大航海時代(6)~帆船と大砲~
■帆船
「必要は発明の母」は、大航海時代でも生きていた。ヨーロッパとアフリカと地中海を結ぶ貿易で、巨万の富を得たポルトガル帝国。そんな彼らにも、引け目はあった。一見、壮大にみえる航海も、じつは、陸に沿ってコソコソ進む沿岸航海。彼らの脆弱な船では、外洋航海などとてもムリだった。
20世紀後半、人類が地球の重力圏を脱し、太陽系に飛び出したように、15世紀の航海者たちは、陸の呪縛から逃れようとしていた。沿岸から、大西洋やインド洋、そして大平洋へと。そこには、新しい航路、未知の大陸、巨万の富が眠っているに違いない・・・勇敢な航海者たちは、外洋を航海できる強靱な船を求めていた。
15世紀以前、地中海貿易では、1本ないし2本のマストに、四角帆を張った帆船が使われた。また、イスラム商人が、
「東アフリカ~アラビア半島~インド~アジア」
の貿易で使用したのはダウ船である。ダウ船は、地中海の商船と違い、三角帆(ラテンセイル)を張った。もちろん、地中海の帆船同様、小型で脆弱で、外洋のど真ん中を突っ切るのはムリだった。
■三角帆
ポルトガルの航海者たちは、アフリカ西岸を航海していて、大西洋の存在を知っていた。いつかはこの大洋に乗り出す・・・そんな航海者の熱い想いを誰よりも理解していたのが、ポルトガルのエンリケ航海王子だった。1400年代半ば、エンリケ航海王子の指導のもと、ポルトガルは造船技術にみがきをかけ、ついに、キャラベル船の開発に成功する。
キャラベル船は、それまでの帆船に比べ、一回り大きかった。また、マストが3本もあり、船首から順に、大、中、小の三角帆(ラテンセイル)が張られた。三角帆とは文字どおり、三角形の帆である。三角帆は、船首と船尾を結ぶ方向に張られたが、これを縦帆(じゅうはん)とよぶ。
縦帆は、帆を張る向きが風向きと並行なので、大きな推力は得られない。一方、帆の向きを少し変えるだけで、旋回できるし、風向きと垂直方向に推力が得られる。まるで魔法だが、ベルヌーイの法則によって説明することができる。帆のふくらんだ側を流れる風は、裏側を流れる風より、流速が大きいので、圧力が下がる。結果、圧力の高い裏側から、圧力の低いふくらんだ側に力がかかり、その向きに船体が引き寄せられるわけだ。飛行機が飛ぶ原理と同じ。
この三角帆のおかげで、キャラベル船は、風さえあれば、どんな方向にも進むことができた。しかも、後述するキャラック船に比べ、小型軽量なので、沿岸の浅瀬や河川も航行できた。しかも、高速なので、探検航海にはうってつけ。実際、16世紀にガレオン船が登場するまで、外洋探検で使われたのはキャラベル船である。
■四角帆
ところで、帆船といえば、四角い帆。大きな四角面を、追い風で目一杯ふくらませ、最大の推力を得るのが横帆(おうはん)だ。船首と船尾を結ぶ方向と垂直に張るため、追い風なら、最大の推力が得られる。風向きが一定で、強い風が吹く外洋にうってつけだ。
ところが、向かい風になると、帆の張りが乱れ、推力が得られない。そのため、横帆で風向きと異なる方向に進むには、帆の角度を変えつつ、舵を操りながら、ジグザグ進路を取らねばならない。縦帆に比べ、面倒で手間がかかる。
ということで、縦帆は操舵性に優れるが、推力が小さく、横帆はその逆。であれば、縦帆と横帆のハイブリッドがベストなのでは?それを形にしたのが、次世代のキャラベル船だった。この後期キャラベル船は、4本のマストを備え、船首のメインマストに横帆が、他のマストには三角帆が張られた。
後期キャラベル船は、ポルトガルの探検航海に大きな貢献をした。たとえば、1488年、喜望峰を発見したバルトロメウ・ディアスの主力船はキャラベル船である。ところが、その4年後のコロンブス隊の旗艦サンタマリア号はキャラック船。つづく、1497年、インドに向かったヴァスコダガマの船団では、主力船はすべてキャラック船だった。大航海になるほど、キャラック船が好まれたことがわかる。
■帆船の比較
じつは、キャラック船は、大量の荷を積み、外洋を航海するために建造された最初の帆船だった。キャラベル船とキャラック船は、大航海時代の同じ時期に登場したが、姿を消すのも同じ時期だった。16世紀、キャラック船から進化したガレオン船が、キャラベル船とキャラック船を駆逐したからである。
ガレオン船は、外洋航海に耐え、大量の荷が積め、高い攻撃力と防御力を備えた万能船だった。そのため、探検、貿易、海戦とあらゆる用途に使われた。ここで、大航海時代に活躍した代表的な帆船、キャラベル船、キャラック船、ガレオン船を比較してみよう。
項目\船種
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キャラベル船
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キャラック船
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ガレオン船
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帆装 | 縦帆/横帆+縦帆 | 横帆+縦帆 | 横帆+縦帆 |
全長 | 20~30m | 30~60m | 30~60m |
排水量 | 50~100トン | 200~1500トン | 500~2000トン |
船幅と全長の比 | 1:4(スマート) | 1:3(ずんぐり) | 1:4(スマート) |
船首楼・船尾楼 | 低い | 高い | 高くて堅牢 |
マスト | 2~4本 | 3~4本 | 4~5本 |
小回り | 良好 | 普通 | 普通 |
速度 | 高速 | 低速 | 中速 |
積載量 | 小 | 中 | 大 |
兵装 | 一部大砲を搭載 | 大砲を搭載 | 大量の大砲を搭載 |
主な用途 | 探検+貿易 | 貿易+海戦 | 探検+貿易+海戦 |
就航期間 | 15~16世紀 | 15~16世紀 | 16~17世紀 |
表を順番に見ていこう。まずは帆。初期のキャラベル船をのぞいて、すべて「縦帆+横帆」である。大きな推力と高い操縦性を得るにはこれしかない。
次に船体のサイズ。表から分かるように、
「ガレオン船>キャラック船>キャラベル船」
外洋は波が高いので、船を安定させるには、「重くて大きい」が重要だ。また、船体が大きいほど、積める荷も増えるので、航海の回数が減り、コスト削減になる。さらに、乗員の生活物資も大量に積めるので、寄港の回数も減る。寄港の回数が減れば、大洋のど真ん中を突っ切る最短コースがとれる。まさに、いいことずくめ。
つぎに、船幅と船長の比率。当然、「船幅<船長」であるほどスマートで、水の抵抗も少ない。その分、スピードも出る。ガレオン船は図体がでかいわりに、高速なのはそのためだ。貿易は航海日数が短いほどコスト削減につながるので、航行速度は速いほどいい。
航行速度を極限まで追求したのが、19世紀のクリッパー船である。イギリスやアメリカで、貿易や輸送の快速帆船として、一世を風靡した。中でも、イギリスのカティーサークは、帆船模型の定番である。
表の中央に、見かけない言葉がある。船首楼(せんしゅろう)と船尾楼(せんびろう)。上甲板の一段高い出っ張りのことで、船首部にあるのが船首楼、船尾にあるのが船尾楼である。
船首楼と船尾楼の役目は、
1.高波をブロックする。
2.海戦で、敵の攻撃を防ぐ。
3.海戦で、敵の船に乗り移りやすくする。
4.船室スペースを確保する(船尾楼)。
船首楼と船尾楼は高いほど、敵船に乗り移るとき有利になる。初期のキャラベル船に高い船首楼と船尾楼がないのは、探検が主で、戦闘を想定していなかったからである。一方、キャラック船とガレオン船は立派な船首楼と船尾楼を備えている。航海にくわえ、海戦も重要なミッションだったからだ。
最後に兵装。大航海時代、ヨーロッパの大型帆船は、他国の船にはない強力な兵器を備えていた。大砲である。当時は、海戦といっても、火矢を放ったり、相手の船に乗り込んで白兵戦と、陸戦と変わらなかった。ところが、遠距離から船を攻撃できる大砲が出現し、海戦が一変した。こような強力な大砲と大型帆船が、大航海時代以降のヨーロッパの優位を決定づけたのである。
■貿易船と海賊船
映画「パイレーツ・オブ・カリビアン」によれば、カリブの海賊は掠奪を生業とするならず者と、それをたばねる海千山千の頭目で構成された。大砲を搭載した帆船で海をうろつき、船を見つけては、大砲をぶちかまし、金目のモノを持ち去る。それが、海賊の日課だった。ところが、貿易船も似たようなものだった。半分はまっとうな取引、残り半分は掠奪。たとえば・・・
1517年、ルターの宗教改革で、フランスのキリスト教徒は、カトリック派と改革派に分裂した。カトリック派に追われた改革派の一部は、新天地を求め、カリブ海にやってきた。貿易で生計を立てるためである。ところが、その多くが海賊に落ちぶれていった。そもそも、大西洋の果てにまともな仕事があるはずがない。ということで、彼らが狙ったのは新大陸の収奪品を運ぶスペイン船だった。
1600年、新興国オランダは、東インド会社と西インド会社を設立し、世界貿易に乗り出した。オランダの株式会社は、イングランドやフランスの株式会社とは違い、10年間は資本を返却する必要がなかった。その分、長期的視野に立って、立派な経営ができる(はずだった)。ところが、カリブ海にやってきたオランダ船の初仕事は、スペイン船の襲撃・・・つまり、カリブの海賊。
さらに、後にオランダのライバルとなるイングランド。芸術と女に目がない国王ヘンリー8世は、自分の離婚を認めないカトリック教会に腹を立てて、イングランド教会を設立した。もちろん、キリスト教改革派。当然、カトリック派の盟主スペインと対立した。
時代はさらに進んで、エリザベス1世の治世。イングランドは露骨にスペインを挑発した。海賊まがいの船長フランシスドレイクが、スペイン船を襲撃するのを見て見ぬふりをしたのである。こうして、カリブ海は、ヨーロッパの帆船であふれかえった。ところが、貿易船と海賊船の区別がつかなかない。
貿易船のフリをした海賊船、海軍のフリをした海賊船、見るからにそれとわかる海賊船、こんな物騒な連中から身を守るには、強力な兵器を構えるしかない。つまり、
「貿易=海賊=戦闘艦」
ということで、「必要は発明の母」・・・ヨーロッパでは大砲の需要が急増し、大砲の性能は劇的に向上した。
■青銅砲
大砲の歴史は、1300年代のヨーロッパにまでさかのぼる。この時代、大砲といえば青銅製だった。すでに、鉄の文明に入っているのに、なぜ、大砲だけ青銅?
青銅は銅とスズの合金で、ブロンズともよばれる。大航海時代では、鋼鉄についで強度があり、固くて、腐食しにくい。しかも、融点が低いので、融かすのも簡単だ。鋳型(型紙)をつくり、融けた青銅を流し込んで、冷やせば、できあがり。これが「鋳造法」である。青銅を素材に、型紙でコピーするようなもので、手間をかけずに量産できる。
この頃、鉄の大砲も造られたが、青銅の大砲にはかなわなかった。鉄を鋳造した「鋳鉄」は、青銅よりもろかったのである。大砲は砲撃時に、爆発の衝撃と、砲弾が飛び出す摩擦熱で、砲身に大きなストレスがかかる。この熱と力に、鉄の大砲は耐えられなかったのである。もちろん、青銅の大砲といえども、間をおかず撃てば、破裂する。この時代、大砲を撃つのも命がけだった。
それでも、鋳鉄砲の開発は、辛抱強く続けられた。鋳鉄砲は青銅砲にくらべ、1/3~1/4のコストですんだからである。この差は、原料の価格によっている。ということで、この時代、青銅砲は高価で高品質、鋳鉄砲は安かろう悪かろう。
1453年、前代未聞の青銅砲が出現する。ウルバンの大砲である。ウルバン砲は、砲身長が6mもあり、重さ300kgの石弾を1.6kmのかなたに撃ち込むことができた。しかも、有名な歴史的イベントにもからんでいる。1000年続いたビザンティン帝国(東ローマ帝国)の滅亡である。
ビザンティン帝国は、東方のイスラム教オスマン帝国から、キリスト教世界を守る最後の砦だった。帝都コンスタンティノープルは、強固な城壁で囲まれ、難攻不落。歴代のイスラム王朝の攻撃をことごとく退け、城壁はアラーの神ですら破壊できないと言われた。ところが、その鉄壁をウルバンの大砲が撃ち抜いたのである。
こうして、大砲でも、イスラム世界がキリスト教ヨーロッパを圧倒するかに思われた。ところが、1500年に入ると、ヨーロッパの大砲は世界の頂点に立つ。
なぜか?
ヨーロッパは、陸地の占領ではなく、シーレーン(海上交通路)を支配しようとしたからである。もちろん、強力な海軍が欠かせない。じつは、オスマン帝国も強力な海軍を有していたが、基本、陸の帝国だった。そのため、大砲も陸上戦が優先され、機動性より破壊力が重視されたのである。つまり、重砲。
一方、海軍重視のヨーロッパは、船に搭載できる大砲が求められた。つまり、軽砲。また、海戦では、敵船がリアルタイムで動き回るので、わずかのチャンスも見逃せない。そのため、発射間隔が短いことが求められた。一方、相手は木造の船なので、破壊力より、射程が長いほうがいい。つまり、砲弾は小さめ。このような事情から、ヨーロッパでは軽砲が進化したのである。
■鋳鉄砲
1450年から1550年にかけて、鋳鉄砲で最高品質を誇ったのがフランドル地方とドイツだった。ところが、そのほとんどをポルトガル海上帝国とスペイン王国が買い占めている。大航海時代を先行したからである。
この頃、ポルトガルは、大西洋の島々を次々と植民地にし、アフリカ西岸を探検し、奴隷貿易で巨万の富を築いていた。また、バルトロメウ・ディアスはアフリカ南端を周回するインド航路を発見した。これらを主導したのはポルトガル王室である。ポルトガル王ジョアン2世は、大砲を搭載したキャラベル船を建造するために、莫大な資金を投じていた。こうして完成したポルトガル船は、海上では無敵だった。
フランドルとドイツの鋳鉄砲は高品質で知られたが、それでも青銅砲にはかなわなかった。ところが、イングランドは鋳鉄砲に執着した。1543年、イングランド王ヘンリーは、牧師ウィリアム・レヴェットに大砲の製造を命じた。レヴェットは、工場を建て、職人を雇い、実用レベルの鋳鉄砲の量産に成功した。
こうして、1560年~1600年、イングランドの鋳鉄砲は、ヨーロッパの大砲市場を独占した。この頃、オランダはスペインからの独立戦争を戦っていたので、イングランドの鋳鉄砲の上客だった。1600年に入ると、鋳鉄砲は船にも搭載されるようになり、1600年代末期には、艦載砲の主流となった。
鋳鉄砲に欠かせないのが「製鉄技術」だが、鉄の歴史に最も貢献したのはイングランド(イギリス)である。様々な難問を解決し、鋼鉄の量産までこぎ着けたイギリスは、近代文明の大功労者である。18世紀末に起こった産業革命は、鋼鉄の量産なくしてありえなかった。鋳鉄砲、鋼鉄の量産、産業革命、いずれもキーは「鉄の技術」である。まさに、鉄は国家なり。
安価で高性能な鋳鉄砲が量産されると、船に搭載する大砲の数も増えた。ところが、新たな問題が発生した。大砲を船のどこに置くか?大航海時代の初め、大砲は船首楼や船尾楼の甲板の上に設置された。やがて、大砲の数が増えると、主砲は上甲板に設置され、船首楼、船尾楼の船内には軽砲が据えられた。この頃、キャラベル船に搭載された大砲の数はおよそ10~20門。
ところが、ガレオン船になると、艦載砲の数はさらに増えて、上甲板、船首楼、船尾楼ではおさまらなくなった。そこで、船体内部の主甲板にも大砲が並べられ、船体の外壁である船殻(ハル)に砲門がくり抜かれた。こうして、ガレオン船は数十門の大砲を搭載するようになった。他の文明圏の船では、とてもかなわない。一斉砲撃すれば、木っ端微塵(こっぱみじん)。まさに、海上の大量破壊兵器だった。
■アジアの大航海時代
大航海時代に限れば、「船の歴史」はヨーロッパの独壇場に見える。ところが、大航海時代に先立つ50年前、アジアでヨーロッパをしのぐ大航海が行われた。
14世紀、中国元朝の末期、チンギス・ハーンの子孫たちは、骨肉の争いに明け暮れていた。民衆の心は、モンゴル支配を離れ、白蓮教をかかげる紅巾賊が、各地で暴れ回った。そんな大乱の中、一人の貧しい孤児がいた。預けられていた寺も追い出され、泥水をすすって、なんとか生きのびた。彼こそ、後の明朝の創始者朱元璋(しゅげんしょう)である。
朱元璋(洪武帝)は名君だったが、子への継承が心配でならなかった。そこで、王朝創設の功労者を次々と殺害し、王子たちを各地の王に封じた。その冷酷さを憂いだ皇太子朱標(しゅひょう)は、洪武帝を鋭くとがめた。すると、洪武帝はトゲだらけの小枝を差し出し、こう言った。
「これを取ってみよ」
トゲを見てためらう朱標に向かって、
「おまえが、これを受け取れるよう、わたしはトゲを抜いているのだ」
洪武帝の子で最も優秀だったのが朱棣(しゅてい)である。幼少より並外れた知力を現し、モンゴルと接する北辺に封じられた後も、武人としての才覚をしめした。1392年、温厚で人望の厚かった皇太子の朱標が病死すると、朱標の子が後継者に指名された。その後、1398年、洪武帝が死ぬと、建文帝として即位する。ところが、まだ若い建文帝にしてみれば、各地の諸王は自分の帝位をおびやかす存在だった。
建文帝は、自分の叔父にあたる各地の諸王を次々と廃し、朱棣も追い詰めた。1399年、運命を悟った朱棣は、北平(北京)で挙兵する。北方の騎馬民族との戦いで鍛え抜かれた朱棣の軍は強かった。朱棣軍は南下をづづけ、1402年6月、ついに首都南京を制圧する。この朱棣こそが、明朝3代永楽帝である。この内戦は、靖難の変(せいなんのへん)とよばれるが、この戦いで、永楽帝を助けたのが、鄭和(ていわ)だった。
鄭和は優れた武人だったが、宦官でイスラム教徒、しかも、先祖は西域出身。西域とは、中国人が使った地域名称で、中国の西方をさす。中央アジアから西アジアにいたる広大な地域で、中東も含んでいる。民族も多種多様、ひょっとすると、鄭和は青い目だったかもしれない。
1405年、永楽帝の命を受けた鄭和は、東南アジアからインドのカリカットまで航海する。その後も、6回航海し、アラビア半島、アフリカの東岸まで達した。鄭和の航海ルートは長躯壮大だが、船団も超弩級である。長さ150メートル、幅60メートルの超大型ジャンク船を旗艦とし、船舶62隻、2万数千人の乗員で構成された。大航海時代に先駆けて、このような大船団がインド洋を航海したことは驚嘆に値する。
鄭和の航海は、ヨーロッパ人の航海にくらべ、スケールも、目的も、管轄も違った。
まずはスケール。1493年9月、コロンブスの2回目の航海は、17隻の船、1500人の乗員からなる大船団だったが、鄭和の船団に比べ一桁小さい。また、サイズに限れば、鄭和のジャンク船はガレオン船の2倍もある。ただ、一般的なジャンク船の大きさは、小型のキャラベル船程度。ピンと貼られた四角帆が特徴で、古代中国から輸送に使われ、現在でも中国、東南アジアで使われている。
つぎに航海の目的。ヨーロッパは民間貿易にあり、中国は明朝の威光を世界に知らしめること、そして、貿易促進にあった。ただ、貿易といっても、ヨーロッパとは異なる「朝貢貿易」。朝貢貿易とは、
「中国は世界の中心」
という中華思想にもとづいている。中国周辺の遅れた国や地域が、中国のすぐれた文化や珍品をもとめて貿易をさせていただく、が基本で、相手国の王が中国皇帝の臣下となることが前提だ。足利義満の時代、明と日本で行われた勘合貿易も、じつは朝貢貿易である。
最後に、航海の管轄。ヨーロッパの場合、国(王室)はカネも口も出すが、実行するのは、あくまで民間。また、取り分も民間と国が分かち合う。つまり、官民一体。ところが、中国の場合、資金も取り分も運用もすべて国が仕切る。つまり、官による一元支配である。このように民間の活力を利用しない体質は、19世紀以降、ヨーロッパに遅れを取る原因となった。皇帝を中心に、官が整然と統治する社会体制が、自由放任、何でもありの資本主義に敗北したのである。その後、20世紀初頭に起こった共産主義革命も衰退し、資本主義の勝利が高らかに宣言された。
ところが・・・
2007年のサブプライムローンの破綻、2008年のリーマン・ブラザーズ破綻とAIG危機で、我々は世界恐慌の縁に立たされた。そこで、台頭したのが中国の「国家資本主義」である。「実力主義で金儲け」までは同じだが、大もとは国家が統制する新しい資本主義だ。かつて、ヨーロッパ式資本主義に敗北した中国が、リベンジをしているのかもしれない。
参考文献:
(※)C・M・チポラ著、大谷隆昶訳「大砲と帆船―ヨーロッパの世界制覇と技術革新」平凡社
by R.B