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週刊スモールトーク (第342話) 明の太祖・朱元璋(23)~馬皇后~

カテゴリ : 人物歴史

2016.12.24

明の太祖・朱元璋(23)~馬皇后~

■理想の伴侶

この世は、適者生存、弱肉強食が支配する世界。

そんな殺伐としたフィールドを旅するのは骨の折れることだ。せめて、心から信頼できる伴侶がいたら、と思う。

見果てぬ夢、妄想?

ところが、そんな理想の伴侶が実在したのだ。

時は14世紀、紅巾の乱が吹き荒れる中国・・・

極貧から身を起こした朱元璋は、仲間と力をあわせて中国を統一した。明朝を開き、太祖・洪武帝となったのである。

中国史上、平民出身の皇帝は2人しかいない。明の朱元璋と漢の劉邦である。

ところが、明朝が成立すると、朱元璋は誰も信じなくなった。

妻の馬皇后をのぞいて・・・

馬皇后は、中国史において「皇后の鏡」とされている。

日本の戦国時代の山内一豊の妻も「内助の功」で有名だが、馬皇后は次元が違う。

夫を影で支えて・・・どころではないのだ。

夫の筆頭秘書として、あるいは参謀として、政務を助け、ときには、家臣との間をとりもち、命懸けで夫を守ったのである。

洪武帝が結婚したのは、洪武帝25歳、馬皇后21歳のときだった。

この頃、二人は貧しかった。もちろん、皇族でも、貴族でも、大地主でもない。洪武帝は、まだ朱元璋を名乗り、紅巾軍の分隊長にすぎなかった。馬皇后はその妻だったのである。

しかも、洪武帝は極貧の生まれ、一方の馬皇后も出はよくなかった。

馬皇后の父は「馬公」、つまり名はわからない。その娘が郭子興の養女になり、朱元璋に嫁いだわけだ。

馬公の娘が、郭子興の養女になった理由には、2つの説がある。

一つは、郭子興が挙兵したとき、馬公も合流しようとしたが、不慮の死をとげ、それを哀れんだ郭子興が馬公の娘をひきとった。

もう一つは、馬公が殺人を犯し、逃亡する際に、娘を郭子興に託した。

いずれせによ、馬公と郭子興の間には強い絆があったことは間違いない。さらに、馬公は反乱勢力か、逃亡犯なのだから、出が良いとは言えない。事実、馬皇后ははじめは無学文盲だった。

洪武帝と馬皇后の出会いは、洪武帝が紅巾軍に入隊したときにさかのぼる。洪武帝がまだ「重八」を名乗っていた頃である。重八は、入隊すると、すぐに頭角を現した。作戦を立てるのがうまく、戦闘の指揮もたくみで、必ず勝利するのである。

軍隊経験もないのに即戦力?

どういうこと?

子供の頃死ぬほど苦労したから。

物心もつかないうちに、親兄弟を失い、天涯孤独となった。その後、皇覚寺(貧乏寺)にあずけられたが、そこも食うや食わず。2ヶ月で追い出された。「托鉢行脚(たくはつあんぎゃ)」に出されたのである。

「托鉢行脚」とは仏僧の修行だが、実態は乞食に近い。信者の家を巡回し、お経をあげて、食べ物を恵んでもらうのである。

ところが、この乞食旅で重八はグレードアップした。

どうやったら食べ物を効率よく確保できるか。人間の心と社会の仕組みを学んだのである。さらに、何があってもへこたれない忍耐力も身につけた。人生何が幸いするかわからない。

ただし、これは「重八の即戦力」の理由の半分にすぎない。托鉢行脚の貧乏僧は山ほどいたから。

では、残り半分は?

究極のリアリスト(現実主義者)・・・大業をなしとげるDNAのホルダー。古今東西、このDNAなくして大成した指導者はいない。

その象徴が、ロシアのスターリンだろう。一方、ライバルのヒトラーは聡明で稀有の勝負師だったが、リアリズム(現実主義)が欠落していた。だから、不毛なイデオロギー(人種差別)に執着しチャンスを逃し、スターリンにしてやられたのである。

朱元璋にはこの「リアリストDNA」があった。スターリンに優るとも劣らない最強の・・・

紅巾軍の大元帥・郭子興はそんな朱元璋に目をかけた。

自分の幕僚にくわえ、そばから離さなかったのである。さらに、自分の養女を朱元璋に嫁がせた。

もちろん、郭子興には打算があった。

その頃、郭子興は、紅巾軍の他の元帥と対立していた。孫徳崖(そんとくがい)を親玉とする4人組である。頭の良さでは郭子興に分があるが、数の上では「1対4」と劣勢。そこで、3人力の朱元璋を味方にし、「4対4」をもくろんだかはさだかではないが、功を奏したことはたしかだ(本当は朱元璋は1000人力)。

一方、郭子興の張夫人もこの結婚には大賛成だった。

郭子興はケンカ早く、他の元帥たちと反目していることを知っていたのである。冷静で切れ者の朱元璋が身内になってくれたら、どんなに心強いか。

洪武帝と馬皇后の結婚は、偶然と必然の産物だったわけだ。

馬皇后は、学がなく美人でもなかった。ただし、それをおぎなってあまりあるものがあった。心が優しく、賢明で、「夫を支える」意識が高かったのだ。

もちろん、今流行の「意識高い系」とは根本が違う。馬皇后の「意識高い」は演出が皆無で、成果が突出しているから。

朱元璋(洪武帝)を「郭子興のイジメ」から救ったのも、朱元璋と家臣団との間をとりもったのも、民心を落ち着かせ落城をまぬがれたのも、すべて、馬皇后のおかげ。もし、馬皇后がいなければ、明朝は歴史年表から消えていたかもしれない。

「郭子興のイジメ」?

郭子興が朱元璋をイジメたのである。自分の幕僚にくわえ、養女を嫁がせておきながら、一体何を考えているのだ?

じつは、郭子興は性格に問題があった。

郭子興は、農民しかいない紅巾軍にあっては、インテリだが、短気で疑り深く、気分屋。朱元璋を頼りにしているくせに、気分次第であたり散らすのである。

あたり散らすだけなら、その場を我慢すればいいが、実害をともなうこともあった。朱元璋が育て頼りにしていた家臣を取り上げられたのである。それでも、朱元璋は文句一つ言わなかった。

その後もイジメは続いたが、朱元璋は郭子興に従順に仕えた。それをみて、馬夫人は胸を痛めた。そこで、自分のへそくりを郭子興の張夫人に渡して、郭子興が朱元璋につらくあたらないよう懇願した。

それでも、郭子興のイジメはおさまらなかった。

あるとき、朱元璋の命にかかわることがあった。カンシャクをおこした郭子興が、朱元璋を幽閉し飲食物を与えなかったのである(イジメを超えている)。

馬夫人はそんな夫が哀れでたまらなかった。そこで、蒸かした饅頭を胸に隠して、朱元璋のもとに届けた。おかげで、朱元璋は死なずにすんだが、馬夫人の胸は真っ赤にやけどしたという。

心あたたまる話でも、心が熱くなる話でもなく、胸がヤケドしたのだ!

シャレてる場合ではない。

こんな奥さん(伴侶)が本当にいたのである。もし、自分の奥さんだったら、天下統一はムリにしろ、あと1センチぐらいは出世できたかも(奥さんに殺されるぞ!)

さらに、こんな「心あたたまる話」もあった・・・

馬夫人は日頃から、干し飯や塩漬けの肉を少しづつ蓄えていたという。自分の食べる分を削って、何かあったときには、夫にはお腹一杯食べさせたい・・・心あたたまるどころか、胸が熱くなる。

さらに、馬夫人は冷静沈着で、人心掌握の術まで心得ていた。

明朝が成立する前、1360年初頭のことである。

朱元璋は、北部に元朝の大攻勢をうけ、南部に陳友諒と張士誠の圧迫をうけていた。そんなおり、陳友諒が大軍を率いて応天に侵攻したのである。応天(南京)は朱元璋の本拠地で都城があった。

陳友諒の大軍が、都城に迫る!

城下は大パニックに陥った。荷車に財産を積み込んで逃げ出す者までいた。

ところが、馬夫人は冷静だった。

宮中から財物をとりだし、手柄を立てた将兵に分け与えたのである。踏みとどまって、がんばれば報われることをアピールしたわけだ。さらに、馬夫人はいつでもどこでも悠然としていた。

これで、応天の街は冷静さをとりもどした。城主の夫人が、あんなに落ち着いているのだから、方策があるに違いない。城が陥落することはないだろう・・・

もちろん、「冷静なら勝てる」ほど世の中は甘くない。

このときは、名参謀の劉基の賢策で乗り切っている。ところが、劉基は、後に淮西派閥の有力者、胡惟庸に毒殺された。その胡惟庸も反逆罪で処刑されるのだが。

このように、馬夫人は聡明だったが、学があったわけではない。それどころか、文字も読めなかったのだ(この時代の中国では珍しいことではない)。

そこで、馬夫人は文字を学んだ。さらに、皇后になってからも、女官から毎日読み方を習い、多くの歴史書を読んだ。歴史から「皇后はいかにあるべきか」学ぼうとしたわけだ。これほど高い意識があれば、成果が出てあたりまえ。事実、これが後に大いに役立つのである。

朱元璋はメモ魔だった。

何か閃くと、その場でメモるのはいいが、その後ほったらかし。

そこで、馬夫人はメモを小まめに整理していた。朱元璋が「あれはどうだった」とか、尋ねるとすぐに、メモをとりだして答えるのだった。

この二人三脚は明朝成立後もつづいた。

洪武帝(朱元璋)は、このような馬皇后を誇りに思っていた。

もちろん、馬皇后の「蒸した饅頭」は片時も忘れたことはない。洪武帝はこの話を家臣に何度も何度も聞かせたという。馬皇后への感謝の念と愛情は鉄板だったのである。

洪武帝は、このような馬皇后を、唐の長孫皇后と並び称した(長孫皇后も理想の皇后とされる)。

それを聞いた馬皇后は、こう答えたという。

「わたしは長孫皇后とは比べようもありません。夫婦が助け合うのは当然のことです。けれど、家臣たちと同じようにするには難しいことです。陛下がわたしと過ごした貧苦の日々をお忘れにならないように、家臣の方々と乗り越えてきた苦難の日々をお忘れにならないように」(※)

胸が熱くなる・・・どころか胸が焼け焦げる。

さらに、馬皇后はそれを行動でしめした。洪武帝が激情にかられ、家臣を謀殺しようとするのをやめさせたのである。

身内の中にも助けられた者がいた。

洪武帝の甥、朱文正である。

あるとき、朱文正の幕僚が罪を犯した。洪武帝は、朱文正も同罪と考え、死罪にしようとした。ところが、馬皇后は、朱文正のこれまでの功労をあげ、若いのだから、今回ばかりは許すように請うた。間一髪、朱文正は救われたのである。

さらに、徐達とともに元軍と戦った大将軍・李文忠も、馬皇后に命を救われた。

李文忠が厳州を守っていたときである。

検校(秘密警察)の楊憲が、李文忠の不正を告発した。洪武帝は、ただちに李文忠をよびもどそうとしたが、馬皇后はそれを止めた。

「厳州は敵地と境を接している要地で、守りの大将を軽々しくかえては軍事に支障をきたします。それに、李文忠はこれまで、皇帝に誠意をもって仕えており、楊憲の讒言をうのみにしてはなりません」

楊憲は切れ者だった。だからこそ、朱元璋は信頼し、検校(秘密警察)に抜擢したのである。しかし、楊憲は人を陥れることを生きがいにしていた。そのため、多く者が濡れ衣を着せられ殺されたのである。

馬皇后はそれを見抜いていたのかもしれない。それに、この諫言は、夫をささえる妻のそれではない。軍師か幕僚の具申である。

事情はどうであれ、李文忠の命はつながった。

つまりこういうこと。

馬皇后は「内助の功」の範疇ではなく、明朝の「大功労者」だったのである。

そんな馬皇后にも、最期のときが来た。

1382年、馬皇后は大病をわずらい、危篤に陥った。

すると、馬皇后は薬を一切口にしなくなった。医師が責任を問われることがないように・・・

馬皇后の聡明さと優しさは、最後の最後まで変わらなかったのである。

1382年8月、馬皇后は逝った。享年51歳。

洪武帝は、人目もはばからず慟哭した。

そのときの悲しみが、いかに深いものであったか、それを示す証拠がある。

洪武帝には、多くの妃嬪(側室)がいたが、二度と皇后を立てることはなかったのである。

その後、洪武帝はダークサイドに堕ちていく。

馬皇后亡き後、洪武帝の謀殺を止められる者はいない。大粛清がはじまったのである。

馬皇后が死んで3年後、元右丞相の徐達が毒殺された。つづく1390年、元左丞相の李善長が自害させられた。明朝開闢の大功労者、ナンバー1とナンバー2が粛清されたのである。

この後も粛清は続く。最大の疑獄事件となった「胡藍(こらん)の獄」では4万人が殺された。

歴史にIFはない。でも、もし馬皇后がもっと長生きしていたら、4万人の命は救われていただろう。

一方・・・

絢爛豪華な「永楽帝の治世」も、壮大な「鄭和の大航海」も歴史年から消える。地味な明朝の歴史が延々と続くわけだ。

どっちがいい?

は不毛な問いかけだ。これが歴史というものなのだから。

《つづく》

参考文献:
・「超巨人朱元璋・運命をも変えた万能の指導者」原作:呉晗、堺屋太一、志村嗣生、志村三喜子、講談社
・週刊朝日百科世界の歴史58、朝日新聞社出版

by R.B

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