、高麗ニンジン(こっちは本物のニンジン)の採集で身を立てればいいではないか。創始者のヌルハチもそうだったし。

幸い、満州には日露戦争のあと、日本の後押しで大軍閥になった張作霖もいた。ということで、清朝の元皇族を皇位に就け、張作霖に軍事をまかせ、日本が後ろで操れば、万々歳。これが民族主義を鼓舞する”熱い”満蒙独立運動の正体だったのである。

ところが・・・

あてにしていた張作霖が満蒙独立から手を引く。中華民国の袁世凱にすり寄ったのである。こうして、満蒙独立運動は頓挫した。

ニンジン作戦で、中華民国の大総統となった袁世凱は、側近の段芝貴(だんしき)を東三省の都督として派遣した。「東三省」とは清朝時代の「満州」の呼称、つまり、満州のこと。ところが、段芝貴は実力も欲も覇気もない人物だった。そこで、張作霖は上から目線で段芝貴を追い出しかかる。それを見た関東都督府は、宋社党を利用するより、張作霖を利用したほうが早いかも、と考えた。そこで、張作霖を支援し、力を得た張作霖は段芝貴を追い出し、満州の支配者となった。

ところが・・・

いつになっても、張作霖は満蒙の独立宣言をしない。というのも、張作霖ははじめから日本をだますつもりだったのである。満州を支配するために日本を利用し、目的を達成したら、
「満蒙の独立宣言?はて何のことでしょう?」
さすがは張作霖、こういうあっけらかんとした狡猾さは、どこか憎めない。日本にとってはマヌケな話だが、一応、歴史名もついている。ハシゴを外された宋社党の名を取って、宋社党事件

1919年4月、関東都督府が関東庁に改組されると、陸軍部も関東軍司令部に昇格した。これが関東軍である。関東軍司令官は天皇直属なので、天皇の命令をうけた参謀総長から直接指揮を受ける。つまり、関東庁長官、外務大臣、総理大臣など政府のトップも口をはさめない。これが「統帥権の独立」で、関東軍が本国の命令を無視し、暴走する原因になった。

その証拠に、北洋軍閥の内戦である安直戦争、第一次奉直戦争、第二次奉直戦争への介入は、すべて、関東軍司令官の一存で行われている。

そんな中、1919年5月4日、日中戦争の原因となる大事件が起こる。五四運動である。この事件が引き金となり、反日運動は中国全土に飛び火し、北京政府も手がつけられなくなった。あわてた日本は、北京政府の国務総理(総理大臣)の段祺瑞(だんきずい)に、巨額の資金を援助し(日本の国家予算の15%!)、その見返りに、日華軍事協定を締結させようとした。

その協定の内容というのが・・・日本が満州で軍事行動をおこしたら、中国軍は日本に協力してね。

なんで、ここで、こういう話になるのか分からないが、空気が読めないというか、反日運動にダイナマイトを放り込むようなもの。たちまち、国民の猛反発を受け、段祺瑞は退陣した。一方、国民のパワーを目の当たりにした孫文は、「国民」を意識して、中華革命党を「中国国民党」に改名する。そのため、「広東政府」は「国民政府」ともよばれるようになった。

■蒋介石

そんなこんなで、日本は混乱に乗じて、満州の覇権を握ろうと悪戦苦闘していたのだが、ここで恐るべき強敵が現れる。中国国民党の蒋介石である。

蒋介石は、これまでの主役、袁世凱や張作霖とは一線を画していた。日本の軍学校で学び、日本陸軍に勤務したこともある。高い教育をうけ、見識が高く、不屈の精神力と決断力もあわせもっていた。そして、ここが肝心なのだが、目的のためには手段を選ばない弱肉強食力にくわえ、孫文譲りの信念と理念を持ち合わせていた。

その蒋介石が、孫文亡き後、広東政府(国民政府)の実権をにぎったのである。1926年7月1日、蒋介石は「北伐宣言」を発表し、北伐を開始した(第1次北伐)。当時、広東政府の本拠地は広州だったが、マカオと100kmしか離れていない。つまり、中国のほぼ最南端。

この広州を起点に北上し、北京に達すれば、中国を縦断することになる。道中の地方軍閥を殲滅し、最後に北京政府を倒せば、中国国民党による中国統一がなるわけだ。この孫文が夢見た「北伐」を蒋介石が成し遂げようというのである。

■北伐と上海クーデター

1926年、蒋介石率いる北伐軍は、武漢を占領した。同年12月、汪兆銘(おうちょうめい)ら中国国民党の左派が中国共産党と同盟し、広東政府に合流した。それを機に、広東政府は首都を広州から武漢に移し、名称も「広東政府」から「武漢政府」に変更された。ところが、中国国民党と中国共産党の蜜月は長くは続かなかった。

1927年3月、北伐軍が南京を占領した際、日本と欧米列強の領事館が襲撃され、民間人が虐殺された。これが「南京事件」である。北伐軍と一部の民衆がやったのだが、蒋介石をおとしめるために共産党が煽動したといわれる。具体的には、ソ連のコミンテルンとその指揮下にあった中国共産党である。

この事件以降、蒋介石は共産勢力を敵視するようになった。中国国民党と中国共産党の同盟「国共合作」も解消された。さらに、1927年4月12日、蒋介石ら国民党右派は、上海や武漢で共産党勢力を掃討した。これが上海クーデターである。始まりの日付をとって「四・一二事件」ともよばれている。

さらに、4月18日、蒋介石は、共産党の影響が強い「武漢政府」から独立して、南京で「南京政府」を樹立した。一方、中国国民党と中国共産党をとりもった汪兆銘は、武漢政府に残っていたが、結局、共産党の弾圧にまわり、同年9月南京政府に合流した(武漢政府は解体)。

なんともめまぐるしい動きだが、一応、混乱はおさまった。そこで、1928年4月8日、蒋介石は北伐を再開する(第2次北伐)。このとき、蒋介石は欧米の支持を得て、地方軍閥の馮玉祥も合流し、一大勢力になっていた。

これに危機感を抱いたのが日本である。日本は国際的に承認された「ヴェルサイユ条約」で、ドイツから山東省の権益を引き継いだが、中国はヴェルサイユ条約を拒否している。互いに言い分はあるわけで、外交では解決不能。まぁ、尖閣諸島問題みたいなもので、「力ずく」しか道はない。

そこで、日本は山東省に軍を派遣したが(山東出兵)、日本の不安は的中する。1928年5月、山東省の済南で(地図参照)、北伐軍が日本人を略奪・暴行・殺害したのである。これを、済南事件とよんでいる。

日本側の緊張はピークに達した。このままいけば、北伐軍は北京を超えて、満州に侵攻するかもしれない。日本にしてみれば、日露戦争で、国の存亡をかけて勝ち取った「関東州と満鉄」は失いたくない。

ところが・・・

済南事件の後、蒋介石は、
「山海関以東(満洲)には侵攻しない」(地図参照
と伝えてきた。
日本にしてみれば、
「満州>>山東省」
なので、満州さえ確保できれば、山東省はあきらめてもいい。とはいえ、満州が安泰というわけではない。中国の政情は不安定だし、何を起こるか分からない。こうして、日本は「満州」政策の見直しを迫られた。

■見捨てられた張作霖

この頃、張作霖は北京政府の大元帥で、名目上は中華民国の「主権者」だった。ところが、北伐軍の勢いをみれば、北京入城は時間の問題だし、北京政府が崩壊するのは必定。張作霖は本拠地の満州に逃げ帰るしかない。

では、これまでどおり、満州を張作霖に任せる?

関東軍は・・・そうは考えなかった。

まず、張作霖の奉天軍閥を武装解除し、代わりに、「居留民保護」の名目で日本軍を派遣しようと考えていたのである。ところが、満州鉄道の附属地以外に兵を進めるのは、ポーツマス条約に反する。だから、日本政府は決して許可しようとはしなかった。

では、日本政府は満州をどうするつもりだったのか?

じつは、当時の日本の首相「田中義一」は陸軍少佐時代から、張作霖とは顔なじみだった。個人的にも気に入っていたようで、張作霖に満州を任せたかったのである。

というわけで、関東軍の当初の計画、

・張作霖の奉天軍閥を武装解除する。

・代わりに日本軍を派遣して満州を守る。

はボツになった。

ところが、それであきらめる関東軍ではなかった。考えを根本から改めたのである。つまり・・・

張作霖のような軍閥を利用する間接統治には限界があるのではないか。いっそのこと、傀儡政権(満州国)を樹立して、直接操ったほうがよいのでは?であれば、張作霖は邪魔・・・

では、どうする?

暗殺。

もちろん、こんな大それたことを日本政府が許すはずがない。そこで、村岡関東軍司令官は、一見巧妙な、現実はバレバレの作戦を思いついた。張作霖の乗った列車を爆破し、中国側のしわざに見せかけ、それを口実に、満州全土を制圧しようというのである。張作霖を亡き者にできるし、満州も制圧できる。一石二鳥というわけだ。命を受けた河本大作大佐は初めはたじろいだが、結局決行した。

1928年6月3日、張作霖は北伐軍の破竹の進撃に怖じ気づき、北京を脱出した。専用列車で、「北京→山海関→奉天(張作霖の本拠地)」(地図参照)と向かったのである。

この逃避行は、ルートに問題はなかったが、「到着地」だけが狂ってしまった・・・
「北京→山海関→冥界(張作霖爆殺事件)」

その10日後の6月15日、蒋介石の北伐軍は北京に入城した。さらに同年12月29日、張作霖の跡を継いだ息子の張学良も降伏。こうして、北伐は完了した。

ところが・・・

北伐軍は一枚岩ではなかった。蒋介石の中国国民党軍と、複数の地方軍閥の混成部隊。だから、仲間割れは必至・・・蒋介石は新たな試練に直面していた。

《つづく》

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参考文献:
(※)満州帝国50の謎森山康平(著),太平洋戦争研究会(編集)ビジネス社

by R.B

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