IFの歴史・世界恐慌がない世界(4)
■ケルン会談
1933年1月1日のケルン会談で「未来」は決まった。
ドイツは・・・民主主義のヴァイマール共和国から、一党独裁のドイツ第三帝国へ。
世界は・・・8000万人が命を落とす第二次世界大戦へ。
この会談で、黒幕パーペンと実行者ヒトラーは密約を交した。ナチ党が保守派と連立し、現シュライヒャー内閣を倒すのである。
問題はどの政党と組むか?
1933年1月1日時点の政党別議席数をみてみよう。
1.ナチ党(NSDAP)・右派:196議席
2.社会民主党 (SPD)・左派:121議席
3.共産党 (KPD) ・左派:100議席
4.中央党 (Zentrum)・中道:70議席
5.国家人民党 (DNVP)・右派:51議席
右派(保守派)は、ナチ党をのぞけば、国家人民党だけで、選択の余地はない。
こうして「ナチ党&国家人民党」の連立政権が始動した。
■パーペン・ヒトラー Vs. シュライヒャー
1933年初頭のドイツの政局は「パーペン・ヒトラー Vs. シュライヒャー」に集約される。
シュライヒャーは現内閣の首相で、パーペン・ヒトラーはそれに挑む。ふつうに考えれば、シュライヒャーが有利なのだが、現実は逆だった。
というのも、パーペンは国民的英雄ヒンデンブルク大統領のお気に入りだったし、ヒトラーは議会第1党のナチ党を率いていたから。
それだけはない。
パーペンは、シュライヒャーを深く恨んでいた。シュライヒャーが、パーペンを首相の座から引きずり降ろし、後釜におさまったからだ。パーペンはシュライヒャーが破滅させるためなら、悪魔と契約する用意があった。ファウスト博士のように。
事実、パーペンはヒトラーと取引している。
ヒトラーを悪魔呼ばわりするつもりはないが、重要なことがある。
この時代、ドイツのヒトラーは、ソ連のスターリン、イギリスのチャーチルとならぶ危険人物だったのだ。イデオロギーが危険なだけではない。自分の望みのためなら、手段を選ばない、たとえ国民が何千、何万、何百万犠牲になろうと。
ヒトラー、スターリンは想定内だが、あのチャーチルも?
証拠がある。
1940年11月14日、イギリスの都市コヴェントリーがドイツ空軍の空襲をうけた。この爆撃で約1,200名の死傷者がでたが、首相のチャーチルはこの空爆を事前に知っていた(自分の回顧録に書いている)。
ところが、この時、チャーチルはコヴェントリーに避難命令を出したり、防空の強化を指示した形跡はない。
なぜか?
チャーチルは、この空爆をドイツ軍のエニグマ暗号を解読して知っていたが、それをドイツ軍に知られたくなかったのだ。もし、知られたら、ドイツ軍はエニグマ暗号を使わなくなるから。解読されるとわかって、暗号を使用するバカはいない。
つまり、チャーチルは、軍事機密を守るために、1200名の国民を犠牲にしたのである。
ではなぜ、チャーチルはそんな非道なことを回顧録で自白したのか?
「わたしチャーチルは、目先より長期の展望をもった優れた指導者である」とアピールしたかったのだろう。彼が人生で、言ったこと、やったことをみれば明らかだ。
だが、チャーチルを非難するつもりはない。
あの戦争は、国の存亡がかかっていたのだ。戦争は誰が始めたかは重要ではない。始まったら最後、勝つか負けるかがすべてだ。負けたら、悲惨な結末が待っているから、ドイツや日本のように。しかも、それが100年単位で続くのである。これは「倫理」ではなく「国家安全保障」の問題だ。戦争とはかくも過酷なものなのである。
話を元にもどそう。
首相のシュライヒャーは焦っていた。
このままでは、シュライヒャー内閣は瓦解する。敵は、腹黒いパーペン、何をするかわからないヒトラーなのだ。ここはヒンデンブルク大統領に直訴するしかない・・・
1933年1月26日、シュライヒャーは、大統領官邸に出向き、ヒトラーとパーペンの陰謀を暴露した。ヒトラー嫌いのクルト・フォン・ハマーシュタイン上級大将も、シュライヒャーに口ぞえした。もし、ヒトラーが首相に就任したら、ヒトラーは国軍に介入すると。
すると、ヒンデンブルクは、ヒトラーなんかに国軍に介入させないと、声を荒らげ、2人の警告を突っぱねた。ヒンデンブルクは、ヒトラーは嫌いだったが、パーペンびいきだったのである。
■財界の大物フーゲンベルク
一方、パーペンとヒトラーは国家人民党との連立を急ぐ。
国家人民党の党首はアルフレート・フーゲンベルク、ドイツ経済界の大物だった。
巨大軍事会社クルップ社の元会長で、その後も、鉱工業、重工業界ににらみをきかせていた。さらに、出版、新聞、映画を支配するメディア王でもあった。つまり、ドイツ経済界の利益代弁者、保守派の頭目だったのである。
そんな彼が率いる国家人民党は、ドイツ保守派の「長男」だった。
ところが、ナチ党が台頭すると、その座を奪われてしまう。保守派の票が、国家人民党からナチ党に流れたのだ。ナチ党196議席、国家人民党51議席、がそれを物語る。
そんなこんなで、フーゲンベルクはヒトラーを苦々しく思っていた。
1933年1月27日、カイザーホーフホテルで、ヒトラーとパーペンとフーゲンベルクが会談した。
フーゲンベルクは、手強い交渉相手だった。
パーペンのような貴族出身の薄っぺらい政治家とは違う。ビジネスの修羅場をくぐり抜けた歴戦のファイターなのだ。
そこで、ヒトラーは、悪魔のように細心に、天使のように大胆に、フーゲンベルクを誘導する。
新内閣の首相はヒトラー、そのかわり、フーゲンベルクには閣僚の地位を約束する。一方、フーゲンベルクは、ヒトラーの首相就任は呑めないが、保守派が結束すれば、阻止できるという感触を得た。
ところが、ヒトラーは恐ろしい要求をつきつける。
プロイセン内務省を、ナチ党の支配下におくというのだ。
フーゲンベルクは仰天した。
というのも、この省は、プロイセン(ドイツの歴史的地域)の2/3と、首都ベルリンの警察力を管轄している。これをナチ党に渡せば、ナチ党の武装集団「突撃隊(SA)」が、ドイツの中心部でやりたい放題だ。突撃隊は、これまで共産党と路上乱闘を繰り返したゴロツキ集団なのだ。
当然、フーゲンベルクは拒否した。
すると、ヒトラーは会談を打ち切ると宣言。
あわてたのが、パーペンだ。
パーペンにしてみれば、ナチ党と国家国民党の連立が成立しないかぎり、シュライヒャー内閣を倒せない。彼の第一の望みはシュライヒャーを破滅させること。そして、第二、第三の望みも同じ。ここで、あきらめたら、何のために悪魔と取引したのか?
そこで、パーペンはヒトラーに味方して、フーゲンベルクを熱く説得した。フーゲンベルクは引き下がるしかなかった。パーペンはヒンデンブルク大統領のお気に入りなのだ。
■ヒトラーの策略
1932年1月29日、パーペンはヒトラーと協議し、ヒトラーは首相、パーペンは副首相、フーゲンベルクはスーパー大臣と決まった。
スーパー大臣?
全国の経済と農業を統括する。やり手のビジネスマンなら、これで満足すると考えたわけだ。
とはいえ、これは2人だけの取り決めで、他の保守派議員はまだ知らない。当然、反対が予想された。
そこで、ヒトラーは大きな譲歩をする。
ナチ党の閣僚ポストは3つで我慢し、残りを他の保守派に譲ったのである。
これで、パーペンも保守派議員も騙された(フーゲンベルクはのぞく)。ヒトラーが妥協し、保守派と協力すると思い込んだのだ。
事実、この後、パーペンは友人にこう言っている。
「すぐに、ヒトラーは内閣の片隅に追いやられ、歯ぎしりすることだろう」
パーペンは、ヒトラーを制御できると考えたのだ。
世間の見方もそうだった。
新内閣の真の実力者はフーゲンベルクで、ヒトラーは男爵衆のお情けで、首相にしてもらったのだと。
野党も、ヒトラーの野心と器量を見誤った。
第2党の社会民主党は「パーペン=フーゲンベルク戦闘内閣」とよんで、「ヒトラー」の名前を外した。
第3党共産党は「ヒトラーは無力、大資本家の操り人形にすぎない」と触れ回った。
では、パーペン・ヒトラーの宿敵、首相のシュライヒャーは?
動きがとれなかった。
というのも、彼には怖ろしいウワサが立っていたのだ。
シュライヒャーが、国軍を動員して、ヒンデンブルクを軟禁し、大統領になるというのだ。
ドイツの政局は混迷するばかり。
1933年1月29日、ナチ党の大幹部ヨーゼフ・ゲッベルスは日記にこう書いている。
「明朝10時45分に何かが起こる」
■運命の1日
1933年1月30日、運命の1日が始まった。
午前8時30分、ヴェルナー・フォン・ブロンベルク少将が、ベルリンのアンハルター駅に降り立つ。
ブロンベルク少将は、ジュネーヴで開かれていた軍縮会議に出席していたが、急遽ベルリンに呼び戻されたのだ。しかも、命令を出したのはヒンデンブルク大統領。ただごとではない。
この日、パーペンとヒトラーの新内閣が誕生しようとしていた。
問題は誰が首相になるか?
もし、ヒトラーが首相になれば、国軍に介入し、意のままに操るだろう。
一方、現内閣のシュライヒャー側にも不穏なウワサがあった。シュライヒャーが、国軍を掌握して、クーデターを起こすというのだ。もし、事実なら、国軍に介入どころの話ではない。
第一次世界大戦の英雄で、ドイツ軍の申し子、ヒンデンブルク元帥の思いは一つ「あんな連中に国軍は任せられない」。そこで、自分が最も信頼するブロンベルク少将を召喚したのである。
ヒンデンブルクは念には念を入れた。自分の息子に、ブロンベルク少将を駅まで迎えに行かせたのである。
ところが、駅に着くと、陸軍のクルト・フォン・ハンマーシュタイン上級大将の副官も来ていた。彼もブロンベルク少将を連れ帰るよう命令を受けていたのである。
ハマーシュタインは、シュライヒャーに近い上級大将だった。ブロンベルク召還を人づてに聞いたシュライヒャーが、ハマーシュタインにブロンベルクを連れて来るよう命じたのだった。
ヒンデンブルク側とシュライヒャー側で、ブロンベルク少将の取り合いになったが、勝ったのはヒンデンブルクだった。位では「元帥>上級大将」なので。
ブロンベルク少将が大統領府に着くと、ヒンデンブルクは安堵した。ところが、ハマーシュタインの副官が迎えに来ていたことを知ると、形相が一変する。
ヒンデンブルクはこう考えた・・・シュライヒャーは、ハマーシュタインを遣わしてブロンベルク少将を連れ去り、クーデターをもくろんでいたに違いない。
■ヒンデンブルクの超法規的処置
午前9時、ヒンデンブルクは、ブロンベルク少将を新内閣の国防大臣に任命する。
だが、これは憲法違反だった。
内閣が成立する前に閣僚を任命することは、ヴァイマル憲法で禁じられていたのだ。
国家元首が、あかさまに法を破る状況を想像してみてほしい。ヒンデンブルク大統領は崖っぷちに追い込まれ、ドイツの政局は大カオス・・・
10時45分、オットー・マイスナー官房長官のオフィスに、新内閣の関係者が集った。このとき、パーペンは次期首相がヒトラーであることを宣言する。
フーゲンベルクは仰天した。
ヒトラーは首相に執着していたが、最終的にパーペンが首相、ヒトラーは副首相に落ち着くと思っていたのだ。
ヒトラー新首相は、すぐに新閣僚に迫る。議会の解散、総選挙の公示に同意されたし!
フーゲンベルクは血の気が引いた。
ここで議会を解散すれば、フーゲンベルク率いる国家国民党は壊滅するだろう。保守票を根こそぎ、ナチ党に奪われるからだ。そうなれば、連立内閣など絵に描いた餅、ドイツはナチ党一党独裁になる。
フーゲンベルクは、必死に抵抗したが、ムダだった。パーペンも他の閣僚たちも、ヒトラーに味方したからだ。貴族の旦那衆は、この場におよんでも、ヒトラーは制御できると信じていたのだ。
このドタバタを横目で見ながら、イライラする者がいた。ヒンデンブルクの官房長官マイスナーである。彼は、厳粛な面持ちで、しかし、声を荒らげてこう言った。
「皆さま方、大統領閣下の宣誓は11時ですぞ。もう11時15分です。大統領閣下をこれ以上お待たせすることは絶対に許されません!」
この一言が効いた。
フーゲンベルクはあきらめるしかなかった。自分が、国家元首ヒンデンブルクの唯一の反対者になりたくなかったのだ。
こうして、ヒトラー政権が誕生した。
後に、フーゲンベルクは腹心の部下にこう打ち明けている。
「私は人生最大の愚行をしでかした」
すべて後の祭りだった。
ここで、IFの歴史。
もし、ささいな手違いがあって、ブロンベルク少将がシュライヒャー側に連れて行かれたら?
シュライヒャー側のハマーシュタイン上級大将が、ブロンベルク少将を説得して、軍事クーデーターをおこす。ヒンデンブルクは幽閉され、シュライヒャーは確固たる権力を手に入れる?
面白い仮説だが、ありえない。
ハマーシュタインは、ヒトラーを毛嫌いしていたが、そこまでやる度胸はなかった。その後の人生がそれを証明している。ヒトラーが独裁体制を確立した後、反ヒトラー派と目されながら、行動がともなわず、鳴かず飛ばずで、大戦中にガンで死去している。つまり、歴史を創る人間ではなかったのだ。
シュライヒャーも、ヒンデンブルクに楯突く度胸も、ブロンベルク少将や国軍を取り込む器量もなかった。状況判断はできるものの、問題解決力も行動力も欠いていた。相手が強敵パーペン&ヒトラーなので、情状酌量の余地はあるが。
ただし、このIFの歴史では、ヒンデンブルクは内閣成立前にブロンベルク少将を国防大臣に任命することはできない。だが、それでも歴史は変わらないだろう。その後ヒトラー内閣が成立し、シュライヒャーは無力化され、ブロンベルク少将が国防大臣に就任するからだ。つまり、任命が1時間ほど遅れるだけ。
つまりこういうこと。
1933年1月1日のケルン会談の瞬間、「ヒトラー政権樹立」は確定したのである。
■ヒトラー首相誕生
1933年1月30日12時35分、フランスの新聞「ル・マタン」のベルリン事務所の電話が鳴った。
女性特派員のステファーヌ・ルッセルがでると、ドイツ通信社からだった。
「ではよいかね。新首相はアドルフ・ヒトラー」
「えっ?もう一度」
「首相はアドルフ・ヒトラーだ」
彼女は耳を疑った。ヒトラーが首相に任命されようとは夢にも思っていなかったのだ。
ドイツ駐在のイギリス大使は、本国に「あらゆる可能性からみて、パーペンが首相に任命される」と報告していた。
つまり、誰一人「ヒトラー首相」を予測していなかったのだ。
まさに驚天動地の事態だが、ライバル政党の反応は、信じられないほど鈍かった。
ヴァイマール共和国の穏健派、中央党(中道)と社会民主党(中道左派)は「この悪夢はすぐに終わるだろう」と慰めあった。希望的観測、現実逃避以外のなにものでもないが、こういう場合、人間は自分が見たいものしか見ないものなのだ。
ヒトラーと対立していた第2党の社会民主党と第3党の共産党は「ヒトラーなど一時的な現象だ。あの連中は道理をわきまえないゴロツキだ。長続きするわけがない。つぎはわれわれの番だ」と息巻いた。
ところが、この事態を冷静に観察している女性がいた。
シュライヒャーの娘、ロニー・フォン・シュライヒャーである。
彼女は日記にこう書いている。
「当時、みんなヒトラーを甘く見ていました。彼は一般大衆を上手く引き寄せる、素晴らしい宣伝マンだったのです。けれども、彼の力、悪しきこと源であった力を、誰もわかっていませんでした」(※1)
だが、ヒトラーは「首相」で満足するつもりはなかった。
敵であれ、中立であれ、ナチの信奉者をのぞくすべての「存在」を消し去ったのである。
ようこそ、ナチスのモノトーン世界へ。
参考文献:
(※1)ヒトラー権力掌握の20ヵ月グイドクノップ(著),高木玲(翻訳)中央公論新社
(※2)ヒトラー全記録―20645日の軌跡、阿部 良男 (著)、出版社 : 柏書房
by R.B