明の太祖・朱元璋(15)~天敵・陳友諒~
■小明王の北伐
北伐とは、南の勢力が北の勢力を討つために兵を起こすこと。
中国史ではよくある話だが、今回は南の小明王(紅巾軍)が、北の元朝(現政府)を討つのである。
小明王軍は、連戦連勝、「べん梁」を占領した。
べん梁は現在の開封で、中国有数の豊かな土地である。1358年5月、小明王は宋の都を亳州からべん梁にうつした(宋は小明王の王国)。亳州が元軍に占領されたという、のっぴきならぬ事情もあったのだが。
その後も、紅巾軍の光光たる進撃はつづいた。光があれば影がある。その影で漁夫の利を得た者がいた。朱元璋である。「小明王Vs.元朝」のドサクサにまぎれ、南と東南で孤立した元軍を撃破し、領地を拡大したのである。
今回の紅巾軍の快進撃は、徐寿輝(じょじゅき)に負うところが大きい。当初、小明王軍は元軍におされ、劣勢だった。ところが、徐寿輝が参戦すると形勢は逆転、「北伐」を発令できたのである。
ただし、北伐を決定したのは小明王ではない。小明王軍の主師(最高軍司令官)・劉福通である。小明王は凡庸で、こんな大それた決断はできない。そもそも、王になれたのは、紅巾の乱の父、韓山童の息子だったから。つまり、親の七光り。
というわけで、もろもろあって「北伐」が始動したわけだが、元軍にしてみれば、「もろもろ」はドーデモいい。突然、敵が2倍になったことが問題なのだ。
ところが、徐寿輝と小明王は連携したわけではない。
徐寿輝と小明王はともに紅巾軍だが別の派閥。徐寿輝・紅巾軍は「明教」を、小明王・紅巾軍は「白蓮教」を信奉していた。明教と白蓮教はともに中国固有の宗教だが、生まれも育ちも違う。
明教は「ペルシャ発祥の一神教」で「倫理的で論理的」。一方、白蓮教は「土着の民間宗教」で「世俗的で呪術的」・・・つまり似て非なるもの。
ところが、共通する部分もあった。「弥勒信仰」と「打倒元朝」をかかげたこと。
「弥勒信仰」とは、弥勒菩薩が降臨して、民を救済してくれると信じること。
一方、「打倒元朝」は、反乱軍ならあたりまえ。現政府(元朝)を倒すのがつとめだから。事実、徐寿輝は湘水・漢水流域の元軍を攻撃していた。結果、元軍はダブル攻撃にさらされ、形勢が逆転したのである。
ところが、その徐寿輝・紅巾軍で大事件がおきる。首謀者は家臣の陳友諒・・・
陳友諒(ちんゆうりょう)は漁師の子として生まれた。平時なら、魚を捕って終わるところだが、時代がそれを変えた。天下取りのチャンスが転がり込んだのである。
1351年、小明王の父、韓山童が旗揚げし(未遂)、紅巾の乱がはじまった。それに乗じて、徐寿輝は湖北で「天完国」を建国し、皇帝を名乗ったのである。
じつは、徐寿輝・紅巾軍には黒幕がいた。彭瑩玉(ほうえいぎょく)である。
彭瑩玉は、紅巾軍では韓山童とならぶ古株だった。朱元璋がまだ「重八」を名乗り、乞食旅(托鉢行脚)をしていた頃、彭瑩玉は淮河流域で明教を広めていた。その後、徐寿輝をかついで、起義(農民反乱)したのである。
ところが、彭瑩玉が死ぬと、徐寿輝の地位が危うくなった。倪文俊(げいぶんしゅん)が兵馬の権(軍の指揮権)を握ったのである。彼は文字が読めなかったので、天下取りに備えて書記を雇った。それが今回の首謀者、陳友諒だったのである。
その頃、陳友諒は役所を辞めて紅巾軍に入ったばかりだった。役所で、たびたび上司に叱られるので、腹を立てて辞めたのである。
陳友諒は漁師出身だったが読み書きができた。この時代、中国で、農民・漁民が読み書きできるのは珍しい。貧農出身の朱元璋は、寺で読み書きを覚えたが、陳友諒はどこで覚えたのだろう。それを示す資料は見あたらない。
陳友諒が優れていたのは「読み書き」だけではなかった。武芸の達人で軍略にも長けていたのである。事実、陳友諒は紅巾軍で手柄を立て、元帥にまで出世する。
そんなある日のこと・・・
倪文俊が徐寿輝の暗殺をくわだてた。ところが、事をおこす前に発覚、倪文俊は黄州に逃亡した。黄州は部下の陳友諒の管轄地だったから、あてにしたのかもしれない。ところが、陳友諒は倪文俊を見つけ出し殺害する。
知らせをうけた徐寿輝は大喜びだった。その功で陳友諒は兵馬の権を与えられた。陳友諒は労せずして最高軍司令官にのぼりつめたわけだ。徐寿輝にしてみれば、それが命取りになるとは思いもよらなかっただろう。
1360年5月、陳友諒は徐寿輝の命をうけ、大軍を率いて、朱元璋の拠点「太平」を攻めた。守将の花栄は戦死、赫々(かくかく)たる戦果だった。もはや、徐寿輝を立てる必要はない。陳友諒は用済みの徐寿輝を抹殺し、代わりに帝位についた。国号も「天完国」から「大漢」に改めた。漁師、役所の下働きから、一国の主(あるじ)にのぼりつめたのである。
同時期、朱元璋は一国を支配していたが、王を名乗っていない。それには理由があった。儒者の意見にしたがったのである。このように、朱元璋は聞く耳をもっていた。
中国史上、農民出身の皇帝は二人しかいない。前漢の劉邦と明の朱元璋である。共通点は「家臣の意見に耳を傾ける」。生まれ育ちがそうさせたのだろうか。
■朱元璋の大戦略
ここで、1360年頃の勢力図を確認しよう。
北から順に・・・
1.順帝(元朝):現政府
2.小明王(宋):東系紅巾軍
3.朱元璋(宋):東系紅巾軍
4.張士誠(大周):塩の密売人
5.陳友諒(大漢):西系紅巾軍
6.方国珍(海賊):浙江の海賊
この中で、順帝(元朝)以外はすべて反乱軍。ところが、反乱軍は一枚岩ではなかった。朱元璋は小明王の家来なのでお仲間だが、それ以外は敵同士。でも、これはあたりまえ。天下取りのイスは一つしかないのだから。いわば究極のゼロサム・ゲームなのだ。
つぎに、朱元璋の戦況をみてみよう。
朱元璋の本拠地は「応天(南京)」。その東に隣接する「鎮江」は張士誠の支配地。さらに、南に隣接する「寧国」は陳友諒の領地。つまり、朱元璋は、張士誠と陳友諒に挟み込まれている。しかも、浙江の方国珍も、お隣さん。これでは、夜もおちおち寝てられない。
ところが、最強の元朝(順帝)に注目すると・・・本家筋の小明王が元朝の防波堤になっている。つまり、元軍に兵を割く必要がない。これは朱元璋にとって大きなアドバンテージだ。
そこで、朱元璋は、3強(張士誠、陳友諒、方国珍)にしぼって、戦略を立てた。
まずは、浙江の方国珍。
地図をみると・・・方国珍は、南北をむすぶ大運河の要所をおさえている。事実、方国珍は海運業を生業とする豪族だった。ところが、元朝の官物を載せた輸送船を襲撃し、海賊の味をしめた。手っ取り早く稼ぐにはこれが一番。
結果、元朝の首都・大都は、穀物が届かず、食うや食わずの飢餓状態・・・大都は、江南の食糧・物資がないとやっていけないのだ。
元朝は、あわてて討伐軍を派遣したが、相手は海賊。海戦が不得手な元軍に勝ち目はない(モンゴル人は騎馬民族なので)。
そこで、元朝は方国珍に官位を与えて懐柔策に出た。ところが、方国珍はこれで味をしめた。その後、従順と謀反を繰り返し、官位をつり上げていった。あげく、浙行の丞相のポストまでゲットしたのである。
方国珍はこのやり方を生涯貫いた。それが功を奏し、朱元璋の敵がすべて滅ぶ中、ただ一人生きのびることができた。さらに、明朝成立後、今度は朱元璋の重臣が次々失脚する中、方国珍は生きのびた。そして、天寿を全うしたのである。人生どうなるか、やってみないとわかりませんね。
そんな要領よしの方国珍にも弱点があった。今の領地で十分・・・大望も戦略も戦術もない。これは朱元璋にとっては好都合だった。攻め込まれる心配がないから。
ところが、張士誠と陳友諒はそうはいかない。油断がならないのだ。
まずは張士誠。
張士誠は、方国珍同様、紅巾軍ではない。ただし、海賊ではなく塩の密売人。張士誠はこの一帯の塩の密売の元締めで、巨万の富を得ていた。資金量では、反乱勢力ナンバーワン。
さらに、張士誠は細心で、思慮深く、猜疑心が強かった。「大業を成す」タイプではないが、凡ミスで破滅することもない。侮れない人物だ。
つぎに陳友諒。
地図をみると・・・陳友諒の領土は最大。しかも、陳友諒は漁師の出身で「板子一枚下は地獄」の海の男。腹が座っており、決断力に富み、野心も大望もある。何をしてくるかわからない。
彼の半生がそれを物語る。
主君の徐寿輝を殺し、下克上でのしあがったのだから。徐寿輝は、元を正せば布売り商人で、取り柄は「見てくれ」だけ。陳友諒にしてみれば、赤子の手をひねるようなものだっただろう。
というわけで、陳友諒は最も危険な人物である。
そこで、朱元璋は3強に対し個別に戦略を立てた。
1.小心者の方国珍→守りに徹する。
2.日和見な張士誠→領地に封じ込める。
3.攻撃的な陳友諒→殲滅する。
相手の特性にあわせて、戦略を最適化している。できそうで、できない芸当だ。戦略のようなグランドデザインは、個性がでるので、ワンパターンになりやすいのだ。
■大秀才・劉基
方国珍が支配する浙江に、劉基(りゅうき)という人物がいた。
モンゴル人至上主義の時代に、漢人で科挙に合格した大秀才である。劉基が浙江の地方官吏だった頃、方国珍が反乱がおこした。このとき、劉基は元朝に方国珍を討つように進言し、自らも民兵を組織した。ところが、元朝はこれを却下、民兵を没収してしまった。
劉基の落胆はいかほどだっただろう。
劉基は官職を辞し、隠棲した。そして、元朝を批判する一方で、紅巾軍を盗賊とののしるのだった。元朝も反乱軍も大嫌いだ、どっちも滅んでしまえー、出てこい英雄!
僕のこと呼んだ?
明敏な朱元璋はこの機を逃さなかった。
三國志によれば、劉備玄徳は三顧の礼で、稀有の大軍師、諸葛孔明を迎え入れたという。それを見習って、朱元璋は劉基を手に入れたのである。
劉基のような知識人は封建地主階級に属する。そのため、封建的秩序を重んじ、地主の利益を擁護する。だから、封建秩序を破壊し、地主の財産を奪う反乱軍(紅巾軍)は、元朝よりタチが悪いのである。
ところが、朱元璋は、地主の家を焼いたり、財物を奪うことを厳しく禁じた。劉基が応じたのも不思議ではない(消去法だろうが)。
ではなぜ、朱元璋は知識人を重用したのか?
戦場では「膂力と勇猛」がモノを言う。ところが、領国支配に必要なのは「知力と知識」。その基本が読書で、その達人が「知識人=儒者」なのである。
朱元璋は「儒者」の本質を見抜いていた。儒者というものは、自分の知識と才能をかってくれる者には従順になる。だから、手厚く遇すれば、必ず役に立つ。
事実、朱元璋の儒者の囲い込みは功を奏した。
たとえば・・・
徽州を攻め落としたとき、朱昇という儒者が投降してきた。このとき、彼は朱元璋に3つの事を伝えた。西欧の歴史書にも登場する有名な教訓だ。
「高く垣を築き、広く糧を積み、緩く王と称せ」
一番目の意味は、堅固で高い城壁を築け。
二番目の意味は、大量の穀物を蓄えよ。
三番目の意味は、あわてて王を名乗るな。
第一と第二は難しくない。問題は、第二の「食糧問題」だ。
■兵農分離と常備軍
この時代の中国、兵糧を確保する方法は2つあった。
第一に「塞糧(さいりょう)」。
農民から、糧秣(兵の食糧と軍馬の秣・まぐさ)を没収するのである。手っ取り早いが、農民はやる気を失う。長い目でみれば、収穫量の低下はまぬがれない。
第二に「検括(けんかつ)」。
兵がみずから鍬(くわ)や鎌(かま)をとって、農作業を行う。いわゆる「屯田」である。即効性はないが、農民の負担は軽く、穀物の生産量は確実に増える。
朱元璋は「塞糧」と「検括」を併用したが、どちらかという「検括(屯田)」を重視した。開墾にくわえ、水利事業にも力を入れたのである。結果、数年後に検括(屯田)が軌道に乘り、塞糧は不要になった。1360年5月、朱元璋が塞糧の中止を宣言すると、農民は大喜びだった。
朱元璋軍の兵士は、農繁期に農作業、農閑期には戦闘訓練か実戦を行った。ところが、それでは農繁期に戦えない。そこで、朱元璋は、優秀な兵士を選抜し、農作業から開放した。兵士と農民を分離する「兵農分離」である。この時代、中国で、兵農分離に成功したのは朱元璋だけだった。
一方、日本の戦国時代、兵農分離といえば織田信長。事実、信長は数万~10万の常備軍を擁し、同時に複数の地域で攻撃をしかけることができた。だから、信長だけが天下統一にリーチをかけられたのである。
朱元璋の領国は、守りは堅く、兵は精強で、食糧も十分。「高く垣を築き、広く糧を積み」がかなったのである。1359年5月、小明王は朱元璋を中書省左丞相に昇格させた。
ところが、その3ヶ月後、小明王に災難がふりかかる。
元軍の将軍チャハンティムールが、小明王の都、べん梁を陥落させたのである。劉福通は小明王を奉じ、敗残兵を率い、命からがら安豊に撤退した。
朱元璋の防波堤は、決壊寸前だったのである。
参考文献:
「超巨人朱元璋・運命をも変えた万能の指導者」原作:呉晗、堺屋太一、志村嗣生、志村三喜子、講談社
by R.B