ファミリーヒストリー(1)~源平合戦と先祖の書~
■ファミリーヒストリー
「ファミリーヒストリー」は、家族のルーツをたどるNHKのテレビ番組だ。
とはいえ、取り上げられるのは有名人だし、NHKの取材力あっての話。自分には縁がないと思っていた。
ところが、そうではなかった。
わが家のルーツが「1185年の壇ノ浦の戦い」までたどれたのだ。
先祖の、誰それが、何年に、何をやったかまで判っている。
わが家は名家ではないし、素封家でもない。歴史に名を残した者はおろか、出世した者もいない。だから、公知の書には載っていない。さらに、平安時代の戸籍は、現在、確認できない。
ではどうやって、840年前のことがわかったのか?
先祖が書き遺した古文書が見つかったのである。
歴史資料には、古文書と古記録がある。古文書は伝える相手が特定され、古記録は特定されない。先祖の書は、先祖の歴史を子孫に伝えるもので、受取人は子孫。つまり古文書である。
わが家の「先祖の書」を要約すると、
「わが祖先は、元暦2年(1185年)の壇ノ浦の戦いで、平家の下級武士として戦い、討ち死した。名を『勝平』という。その子は『勝次』といい、京都から九州をへて、北國に移り『敷浪村』を開村した。その次男の『太加次』は、能登に居住していた平時忠の身の回りの世話をした(家臣ではない)」
平時忠は、平清盛の義弟で、壇ノ浦の戦いのあと、能登に配置換えになった公家出身の武家である。
というわけで、わが一族は平家の下級武士から始まり、能登で新しい村を開拓し、この土地に根付いている。その840年間、功をあげた者も、出世した者も、歴史に名を残した者もいない。今も昔も、平凡な一族だ。そのファミリーヒストリーが、840年前までたどれたのは、ひとえに、先祖の書のおかげ。
一方、歴史に名を残した一族なら、ルーツを調べる必要はない。公知の歴史書や教科書に載っているからだ。
たとえば、織田信長。
信長の家臣の太田牛一が著した「信長公記」。さらに、イエズス会宣教師ルイス・フロイスが著した「フロイス日本史」。ともに、一次資料(同時代に書かれた書)で、信憑性が高いとされる。
■家系図を作成する
では、先祖の書がない場合、どうやってルーツを調べる?
行政書士か司法書士に頼めば、家系図を作ってくれる。
ネットで調べると、彼らは家系図作成のプロで、戸籍をベースに文献調査や現地調査を行い、家族史を明らかにしてくれる、とある。だが、鵜呑みにしてはいけない。
文献調査?
歴史的人物でないかぎり、文献など、はなから存在しない。
現地調査?
戸籍から場所を特定し、現地に行っても、世代は交代しており、昔のことなど誰も知らない。
事実、家系図業者のほとんどが、戸籍だけで家系図を作成している。
以前、相続手続きを依頼した司法書士に、家系図の相談をしたら、
「あ、家系図ですか。お金がかかるし、戸籍以上は調べられません。ご自分でやられた方がいいですよ」
と、けんもほろろ。
さらに、戸籍も万能ではないことに注意が必要だ。
現在、取得できる最も古い戸籍は、1886(明治19)年に編成されたもの。たどれるのは、せいぜい江戸末期まで(役場で確認済み)。事実、わが家の戸籍も、最古の情報は文政元年(1818年)4月20日。2代当主の妻「すへ」の誕生した日である。
さらに、戸籍が必ず取れるわけではない。2010年の戸籍法改正前に、古い戸籍を廃棄した自治体があるのだ。さらに、戦争や災害で戸籍が焼失すれば、戸籍も消失する。
では、戸籍以外で、ファミリーヒストリーを調べる方法は?
仏壇がある家は、その中に「法名軸」がある。そこに、先祖の法名と亡くなった日が書かれている。ただし、生前の名前と亡くなった年齢はわからない。それを知るには「檀那寺(だんなでら)」に聞くしかない。
檀那寺とは、その家が帰依しているお寺さん。一方、帰依する側の家を檀家(だんか)という。檀那寺に、葬儀・法要をしてもらう代わりに、檀家はお布施を納める。つまり、檀那寺と檀家は相互扶助にあるわけだ。檀那寺には、檀家の台帳があり、法名、実名、亡くなった日と年齢が記録されている。ただし、記載ミスや記載漏れが少なくない。さらに寺が焼失すれば、檀家の記録も消失する。じつは、わが家の檀那寺も一度焼失している。
というわけで、ファミリーヒストリーには、先祖の書が最強だ。
けれど、先祖の書は「私文書」で、正史のようなお墨付きがないから信用できない?
逆ではないか。
たとえば、「壇ノ浦の戦い」と「承久の乱」は、みんな史実だと思いこんでいる。
何を今さら・・・なのだが、平家の一大叙事詩「平家物語」、鎌倉幕府の正史「吾妻鏡(あずまかがみ)」を信じればの話。
正史は当事者の思惑がからんでいるから、都合の悪いことは隠し、都合の良い話は盛る傾向がある。
たとえば、鎌倉幕府の正史「吾妻鏡(あずまかがみ)」には、頼朝が死んだ日の記述がない。
幕府の創設者なのに、なぜ?
人に言えない怪しげな状況で死んだのだろう。
さらに、吾妻鏡には、承久の乱の幕府軍の兵数は19万とある。
300年後の戦国時代、最大兵力を誇った織田軍でさえ10万なので、盛り過ぎ。幕府軍が進軍中に、各地の武士が馳せ参じ、雪だるま式に膨れ上がったことを考慮しても、せいぜい10万だろう。
一般論として、信憑性が高いとされる一次資料は、関係者が書いているので、そのぶんバイアスがかかる。味方なら称賛、敵ならディスる「圧」がかかるわけだ。さらに、歴史的事件なので、よりドラマティックに、エキサイティングに「圧」がかかる。
つまり、事実は二の次。
一方、先祖の書は、先祖の歴史を子孫に伝えるのが目的なので、盛る必要はない。とくに、わが家のように、御里が知れている場合、背伸びする必要がない。
というわけで、私的文書(先祖の書)が正史より信憑性がないとは言い切れない。
■二束三文の土地を相続ス
トートツな展開になったが、ことの発端は2021年10月にさかのぼる。
父が亡くなり、二束三文の土地を相続したのだ。
「二束三文」は謙遜ではない。
相続した不動産は、総面積が1万2000坪なのに、評価額は1450万円(しかも、10軒のボロ屋を含む)。今、住んでいる金沢の敷地80坪の住宅より安いではないか。
坪単価を計算してみよう。
1450万円÷1万2000坪=1208円/坪
1坪千円ですよ!
しかも、これは家屋を含む評価額。山林だけなら、1坪120円なり。1000坪で12万円、ほぼ無料です。
謙遜でないことは、わかっていただけたと思う。
ではなぜ、1坪120円なのか?
単純にして明快、県庁所在地の金沢から40km離れたド田舎の山林だから。
相続した不動産で、一番大きいのが「東山」だ(村の東側にあるので、勝手にそう呼んでいる)。東山には、昔、タケノコ採りに行ったものだが、今はムリ。東山は宝達山とつながっていて、そこからクマが来訪するのだ。それだけではない。最近はイノシシが、元気で走り回っているという。イノシシを野ブタと侮ってはいけない。まともに体当たりされると、命が危ない(死んだ人もいる)。さらに、東山の入口には、気味の悪い沼地があり、毒ヘビのマムシが生息している。生前、父がよく言っていたから、間違いない。
こんな山、どこのもの好きが買う?
誰も買わない。
ところが、そんな事情は一顧だにされず、固定資産税だけは取られる。
つまりこういうこと。
カネは1円も生まず、売れる見込みもなく、税金だけはとられる、しかも永遠に。早い話、相続した資産は、不動産というより、不良債権なのだ。
そこで、妹に半分相続してくれ、と言ったら
「そんなもん、いらん」
身もフタもない。それはそうだろう。父は現金・預金はほとんど遺さなかったから。それでも不安を覚えたのだろう。妹は、相続放棄のハンコを押した。早い話、負の遺産なのである。
気持ちのやり場がないので、本家に愚痴をこぼしに行った。
というのも、わが家は7代前に、本家から分家し、そのとき、今回相続した不動産を分与されたのだ。
本家の当主は快く迎えてくれた。不動産を相続したと聞いて、金沢から実家に移り住むと勘違いしたのだろう。本家にしてみれば、分家が近く住んでくれる方が、心強いのだ。
本家の当主に、相続した不動産を愚痴ったら、笑顔で聞いてくれた。そして、こんな話をしてくれたのである。
今は、田舎の土地は二束三文だが、昔はもの凄い価値があった。土地がないと作物が作れず、生きていけないから。昔は、コンビニもスーパーもないから、自給自足である。だから、貧しい農民は、猫の額のような狭い土地を一生懸命耕して、大事にしていた。だから、先祖を責めていけない、と。
一理ある。
そもそも、祖先あっての自分と家族だ。そんな祖先が良かれと思って、遺した不動産を、不良債権よばわりするとは、なんとバチ当たりな。だから、大きな声では言わず、ここでこっそりと書いている。
ところが、そのあと、当主は驚くべき話を切り出した。
冒頭の先祖の書である。
原本は本家にあるが、重要な書らしく、写本が10冊もあった。そこで、1冊を譲ってもらったのだが、そこには驚くべきことが書かれていた。
■壇ノ浦の戦いと祖先
本家の「先祖の書」の著者は、名を道法という。
書かれた時期は、江戸時代の安永九年(1780年)。内容は元暦2年(1185年)の壇ノ浦の戦いまでさかのぼる。
冒頭部分を原文と訳文で併記しよう。
【原文】祖先 ○○勝平 由来之写
【訳文】祖先の○○勝平に関する写本である。
【原文】往者祖先ノ者大和国志貴 ○○勝平ヲ号トス
【訳文】大和国志貴に、○○勝平という古い祖先がいた。
【原文】平家徒者 文治元年ノ頃 四國合戦ノ際 至討死
【訳文】平家の下級武士で、1185年の壇ノ浦の戦いで討死した。
※○○は祖先の苗字
さすがに、原文では読みづらいので、全文を訳文で紹介しよう。
「古い祖先に、大和国(現・奈良)に、○○勝平と名乗る者がいた。平家の下級武士で、文治元年(1185年)の壇ノ浦の戦いで、討ち死にした。そのさい、勝次という5歳の男子が一人残された。京都に移った後、九州に移り住み、元久二年(1205年)、25歳の時に北國の押水(現・宝達志水町)に移住した。子供が3人いて、兄は里之助、弟は太加次という。貞應元年(1222年)に新田を開拓し、家は繁盛した。次男の太加次は、嘉禄二年(1226年)に、奥能登の鳳至郡の粟蔵に移住する。里之助父子は敷浪という所に入り、麦生村に新田の開拓を始めた。文暦元年(1234年)には、86石の新田開発に成功した。そこで、麦生村の田地家屋を末子に譲り、勝次は嫡子の里之助をともなって、弘長三年(1263年)、敷浪村に引っ越し、居住した。勝次は老いたので、家督を里之助に相続し、名を勝平とあらためた。
勝平の代より、安永九年(1780年)まで519年続いている。
古き祖先の由来の書をここに書きおき、子孫に伝え置くものとする。
敷浪村 ○○道法 安永九 庚子歳(1780年)」
※○○は祖先の苗字
以上。
要約すると、わが大先祖は、1185年の壇ノ浦の戦いで討ち死にしたが、その息子が生き延びて、(実家のある)敷浪村を開村した。余談だが、「壇ノ浦の戦い」は江戸時代に「四國合戦」と呼ばれていたことがわかる。
さらに、文中に「次男の太加次は、嘉禄二年(1226年)に、奥能登の鳳至郡の粟蔵に移住する」とあるが、本家の伝承によると、このとき、平時忠の身の回りの世話をしたという。
正史によれば、平時忠は、平清盛の義弟で、壇ノ浦の戦いで、命令にそむいて、三種の神器・八咫鏡(やたのかがみ)を捨てなかった。それで、源氏の歓心を買い、打首はまぬがれたのである。その後、能登に配置換えになったとあるので、先祖の太加次が、能登で平時忠に仕えたのはその頃だろう。
というわけで、正史と私史を読み合わせれば、壇ノ浦の戦い、平時忠の能登への配置換えは、史実である可能性が高い。
■新田義貞の最期の謎
この「先祖の書」の最後に、初代勝平の100年後のことが書かれている。
その内容は史実を覆すものだ。原文と訳文を併記しよう。
【原文】源義貞 相州之乱ノ折 北國ヘ流下リ此所ニ居住ス
【訳文】源義貞が相州之の乱のとき、北國に移住した。
【原文】建武元年(1334年)甲代様生上旬 ○○勝平
【訳文】1334年、勝平(「甲代様生上旬」は意味不明)
この「勝平」は初代勝平ではない。もしそうなら、150歳を超えるから。旧家では、代々の当主が同じ名前を名乗ることは珍しくない。
では、この二文のどこが史実を覆すのか?
「源義貞」とは、北条得宗家を滅ぼした新田義貞である。新田義貞は、鎌倉幕府を倒した功労者だが、もう一人の功労者、足利尊氏と対立した。正史「太平記」によれば、その後、越前国(現・福井)に拠点を移し、1338年7月、藤島の戦いで戦死したことになっている。
ところが、先祖の書には「源義貞は北國に移住した。建武元年(1334年)」とある。
これが本当なら、新田義貞は1334年以前に、北國に移住していたことになる。
これは正史と矛盾する。
まず、「北國」は北陸地方をさすが、この時代、勝平にとっての「北國」は、自分が居住する近辺だろう。なぜなら、平家の下級武士の子孫が、遠く離れた土地のことなど知るはずがないから。つまり、新田義貞は、1334年以前に敷浪村近辺に移住していたことになる。
ところが、「太平記」によれば、新田義貞は1334年時点で、足利との戦いの真っ最中で、その後、1338年に越前で戦死しているのだ。
さて、どちらが真実か?
本家の当主いわく、当時、写真がないから、新田義貞の顔を知っているのは、近親者か重臣しかない。だから、藤島の戦いで死んだのは影武者ではないか。ホンモノの新田義貞は、その4年前に、敷浪村に逃げのびて、平和に暮らしましたとさ。
もちろん、すべて仮説である。
根拠があるから、妄想とまでは言わないが。
とはいえ、正史と私史を読み合わせると、いろいろ面白いことが見えてくる。これもファミリーヒストリーの醍醐味だろう。
by R.B