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週刊スモールトーク (第332話) 明の太祖・朱元璋(13)~長江を渡る~

カテゴリ : 人物歴史

2016.08.20

明の太祖・朱元璋(13)~長江を渡る~

■最後の内輪もめ

1355年は、朱元璋にとって激動の年だった。

まずは正月早々、めでたいことがあった。

朱元璋が和州を占領し、主将に任命されたのである。主将は、一軍を率いる将軍より偉い、拠点の最高司令官。このとき、朱元璋はまだ28才、異例の大出世だった。

朱元璋を抜擢したのは徐州・紅巾軍の主帥、郭子興(かくしこう)である。朱元璋は郭子興の身内だからあたりまえ・・・というわけではない。そもそも、徐州と和州を占領したのは朱元璋なのだから。むしろ、郭子興の方が朱元璋におんぶにだっこ?

郭子興は、朱元璋の資質を見込んで、自分の養女を嫁がせたが、目に狂いはなかったわけだ。

もっとも、朱元璋も、若くして、和州の主将にのぼりつめたのだから、文句はない。まさに、ウィンウィン。ところが、それにからんで、やっかいな事件が起こった。

濠洲・紅巾軍の孫徳崖(そんとくがい)が、軍民を引き連れて、和州におしかけたのである。さすがに気が引けたのか、城内には入らなかったが、周辺の民家を占領してしまった。理由はカンタン、食い詰めたから。というのも、この頃、中国は飢餓の時代だった。干ばつが続き、首都の大都でさえ、カニバリズム(食人)が横行していたのである。

そんな時代だから、朱元璋は自分の軍民を食べさせるので精一杯で、他人の事などかまっていられない。ところが、朱元璋は孫徳崖らを追い払うことができなかった。同じ紅巾軍だったからである。

ところが、郭子興は違った。

元々、郭子興は孫徳崖と犬猿の仲だった。そこへ、今回の事件が重なり、郭子興はプッツン・・・孫徳崖おっ死ねとばかり、和州にすっ飛んできた。

結果、「郭子興Vs.孫徳崖」の内輪もめが再開したのである。場所を濠洲から和州に変えて、熱さをグレードアップして。

まず、孫徳崖の部下が朱元璋を拉致した。これに対抗して、郭子興が孫徳崖を拘束、その後、身柄交換が成立した。まさに、命がけの内輪もめである。

このドタバタが起こったのは1355年1月。

ところが、その翌月、さらなる大事件がおきる。今回は濠洲・紅巾軍ではなく、本家・紅巾軍で。

本家?

■郭子興死す

じつは、孫徳崖・郭子興・朱元璋らは、紅巾軍の中にあって「どこの馬の骨」軍団だった。本家でも分家でも別家でもなく。

この頃、紅巾軍の本家筋は2つあった。

韓山童(かんさんどう)&劉福通(りゅうふくつう)の「紅軍北派」と、彭瑩玉(ほうえいぎょく)の「紅軍南派」である。

ともに、当時、中国を席巻した「明教と白蓮教」を母体にしていた。紅軍北派は白蓮教、紅軍南派は明教である。

白蓮教は中国土着の宗教で、世俗的で呪術的だった。一方、明教は古代ペルシャのマニ教のコピペで、ストイックで理屈っぽい。ただし、共通点もあった。ともに、弥勒信仰を信じていたのである。

弥勒信仰とは、世が乱れると弥勒菩薩が降臨し、ユートピアが出現する・・・

このような妄想は歴史上、枚挙にいとまがない。この世界は、適者生存、弱肉強食のアリーナ(闘技場)なのに。

昔、祖父の母がよく言ったものだ・・・人間で一番恐ろしいのは思い込みだよ(妄想)。

それはさておき、孫徳崖・郭子興・朱元璋らは「紅軍北派」に属していた。その紅軍北派の本家で動きがあったのである。

紅軍北派の主帥は韓山童だが、すでにこの世にいなかった。

というのも・・・

4年前の1351年5月、韓山童が「明王」と称して挙兵する直前・・・事が発覚し処刑された。ところが、これを機に、中国全土で明教信者、白蓮教信者が旗揚げし、紅巾の乱がはじまったのである。つまり、韓山童は紅巾の乱の創始者にして大元祖!(ホントは旗揚げ未遂)

韓山童は「旗揚げ未遂」に終わったが、子の韓林児と腹心の劉福通はドサクサにまぎれ脱出。その後、1355年2月に合流し、亳州(はくしゅう)を占領した。そこで、劉福通は韓林児を皇帝に祭り上げ「小明王」と称し、国号を「宋」と定めたのである。孫徳崖と朱元璋の身柄交換が成立した1ヶ月後のことだった。

宋の丞相は、元朝の枢密院にいた杜遵道(とじゅん)が任じられた。劉福通は黒幕、フィクサーに徹したわけだ。ところが、杜遵道は小明王の寵愛をうけ、権力をほしいままにしたので、劉福建に殺された。以後、劉福建は丞相になり、宋の実質的な支配者となった。

さらに事件はつづく。

翌月の1355年3月、朱元璋の義父、郭子興が死んだのである。朱元璋は、最強の後ろ盾を失ったわけだ。

では、徐州・和州の新しい支配体制は?

決めるのは本家の宋。さっそく、小明王の命令書がとどいた。それによれば・・・

都元帥(一番偉い)は、郭子興の子の郭天叙(かくてんじょ)。右副元帥(二番目に偉い)は、郭子興の妻の弟の張天祐(ちょうてんゆう)。左副元帥(三番目に偉い)は、郭子興の女婿の朱元璋が任じられた。すべて、郭子興一族である。

ところが、この人事には問題があった。

まず、都元帥(主師)の郭天叙だが、軍務経験も政務経験もないので、何も決められない。一方、右副元帥(副師)の張天祐は軍務経験はあったが、決断力に欠いていた。つまり、ナンバー1とナンバー2は資質に問題があったわけだ。

ところが、朱元璋は戦さに長け、指導力があり、決断力もあった。くわえて、徐達、邵栄、湯和のような勇猛な武官、李善長、馮国用などの優れた文官を従えていた。さらに、徐州と和州の征服者としての輝かしい実績もある。まさに鬼に金棒だ。

朱元璋が実質上の「都元帥」になるのは必然だったのである。

さらに、朱元璋らの紅巾軍は、かつての怪しい「どこの馬の骨」軍団ではなかった。宋の正規軍に昇格したのである(反乱軍に変わりはないが)。

つまり・・・

朱元璋は郭子興が死んで絶体絶命・・・ではなく、軍の「オーソライズ(公認)」と「最高司令官」の2つの権威を手にしたのである。

朱元璋がつぎに取り組んだのは食糧問題だった。腹が減っては戦はできぬ・・・前例がある。

漢帝国の創始者・劉邦は、食糧の心配ばかりして、戦さは弱かった。一方、ライバルの項羽は、代々楚の将軍を務めた名家の出身。戦うエリートは食い物の心配などしない。戦いにあけくれ、連戦連勝だった。ところが、最後に勝ったのは劉邦だった。項羽はたった一回負けて(垓下の戦い)、身を滅ぼしたのである。

もちろん、食い物に執着したからといって、天下をとれるわけではない。ただ、食糧を軽んずると、長続きしないのだ。劉邦を見習ったのか、食うや食わずの出自からか、朱元璋は食糧(兵站)を非常に重視した。

■長江を渡る

朱元璋は徐州と和州を手に入れたが、それだけでは食糧が足りない。あらたな拠点が必要だった。

和州は中国最大の大河・長江に面している。その向こう側には大穀倉地帯の太平がある。

ではなぜ、太平を占領しない?

長江が横たわっているから。

船で渡れば?

そうカンタンではない。

長江は川幅が広く、流れが激しく、怒濤逆巻いている。小舟でサクッと渡れるような小川ではない。しかも、数万の大軍を渡航させるには、千艘の舟が必要だ。こちらも、サクッと作れるものではない。

それに、舟があっても、舟子(かこ・操縦士)がいなければ、舟は動かない。

百歩譲って、小部隊で渡れたとしても、元軍が堡塁を築いて、待ち構えている。着岸するやいなや全滅・・・

というわけで、行くすべがなかったのである。

ところが、そのとき、奇跡がおこった。タナからボタもちが降ってきたのである。

和州から遠くない巣湖の水軍が、紅巾の乱に呼応して旗揚げした。その巣湖の水軍が、朱元璋に帰順したのである。これを「渡りに舟」と言わずして何と言う。

1355年6月1日、朱元璋は長江をわたり、元軍の堡塁を占領した。そこで、大量の食糧を確保できたので、将兵は大喜びだった。

ところが、ここで問題発生。

将兵が、食糧を和州に持ち帰ろうとしたのである。和州には、お腹をすかした家族が待ちわびている。家族といっしょに、たらふくごはんを食べたい・・・は人情というもの。とはいえ、ここで、引き揚げたら、長江を渡った意味がない。大穀倉地帯の太平を占領しない限り、食糧問題は解決しないのだ。

そこで、朱元璋は、接岸していた舟のたずなを切るよう命じた。舟は流れにまかせ、長江を下っていく。それを見て、将兵は仰天したが、朱元璋はこう言い切った。

「太平は、食糧、財物があふれている。奪ったものはすべて持ち帰ってよい」

一転して、将兵は元気百倍、太平の城塞を陥落させた。

ところが、今度は朱元璋が一転、こんなお触れを出した。

「人やモノを略奪してはならない。命令に反したものは、厳罰に処す」

はぁ?約束が違う、少しぐらい大目に見てよ・・・ところが、朱元璋は徹底していた。太平の町を巡察させ、違反者がいると、首を斬り落とさせたのである。逆に、安堵したのが太平の民だった(あたりまえ)。

こうして、朱元璋は征服地の民の信頼を得た。自軍であっても、ルールを破る者に容赦しないのは、織田信長に酷似している。

一方、朱元璋は、将兵が不満をもたないよう、心配りをした。大地主に金銀財物を献納させ、将兵に分配したのである。将兵が大喜びしたのは言うまでもない。

ところが・・・

なにごとも良いことずくめ、とはいかないものだ。朱元璋の命を狙う者があらわれたのである。

■クーデター未遂事件

今回の「太平」征服の一番の功労者は巣湖の水軍だった。水軍がいなければ、そもそも太平にたどりつけないから。その巣湖の水軍の頭目が陰謀を企てたのである。朱元璋を暗殺して、軍を乗っ取ろうというのだ。朱元璋は殺せるかもしれないが、その後、どうするのだ?

優秀な家臣団を全員始末できるとでも?

というわけで、結果は見えているが、一応、手順をみてみよう。

まず、舟上で酒宴を張り、朱元璋を招いて、酔ったすきに殺害する。もし、これが成功していたら、歴史は変わっていただろう。歴史年表から「明の歴史」が消えるから。

しかし、天は朱元璋に味方した。

巣湖水軍の家来が、頭目に「いくらなんでもやり過ぎ」と忠告したのに、全く聞き入れない。こんなアホな頭目にくっついてたら、命がいくつあってもたりない、と思ったかどうか知るよしもないが、朱元璋にチクったのである。

朱元璋の対応は巧妙だった。

酒宴には、病気と称して行かなかった。数日後、返礼として、今度は朱元璋が宴をもうけた。頭目は、陰謀がバレバレとはつゆ知らず、ノコノコ出かけた。そして、したたか酔ったところで、身体をしばられて長江に放り込まれた。手下の将兵は、朱元璋に投降するしかなかった。こうして、朱元璋は労せずして、水軍を手に入れたのである。

結局、巣湖の水軍は初めから終わりまでタナボタ、朱元璋にしてみれば、濡れ手に粟。

朱元璋が太平を平定すると、評判を聞きつけて、土地の儒者が帰順してきた。中でも、李習、陶安は有能の士だった。陶安は、さっそく朱元璋に具申した。

「今、群雄が並び立っていますが、元朝を打ち倒し、漢人の国を建国する気概のある者はいません。ただ、女と財宝を求めているのです。それゆえ、殺戮、放火、掠奪が後を絶たず、民は苦しんでいます。もし、朱将軍が正義と秩序をたもち、集慶(現在の南京)を本拠地にし、軍を繰り出せば、天下は平定されるでしょう」

朱元璋は大いに喜び、陶安を令史とした。さらに、「太平」を「太平府」とあらため、李習を知府(知事)に任じた。

こうして、朱元璋は徐州、和州につづき、大穀倉地帯の太平を手に入れたのである。

《つづく》

参考文献:
「超巨人朱元璋・運命をも変えた万能の指導者」原作:呉晗、堺屋太一、志村嗣生、志村三喜子、講談社

by R.B

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