鎌倉殿の13人(1)~呪われた源頼朝一族~
■呪われた鎌倉殿
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が終演した。
ハイライトは承久の乱だが、かなりあっさりめ。それはそうだろう。結果は衆知だし、派手にやっても、お金がかかるだけ。
では、このドラマが一番訴えたいのは?
源頼朝一族にかけられた呪い。
骨肉の争いで、わずか27年でお家断絶なのだから、ハッキリ言って、呪われています。
プロットで確認しよう。
源頼朝は、弟の源義経を利用して、平家を滅ぼした。その後、用ずみとなった義経を弑逆、1192年、鎌倉幕府を打ち立てた。ところが、源頼朝は51歳の若さで死ぬ。鎌倉幕府の正史「吾妻鏡(あずまかがみ)」には、頼朝が死んだ日(1199年2月9日)の記述がないから、人に言えない状況で死んだのだろう。
頼朝の跡を継いだのが、2代目の頼家だ。源頼朝の嫡男で、文句なしの後継者だったが、22歳で謀殺される。つづく3代目の実朝(源頼朝の次男)は27歳で暗殺された。下手人は2代目頼家の子、公暁(くぎょう)というから、叔父殺し。血みどろの骨肉の争いだ。
一方、北条義時が公暁をそそのかしたという説もある。この暗殺で、源頼朝の直系がたえて、北条の執権政治が確立されるから、辻つまは合う。とはいえ、誰がそそのかしたにせよ、破滅覚悟で天下の将軍に手をかけるのだから、強い殺意があったことは間違いない。というわけで、実朝暗殺の犯人は公暁と言っていいだろう。
こうして、源頼朝の直系は27年で断絶した。
ではなぜ、これほど短命だったのか?
無念の死をとげた源義経の怨念、理不尽に殺された一族や御家人の呪い?
ノー、明快かつ具体的な原因がある。
北条氏の「覇道」だ。
鎌倉幕府の支配体制は二重構造だった。トップは「鎌倉殿」で、それを補佐するのが「執権」。鎌倉殿は源頼朝の直系、執権は北条氏が独占した。ところが、北条氏はそれで満足しない。鎌倉殿を操り、鎌倉幕府を実効支配しようとしたのである。
側近中の側近が敵なら「獅子身中の虫」、短命であたりまえ。
「獅子身中の虫」とは、獅子の身体の中に住む虫が、獅子の身体を食い破ること。真の敵は、外ではなく内にいるという格言だ。
鎌倉幕府なら、獅子は源頼朝一族で、虫は北条氏だろう。
北条氏は、源頼朝の妻・北条政子の実家で、源氏と血縁関係がない。このように、天下人の妻や母の一族を外戚(がいせき)という。その外戚が、実権を握るのが「外戚政治」だ。
頑張って天下人になったのに、嫁の実家に乗っ取られるのは割に合わないが、外戚政治は意外に多いのである。
有名どころでは、中国の漢王朝。
■外戚政治
紀元前202年、劉邦(りゅうほう)は、漢王朝を打ち立てた。
ところが、その後の展開は、鎌倉幕府と同じ、外戚が王朝を乗っ取ったのである。その顛末は、鎌倉幕府よりスリリングだ。
劉邦は、正室の呂后と、側室の戚夫人がいた。呂后は器量はイマイチで性悪。一方、戚夫人は美人で性格は温厚。劉邦がどちらを愛したかは言うまでもない。遠征に同伴するのは、いつも戚夫人だったのである。
さらに、呂后が生んだ嫡子の劉盈(りゅうえい)は、性質も身体もひ弱。一方、戚夫人が生んだ庶子の劉如意(りゅうにょい)は、劉邦に似て、聡明で活発だった。劉邦がどちらを可愛がったかは言うまでもない。
このままでは、戚夫人の子・劉如意が、呂后の子・劉盈をさしおいて、2代目になるかもしれに。呂后は追い詰められたが、どうにもならない。劉邦のお気に入りは戚夫人なのだ。
そんな背水の陣の呂后に、逆転のチャンスが訪れる。
紀元前195年、高祖・劉邦が死んだのである。後を継いだのは、呂后の子・劉盈。漢王朝2代目恵帝と即位した。劉邦は、散々迷ったが、家臣の意見に従い、庶子より嫡子を選んだのである。
これで呂后は安堵した?
とんでもない。
まず、呂后は、戚夫人の庶子・劉如意を毒殺した。さらに、戚夫人の両手両足を切断して、目をくり抜き、なぶりものにした。
だが、呂后の敵はまだいる。
諸侯として地方に派遣された劉邦の庶子たちだ。呂后は全員を排除(暗殺)した。
これに衝撃をうけたのが恵帝である。恵帝は、心の優しい人物で、実母の残虐行為に耐えられなかったのだ。恵帝は、政務を顧みなくなり、酒色に溺れ、早逝した。
それでも、呂后はめげない。
恵帝には、正室の張皇后との間に子がなかった。そこで、呂后は、恵帝が女官に産ませた庶子を張皇后の子として、即位させた。それが少帝である。さらに、呂后は事実を隠蔽するため、女官を殺害した。
非道にみえるが、すべて漢王室のため。重臣たちは、そう割り切って、呂后のご機嫌取りに励んだ。呂后の一族を出世させたのである。こうして、外戚政治は加速し、呂后の権勢は比類なきものになった。
ところが、ある日、重臣たちを震撼させる事件がおきる。
成長した少帝が、生母が殺されたことを知り、呂后を恨むようになったのである。そこで呂后は、少帝を重病と称して廃位させ、謀殺した。先手必勝、相手が孫だろうが、関係ない。あげく、どこの馬の骨ともわからない者を後少帝として即位させたのである。
これに重臣たちは震え上がった。それはそうだろう。
孫を平気で殺すのだから、家臣のクビなど大根のようなもの。いつ切り落とされても不思議はない。
家臣たちはやる気をなくし、政務を放棄した。そこで、呂后は自分の一族を登用する。信用できるのは自分の一族だけ。
紀元前180年8月、呂后は外戚政治をかため、万全を期して死ぬ。だが、すべて徒労に終わった。
重臣たちが、クーデターをおこしたのである。
中心人物は、劉邦恩顧の重臣、陳平と周勃である。二人は、諸侯の生き残りと連携して、後少帝を廃位させ、呂一族を皆殺しにした。その後、文帝が立ち、漢王朝は安定する。
漢王朝の呂氏、鎌倉幕府の北条氏・・・外戚政治恐るべし?
さにあらず。
国の安定と外戚政治は関係ない。事実、北条執権政治は、二度の元寇を防衛し、100年続いたのだから。
ちなみに、元寇はモンゴル侵攻といわれるが、完全に間違っている。
この時代、モンゴル帝国は、ジョチ・ウルス、チャガタイ・ウルス、フレグ・ウルス、大元ウルスからなる連合国家だった。この中で、日本に侵攻したのは大元ウルス(中国・元朝)のみ。しかも、元朝の人口の大半は漢族がしめるから、侵攻したのは中国である。さらに、この侵略には朝鮮の高麗王朝も加担した。
つまりこういうこと。
元寇は、モンゴルではなく、中国・朝鮮連合軍の日本侵攻なのである。
■中国三大悪女
呂后は中国歴史上「中国三大悪女」と言われるが、本当だろうか?
たしかに、呂后は側室の戚夫人に酷い仕打ちをしたが、それには理由がある。戚夫人は我が子の劉如意を帝にしようと画策したのだ。高祖・劉邦をそそのかし、呂后の子・劉盈を引きずり降ろそうとした。
呂后が、劉邦の庶子を皆殺しにしたのも理由がある。彼らは劉邦の血統なので、帝位を狙う資格がある。もし、諸侯が連携して謀反をおこせば、国は大混乱に陥る。見方を変えれば、呂后は災いの元を摘み取った?
でも、人の道に反するのでは?
その冷酷さ非情さが、国を救ったこともある。韓信の謀反を未然に防いだのだ。
劉邦が天下人になれたのは、名将、韓信(かんしん)のおかげ。もし、韓信がいなければ、最終決戦「垓下の戦い」で、項羽に負けていただろう。さらに、有名な「背水の陣」も、韓信が語源だ。韓信は、それほどの名将なのである。
その韓信と劉邦にまつわる面白いエピソードがある。
あるとき、韓信は謀反の疑いをかけられ、劉邦に捕縛された。そのとき、劉邦は韓信に「将の器」を問う。
劉邦:「余は、どれくらいの兵を指揮できるか」
韓信:「せいぜい十万です」
劉邦:「ではお前は」
韓信:「多ければ多いほど良いでしょう」
すると、劉邦は笑って、
「では、どうしてお前は余に捕まったのだ」
韓信は答える。
「陛下は兵を統(す)べるのではなく、将を統べる将なのです。これは天から授かったもので、人の力ではありません」
韓信はすべてお見通しだったのである。
紀元前196年、その韓信が謀反をくわだてた。
陳豨(ちんき)が謀反をおこすと、劉邦は鎮圧のために出陣した。そのスキを狙って、韓信がクーデターを画策したのである。それを、未然に防いだのが呂后だった。持ち前の疑り深さと鋭敏さで、クーデターを事前に察知。家臣と謀って、韓信をとらえ、一族もろとも処刑したのである。
つまりこういうこと。
冷酷さと非情さは、人生においては両刃の剣である。
■鎌倉殿の13人
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、名作入りを果たした。
視聴率が高く、評判も上々なので、その資格はあるだろう。
とはいえ、主題は血みどろの権力闘争なのに、なぜ受け入れられたのか?
風通しが良くて、何となく明るいから。脚本家の三谷幸喜の十八番だ。
そもそも、凄惨な殺し合いを、正攻法で、週一で見せつけられたら、見る気がしなくなる。くわえて、夕飯時なので飯がまずくなる。
あと、タイトル「鎌倉殿の13人」が面白い。
主人公は、源頼朝でも源義経でもなく、北条得宗家の祖「北条義時」。誰も知らない地味な人物なので、「北条義時の生涯」ではちょっと。「鎌倉殿の13人」しかないだろう。「13人の鎌倉殿」も悪くないが、文字の座りが悪いから却下。
ストーリーは、オーソドックスに源平合戦から始まる。
第56代清和天皇の皇子を祖とするのが、清和源氏だ。源頼朝はその嫡流なので、源氏の棟梁といっていい。
1160年、平治の乱で、源氏は平家に敗れ、源頼朝は伊豆に流された。平家がそれで満足していたら、平家物語は別のストーリーになっていただろう。
では、現実の平家は?
専横を極めた。平清盛の義弟の平時忠に至っては「平家にあらずば人にあらず」言い放つ始末。
これに激怒したのが、後白河天皇の第三皇子以仁王(もちひとおう)だ。全国の源氏に対し、平家追討の令旨(りょうじ)を発したのである。
この頃、源頼朝は成長し、源氏の棟梁と目されていた。頼朝は旗揚げし、源氏が付き従い、平家を滅ぼしたのである。
源氏の勝因は3つある。
第一に、平家の支配地は、京都を中心とする西国に限られていた。東国は源氏が強く、平家の力はおよばなかった。
第二に、武士は、損得勘定で動く。この頃、「平家にあらずば人にあらず」だったから、源氏の領土は激減し、日の当たる場所にいられなかった。一方、源頼朝は源氏の棟梁なので、源氏の領土を増やしてくれるだろう。だから、平家追討の令旨に乗ったのである。
朝廷の令旨も大きかった?
それはそうだが、絶対的条件ではない。朝廷の命令でも、自分の得にならないなら、武士は従わない。その証拠が「鎌倉殿13人」の承久の乱だ。
このとき、後鳥羽上皇は、北条義時討伐の令旨を発したが、東国の武士は従わなかった。北条義時についたのである。北条氏は、関東の坂東武者の守護者だから当然だ。つまり、武士は自分の領土を安堵してくれるなら、親分は誰でもいいのである。
第三に、源義経が戦上手だったこと。じつは、これにはカラクリがある。義経は、この時代、唯一無二のリアリスト(現実主義者)で、プラグマティスト(実用主義者)だった。早い話、戦さの慣例やマナーはどうでもいい、勝てばOK。事実、船の漕ぎ手を射るのは、恥ずべき行為なのに、義経はそれを命じた。とはいえ、それがなかったら、源氏は壇ノ浦の戦いで負けていただろう。海戦なら、源氏より平家に分があるし、壇ノ浦、つまり、瀬戸内海は平家の支配地だったから。
ところが、平家が滅んでも、源氏の政権は安定しなかった。源頼朝の直系は3代で断絶したのである。その後、北条氏が実権を握るが、北条義時と後鳥羽上皇が対立し、武家と朝廷の最終決戦に突入した。日本が安定するのはまだ先の話である。
by R.B