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週刊スモールトーク (第399話) テンプル騎士団(2)~フィリップ4世の陰謀~

カテゴリ : 人物歴史社会

2018.07.15

テンプル騎士団(2)~フィリップ4世の陰謀~

■陰謀のはじまり

1307年10月12日、フランスで不可解な事件がおきた。

テンプル騎士団のメンバーが全員逮捕されたのである。

容疑は「異端」・・・ありえない!?

というのも、テンプル騎士団は「異端」を取り締まる側だったから。しかも、ローマ教皇直属の騎士修道会。そんな、カトリックのエリート集団が、魔女とか、危険な異端説をふれまわるはずがない。

テンプル騎士団の影響力は「聖」だけでなく「俗」にもおよんでいた。ヨーロッパ諸国の王から莫大な寄進を集め、大金持ちだったのである。「ブランド力+資金力+軍事力」と三拍子そろった一大勢力だったわけだ。それが、ある日突然、全員お縄に!?

逮捕された団員は、「異端審問(異端を裁く宗教裁判)」にかけられ、全員有罪となった。その後、拷問で自白を強要されたことが発覚し、一旦、自白は取り下げられた。

ところが、そこでフランス王の勅命が発せられた・・・全員が有罪、うち数十人が火あぶりに!

一体、何がおきたのだ?

■借金大国フランス

1099年、十字軍がエルサレムを占領した。その後、エルサレムを維持するために宗教騎士団が設立された。騎士が修道士も兼ねる「騎士修道会」である。「騎士」は城塞を守る兵士、「修道士」は神殿を守る聖職者を意味する。つまり、一人二役。

宗教騎士団の中で有力だったのは、ヨハネ騎士団、テンプル騎士団、テュートン(ドイツ)騎士団である。いずれも戦う修道会で、対イスラム戦ではそれなりに活躍した。一方、商売に長けた騎士団もあった。テンプル騎士団である。銀行業で一財産築いたのだ。

当時、エルサレム巡礼は危険な旅だった。見知らぬ異郷の地を何千kmも行くのである。襲撃をうければ、現金はもちろん、命もあぶない。そこで、テンプル騎士団は、巡礼者相手に、現金の預け入れ、払い戻しのサービスをはじめた。その莫大な資金を、ヨーロッパ諸国の王に貸付け、利息でも儲けたのである。

その一番のお得意さんが、フランス王室だった。

その頃、フランスは巨額の財政赤字に苦しんでいた。それをテンプル騎士団から借金でまかなっていたのだが、「フランスの国庫=テンプル騎士団」というありさまで、にっちもさっちもいかない。借金は問題解決ではない、問題の先送りなのだ。

借りた金、返せよ・・・

ところが、フランスは返済するどころか、さらに借金を重ねていた。いわば自転車操業で、負債は膨らむばかり。

ではなぜ、フランスはそれほど物入りだったのか?

フランス王は絶対王政を目指していたのだ。王を頂点とする強力な中央集権国家である。そのためには、官僚機構と常備軍が欠かせない・・・つまり、金食い虫。

■淡麗王か醜悪王か?

フランス王フィリップ4世は「淡麗王」とよばれた。顔立ちが美麗だったからだが、心は醜悪・・・目的のためには手段を選ばない、血も涙もない冷血漢、というわけだ。

フィリップ4世は政治改革をもくろんでいた。他国にさきんじて、絶対王政を確立し、ヨーロッパの一等国にのしあがる・・・目標と意気込みは立派なのだが、手段がえげつない。テンプル騎士団に濡れ衣を着せ、解体し、財産を没収する。これで、借金はチャラどころか、おつりがくる、というのだから・・・血も涙もない。

とはいえ、テンプル騎士団はカトリックのトップブランド。下手に手を出せば、キリスト教国を敵をまわす。なにか妙案はないものか・・・

1291年、フィリップ4世に朗報がとどく。十字軍の拠点、アッコンが陥落したというのだ。これはキリスト教国にとって衝撃の事件だった。シリアの十字軍拠点がすべてイスラム教国に奪われたのだから。

ところで、フィリップ4世はキリスト教徒なのに、なんで朗報?

テンプル騎士団が悪者になったから。

いわく・・・テンプル騎士団は何をやっているのだ!イスラム軍に連戦連敗とは情けない。そのくせ、莫大な資産を貯め込んでいる。戦う修道会なのか、蓄財の修道会なのか、はっきりしろ!と言ったかどうかさだかではないが、テンプル騎士団の信用は地に落ちてしまった。

狡猾なフィリップ4世がこんなタナボタを見逃すわけがない・・・テンプル騎士団を潰すのは今だ!

とはいえ、言うは易く行うは難し。相手はカトリックのエリート、カンタンには潰せない。誰もが納得する「大義名分=罪」が必要だ。「不正蓄財」程度の軽い?罪ではムリだろう。やるなら、カトリック最大の罪「異端」しかない!

ところが、これも問題だった。「異端」は異端審問でしか裁けないのだ。しかも、異端審問はキリスト教会(ローマ教皇)の特権で、世俗の王には手が出せない。ローマ教皇の許可が必要なのだ。

では、フィリップ4世はどうやったのか?

■アナーニ事件

じつは、フィリップ4世は「ローマ教皇」を屁とも思っていなかった。

1303年9月の「アナーニ事件」がそれを物語る。

フィリップ4世は戦費を調達するため、聖職者に課税しようとしていた。ところが、聖職者には免税特権があったから、ローマ教皇ボニファテイウス8世は激怒した。よほど腹が立ったのか、教皇はフィリップ4世を破門にしてしまう。この時代、破門は聖側の最終兵器だった。もちろん、気の強いフィリップ4世も負けてはいない。神をも恐れぬ驚くべき手段にでる。

1303年、フィリップ4世は腹心中の腹心のギヨーム・ド・ノガレをローマに派遣した。ギヨーム・ド・ノガレは反教皇派の貴族コロンナ一族と結託し、ボニファテイウス8世を教皇の座から引きずり下ろそうとする。教皇が滞在している避暑地アナーニを急襲し、退位を迫ったのである。拒否されると、顔面を殴打し、殺害寸前までいったという。それを聞きつけた教皇軍がアナーニに急行し、ボニファテイウス8世を救出した。命だけはとりとめたわけだ。

ところが、ボニファティウス8世はその辱めから立ち直ることができなかった。それから1ヶ月もたたないうちに、急逝したのである。血圧が上がって脳梗塞か心筋梗塞かは不明だが、歴史上は「憤死」ということになっている。

ボニファティウス8世は被害者で、フィリップ4世は大悪党?

そうとも言い切れない。

■フィリップ4世の野望

キリスト教史上最高の聖人は?

イエスをのぞけば、フランチェスコ修道会を創始したフランチェスコだろう。清貧をきわめ、アルヴェルナ山で祈りと贖罪と瞑想の生活を送り、イエスと同じ聖痕をうけたのだから。回心してから最後の瞬間まで、一点の曇もない聖人だった。

一方、憤死したボニファティウス8世は「聖」より「俗」の教皇だった。世俗化した教皇の権化、教皇アレクサンデル6世の足元にもおよばないが、支配地拡大に余念がなかった。

その証拠もある・・・

「神曲」で知られる詩人ダンテだ。彼の哀れな末路は、教皇ボニファティウス8世の「支配欲」に起因する。

ダンテの「神曲」を知らない人はいないだろう。地獄篇・煉獄篇・天国篇の3部からなる壮大な物語だ。一方、ダンテは、1295年からフィレンツェの代表委員という要職にあった。そのとき、ボニファティウス8世がフィレンツェに内政干渉したのである。ダンテはそれに立ち向かったものの敗北、教皇派によってフィレンツェを追放されてしまった。

その亡命生活の中で、書いたのが「神曲」だった。追放されたダンテは、ラヴェンナの君主ポレンタラヴェンナに仕え、その地で客死した。死後、ダンテの名声が高まり、フィレンツェはダンテの遺体の返還を求めたが、拒否された。フィレンツェのサンタ・クローチェ教会に置かれたダンテの石棺は、今も空のままである。

だから・・・フィリップ4世Vs.ボニファティウス8世の戦いは、善悪でははかれない。どっちも世俗の土俵で戦っているのだから。

その後、フィリップ4世はローマ教皇庁への圧迫を強めていく。

1305年6月、フランス人の教皇クレメンス5世を擁立し、教皇庁をローマから南フランスのアヴィニョンに移転させた。強引な大技だが、これを「教皇のバビロン捕囚」という。カトリックの総本山「教皇庁」が、ヴネッサン伯領という小さな領国に閉じ込められたのだ。こうして、教皇はフィリップ4世の傀儡となった。

1312年、教皇クレメンス5世は、テンプル騎士団の解散を許可した。黒幕は、もちろんフィリップ4世である。テンプル騎士団は直属の上司によって破滅されられたわけだ。

ローマ教皇を殺害寸前まで追い込んで、憤死させ、傀儡の教皇を擁立し、教皇庁を自国に移転させる。さらに、テンプル騎士団を解体し、財産を没収、団員を火あぶりにする・・・神を恐れぬ、大胆不敵な所業だ。

でも一つ疑問が・・・フィリップ4世をそこまで駆り立てたものは、何だったのか?

《つづく》

参考文献:
週刊朝日百科世界の歴史37巻、朝日新聞社出版

by R.B

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