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週刊スモールトーク (第461話) 14世紀のペスト(1)~原因と死者数~

カテゴリ : 歴史社会

2020.11.14

14世紀のペスト(1)~原因と死者数~

■史上最悪のパンデミック

1347年10月、モンゴルの大軍が、黒海の港町カッファを包囲していた。

陥落寸前のところで、モンゴル軍は撤退。一体、何がおきたのか?包囲が2年間も続いたから、兵糧がつきた?カッファの市民はいぶかしく思ったが、安堵もした。そのとき、市壁ごしに死体が投げ込まれた。モンゴル軍がカタパルトで投射したのだ。石弾ではなく、人間の死体、もちろん何の被害もない。ところが、翌日、状況は一変する。市民がバタバタ倒れだしたのだ。症状はみんな同じ、発熱して意識混濁になり、数日で死ぬ。皮膚が黒ずむ者もいた。

じつは、投げ込まれた死体はペスト(黒死病)に感染していたのである。モンゴル軍は、陣営内でペストが蔓延し、戦争が継続できなくなっていた。その恨みつらみを、細菌兵器「ペスト」で報復したわけだ。ペストはまたたく間に町中に広まった。死者は急増し、行き場のない死体は、壁沿いに積み上げられた。

船で脱出を試みる者もいた。カッファで商いをしていたジェノヴァの商人である。この頃、カッファは北イタリアの都市国家ジェノヴァの植民地だった。ジェノヴァの商人は、カッファでアジアの商品を仕入れ、本国ジェノヴァを経由して、ヨーロッパで売りさばいていたのである。だが、このとき、ジェノヴァの商人が運んだのは、商品ではなくペストだった。彼らは4隻の船に乗り込んで、カッファを脱出。ところが、シチリアの寄港地メッシーナに着いたときには、ほとんどが息絶えていた。

ペストはメッシーナで感染拡大し、すぐに本国ジェノヴァにも飛び火した。その後、数週間でイタリアを駆け抜け、1348年6月にはフランス、スペイン、イギリス(イングランド)に到達した。1年足らずで、ペストはヨーロッパ全土をおおったのである。

死者の数は恐るべきものだった。

最終的に、イギリスで170万人、ヨーロッパ内陸部で3000万人、中国とアラブで7000万人、世界全体で1億人が死んだ。世界の人口がまだ4億5000万人の時代に。たった一つの原因で、全人類の1/4~1/3が死んだのは、有史以来初めてだろう。

ヨーロッパがとくにひどかった。全人口の30%~60%が死亡し、イギリスやイタリアには人口の90%が死んだ町や村もあった。長い歴史をもつ生活圏が丸ごと壊滅したわけだ。世界規模のパンデミックなのに、「14世紀ヨーロッパのペスト流行」とよばれるのはそのためである。

■ペストは商業ルートをたどる

ではなぜ、ペストはこれほど感染が広がったのか?

ヒントが一つある。ペストが商業ルートをなぞっていること。

まず、14世紀のペスト大流行は、1331年、中国河北省で始まった。中国の歴史家は、紀元前244年から疫病を記録しており、証拠があるのだ(※3)。その後、ペストは商業ルートを通って、西方に伝染した。この中で、最も長大なルートは、アジアとヨーロッパを結ぶシルクロード、その終着点がカッファだったのである(現フェオドシヤ)。

この時代、ペストが発生した中国を支配していたのはモンゴル人だった。1271年、チンギス・カンの孫クビライ(フビライ)が開闢した元朝である。カッファにペストをもたらしたのはモンゴル軍だから、始点も終点もモンゴル人。だから、ヨーロッパ人はペストを「タタール・ペスト」とよんだのである(タタール人はモンゴル人の別称)。

ただし、中国・元朝のモンゴル軍が、遠路カッファまで遠征したわけではない。この時代、チンギスハンが建国したモンゴル帝国は、4つの領国に分裂していた。

・元朝(大元・ウルス):中国~モンゴル高原

・キプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス):黒海~アルタイ山脈の大ステップ地帯

・チャガタイ・ハン国(チャガタイ・ウルス):中央アジア

・イル・ハン国(フレグ・ウルス):イラン~アナトリア

1347年、カッファを包囲していたのは、元朝ではなく、黒海に近いキプチャク・ハン国だったのである。総司令官は、第12代当主ジャニベク・ハン、敬虔なイスラム教徒として知られていた。その父ウズベク・ハンの時代、中世最大の旅行家イブン・バトゥータが、キプチャク・ハン国の都サライを訪れている。彼の著書「三大陸周遊記」によれば、王宮には、中国やインドから届けられた莫大な宝物であふれていたという。その息子ジャニベク・ハンは、さらなる富と珍品をもとめて、カッファ征服をもくろんだのだろうか。

■モンゴロイドはペスト耐性を持つか?

14世紀のペスト流行の感染経路は、3つのルートからなる。

・中国河北省→カッファ(シルクロード北方の陸路)

・カッファ→ジェノヴァ(ジェノヴァ商人の海路)

・ジェノヴァ→ヨーロッパ(ヨーロッパ商人の陸路)

いずれも商業ルートで、ペストが商業ルートを通って伝染したことを証明している。

だたし、第一のルート「中国河北省→カッファ」には謎がある。

まず、カッファにペストを広めたのは、商人ではなく、モンゴル軍であること。しかも、その軍勢は、中国・元朝からの遠征軍ではない。カッファに近いキプチャクハン国の軍。では、中国・河北省からキプチャクハン国の首都サライまでペストを運んだのは、誰か?

その間はモンゴル人の領土だから、モンゴル人?

それに異論はない。ただし、モンゴル人が長路移動したわけではない。「運び屋」が必要だ。それが、シルクロードの交易商人だったのである。中でも重要なのがサルト商人だった。

古代より、シルクロードには複数のルートがあった。その中で最も長大なルートが、中央アジアルートで、長らく、ソグド商人が支配していた。それを継承したのが「サルト商人」である。彼らは、早い段階でチンギスハンの将来性を見抜き、取り入っていた。ハンのスパイになってあげます、その代わり、交易の安全を保証してください、というわけだ。

サルト商人は、交易をしながら、諸国の状況を調べ上げ、ハンに報告していた。モンゴル軍は、その情報をもとに、軍事作戦を実行するから、連戦連勝。その集大成が「西方大遠征」なのである。結果、ヨーロッパ世界が滅亡寸前に追い込まれたのだ。

話をもどそう。

中国からカッファまで、ペストを運んだの誰か?

ルート上に暮らすモンゴル人と、運び屋のサルト商人。ところが、ここで第二の謎が発生する。

中国湖北省からカッファまで、約7000kmもある。その間、一度でもペストが途切れたら、カッファまで届かない。

何が言いたいのか?

ヨーロッパのペストの罹患率と致死率は非常に高かった。致死率が高ければ、ペストの運び屋は早々に死んでしまい、ペスト菌はその先に進めない。ところが、現実には7000km彼方まで到達したのだ。

モンゴル人は、ヨーロッパ人より、罹患率も致死率も低かった?

もしそれが事実なら、ペストは緩やかに、感染をバトンタッチしながら、長大なルートを長期間かけて移動できる。ひょっとすると、モンゴル人(タタール人)は、ペストに耐性があったのかもしれない。

それを擁護するデータが他にもある。

2020年の新型コロナウイルス(COVID-19)のパンデミックだ。新型コロナは、日本、中国、韓国などの東アジアの致死率が異常に低い。そのため、モンゴロイドには新型コロナへの耐性があるという説もある。たしかに、相関関係は認められるが、因果関係は確認されていない。さらに、欧米における致死率は白人もアジア人も同じなので、完全に証明されたわけではない。

■ペストの原因

ところで、なぜ、14世紀に史上最悪のパンデミックが発生したのか?

原因は2つある。

第一は、世界がつながったこと。アジアとヨーロッパをでむすぶルートが強固になったのだ。ユーラシア大陸北方のシルクロードは古代より存在したが、モンゴル帝国が台頭すると、交易の安全を保証した。結果、人間の交流が活発化した。ウイルスは、自分の足でノコノコ歩くわけではない。運び屋が必要なのだ。人間の移動が疫病を運ぶことは昔も今も変わらない。

21世紀の新型コロナもしかり。

ただ、新型コロナの感染速度は、14世紀のペストを凌駕する。輸送手段が、馬車・帆船から鉄道・自動車・飛行機にシフトし、移動速度が劇的に向上したからだろう。人間の「移動と密」が桁違いなら、感染速度も桁違い、は当然である。

このような、「つながり」と「感染」の関係は、現実界だけでなく、仮想世界でも成立する。マルウェア(コンピュータウィルス)が、密なインターネットを介して、世界中で感染拡大している。現実世界では人間が死に、仮想世界ではデータが死ぬわけだ。

つまりこういうこと。

現実世界も仮想世界も、みんなが正しいと信じて疑わない「つながる」は、災いの元なのだ。新型コロナのパンデミックで、それに気づいた人もいるが、長続きしないだろう。2011年3月の福島第一原発事故がその証拠。東日本壊滅寸前まで追い込まれ、原発の怖さを思い知ったのに、2020年、原発の再稼働が加速している。

目の前のハエをパチンと脅しても、1秒後には元の場所に戻ってくる。ハエの記憶は、1秒ももたないのだ。じゃあ、人間の記憶は9年?哀しい話だ。

14世紀のペストの第二の原因は、食料不足と飢饉。飢饉になれば、免疫力が低下し、感染症にかかりやすくなる。データによる相関関係も因果関係も成立しているから、間違いないだろう。

ではなぜ、食料不足がおこったのか?

天候不順と戦争。

14世紀初頭から雨の多い不順な天候が続いた。1309年、ドイツで深刻な不作がおこり、飢饉が発生。それが、ヨーロッパ北部全域に拡大し、1315~1317年には最高潮に達した。その後、20年かけて飢饉の波は南下し、地中海沿岸部に達した。カッファでのペスト発生は1347年だから、その10年前に、ヨーロッパ人は深刻な栄養不良におちっていたのだ。そこへ、ペスト菌が運び込まれた・・・感染爆発は必然だろう。

■ペストは自然の摂理?

さらに不吉な仮説もある。

18世紀の経済学者トマス・ロバート・マルサスが著した「人口論」だ。それによれば、人口は幾何級数的に増加するが、食糧は線形的に増加する。結果、「人口>食糧」になり、食糧にあわせ、人間が間引きされるというのだ。

ペストは、人口と食糧のバランスをとるための自然の摂理?

これも、相関関係も因果関係もはっきりしているので、間違いないだろう。人間は特別な存在とする向きもあるが、限りなく怪しい。理性で判断すれば、地球の一部品と考えた方が自然だろう。

そして、戦争。

フランス全土を巻き込んだ百年戦である。原因は、フランス王国の王位継承とイングランド王家のフランス領の争奪だが、それはどうでもいい。問題はその規模と期間。フランスの領主が二派にわかれて戦い、戦場はフランスを越えて、イングランド、ドイツまでおよんだ。しかも、1337年から1453年の間、120年も続いたのである。

結果、何が起きたか?

兵士たちが、収獲物を焼き払い、家畜を殺し、集落を破壊した。農地は荒れ果て、食料不足におちいった。そもそも、農村は都市と違い市壁がないから、防御のすべがない。農民は都市に逃げ込むしかなかった。結果、イングランドで20%、ドイツ東部と南部で30%が廃村に。一体、誰が食糧を作るのか?そもそも、天候不順で不作続きなのに。飢饉が加速するのは必然だろう。

つまりこうこと。

世界が密につながり、天候不順と戦争で飢饉が発生する、まさに、ペスト菌の楽園ではないか。14世紀のペスト流行はおこるべくしておこったのである。

では、21世紀の新型コロナは?

《つづく》

参考文献:
(※1)週刊朝日百科世界の歴史、朝日新聞社出版
(※2)世界の歴史を変えた日1001、ピーターファータド(編集),荒井理子(翻訳),中村安子(翻訳),真田由美子(翻訳),藤村奈緒美(翻訳)出版社ゆまに書房
(※3)ビジュアルマップ大図鑑世界史、スミソニアン協会(監修),本村凌二(監修),DK社(編集)出版社:東京書籍(2020/5/25)

by R.B

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