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週刊スモールトーク (第80話) 硫黄島の戦い(3)~玉砕~

カテゴリ : 戦争

2007.01.13

硫黄島の戦い(3)~玉砕~

■空爆

1945年2月19日午前6時、太平洋戦争における最大の激戦が始まった。硫黄島を包囲するアメリカの大艦隊が、一斉に砲撃を開始したのである。戦艦、巡洋艦、駆逐艦から発射された無数の砲弾が硫黄島を直撃した。つづいて、空母から発進した爆撃機が絨毯爆撃する。さらに、ナパーム弾が硫黄島の大地を焼き尽くした。通常爆弾は運動エネルギーで、ナパーム弾は熱エネルギーで兵士と施設を破壊する。物理的打撃にくわえ、熱エネルギーですべてを焼き尽くそうというのである。圧倒的な物量を誇るアメリカ軍お決まりの先制攻撃だった。これだけ叩けば、日本軍は相当な損害が出ただろうし、今頃はおじけついているかもしれない。

アメリカ軍は、上陸前の華々しい攻撃に満足し、硫黄島への上陸を決断した。だが、敵前上陸ほど危険な任務はない。海岸には一切の遮蔽物がなく、平坦な海と砂浜が広がるだけ。逃げも隠れもできないのだ。一方、陸に潜む敵からは丸見えで、格好の標的になる。そこへ、低速の上陸用艦艇でよたよたと上陸するのである。練度の低い新兵など投入しようものなら、悲劇は見えている。一斉攻撃でパニック、逃げ場もなく、右往左往したあげく、全滅。このような危険な任務のため、陸、海、空につぐ第4の軍として創設されたのがアメリカ海兵隊である。海兵隊による軍事作戦は、通常、海兵師団を単位として運用される。師団とは、攻撃部隊、補給部隊、医療部隊を擁し、軍隊として独立行動がとれる最小単位である。時代や国よっても異なるが、1個師団は、7000~20000名で編成され、最高司令官には少将、中将クラスが任命される。

■上陸

2月19日午前9時、アメリカ第4、第5海兵師団が硫黄島に上陸を開始した。上陸用艦艇482隻が、硫黄島の南海岸に着岸、兵士たちが次々と上陸する。上陸部隊にとって、最も危険な瞬間である。上陸した兵士たちは、水際で迅速な動きがとれない上、敵に丸見えだからだ。先発のアメリカ海兵師団は、水際での猛攻を覚悟していたが、意外にも、日本軍は無音だった。やはり、日本軍は先制攻撃で損害を受け、おじけついたのだ。アメリカ軍は安堵した。

午前10時過ぎ、海兵師団第一波の9000名が、すべて上陸を完了する。「俺たちがやっつける日本兵は残っているのかな」と心配する海兵隊員もいたという。それほど平和な敵前上陸であった。上陸後、アメリカ軍はただちに橋頭堡(きょうとうほ)の確保にとりかかる。橋頭堡とは、敵陣地へ侵攻したとき、攻勢に出るために築く前進基地のことである。敵陣地内で橋頭堡がないと、足場がないので、守備も弱いし、攻撃もままならない。だが、いったん橋頭堡を築けば、兵力、物資に勝るアメリカ軍が圧倒するはずであった。アメリカ軍の兵士たちはこう思ったに違いない。あともう少しだ、もう少しで戦いは終わる。

そのときだった。突如、硫黄島に轟音がとどろいた。日本軍の一斉攻撃が始まったのである。日本軍はおじけついたのではなかった。地下陣地に身を潜め、反撃の機会をうかがっていたのである。

■反撃

それまで、大地にしか見えなかった茂みや窪みから、機関銃、迫撃砲、野戦砲が次々と火を噴いた。機関銃と野戦砲の砲弾は直進し、その直線上で、アメリカ軍を撃ち抜いた。迫撃砲の砲弾は大きな放物線を描き、アメリカ軍陣地で炸裂し、あたり一面を破壊した。直線、曲線、窪み、茂み、あらゆる場所、あらゆる方角から、銃弾と砲弾がアメリカ軍に襲いかかった。海岸では、海兵隊の先陣9000名がすでに上陸しており、狭い砂浜には、兵士、戦車、武器、弾薬、燃料、食料でごったがえしていた。そこに、日本軍の大火力が集中したのである。海岸にいたアメリカ軍は大混乱に陥った。

また、上陸地点から離れた洞くつには、混成第2旅団の砲兵隊がおり、200ミリ榴弾砲を撃ち込んだ。「榴弾(りゅうだん)」は、爆発時のエネルギーで砲弾の殻を粉砕し、その飛び散る破片で兵士を殺傷する。陸上戦における最もポピュラーな砲弾で、歩兵や建物に対し有効である。さらに、日本軍は大型の迫撃砲までもっていた。迫撃砲は、野戦砲と違い、大きな放物線を描くため、発射地点を特定しにくい。しかも、アメリカ軍の迫撃砲より砲弾が大きく、破壊力は絶大だった。アメリカ軍は、日本軍が水際で攻撃しなかったこと、思いもよらぬ大火力を隠し持っていたことに、驚愕した。

実際、それまでに玉砕したサイパン、グアム、テニアンでは、日本軍は水際作戦をとっていた。アメリカ軍が上陸するとともに、日本軍は砲撃を開始、逆に位置が特定され、アメリカ軍の艦砲射撃、爆撃機の猛攻撃をうけて壊滅。戦闘開始早々に、バンザイ突撃で幕が降りたのである。しかし、今回は違った。

■戦車

アメリカ軍は、自慢のM4シャーマン戦車も投入したが、硫黄島の日本軍には、47ミリ速射砲があった。速射砲とは対戦車砲の別名で、読んで字の如く、戦車を破壊するための火砲である。戦車の装甲は厚い、それも驚くほど。硫黄島戦に投入されたM4シャーマン戦車の最大装甲は75mmもあった。厚さ7.5センチの鋼板を想像して欲しい。ちなみに、自動車の鋼板の厚さは約3mm。戦車の装甲が、ピストルや機関銃ではどうにもならないことは、誰でも想像がつく。だから、歩兵が戦車に対抗するには対戦車砲は欠かせない。

また、対戦車砲では先の「榴弾」ではなく「徹甲弾(てっこうだん)」を使う。榴弾は、炸裂した破片で標的を破壊するが、厚さ7.5センチの戦車が相手では意味がない。そこで、「重くて硬い」がとりえの徹甲弾を使うのである。爆発しても意味はないので、爆発用の炸薬も不要だ。

この「重い砲弾」を極めたのが悪名高い劣化ウラン弾である。ウランの比重は、重い金属で知られる鉛の1.7倍。だが、その名のとおり、劣化ウランは放射性物質である。つまり、人体と環境に災いをもたらす。劣化ウラン弾は湾岸戦争とイラク戦争で使用された。アメリカの主力戦車M1A1エイブラムスが劣化ウラン弾を撃ちまくり、絶大な戦果をあげたが、発射時に飛散した放射性物質が戦車兵の身体まで蝕んだのである。撃たれるほうも、撃つほうも、放射能汚染、恐ろしい兵器である。

硫黄島の戦いに話をもどそう。硫黄島を守る日本軍は、47mm速射砲(対戦車砲)で、M4シャーマン戦車を迎え撃った。不意をつかれたこともあり、先陣を切ったM4シャーマン戦車部隊は、56両のうち28両までが破壊された。アメリカ軍にとって信じがたい光景であった。「47ミリ速射砲がM4シャーマンの砲塔を貫通、戦車内に積んであった砲弾が爆発し、乗員全員はゼリー状の液体となり、それが一つのネバネバした液体へと溶け合った(※)」恐ろしい惨状である。

こうして、上陸初日の19日、アメリカ上陸部隊3万1000名のうち、戦死者501名、負傷者1755名。これは、アメリカ軍の被害としては歴史的な記録である。上陸4日目の2月22日、ニミッツ元帥は、上陸51時間後の死者は644名、負傷者が410名、行方不明560名、と発表した。すぐに、アメリカ国内から非難の声があがった。歴史上最大の作戦といわれたノルマディー上陸作戦より犠牲者が多いではないか!ノルマディー上陸作戦とは、連合国軍がドイツ占領下の西ヨーロッパに侵攻した作戦で、史上最大の作戦といわれた。連合国側の参加兵力は、兵数300万人、艦船6000隻、航空機1万4000。超弩級のスケールである。その戦いより犠牲者が多いとは、どういうことだ?

硫黄島の将軍たちが非難をあびたのは当然であった。見方を変えれば、硫黄島の戦いがいかに激戦であったかを示している。

■死闘

それでも、物量に勝るアメリカ軍は、ジリジリと日本軍を追い詰めていった。だが、戦闘が楽になる気配は全くなかった。アメリカ兵は、目に見えない敵と戦う恐怖におびえた。日本軍の砲台は完全に遮蔽されているので、場所が特定できない。さらに、日本兵は、不意に洞くつから飛び出し、撃つ、斬りつける、と肉弾戦を挑んでくる。そして、不利とわかれば、すぐに坑道に逃げ込んでしまう。とりつくしまがなかった。日本軍はアメリカ軍をあえて上陸させ、地の利を活かし、神出鬼没の攻撃で、ネチネチ苦しめたのである。硫黄島守備隊の総司令官、栗林忠道中将の作戦は見事的中した。

アメリカ軍はこの地下要塞を無効にするため、無慈悲な方法を思いついた。まず、洞くつ陣地の入口を砲撃でふさぐ。その後、上部の岩に削岩機で孔をあけ、黄燐(おうりん)とガソリンを注入して火をつけたのである。黄燐は自然発火するほど燃えやすく、猛毒である。日本兵が潜む小さな空間を、地獄の業火で焼き尽くそうというのだ。だが、これを責めることなどできようか?戦友が日本刀で斬りつけられ、内臓がはみだし、それを自分の手で元に戻そうとする絶望的な光景を目の当たりにすれば、誰だって冷酷になる。これは地球上で具現化された地獄なのだ。

上陸5日目の2月23日。アメリカ軍は甚大な損害をだしながらも、当面の目標の擂鉢山(すりばちやま)を占領した。このまま一挙に押し切れる、ところがここで、日本軍の猛反撃が待ち受けていた。島の中央に位置する元山飛行場と玉名飛行場をむすぶライン上にいた混成第2旅団である。この旅団のもつ強力な47ミリ速射砲により、米軍戦車部隊が、2日間も進軍を阻止されたのである。つづく2月24日、飛行場で血で血を洗う白兵戦が展開された。くんずほぐれつの壮絶な肉弾戦で、アメリカ軍はついに撤退。全く予想外の展開だった。苦しんだアメリカ軍は、ついに予備の第3海兵師団まで上陸させる。この時期に、予備兵力を投入することなど思いもよらなかっただろう。

2月27日、やっとのことで、元山飛行場を占領する。まさに血で血を洗う死闘であった。新手を投入し、戦力と士気を回復したアメリカ軍は、日本軍を徐々に追い詰めていく。日本軍はすでに火器も弾薬も不足していた。もちろん、補給は望めない。日本兵は爆薬を詰め込んだカバンをかかえ、戦車に体当たりし自爆していった。また、死体から内臓を取り出して身体にまきつけ、死体を装い、敵をやり過ごした後、背後から襲いかかる。アメリカ軍は全体としては優勢だったが、局地戦では地獄の戦いを強いられていたのである。

■バロン西

また、硫黄島の戦いで語り継がれるエピソードがある。硫黄島を守る戦車連隊の指揮官、西竹一中佐である。西中佐は、男爵家の継承者であり、ロサンゼルスオリンピックの馬術の金メダリストでもあった。彼は男爵(バロン)であることから、欧米では「バロン・ニシ」の名で知られていた。硫黄島に上陸したアメリカ軍は、この偉大なメダリストの命を救おうと、最大限の敬意を払い、投降を呼びかけたという。しかし、西中佐は一顧だにせず、最後には突撃して果てたと言う。

ところが、このエピソードはクリント・イーストウッド監督の映画「硫黄島からの手紙」には登場しない。よく考えれば、不思議な話だ。アメリカ軍は、硫黄島守備隊の総司令官の名前さえ知らなかった可能性があるのに、どうして一佐官のことなど知り得ただろうか?

■硫黄島その後

1945年3月16日、最期のときが来た。硫黄島守備隊の総司令官、栗林中将は最後の総攻撃を決意、大本営に訣別の電報をうった。その中に、次の句が詠まれていた。

「国の為、重きつとめを、果たし得で、矢弾尽き果て、散るぞ悲しき(国のため、任務を果たさないのに、力尽きて死ぬのは、悲しいことである)」

こうして、硫黄島の40日間の戦いは終わった。一部残された日本兵は、地下陣地に隠れ戦いを続けたが、硫黄島の支配者はアメリカ軍であった。硫黄島の基地には、終戦までに2251機のB29が硫黄島に不時着し、多くのパイロットの命が救われたという。

この後、大規模な日本本土空爆が始まった。東京をはじめ、日本の主要都市の多くが焼き払われ、多数の市民が命を奪われた。そして、1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下された。硫黄島が陥落してから、5ヶ月後のことであった。

ここに一葉の写真がある。「摺鉢山の頂上に星条旗を掲げる海兵隊員たち」。アメリカ海兵隊が硫黄島に上陸した5日目の1945年2月23日。5人の海兵隊員が摺鉢山の頂上に星条旗を掲げた日、つまり、東京都がアメリカに占領された日である。写真には、5人の海兵隊員と星条旗が映っている。空と雲しかない背景、瓦礫の上で、渾身の力で星条旗を立てようとする5人の海兵隊員たち。彼らにとって、この星条旗が何にも代え難いものであることが、無言で伝わってくる。構図、アングル、気迫、すべが感動的だ。この5人の海兵隊員は、思いもよらず、アメリカの国民的英雄となったが、本国に帰還できたのは2人だけであった。

この一葉の写真にも、硫黄島の死闘が記されている。硫黄島で、日米合わせて8万2000人が戦い、4万9686人が死傷、2万6721人が戦死した。戦闘に参加した兵士の60%が死傷し、33%が戦死したことになる。歴史上まれにみる激戦であった。また、周囲22kmほどの小さな島で、しかもたった40日間で、これだけの人命が失われたことに、強い衝撃を覚える。この小島は、40日間だけ地球上に出現した地獄だったのである。そのためか、硫黄島では、今でも不可解な噂が絶えないという。

《完》

参考文献:(※)別冊歴史読本硫黄島の戦い新人物往来社【図説】太平洋戦争池田清編太平洋戦争研究会著河出書房新社太平洋戦争日本帝国陸軍成美堂出版

by R.B

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