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週刊スモールトーク (第337話) 明の太祖・朱元璋(18)~全反乱軍を平定~

カテゴリ : 人物歴史

2016.11.20

明の太祖・朱元璋(18)~全反乱軍を平定~

■適者生存

1363年、朱元璋の天敵・陳友諒が死んだ。

その後、息子の陳理も投降、陳友諒が産み育てた「大漢」は完全に滅んだのである。

この時点で、朱元璋の敵は、北方の「元朝」と南方の「反乱軍」のみ。ところが、元朝は内部抗争で忙しく、反乱軍にかまっているヒマはない。結果、当面の敵は「反乱軍」にしぼられた。

この頃の勢力図をみると・・・

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まず、大きく、

北方の元朝Vs.南方の反乱軍

後者の南方の反乱軍にしぼると、

朱元璋Vs.張士誠Vs.方国珍

ただし、方国珍は非力なので、じつのところ、

朱元璋Vs.張士誠

この頃、朱元璋の領国は「西呉」、張士誠は「東呉」とよばれていた。両者とも「呉王」を称していたから。つまり、南方の2強は朱元璋と張士誠だったわけだ。

ところが、張士誠は陳友諒ほどの才覚はなかった。疑り深く、用心深いのはいいが、グランドデザインが描けない。しかも、フットワークが重いので、好機を逃すこともたびたびあった。おかげで朱元璋は命拾い・・・

ところが、1364年以降、張士誠の勢力が急伸する。

グズグズで煮え切らない性格が、環境にマッチしたのである。強い者が生き残るのではなく、環境に適応した者が生き残る・・・自然淘汰・適者生存のルールが証明されたわけだ。

「煮え切らない」が適者生存?

■張士誠の適者生存

張士誠は反乱軍に身を置きながら、革命とか反元朝とか、小難しい話はドーデモよかった。頭にあるのは私利私欲と損得勘定。事実、元朝の領土に侵しておきながら、劣勢になるとサッサと投降。

ところが、元朝は官位まで与えて、投降を受け入れたのである。

なぜか?

食糧!

じつは、元朝の都・大都は食糧を南部に頼っていた。ところが、紅巾乱の乱が始まると、南部の穀倉地帯と、北部と南部を結ぶ運河は、反乱軍に制圧された。結果、大都に食糧が届かず、「帝都が飢餓」というトンデモ事態に陥ったのである。

ちなみに、穀倉地帯を支配していたの張士誠、運河の制海権を握っていたのは方国珍。つまり、大都を救うには、張士誠に食糧を出させ、方国珍に水路運ばせるしかない。

ところが、張士誠と方国珍はお互いに信用していなかった。

張士誠は・・・おれが食糧をだしたら、方国珍が横取りするに違いない。

方国珍は・・・おれが食糧を運んだら、そのスキに張士誠が攻め込んでくる。

そんなこんなで、元朝は張士誠と方国珍を「ハレモノ」あつかい。元朝の官位をあげますよ、王を名乗ってもいいですよ、こんな「破格の待遇」を容認したのである。もっとも、大都が満腹になれば、元朝も文句はない。

ところが、それで図に乗ったのが張士誠だ。

言いたい放題、やりたい放題。元朝から高い官位をもらいながら、1363年9月「呉王」を名乗ったのである。朱元璋が「呉王」を名乗ったのは1364年1月だから、それより半年も早い。

そんなこんなで、張士誠は飛ぶ鳥を落とす勢い。この頃の元朝・南方方面軍司令官はグユクティムールだが、元朝内部の政治力では「張士誠>グユクティムール」だったという。「元朝内部」というのがミソで、その権勢がうかがえるというものだ。

張士誠の領国は、穀物、魚、塩をはじめ物産が豊富で、人口も多かった。さらに、張士誠は、内向きで決断力に欠いたが、寛大なところがあり、家臣や民から慕われていた。結果、内政は安定し、あなどれない勢力になっていたのである。

こうして、南方の戦いは「朱元璋Vs.張士誠」にしぼられた。

2者の戦いのハイライトは「諸曁(しょき)」の争奪戦である。

「諸曁」は豊かな土地で、「(諸=諸侯)が(曁=集まる)」の字のごとく、歴史的な町だった。事実、呉越戦争の勝者「越」の都だったこともある。

「諸曁の戦い」は、1363年から1365年にかけて行われた。

この間、5回の合戦があったが、張士誠は完敗、足腰を砕かれてしまった。戦さでは、朱元璋の敵ではなかったのである。そして、この戦いが朱元璋のターニングポイントとなった。

ただし、天下取りではなく、朱元璋の心の・・・

朱元璋の中に、家臣への猜疑心が芽生えたのである。それが、徐々に増大し、最終的にダークサイドへと堕ちていく。

■朱元璋のダークサイド

事の発端は、3回目の諸曁の戦いだった。

このとき、朱元璋の家臣・謝再興が、敵の張士誠に投降したのである。それも、戦さに負けて降伏したのではなく、自らすすんで。

謝再興は自他とも認める猛将だった。事実、この戦いで張士誠軍の猛攻を29日間も防いでいる。しかも、謝再興は朱元璋の従兄弟(朱文正)の妻の父、つまり、朱元璋の身内なのだ。

一体何がおこったのか?

この戦いで、謝再興は部下に禁制品を売らせていた。それが発覚し、朱元璋に厳しく罰せられたのである。

朱元璋は、軍律を重視するリーダーだった。軍律に反した者は、たとえ身内でも許さない。この時もそうだった。禁制品を売った部下を処刑して、さらしものにした。さらに、謝再興本人も副将に降格。これで謝再興はキレた。

一方、朱元璋にしてみれば・・・

身内だと思って信頼していたのに、軍律をやぶった上、寝返るとは。

この事件があってから、朱元璋は家臣を信じなくなった。それまでは、部下を信頼し、厚く遇する理想の上司だったのに。

この事件は、朱元璋の家臣への不信を決定的なものにした。

じつは、その前の1362年、「朱元璋の暗殺計画」が発覚していた。

首謀者は邵栄(しょうえい)、朱元璋の古い戦友である。

優秀な武将で、戦功は数知れない。その邵栄が趙継祖とはかって、朱元璋の暗殺をくわだてたのである。戦いにあけくれ、家族と楽しむこともできないというのが理由だった。

でも、そんなことある?

創業期から苦楽をともにしてきた歴戦の勇士が、家族団らんのために主人を殺す?

推測だが・・・

紅巾軍に身を投じた頃、朱元璋も邵栄も小明王の家来だった。ところが、気がつけば、朱元璋は呉王、邵栄はその家来。いつの間にか偉くなったもんだ、やっとれん・・・

この2つの事件で、朱元璋は完全にダークサイドに堕ちた。アナキン・スカイウォーカーがダース・ベイダーに変身したように。

ただし、朱元璋はベイダー卿より「暗黒(ダーク)」だったかもしれない。後に、軍衛法をつくり、苦楽をともにした功臣を次々と処刑したのである。その大粛清から逃れられた者はほとんどいなかった。

■張士誠の最期

「朱元璋Vs.張士誠」に話をもどそう。

諸曁の戦いの後、朱元璋は張士誠討伐を開始した。

1365年10月、朱元璋軍は淮河流域に侵攻し、すべての城を陥落させた。

一息ついた朱元璋軍は、翌1366年5月、占領地に布告を発する。その内容は驚くべきものだった・・・

弥勒教を「妖術」と指弾し、封建制の方が良い、と宣言したのである。

なんという矛盾。

だってそうではないか。

朱元璋は、紅巾軍の頭目として世に出た。その紅巾軍がよりどころにしたのが「弥勒教」なのである。それを「妖術」よばわり?

さらに、紅巾の乱は、本来、農民の農民による農民のための新体制をめざした革命。それを、富める大地主と貧しい小作のヒエラルキー「封建体制」の方がいいと言っているのだ。もっとも、封建体制の頂点に立つのは元朝ではなく朱元璋なのだが、そこは重要ではないだろう。

冷静に考えてみよう。

公約違反なんて、なまぬるい話ではない。根本が変わろうとしているのだ。たとえて言うなら「共和制」から「君主制」へ変わるようなもの。

こうして、朱元璋の取り巻きは一変した。農民や流民から、地主階級や知識階級、つまりエリートへ。

1366年8月、朱元璋軍は、張士誠(東呉)の本拠地に侵攻した。

まず、湖州・杭州を攻略し、東呉を左右に分断する。その後、1366年12月、都の平江(現在の蘇州)を包囲した。ところが、平江はなかなか落ちない。陥落したのは、翌年の1367年9月である。

孤立した平江が、なぜ10ヶ月も持ちこたえたのか?

張士誠と兵民が力をあわせて戦ったから。張士誠は寛大で、兵民に人気があったからである。

この戦いで、面白いエピソードがある。

城が落ちる前、張士誠は税を徴収する原簿をすべて焼き払った。朱元璋政権への移行を妨げるためである。負けてもタダで転ばないわけだ。朱元璋はそれが気に入らなかった。さらに、張士誠を助けて10ヶ月も徹底抗戦した兵民も。

そこで、占領後、朱元璋は平江に重税を課にした。この地方では、今でも、張士誠の方が人気が高いのは、そのせいだろう。もっとも、朱元璋は場所を問わず人気がないのだが。

平江が陥落すると、張士誠は捕らえられ、応天に送られた。

ところが、張士誠は毅然として、へつらう様子はない。瞑目して食せず、何も語らない。それが祟って、朱元璋に殴り殺されてしまった。ときに、張士誠47歳、旗揚げして14年目のことだった。こうして、東呉は滅んだのである。

■小明王の最期

ここで、気になるのが小明王・・・

小明王は紅巾軍の総帥であり、朱元璋に「妖術」と指弾された「弥勒教」の教主である。

しかも、この時、小明王は朱元璋の庇護下にあった・・・コワイコワイ。

ところが、腹心の劉福通はすでにこの世にいない。小明王に死の影が迫っていたが、それを告げてくれる者はいなかった。

1366年12月、徐州にいた小明王のもとに、朱元璋の迎えが来た。そして、長江をわたろうとした時、小明王の小舟は沈められた。

ではなぜ、朱元璋はこのタイミングで小明王を抹殺したのか?

朱元璋は紅巾軍の一兵卒からスタートし、紅巾軍の指揮官としてのしあがった。だから、紅巾軍の総帥である小明王を立てるしかなかったのである。ところが、紅巾軍内での朱元璋の地位が向上すると、「紅巾」軍ではなく「朱元璋」軍になった。その時点で、紅巾軍のブランドも小明王も不要になったのである(むしろ邪魔)。

小明王も紅巾軍も、朱元璋にとってタダの道具?

イエス!

証拠がある。

明朝時代に「明太祖実録」が編纂された。明朝を興した朱元璋の歴史である。ところが、「朱元璋は小明王の元家来」はどこにも記されていない。もちろん、ポイ捨てしたことも。

もっとも、歴史の改ざんは、古今東西、珍しいことではない。

■方国珍の適者生存

こうして、反乱軍の戦いは、

朱元璋Vs.方国珍

にしぼられた。ところが、方国珍は張士誠にくらべ、小者で、領国も小さく、兵力も弱かった。そのため、方国珍は二股外交に徹していた。朱元璋に貢ぎ物をする一方で、元朝にセッセと食糧を送っていたのである。

さらに、方国珍は元軍のグユクティムールと組んで朱元璋に対抗しようとしたこともあった。

もちろん、朱元璋はすべてお見通し。

1367年9月、朱元璋は方国珍の領国(浙東)に侵攻した。戦いはわずか3ヶ月で終了した。

ところが、方国珍自身はしぶとかった。金銀財宝を千隻の船に積んでトンズラ・・・ところが、その途中で朱元璋の水軍に拉致されてしまう。すると今度は、しおらしく、命ばかりはお助けを・・・

張士誠とは真逆、方国珍さん、変わり身の速さは天下一品ですね!

非難しているのではない。要は人間の生き様なのだ。もちろん、讃えるつもりもないが。

そして、こういう人が長生きする。

事実、方国珍は天寿をまっとうした。朱元璋の敵だけでなく、功臣も次々と粛清されていく中で・・・

つまり、こういうこと。

国力では「張士誠>方国珍」、適応力では「張士誠<方国珍」。

で、どっちが生き残ったか?

方国珍。

強い者が生き残るのではなく、環境に適応した者が生き残るのである。

こうして、反乱軍は、ことごとく朱元璋に平定された。そして、紅巾の乱は、いよいよ「朱元璋Vs.元朝」の決勝戦へ。

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《つづく》

参考文献:
(※)「超巨人朱元璋・運命をも変えた万能の指導者」原作:呉晗、堺屋太一、志村嗣生、志村三喜子、講談社

by R.B

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