明智光秀(6)~サイコパス・スイッチ~
■黒田官兵衛の計略
1582年6月21日、本能寺の変が勃発。戦国最強の巨人、織田信長は天下統一にあと一歩のところで、テロに倒れたのだった。
そのころ、羽柴秀吉は、備中高松城で毛利と対峙していた。秀吉が、本能寺の変を知ったのはその翌日。首謀者の明智光秀が毛利に送った密使が、羽柴陣営に迷い込んだのである。秀吉は茫然自失、途方に暮れた。神のごとき主人(織田信長)が、突然、目の前から消えたのだ。
そのとき、黒田官兵衛が秀吉の耳元でささやく。
「殿、次はあなたの番です」
黒田官兵衛(孝高)は、羽柴秀吉に仕える天才軍師だった。事変を知った瞬間、これから始まる未来を見通したのである。
このとき、織田家の主将たちはどこで何をしていたのか?
(1)明智光秀(本能寺の変の首謀者)
信長父子を弑逆した後、京と安土で掃討戦を展開中。兵力は8000~1万と少ないので、織田の主将たちが京に攻め上がる前に、京と機内の支配を固める必要があった。
(2)柴田勝家(北陸方面軍司令官)
越中・能登で、上杉勢と戦闘中。兵力は5万と多いが、京からは遠く、すぐには引き返せない。
(3)羽柴秀吉(中国方面軍司令官)
備中高松城を包囲中。兵力は3万~6万で優勢だったが、毛利の援軍が到着し、余談を許さない状況に。
(4)滝川一益(関東方面軍司令官)
武田勝頼父子を自害させた手柄で、関東八州を任されていた。兵力は2万6000と少なく、京からは遠い。
(5)織田信孝(四国方面軍司令官)
四国征伐のため、堺の港で出港を待っていた。織田信孝は織田信長の三男で、副将は二番家老の丹羽長秀。兵力は1万3000と少ないが、京に一番近い(2、3日の距離)。
(6)徳川家康(織田の同盟者)
お供30人ほどで、河内国を旅行中。兵力をともなわず、身も守るので手一杯。
というわけで、常識的に考えれば、この時点で明智軍に立ち向かえるのは織田信孝(四国方面軍)のみ。
■秀吉はサイコパス
では、現実はどうなったのか?
まず、最有力の織田信孝の四国方面軍。信長父子の死が伝わると、兵は蜘蛛の子を散らすように離散した。兵数が1万3000と少ない上、複数の勢力の寄せ集め。かつての宿敵、三好勢も多数含まれていた。つまり、忠誠心に問題あり。が、それ以上に織田信孝の器量に問題があった。天地動転の非常事態に、こんなボンボンに付き従っていたら、命がいくつあっても足りない、という話。
徳川家康は、穴山梅雪(旧武田の家臣)と二手にわかれて、命からがら三河に逃げ帰った。穴山梅雪は命を落としているから、過酷な逃避行だったのだろう。
滝川一益は、北条軍にやぶれて、かたき討ちどころではない。
柴田勝家は、やりかけの戦闘を撤収してまで、反乱軍を討つ、という発想がなかった。柴田勝家は、戦闘には強いが、命令者がいないと、目の前の問題に対応するのが精一杯。自分でルールを決めて、ガンガン行くタイプではない。
ところが、それができた男がいた。羽柴秀吉だ。
並の武将なら、クーデターで命令系統が崩壊すると、身も心も崩壊、何をしていいかわからない。ところが、秀吉は違った。瞬時に状況を理解し、新しい環境に適応したのである。目先の戦闘(毛利攻め)をさっさと手仕舞いし、手持ちのヒト・モノ・カネを、すべて明智討伐に投入。その思いっきりの良さは、胸のすくような爽快感がある。
秀吉は、成功するサイコパスの要因「恐れ知らずの無謀さ、衝動性」を持っていたのだろう。計画性だけでは、こんな大バクチ、絶対打てないから。歴史とは、一歩を踏み出す勇気のあとにあるのだ。
こうして、羽柴秀吉は天下人となった。黒田官兵衛も大手柄で、大出世?
現実はそんなに甘くない。
■黒田官兵衛の限界
羽柴秀吉は、天下を統一すると、黒田官兵衛を警戒し始めた。秀吉が「自分の後に天下を取るのは官兵衛だ」と言ったという不穏なウワサも流れた。グズグズしていると、殺される・・・この勘兵衛の直感は間違ってはいなかった。歴史がそれを証明しているのだ。
たとえば、紀元前5世紀、中国の呉越の戦い。最終的に、越が呉に勝ったが、それを支えたのが、軍師の范蠡(はんれい)と、内政を仕切った文種だった。越王勾践が覇王になると、范蠡は引退し、越を去ったが、文種は居座った。ある日、文種のもとに范蠡から文が届いた。
「越王は、苦はともにできるが、楽をともにすることはできない。あなたは、なぜ越王のもとを去らないのか」
文種は心当たりがあったので、家に引きこもると、謀反を企てているというウワサが流れた。それが越王勾践の耳に入り、結局、自決。范蠡の予言は的中したのである。
黒田官兵衛が、その逸話を知っていたかどうかわからないが、「秀吉は苦はともにできるが、楽をともにすることはできない」は気づいていただろう。范蠡に匹敵する賢者なのだから。そこで、勘兵衛は家督を息子の長政に譲り、秀吉のもとを去った。
ところが、その後、豊臣家と徳川家が対立すると、勘兵衛の野心は再び燃えあがる。先が見通せる勘兵衛は、徳川家康の勝利を確信。息子の長政に豊臣側の武将を徳川方に寝返らせ、自身は九州の攻略をもくろんだ。九州に一大勢力を築き、「豊臣Vs.徳川」の大合戦のあと、徳川に対抗しようというのである。そして、勘兵衛の目論見どおり、1600年10月、関ケ原の合戦が始まった。
ところが、合戦は1日で終了。九州を攻略しているヒマはなかった。それで勘兵衛はどうしたのか?
あっさり、野心を捨てたのである。勘兵衛は、頭が切れて、先が見えすぎるから、無茶しない。だから、命を落とすことはないが、天下も取れない。勘兵衛には、成功するサイコパス「恐れ知らずの無謀さ、衝動性」は備わっていなかったのだろう。
■サイコパス・スイッチ
大事をなすには「計画性」が欠かせない。初めに、練りに練った戦略と戦術が必要だから。一方、大事はミッション・インポッシブル(実行不可能)だから、「衝動性」がないと踏み出せない。踏み出さないと、事が始まらないから、成し遂げるのはムリ。だから、大事をなすには「計画性&衝動性」が必要なのだ。
ところが、計画性と衝動性は相矛盾する。というわけで、大事をなすには「計画性/衝動性」の切り替えスイッチが欠かせない。カンタンに言うと「サイコパス・スイッチ」。
つまり、戦略と戦術は計画的に、決行は衝動的に!
黒田官兵衛にはその「サイコパス・スイッチ」がなかった。だから、コソコソ画策して、責任は親分に背負わせて、手柄立てて頭いいね!で終わったのである。もちろん無理無茶はしないから、首がとぶこともない。
では、首が転げ落ちた明智光秀は、「サイコパス・スイッチ」をもっていた?
たぶん、イエス。
それも、「計画的」に「衝動できる」恐るべき能力だ。不思議なことに、それが「フロイス日本史」に、長々と詳細に、これでもかと記されている。
ひょっとして、ルイス・フロイスは明智光秀が嫌いだった?
参考文献
(※1)完訳フロイス日本史、ルイスフロイス(著),松田毅一(翻訳),川崎桃太(翻訳)中公文庫
by R.B