BeneDict 地球歴史館

BeneDict 地球歴史館
menu

週刊スモールトーク (第519話) 毛沢東の革命(2)~大躍進の光と影~

カテゴリ : 人物思想歴史

2022.12.10

毛沢東の革命(2)~大躍進の光と影~

■大躍進政策

1958年5月、毛沢東は「大躍進」を発動した。

正式名称は「大躍進政策」で、「大躍進運動」ともいう。「運動」がつくのは、人民が自主的に頑張ったから。

大躍進は、中国を重工業化する壮大な国家プロジェクトだった。ただし、資本主義ではなく社会主義で。その手本となったのが、ソ連の五カ年計画である。

ソ連の五カ年計画は、世界大恐慌の1年前、1928年に始動した。その後、3次の計画をへて(3次×5年=15年)、農業国から工業国への転換に成功する。もし、これが失敗していたら、ソ連は機械化が遅れ、第二次世界大戦でドイツに完敗していただろう。

もっとも、ソ連が勝利した一番の原因は、米国の武器援助のおかげ。ソ連が米国から受領したのは、機関車2000両、航空機2万機。太平洋戦争中、日本のゼロ戦の総生産量は1万機だったから、その規模の大きさがわかる。

このおびただしい武器援助は、ウクライナ戦争の写し絵だ。もっとも、ウクライナ戦争で、米国が援助した相手は、ソ連ではなくウクライナだったが。つまり、第二次世界大戦とは、敵味方が逆。今日の味方は明日の敵というわけ。

大躍進の目標は、「農業国から工業国への大転換」で、ソ連の五カ年計画と同じ。ところが、手法は真逆だった。

ソ連の五カ年計画は、農業と工業は完全分業で、農業は農村で農民が、工業は都市で都市労働者が従事する。

とはいえ、ソ連は工作機械などハイテク生産設備は作れない。そこで、農民から、穀物を安く買い上げ、それを輸出して外貨を稼ぐ。それを元手に機械類を輸入したのである。工場は都市周辺に建設された。そこに、生産設備を搬入し、労働者を雇い、工業製品を生産する。

ところが、ソ連の重工業化は、農民の犠牲の上に成り立っていた。というのも、農民が生産した穀物は、第一に外貨を稼ぐために輸出、第二に工場で働く都市労働者に、残りが農民に回されたから。食料難になれば、真っ先に飢えるのは農民だ。

一方、中国の大躍進は、農業と工業が一体化していた。農業も工業も、農村の農民が兼任する。そのキモとなるが「人民公社」だった。

人民公社は、地域の農業・工業・文化・教育・民兵・行政を一体化した組織で、国の基本単位である。これをベースに集団生産と集団生活を行う。いわば、ボトムアップの地方分散型の自給自足社会だ。集団生活が前提となるから、社会主義というより共産主義に近い。

一方、ソ連の社会主義は、トップダウンの中央集権型だった。

ソ連も中国も、同じマルクス主義なのに、なぜ違うのか?

ソ連の社会主義革命は、都市労働者が中心になって実現した。そのため、都市中心の中央集権なのである。

一方、中国の共産主義革命は、農民が中心になって実現した。そのため、農村中心の地方分散なのである。

中国の人民公社の建設は、1958年中頃から始まった。年末には、2万6578社が建設され、中国全土の99%を網羅した。あとは、人民公社をフル稼働すれば、農業も工業も大躍進・・・のはずだった。

ところが、1959年4月、毛沢東は国家主席を退く。さらに、1960年には大躍進が中止された。

一体、何が起こったのか?

大躍進は失敗したのである、数千万人の餓死者をだして。

大躍進は愚策だったのか?

ノー。

少なくとも、基本方針は間違っていなかった。

■大躍進が失敗した理由

地域の社会活動を「人民公社」に一元化し、集団生産と集団生活を行うのは効率が良く、共産主義の理念にもかなう。さらに、地方分散型の自給自足なので、災害などのリスクにも強い。何かあっても、国全体がダメージを受けないからだ。しかも、人民主導の地方分権なので、領主が支配する封建主義とは一線を画す。理想的な地方分権社会と言っていいだろう。

では、なぜ失敗したのか?

原因は2つある。

第一に、急ぎすぎたこと。

わずか7ヶ月で、中国全土の99%の地域で、人民公社を建設・・・なんか怪しい。じつは、これにはカラクリがあった。

中国には、農作物を生産する「合作社」という組織があった。人民公社は、これをベースに建設されたのである。大躍進は、毛沢東の肝入りだったから、みんな必死で頑張った。そのため、ヒト・モノ・制度が整わないまま進み、看板は「人民公社」だが、実体は「合作社」が多かった。

そもそも、農業の実績しかない組織に、工業・文化・教育・民兵・行政まで負わせるのはムリ。しかも、たった1年で。結果、いろいろ手が回らなくなり、食料生産が滞り、食料不足に陥ったのである。

さらに、食料生産を犠牲にしてまで、頑張った鉄鋼生産も失敗した。

サイエンスを無視した「人海戦術」に頼ったからだ。

この時代、先進国では、鉄鋼は金属精錬専用の転炉で生産された。ところが、大躍進で使われた転炉は、粘土で手造りした「土法高炉」。不純物が多く、強度に欠け、使い物にならなかった。さらに、石炭、労働者などの貴重なリソースを、鉄鋼生産に振り向けたので、軽工業が回らなくなった。結果、生活必需品が不足し、生活に窮する事態に。弱り目に祟り目である。

大躍進が失敗した第二の原因は、災害が重なったこと。

1959年から1961年、中国で干ばつと水害が発生した。食料生産が滞るなか、天災が重なったので、たまらない。結果、大飢饉が発生し、数千万人が餓死したのである。

というわけで、大躍進の歴史的評価は低い。

だが、もし、大躍進が成功していたら、ソ連、北朝鮮、キューバとは違う究極の共産主義国家が誕生していた可能性が高い。人民の人民による人民のための国家。人民主導で集団生産と集団生活を行う共産主義社会。整然として、秩序が保たれた、格差のない世界だ。

そんなユートピアに憧れ、戦後、多くの大学生が社会主義・共産主義に心酔した。それが昂じて、大学紛争に発展し、大学システムが根本から崩壊してしまう。その象徴が、1969年の「東大入試の中止」だろう。

紛争が下火になった1970年代後半に、大学に入学した。毎日のように、学生のデモ隊と機動隊が衝突する。授業は潰され、試験もできず、全員留年のウワサまで出る始末。そこで、大学に行かず、毎日麻雀して自堕落な生活をしていると、不吉なウワサを耳にした。授業が始まったというのだ。慌てて大学に行ったら、本当だった。すんでのところで、自分だけ留年するところだった。シャレになりません!

その後、社会が豊かになると、大学紛争は自然消滅した。それはそうだろう。モノやサービスがあふれ、楽しいことが一杯あるのに、小難しいイデオロギーのために、角棒を振り回す物好きはいない。

それは中国も同じ。

毛沢東が死んだあと、中国は、共産主義から資本主義に「調整」されていく。結果、個人の自由と権利が容認され、西欧式の享楽主義にドップリ。これでは、ストイックな毛沢東式共産主義には戻れない。

ところがである。

現在の国家主席・習近平は「第二の大躍進」を目指している。資本主義から共産主義への「調整」が始まったのである。

まず、香港の民主化運動が武力弾圧された。さらに、中国本土でも、強欲なビジネスや、チャラいエンターテインメントや、教育の商業化が規制されている。中国資本主義の権化、アリババのジャック・マーが失脚したのは、その象徴だろう。さらに、「共同富裕」が掲げられ、資本主義から社会主義に回帰しようとしている。

これに対し、識者はこんなコメントを発している。

資本主義にドップリ浸かった中国の若者は、抵抗するだろう。自由と権利が制限される社会には耐えられないから。香港で起こった事実(民主化デモ)をみれば明らかだ、と。

だが、香港で起こったもう一つの事実を忘れている。若者は抵抗したが、結局、武力弾圧されたではないか。

つまりこういうこと。

「第二の大躍進」を成功させるためには、独裁しかない。そして、それは有効である。だから、2022年、習近平は慣例をやぶって3期目に突入したのである。さらに、抵抗勢力の共青団を、中央政治局員(トップ24人)から一掃した。ここまでやるのは、習近平の「望み」が明確だからだ。

というわけで、習近平のやることなすことは、すべて整合性がある。良し悪しはさておき。

■毛沢東の失脚

大躍進に話をもどそう。

この大プロジェクトの失敗は、建国の父・毛沢東にもおよんだ。

1959年4月、毛沢東は国家主席(国政トップ)を退いたのである。後を継いだのは劉少奇だ。ところが、毛沢東は、中央委員会主席(共産党トップ)と中央軍事委員会主席(人民解放軍のトップ)は手放さなかった。党内序列も、毛沢東が1位で、劉少奇が2位。この中途半端な権限委譲が、後に中国を大混乱におとしいれるのである。

1959年7月、共産党の首脳会議「廬山会議」で、国防部長の彭徳懐(ほうとくかい)が、毛沢東を批判した。彭徳懐は、毛沢東の腹心で、古くからの同志で、友でもあった。信頼していた部下から批判された毛沢東は激怒、彭徳懐を解任する。代わりに、国防部長に抜擢されたのが林彪(りんぴょう)だ。ところが、林彪は、12年後、怪しげな状況で命を落とす。それが今も謎が多い「林彪事件」である。

劉少奇は、彭徳懐の解任には同意したが、毛沢東を全面的に支持したわけではない。劉少奇が故郷を視察したときのことだ。村落のあまりの疲弊ぶりに、衝撃を受けた。原因は大躍進にあることは明らかだった。劉少奇は「大躍進の中止」を決意する。

1960年、党中央は、大躍進の中止を承認した。その後、国家主席の劉少奇は、官僚トップの鄧小平(とうしょうへい)と、大躍進による大混乱を収束させようとする。

基本方針は2つあった。

第一に、重工業化より人民を食べさせること。具体的には、重工業(鉄鋼)より、生活に直結する農業と軽工業を優先する。

第二に、共産主義経済から資本主義経済に転換すること。具体的には、農民の生産意欲を高めるために、農民の家内副業を認め、生産物を自由市場で販売することも認めた。

1962年1月、中央拡大工作会議が開催され、大躍進の総括が行われた。

国家主席・劉少奇は、正式に党中央の政策と指導が間違っていたことを認めた。周恩来や鄧小平の幹部もそれを認め、毛沢東も責任は最高指導者である自分にあると認めた。これが、毛沢東の最初で最後の自己批判である。

劉少奇と鄧小平の政策は「調整政策」とよばれた。

一言でいうと、共産主義から資本主義へ調整すること。ところが、毛沢東はこれが気に入らなかった。「調整がすぎて、右翼的になっている。このままでは、すべてが崩壊する」と批判した。すると、劉少奇は「飢えた人間同士が食らい合っているんですよ(食人)」と反論した。

こうして、毛沢東と劉少奇の溝は深まっていく。

■毛沢東の陰謀

毛沢東と劉少奇の対立の根っこは「共産主義 Vs. 資本主義」にある。

しかも、共産主義と資本主義は、真逆のイデオロギーで、落とし所がない。

まず、共産主義は、私有財産を認めない。生産と消費は、計画的に決定され、トップダウンで実行される。そのため「計画経済」とも言われる。

一方、資本主義は、私有財産を認め、生産と消費は市場原理に任せる。たとえば、消費の多いものほど、たくさん生産され、価格は商品の供給と需要で決まる。「供給>需要」なら価格は下がり、その逆なら価格は上がる。このやりくりは、市場の自由な取引によって自動的に行われる。これが「神の見えざる手」だ。

劉少奇の「調整(資本主義化)」は徹底していた。生産者に土地の所有権、家畜と農具の所有権を与え、私有財産を認めたのである。これは共産主義ではなく、明確に資本主義である。さらに「人民公社」を廃止し、活動単位を元の農家に戻した。

これが功を奏し、中国経済は回復に向かう。

だが、毛沢東は面白くなかった。毛沢東が信奉する共産主義が否定され、毛沢東の肝入りの人民公社まで廃止されたのだ。

劉少奇の「調整」は、毛沢東には「修正主義」にみえただろう。

「修正主義」は、社会主義・共産主義では「完全悪」で「蔑称」である。バイブルの「マルクス主義」の根本を修正しようというのだから。キリスト教の神父が「おっと、聖書のココおかしいぞ。書き換えよう」と言うようなもの。この罰当たりが!ですまないだろう。

こうして、「毛沢東の共産主義 Vs. 劉少奇の資本主義」の対立が明らかになっていく。

毛沢東は国家主席を退いても、党内部に信奉者が多かった。建国の父だから当然だろう。彭徳懐に代わって国防部長になった林彪も「毛主席はすべて正しい。大躍進が失敗したのは、毛主席の指示どおりにしなかったからだ」とヨイショしたものだ。

この状況では、毛沢東が自信をもつのはあたりまえ。そこで、毛沢東は復権をもくろむ。劉少奇と鄧小平を失脚させ、全権を握る最高権力者に復帰しようというのだ。

こうして、「文化大革命(文革)」が始まった。

それが、40万人の命を奪うとは、誰も想像しなかっただろう。

《つづく》

by R.B

関連情報