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週刊スモールトーク (第511話) 恩知らずの我が祖国よ(2)~スキピオ降臨~

カテゴリ : 人物戦争歴史

2022.10.15

恩知らずの我が祖国よ(2)~スキピオ降臨~

■スキピオ降臨

ローマの絶体絶命を救ったのは、スキピオ・アフリカヌスである。

紀元前218年の第二次ポエニ戦争で、ローマはカルタゴに3連敗。つづくカンナエの戦いも惨敗で、全兵力の90%を失った。ほぼ全滅である。

この惨憺たる敗北の原因は、カルタゴ軍の司令官ハンニバルにあった。古代世界でアレクサンドロス大王と並べ称せられる名将で、用兵は神がかり的。

さては、鬼神か軍神か?

そこで、ローマ人は忘れかけていた信仰心を思い出した。神にすがり、人身御供を捧げたのである。これが、記録に残るローマ最後の人身御供というから、よほど切羽詰まっていたのだろう。まさに、溺れる者はワラをもつかむ。

祈りが通じたのか、人身御供の御利益か、知るよしもないが、神はローマに救いの手をさしのべた。救国の英雄スキピオが降臨したのである。

スキピオは早熟だった。栴檀は双葉より芳し(せんだんは、ふたばより、かんばし)・・・栴檀は芽が出たばかりでも良い香りがするように、大成する人物は幼いときから優れているというたとえである。

スキピオは、幼少の頃から、利発で敬虔な少年だった。神殿に足繁く通い、神のお告げを得たという。歴史に名を残す人物によくあるパターンだ。自分の運命を知っているから、どんな災厄が続こうがへこまない。何の迷いもなく、目的に向かって邁進できるわけだ。

では、スキピオは成長して、一撃で宿敵ハンニバルを倒した?

そうではない。

慌てず焦らず、小さな成功を積み上げていったのである。最初の公職を得てから、ハンニバルに決戦を挑み勝利するまで、10年もかかっている。まさに、ローマは1日にしてならず。

徳川家康もこう戒めている。

人の一生は重荷を背負うて、遠き道を行くが如し、いそぐべからず。

急ぐとロクなことがないということ。歴史上の二賢人が戒めているので間違いないだろう(たぶん)。

スキピオの生き方は、われわれ凡夫にも参考になるかもしれない。事前予測を怠らず、原因と結果をきちんと考え、人生を組み立てる。そうすれば、成功する確率は飛躍的に高まるだろう。

■ファニキア人

スキピオが歴史の檜舞台に立ったのは、第二次ポエニ戦争である。ローマとカルタゴが戦った「ポエニ戦争」の第二回戦にあたる。

第一次ポエニ戦争は、シチリア島を巡るローカルな戦争で、ローマが僅差で勝利した。

第二次ポエニ戦争は、カルタゴとローマの総力戦で、主役の名をとって「ハンニバル戦争」ともよばれる。

第三次ポエニ戦争は、カルタゴの包囲殲滅戦で、この戦いでカルタゴは地上から完全に消滅した。

カルタゴを建国したのは、セム系のフェニキア人である。セム系とは、古代メソポタミアのアッカド人、アッシリア人、バビロニア人、さらに、ヘブライ人(ユダヤ人)、アラブ人をさす。旧約聖書に登場するノアの長子セムの末裔だ。

フェニキア人は、紀元前15世紀頃から、地中海東岸のレバノンから北アフリカ沿岸沿いに植民都市を築いた。航海術に長け、レバノン杉を使った堅牢な船で、地中海交易を支配した。

フェニキア人の商売は多岐にわたる。

まずは、特産品の生産と販売。

ピカイチは「紫染料」だ。希少なアッキガイ科の巻貝の分泌液からとれる染料で、地中海世界では最高級品。東ローマ帝国では「皇帝の色」とされた。1枚の布地をつくるのに、数万個の巻貝を潰すのだから、当然だろう。さらに、ガラス製品、彫刻を施した青銅器、象牙板をはめ込んだ木製家具も人気があった。

つぎに、他国の特産品の販売。

ヒスパニア(スペイン)のスズと銀、キプロス島の銅、アラビアの香料、アフリカの象牙、エジプトのパピルス、インドの香辛料、ペルシャの絹を扱った。

さらに、地中海世界にオリーブ栽培を普及させたのも、フェニキア人である。もっとも、オリーブ栽培で一番成功したのはクレタ島のミノス文明なのだが。そのミノス文明(ミノア文明)も、紀元前1400頃、突然滅ぶ。同じ時期、サントリーニ島が噴火しているから、その地震と津波で破壊されたのだろう。

というわけで、フェニキアは、地中海の総合商社だった。

フェニキア人は商売には長けていたが、ローマのような強力な統一国家は築けなかった。独立した植民都市が、緩やかに連携する連合国家で、古代ギリシャ文明に似ている。

当初、フェニキアで最も有力だったのはレバノンのティルスである。その後、紀元前9世紀、ティルスを出奔した一派がカルタゴを築く。ところが、 紀元前332年、ティルスはアレクサンドロス大王に征服されてしまう。そこで、ティルスに代わって、カルタゴがフェニキアの最有力都市にのしあがったのである。以後、カルタゴは、地中海交易で大いに栄え、「地中海の女王」とよばれた。

ところが、カルタゴの栄華は長く続かなかった。

イタリア半島で、カルタゴのライバルが出現したのである。のちのローマ帝国である。先行文明のエトルリアを駆逐し、イタリア半島を統一した後、地中海に目を向ける。海の王者カルタゴと、陸の王者ローマが衝突するのは時間の問題だったのである。

■ポエニ戦争

ここで、ポエニ戦争をマップで確認しよう。

第一次ポエニ戦争で、カルタゴは敗北したが、完敗したわけではない。海戦では負けたが、シチリアの陸上戦では勝利していた。その陸上戦を指揮したのがハンニバルの父、ハミルカル・バルカだったのである。カルタゴは負けたかもしれんが、俺が負けたわけじゃない。そう考えたハミルカル・バルカは、ヒスパニアに拠点を移し、捲土重来を期す。その本拠地となったのがカルタゴ・ノウァである。

第二次ポエニ戦争の主役はハンニバルだろう。アルプスを越えて、北イタリアに侵攻し、ローマに連戦連勝、王手をかけたのだから。

もし、ハンニバルがローマを滅ぼしていたら、歴史は一変していただろう。カエサルのガリア戦争も、カエサルの暗殺も、アウグストゥスのローマ帝政(ローマ帝国)も、パクス・ロマーナ(ローマによる平和)も、きらびやかな東ローマ帝国も、歴史から消える。地中海は異形の世界になっていただろう。

カルタゴ領の東端の「カルタゴ」は、カルタゴ本国である。ヒスパニアのカルタゴ・ノウァとならぶカルタゴの中心地だった。

その南方のヌミディア領は、最強の騎兵、ヌミディア騎兵の本拠地である。ヌミディア騎兵は、第二次ポエニ戦争の緒戦で、ハンニバルの同盟者だった。緒戦で、カルタゴがローマに連戦連勝できたのは、ヌミディア騎兵の活躍が大きい。

ローマ領の首都は、言わずと知れたローマ。その東南のリテルヌムは、スキピオが晩年過ごした町である。そこで、スキピオは「恩知らずなわが祖国よ」とローマを呪いながら死んでいったのである。

このマップを参照しながら、第二次ポエニ戦争をみていこう。

ポエニ戦争
【ポエニ戦争】
■スキピオの戦い

スキピオは「栴檀は双葉より芳し」だが、成人後の出世も異例の中の異例、特例につぐ特例だった。

最初に得た公職は「按察官(アエディリス)」で、公共建築物と祭儀を管理する役職だ。高位とはいえないが、スキピオはまだ24歳。法定年齢の30歳にも達していないと、ケチがついた。ところが、市民の熱烈な支持で認められたのである。

その後も特例が続く。

紀元前210年、スキピオは25歳の若さで「前執政官(プロコンスル)」に任命される。前執政官は、最高位の執政官(コンスル)に準ずる役職で、ローマ軍を指揮する権限をもつ。按察官からいきなり前執政官はありえない。

ではなぜ、スキピオはこんな飛び級ができたのか?

ローマは、ハンニバルに負け続けて、滅亡寸前だったから。話を面白くしようと、盛っているわけではない。一時、イタリアの半分がハンニバルに占領されたのだ。しかも、首都ローマに危険がおよぶ始末。まさに、国家存亡の危機だ。こんな状況では、年齢や実績やルールにかまっている余裕はない。潜在能力、つまり可能性に賭けるしかなかったのである。若者が主導した日本の明治維新と同じだ。

第二次ポエニ戦争には、大きく2つの戦場があった。イタリア本土とヒスパニアである。

まずは、イタリア本土。ハンニバル率いるカルタゴ軍と、ローマ軍は膠着状態だった。ただし、緊迫感はない。ローマ軍は持久戦に徹し、戦争を仕掛けないから。

つぎに、ヒスパニア。この地は、ハンニバルの本拠地だが、ハンニバルはイタリア本土を転戦しており、不在だった。そこで、ヒスパニアは、ハンニバルの2人の弟に託された。紀元前211年、ヒスパニアのバエティス川の戦いで、ローマ軍とカルタゴ軍が激突する。ローマ軍は惨敗し、指揮官二人が枕を並べて討ち死にする始末。じつは、その指揮官二人というのが、スキピオの父と伯父だったのである。

そこで、元老院はスキピオをヒスパニアを派遣する。前執政官スキピオの初仕事は、父と伯父の雪辱戦だったのである。

紀元前209年、スキピオは、ヒスパニアのカルタゴ本拠地カルタゴ・ノウァを急襲する。意表を突かれたカルタゴ側は、算を乱して遁走した。そこで、スキピオは、自分がカルタゴからの解放者であることをアピールする。現地部族を取り込むためである。とはいえ、カルタゴに忠誠を尽くす部族も多く、その後も小競り合いは続く。

一方、イタリア本土では、最強のハンニバル軍は健在だった。そのため、ヒスパニアのスキピオは、ローマ本国からの増援は望めない。そこで、スキピオはカルタゴ・ノウァで奪った資金で、現地の諸部族を取り込み、軍団を編成した。かつて、ハンニバルの父がやったように。

その軍団を率い、スキピオはヒスパニアを転戦する。そして、紀元前206年のイリッパの戦いで、カルタゴ残存勢力を一掃した。

つぎに、スキピオは海を渡る。アフリカ北部のヌミディア領に入ったのである。この頃、ヌミディア騎兵はカルタゴの同盟者だったから、敵のど真ん中に飛び込んだわけだ。

ではなぜ、スキピオはそんな危険を犯したのか?

虎穴に入らずんば虎子を得ず。

スキピオには、ハンニバル打倒の秘策があったのである。

《つづく》

by R.B

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