歴史上の生まれ変わり(1)~中国の不正蓄財~
■否定の証明
人間は宗教を信仰する。信じる火力は人それぞれだが。一方、人間は科学も信奉する。スマホ、テレビ、自動車、道路、宇宙ロケット、すべて科学がないと成立しないから。
とはいえ、宗教は信じることから始まり、科学は疑うことを忘れない。ロジックの根本が違うわけだ。究極の矛盾なのに、人間は気にならない。もう一つの知的存在「人工知能(AI)」なら絶対やらないのに。その曖昧さ、おおらかさが、人間関係を円滑にするとも言えるが、真実を見極めるとき、障害にしかならない。
たとえば、「生まれ変わり」。
ほとんどの人は信じていない。理由はカンタン、「生まれ変わり」の証拠がないから。じつは、ここにも矛盾がある。「生まれ変わり」を「肯定」する証拠はないが、「否定」する証拠もないのだ。できることを証明するより、できないことを証明する方が難しい、それと同じ。つまり、証拠は両刃の剣なのだ。
というわけで、証拠にこだわると話がややこしくなる。そこで、状況証拠で考えてみよう。
たとえば、不可解な事件があって、なぜそうなったか説明がつかない。ところが「生まれ変わり」を認めると、スッキリ。その場合、「生まれ変わり」の状況証拠といえるだろう。ただし、その事件が事実であることが大前提だ。それなら、歴史の一次資料が手っ取り早い。事実である可能性が高いから。そこで、歴史の中から「生まれ変わり」事件を探索してみよう。
■パクス・ロマーナ
歴史上、人類が最も幸福だった時代は?
答えは難しい。不幸な時代なら、星の数ほどあるが。
ところが、それに快答した人物がいる。18世紀、イギリスのエドワード・ギボンだ。歴史の専門家ではないが、「ローマ帝国衰亡史」を著して、歴史に名を残した。家が裕福で、働く必要がなく、大好きな「ローマ帝国」に没頭できたのである。
そのギボンは言い切った。人類史上最も幸福な時代は、ローマ帝国の五賢帝の時代・・・名付けて「パクス・ロマーナ(ローマの平和)」。偉大なローマ帝国の覇権が、世界に平和をもたらしたというのだ。
たった1個軍団(兵数5000~6000)で、広大な辺境の地を守備していたというから、本当かもしれない。でも、ギボンの目立った成果は「ローマ帝国衰亡史」のみ。他の歴史もロクに知らないのに「人類史上最も・・・」なんて言える?(おっと失礼、相手はギボン様ですよ)
だが、話はそこではない。
強大な覇権国家が出現し、紛争が減れば、みんなハッピー、それを「パクス◯◯」とよぼう、という話。たとえば、全盛期のイギリスは「パクス・ブリタニカ」、現在のアメリカ合衆国は「パクス・アメリカーナ」とよばれている。でも、アジアがない?
気に入らんぞ・・・
じつは、アジアにもパクス・ロマーナに匹敵する時代があった。中国の清朝による平和・・・勝手に名付けて「パクス・ダァチアーナ」(ダァチン=大清)。
■中国の征服王朝
中国の清朝は、1616年、女真族の長ヌルハチが建国した。女真族は、満州を祖地とするツングース系民族である。つまり、清朝は中国の多数派「漢族」の王朝ではない。このように、漢族以外の中国王朝を征服王朝とよんでいる。中国史上、征服王朝は4つあった。
古い順に・・・
①遼(りょう)
内モンゴルの契丹族の王朝で、916年から1125年まで続いた。ただし、支配したのは中国の北辺のみ。中国の心臓「中原」以南は含まれない。「中原」は、中華文化の発祥地で、黄河中下流域をさす。服属していた女真族(金)によって滅ぼされた。
②金(きん)
女真族の王朝で、1115年から1234年まで続いた。朝鮮人参の貿易を生業とする地味な部族だったが、完顔阿骨打(ワンヤンアクダ)によって統一された。西方で台頭したモンゴル帝国(元)に滅ぼされた。
③元(げん)
モンゴル人の王朝で、1271年から1368年まで続いた。モンゴルと中国全土を支配した。王朝末期、宮廷内の骨肉の争いが続き、求心力が低下、朱元璋の明に取って代わられた。
④清(しん)
金と同じ女真族の王朝で、1644年から1912年まで続いた。モンゴルと中国全土を支配した。世界一の人口と経済を誇ったが、18世紀の産業革命で、西欧に逆転された。19世紀に入ると、欧米列強の半植民地状態になり、極東で台頭した日本にも敗れた(日清戦争)。1912年1月1日、中国の南京で中華民国が樹立され、清は完全に滅亡、中国革命の時代が始まる。
■パクス・ダァチアーナ
中国史上、最大最強の王朝は「清朝」といっていいだろう。さらに、世界史視点でみても「西のローマ帝国Vs.東の清朝」の図式が成り立つ(時代は違うが)。
清朝の成功の要因は、大きく2つある。
第一に、ヌルハチの建国以来、大きな苦難がなく、順風満帆に発展したこと。たとえば、西の王者、ローマ帝国は、カルタゴの名将ハンニバルに連戦連敗、滅亡寸前まで追い込まれている(第二次ポエニ戦争)。
第二に、人口・経済・軍事が世界一で、政権が長期間安定したこと。しかも国庫は豊かで、減税まで行われた。そんな国、現代でもみあたらない。
つまり、清朝は、点(結果)と線(プロセス)においてスキがない。
ではなぜ、そんなことができたのか?
ヒト・モノ・カネに尽きるだろう。中でも重要なのはヒト(人材)だ。
パクス・ロマーナ(ローマの平和)は、ネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウスの5人の賢帝が続いた。一方、パクス・ダァチンアーナ(清の平和)は6人も続く。建国者のヌルハチから、ホンタイジ、順治帝、康熙帝、雍正帝、乾隆帝、いずれも聡明で、政(まつりごと)に熱心な名君だった。だから平和が続いてあたりまえ。
逆に、どれだけ栄華を極めても、指導者が暗愚なら、高転びに転げ落ちる。たとえば、元から明への交代劇。明の朱元璋は傑物だったが、元が普通にしていれば、朱元璋に勝ち目はなかった。ところが、元の宮廷は骨肉の争いで忙しく、外敵にかまっているヒマはなかった。始祖のチンギス・ハーンも草葉の陰で泣いていることだろう。
余談だが、中国の習近平は、清朝時代の最大版図を狙っている。すでに、チベットを服属させ、台湾やその他の地域もロックオン。元々、中国(清朝)の領土だったから、取り返すだけ、という理屈。日本の識者なら「屁理屈」と言いだしかねないが、別にヘンな話ではない(褒められたものではないが)。本来、国境に真実も正義もない。人間が勝手に引いたものなのだ。つまり、奪ったもん勝ち。
アメリカ合衆国は堂々としているが、アメリカ大陸は、15世紀までネイティブアメリカン(インディアン)の土地だった。でも、誰もインディアンにアメリカを返せ、とは言わない。一体どういうわけだ?
アメリカ合衆国を責めているのではない。自然界の基本ルールは「弱肉強食」だと言いたいのだ。資源が限られているらあたりまえ。
最近、商店街の花泥棒のニュースが、連日放映された(聞いた話)。手間ひまかけて番組をつくり、貴重な電力を使って電波を巻き散らかす。そもそも、全国ニュースにする価値はあるのだろうか?しかも毎日。どんだけヒマやねん。
9月14日、サウジアラビアの石油施設が攻撃された。原油価格が跳ね上がり、ガソリン価格が上がって大変、どころではない。イランの関与も取り沙汰されているから、ヘタをすると戦争になる。ところが、ニュースの扱いは、驚くほど地味(しかも毎日ではない)。どんだけ平和ボケやねん。
いまさら、日本の危機感の欠落を嘆いてもしかたがないが、これでは、尖閣諸島、竹島どころか、沖縄もとられるだろう。そのときは、さすがに、大きく報じられるだろうが、後の祭り。
マスメディアの役割って何だろう?
結果報告だけでなく、啓蒙配信もあるのでは?
■中国史上最大の不正蓄財事件
今、中国で不正蓄財が問題になっている。共産党の要人が、職権を乱用し、不正にカネを貯め込んだというのだ。不正蓄財は、中国に限った話ではないが、「金額」が凄まじい。この10年で摘発されたものだけで数十兆円。2019年の日本の国家予算は101兆円だから、その半分!
マジか・・・善悪の範疇を超えてますよね。
ところが、さすが中国3000年の歴史、奥が深い。1人で400兆円を不正蓄財した人物がいるのだ。日本のGDPですよ(世界第3位の)!
しかも、それを許したのが、先の清朝のラストエンペラー、乾隆帝なのだ。
名君だったのでは?
パクス・ダァチアーナはどうした?
そもそも、400兆円貯め込むまで気づかないって、どういうこと?
謎だらけだ。
まずは、事件の概要を把握しよう。
400兆円不正蓄財したのは、清朝の高官の和珅(わしん)。彼は、乾隆帝から異常ともいうべき寵愛を受け、その権勢を笠に着て、私利私欲の限りを尽くした。結果、前代未聞の不正蓄財を積み上げたのである。
和珅の死後、家屋敷、別荘、農地、経営する当鋪(質屋)と銀号(両替商兼銀行)、財宝などおびたたしい資産が見つかった。しめて、銀2億2000万両ナリ。当時の国庫収入の4年分だったという。
日本の歳入は約100兆円だから、現在の日本の貨幣価値に換算すると、400兆円!?
さすが、中国3000年の・・・
■乾隆帝と和珅の謎
それにしても、おかしな話だ。
「400兆円」はビックリだが、それまで露見しなかったことが信じられない。清朝の精緻な官僚制度、名君の乾隆帝を考慮すれば、なおさらだ。
じつは、和珅の不正は、何度も何度も何度も暴かれていた。本当は死罪なのに、いつも乾隆帝の一声で許された。しかも、その度に不死鳥のように復活した。「七転び八起」どころではない。起き上がるたびに、位が上がったのだ。一体どうなっている?
さては、乾隆帝は本当は暗愚だった?
ノー。
乾隆帝は、中国歴代最高の名君とされる祖父の康熙帝から、幼少の頃から愛された。それほど聡明だったのである。まさに、栴檀(せんだん)は双葉より芳し・・・白檀(びゃくだん)は、芽が出るころから、すでに芳しい。大成する人は幼少のときから優れているというたとえ。
そんな聡明な皇帝が、証拠てんこ盛りのバレバレの不正を見抜けないはずがない。
では、乾隆帝は情に厚かった?
ノー、その真逆。こんなエピソードが残っている。
乾隆帝は、即位してすぐに、冷酷さをみせつけた。厳格で知られた父の雍正帝さえ、死を免じた曾静(そうせい)と張熙(ちょうき)を、一族もろとも処刑したのである。
つまり、乾隆帝は、温情主義どころか、血も涙もない冷徹な君主だったのだ。
じゃあなんで、和珅だけ?
じつは、あっと驚く逸話が残っている。現代の憶測ではなく、当時の史書に記されているのだ。
参考文献:
・週刊朝日百科世界の歴史98、朝日新聞社出版
by R.B