■少年航空兵・1万分の1の生還 2020.08.29
父は、太平洋戦争中、少年航空兵だった。
少年航空兵とは、飛行士の候補生で、徴兵ではなく志願して入隊する。
好き好んで戦争に行く?
時代が違うとしか言いようがない。
少年航空兵は、15~17歳で入隊し、訓練が終ると下士官に任官した。航空兵のエリートコースといっていいだろう。少年航空兵には、陸軍の陸軍少年飛行兵と、海軍の海軍飛行予科練習生があった。父は海軍で、世間では「予科練」といわれた。
父に海軍を選んだ理由を聞いたら・・・海軍の軍服の方がかっこ良かったから。
そう、この時代、軍服に憧れて入隊する若者がいたのだ。
父は予科練に甲種合格し(最上位クラス)、三重航空隊に配属された。初めて門をくぐったとき、胸が高鳴ったという。その正門↓(「三重海軍航空隊」の文字が確認できる)
三重航空隊は、5万人の航空兵を収容する巨大施設だったが、飛行機はほとんどいなかったいう。
飛行機のいない航空隊!?
戦局が悪化し、訓練どころではなかったのだ。兵器が不足し、国にとっての価値は「兵器>兵士」。だから、日本軍は人命を軽んじたのである。その象徴が「カミカゼ特攻隊」だろう。お国のために、250キロ爆弾を抱えて、敵船に体当たりしろというのだから。
あー、なんて酷い時代だったんだ!
ノー、時代ではありません。日本の「人命を軽んじる」は今も変わっていない。
たとえば、今回のGoToトラベルキャンペーン。経済優先(じつは観光業優先)をかかげ、沖縄に感染爆発をおこし、見捨てたのだから。つまり、「観光業>>国民の命」。
話を三重航空隊にもどそう。
父は、ここで軍人精神を叩き込まれた。
早朝6時に起床して、厳しい訓練につぐ訓練。三重航空隊の体操はオリンピック選手なみ↓(着地はどうなるのだろう)
四六時中、監視され、ヘマをやれば往復ビンタ。さらに、怖いのが軍人精神注入棒だ。対人懲罰用に最適化されたバットで、尻を叩くのだ。お尻ペンペン、を想像してはいけない。大の大人が、バットを全力で振り抜くのだ。父いわく、どんな頑強な男でも必ず「9回」で倒れたという。
ところが、父は体罰がない日はなにか物足りない・・・痛みが好きだったわけではない(もちろん)。殴られ、叩かれると、精神がピリッとするというのだ。そういう心境に追い込まないと、生死がかかる戦争では、心がもたない?
父の場合、そうではなかったようだ。戦争は関係なく、伸るか反るかの緊張感が心地良い・・・さては特殊なDNA?
話を前に進めよう。
ある日、父は飛行場で驚くべき光景を目にした。
練習機が、上空から木の葉のように落ちてくる。墜落だ・・・ところが、地上スレスレのところで、脚を地面にわずかにかすって、上昇に転じる。夢を見ているのかと、思わず頬をつねったという。
涙ぐましい訓練の賜物なのだろうが、素直に感動できない。この手の訓練は、一度でも失敗すると、次がないから。
これも特殊なDNA?
この時代の人たちは、一体何を考えていたのだろう。
じつは、この曲芸は「木の葉落とし」といわれる有名な戦争用語だ。空中戦で、敵機に後ろをとられたら、機体を地面に対して垂直にする。すると、失速し、木の葉のようにヒラヒラ舞い落ちていく。だから「木の葉落とし」なのである。そして、敵機が自機を追い越したところで反転、敵機の背後につく。空中戦では、敵の背後をとった方が勝ちなのだ。
ところが、「木の葉落とし」を否定する論説も多い。そもそも、航空機は一度失速したら、回復するのは至難。だから、そんなことできるわけがないというのだ。ところが、父は三重航空隊で「木の葉落とし」を目撃している。実戦で使われたどうかはわからないが、可能だったことは間違いない。
それにしても、実戦でもないのに、なんでこんな恐ろしいことをやるのか?
父に尋ねると「教官が遊んどったんや」
父は、この曲芸をみて、早く飛行機に乗りたいと焦ったという。地上訓練に合格すれば、教官と一緒に空を飛べる。だが、その日はついに来なかった。終戦が迫っていたのである。
父の三重航空隊の思い出がもう一つある。通信の実習をしていたときのこと。三重航空隊の無線通信の実習風景↓
突然、ドーンという音がした。建物が大きくゆれ、天井から吊るされた電球が、左右に振りきれて、天井に衝突している。その光景は衝撃的で、今でも鮮明に思い出せるという。すぐに総員退避が発令された。外に出ると、さらに恐ろしい光景が。バリバリという轟音とともに、巨大な松の木が引き裂かれていく。
この大地震は、1944年12月7日に発生した東南海地震の可能性が高い。三重県沖で発生したM7.9の巨大地震である。関東大震災に匹敵する大地震だが、あまり知られていない。戦時中なので、戦意をそぐニュースは報道されなかったのだろう。
父が、次に配属されたのは倉敷航空隊だった。
ある日、高射砲陣地の見学に行くことになった。少年兵全員が山頂の高射砲陣地をめざす。ところが、途中で空襲警報が鳴り響き、少年兵たちは恐怖のあまり、蜘蛛の子を散らすように離散した。高射砲陣地に着いた少年兵は父だけだったという。
空を見上あげると、B-29の大編隊が迫ってくる。翼の下あたりが、キラキラと光ると、轟音が空気を切り裂く。爆弾が投下されたのだ。間をおかず、高射砲陣地の真横の施設が大爆発をおこす。高射砲陣地の見学が、実戦訓練に一変したわけだ。
高射砲陣地も砲撃を開始する。指揮官の命令のもと、砲弾が撃ち出される。父にはその弾道がわかったという。目に見えるのではなく、空気を切り裂く音で。父は立ったまま、B-29の大編隊を眺めていた。こんな光景、めったに見られるもんじゃない、とココロが踊ったという。それを見た指揮官が、父に向かって大声で叫ぶ。
「ふせろ!」
父は「絶景」をあきらめるしかなかった。砲撃は続く。だが、B-29が墜落する気配はない。じつは、日本の高射砲はB-29の飛行高度まで届かなかったのだ。
この体験談には、哀しいエピソードがついている。砲弾を運んでいた予備兵が、恐怖にかられて、逃げ出したのだ。空襲の後、この予備兵は、往復ビンタ、軍神精神注入棒ですまなかった・・・半殺し。
ではなぜ、父は冷静になれたのか?
父いわく、B-29の標的は軍事工場であって、無害な高射砲陣地ではない(砲弾が届かないので)。だから、ココに爆弾が落ちるはずがないと。
ところが、その後、父は生死にかかわる体験をする。
ある日、不思議なことあった。
上官が父のところに来て、「今から、司令のところに行って、相手をしてこい!」
「はいっ?」
父は、倉敷航空隊の1万人の中で成績がトップだった。その栄誉にあずかったわけだ。ところが、司令の部屋に行くと、次から次へと、空襲の連絡がきて、話をするひまがない。それでも、わずかのスキをついて、司令は父に一言。
「君は長男か?」
「はい、そうであります!」
それだけ・・・ところが、その3秒間が、父の命を救うことになる。
数日後、倉敷航空隊の航空兵たちは、輸送船で朝鮮半島に向かった。特攻隊として出陣したのだ(何の特攻かは不明)。ところが、上陸寸前に、米軍の魚雷攻撃を受けて全滅。ただし、生き残った者がいた。父である。父は特攻隊のリストからはずされ、基地に残されたのである。
なぜか?
父は、1万人の中で1番優秀な航空兵だった。それが理由で司令に呼び出された。そして・・・
君は長男か。
はい。
その「3秒」で父の運命が決まったのである。当時、長男は農家の跡取りとして、大事にされた。司令の温情で、父は救われたのである。どうせ負け戦なのだから、無駄死にさせたくない・・・常識と理性が吹き飛ぶ異常な世界でも、そういうリーダーがいたのだ。硫黄島の戦いの総司令官・栗林忠道中将もその一人だろう。
今年の盆も一族が集まった。そのとき、周囲を見渡し、奇妙なカンカクにおちいった。倉敷航空隊の「3秒」がなかったら、ここには誰もいない・・・現実にならなかったもう一つの世界。人生は面白いものだ。一瞬の出来事で、その後の人生が一変する。それどころか、完全消滅することもあるのだ。
父は、戦争談義のあと、ニコニコしながらこう言った。
「まぁ、とにかく、軍隊生活は最高に楽しかった。人生で一番充実していた」
あれから75年が経過した。戦争を体験した語り部は、ほとんど生き残っていない。国家の存亡をかけた太平洋戦争が風化し始めているのだ。われわれは、あの「経験」を「歴史」に書き換えるべきだろう。戦争は悲惨だから二度と繰り返さないために・・・なんて稚拙な二元論ではなく、事実と因果関係に徹した「歴史」として。
愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶというではないか。
by R.B