モンゴル帝国(3)~バトゥの西征と騎馬軍団~
■チンギス・ハーンの死
中央アジア北部に広がるモンゴル高原の降雨量は年間50ミリにも満たない。大地をおおうはずの樹木もまばらで、空気が乾燥を極めているのはそのせいで、そこで暮らす人々の命を消耗させている。
モンゴルのチンギス・ハーンはこのような過酷な環境で戦った。それでも60年も生きたのは、英雄の命数は環境ではなく使命によることを示唆している。1227年8月18日、チンギス・ハーンはタングート王国を攻略中、陣中で没した。ユーラシア大陸を横断したもう一人の征服者アレクサンドロス大王。彼は死の床で、後継者を問われ、こう答えた。「最も強い者」この響きのいい無責任な遺言が王国を3つに分裂させた。
ところが、チンギス・ハーンには、このような軽率さはなかった。チンギス・ハーンはスターリンに酷似している。スターリンの側近はかつてこう回顧した。「スターリンは、自分が何を望んでいるかをはっきり理解していた。頭のてっぺんから足のつま先までリアリストで、甘いところはまったくない。話し方も簡潔で、すべて核心を突く。無駄な言葉は一つもなかった」チンギス・ハーンもまた超がつくほどの現実主義者だった。
この2人に共通するのは、大帝国の支配に成功したこと。一方、支配より冒険を好むアレクサンドロス大王は、征服はできても、それを維持することはできなかった。帝国統治に必要なのはロマンティストではなくリアリストなのである。チンギス・ハーンとスターリンにはもう一つ共通点がある。冷酷さと残虐さ。つまり、現実主義は冷酷さと残虐さと等価なのである。
たとえば、チンギス・ハーンの統治システムは現実的で合理的だが、最終的な問題解決は「大破壊と大量殺戮」に帰着する。これはスターリンも同じ。戦国時代の覇者織田信長のもこのタイプだが、晩年、油断がたたり、ありえないテロで命を落とす。ここが、チンギス・ハーンと大きく違う点だ。
■アレクサンドロス大王
歴史上、アレクサンドロス大王は異質の征服者である。
少なくとも、チンギス・ハーンとは間逆だ。アレクサンドロス大王はロマンティストで、自分の先祖がヘラクレスやアキレスと吹き込まれ、それを真に受けた。一方、アレクサンドロス大王の歴史は、歴史的偉業は「超現実主義」だけでなく「ロマンティズム」も為しうることを示唆している。もし、アレクサンドロス大王がリアリストなら、大国ペルシャを滅ぼした時点でミッション終了、天にも昇る気持ちで、凱旋しただろう。ところが、彼が向かったのは祖国ではなく、未知の東方世界であった。
アレクサンドロス大王とマケドニア将兵は寝食を共にしたが、じつは、別の世界で生きていた。このことは、やがて大きな悲劇をうむ。アレクサンドロス大王はインドに達し、さらに東に向かおうとしたが、将兵の謀反同然の抵抗にあう。最終的には、帰還をよぎなくされたのである。アレクサンドロスは部下の反抗が信じられなかったし、部下も不毛の東進が理解できなかった。
この行き違いは、コミュニケーションの欠如からくるものではない。アレクサンドロス大王とマケドニア将兵は別の時空で生きていた。視線が同じでも、見えるものが違うのである。そもそも、アレクサンドロス大王の東方遠征は、目的からして曖昧である。目的というより、動機といったほうがいい。理にかなうのはペルシャ帝国の征服まで。その後は、好奇心と冒険心にかられた大冒険としか思えない。征服した領土のメンテナンスに無関心だったのはそのせいで、アレクサンドロスは生涯の大半を、新しい狩り場で過している。もちろん、後継者のことなど念頭にない。
一方、チンギス・ハーンはこの点も徹底していた。早い段階で、後継者を第3子オゴタイ(ウゲディ)に指名していたのである。第1子ジュチは有能だが、チンギス・ハーンの実の子ではない可能性があった。チンギス・ハーンがまだ若い頃、妻が略奪され、その後、取り返したものの、妻は身ごもっていた。その子がジュチだったのである。また、第2子のチャガタイは、ジュチの出生の疑惑を公然と口に出すほど軽率で、気性も激しかった。このような経緯で、温厚な三男オゴタイが選ばれたのである。
また、第4子のトゥルイも、武勇とリーダーシップに優れ、人望もあつく、周囲が認める有資格者だったが、父チンギス・ハーンの意に従い、オゴタイに服従を誓った。チンギス・ハーンの4人の王子たちは、泥水をすすって、一代で帝国を築き上げた父を畏敬し、そのカリスマで結束することができた。これが、チンギス・ハーン亡き後も、帝国が繁栄した理由である。オゴタイが大ハーンに就いたとき、その国力は、父チンギス・ハーンの時代をはるかに上回っていた。歴史上希にみる、一枚岩の大帝国が出現したのである。
■チンギス・ハーンの遺産
チンギス・ハーンの現実主義は、帝国統治にもいかんなく発揮された。千戸長(ノヤン)が千戸を統率する千戸軍団が組織された。これは生活単位と軍事単位を一元化したものである。つまり、モンゴル帝国は「生活=戦闘」なのだ。また、征服された都市には、大ハーンの代官「ダルガチ(行政官)」が置かれ、占領地の監視、警察、貢納の運送の任にあたった。ところが、モンゴル本土以外に移り住んだモンゴル人はわず1万2千戸。このような小数で、あの広大な領土をどうやって維持したのだろう?
一旦、謀反が起これば、多勢に無勢、モンゴル側に勝ち目はない。モンゴル帝国は歴史上最大版図を成し遂げた大帝国である。支配地が広すぎて、すべての地域に軍団を配置することはできない。一方、監視する者がいなければ、反乱は必ずおこる。そこで、チンギス・ハーンが編みだしたのが、ジャムチだった。
ジャムチとは「駅伝制」を極めたシステムで、帝国内の情報をモンゴル本国に報告すること、本国の命令を帝国内に伝達することを目的とした。具体的には、幹線道路沿いに宿駅を置き、付近の住民に馬や食料を供給させ、その世話をさせた。この情報ネットワークにより、モンゴル帝国の急使は安全かつ迅速に移動することができた。宿駅をノード、幹線道路を光ファイバー、人馬をパケットに当てはめれば、「ジャムチ=インターネット」違うのは、情報量とスピードだけ。
このジャムチがあれば、謀反・反乱が起きても、直ちに本国に伝えられ、モンゴルの大軍が押し寄せ、町は破壊され、住民は皆殺しにされる。このような懲罰が何度か繰り返されるうちに、謀反は起こらなくなる。これが、少数のモンゴル人が大多数の被征服民を支配できた理由だ。
■騎馬軍団の秘密
歴史上最強とされるモンゴル軍は、他に類をみない特徴があった。まず基本、モンゴル軍はすべて騎馬兵である。遠征時には、一人の騎馬兵が7~8頭の馬をともなったが、移動や戦闘で馬を乗りつぶすからである。モンゴル軍の馬は小柄だが耐久力があり、1日に70~80kmも移動できた。
歴史上、高速軍団で知られるアレクサンドロス軍や羽柴秀吉軍でさえ、1日30km(歩兵の限界)。モンゴル軍の機動力がいかに突出しているかがわかる。一方、モンゴル軍と戦ったヨーロッパ軍は歩兵が中心だった。ヨーロッパ軍にも騎兵はいたが、数が少なく、鋼鉄の鎧(よろい)と兜(かぶと)で身を固めた重騎兵だった。一方、モンゴル騎兵は、革の鎧(よろい)を着たの軽騎兵。革の軽騎兵なんか、鋼鉄の重騎兵にかかればイチコロ?
ところが・・・現実は逆だった。合戦が始まると、モンゴル騎兵は軽快に戦場を疾走し、ヨーロッパ重騎兵に雨あられと矢を射かけた。そして、あっという間に去っていく。つまり、ヒット・アンド・アウェイ。ヨーロッパ重騎兵の鈍重な一撃が命中することはなかったのである。
モンゴル軍の主力は、小馬で疾走する軽騎馬だが、大がかりなハイテク兵器も用いた。攻城戦で使う強力な破城槌(はじょうつい)や投石機である。強固な城壁で守られた城を小馬で突撃しても始まらない。モンゴル軍は合理的で、科学的で、現実的だったのである。さらも、刀、弓矢はもとより、手斧、やすり、針、鉄鍋、テント、敷物など日用品も携行した。つまり、生活圏まるごと進軍するわけで、これがモンゴル軍の長期遠征を可能にしたのである。
また、モンゴル軍の携帯食はモンゴル式合理主義の結晶である。軽量化を極めるため、羊の肉を極限まで圧縮したのである。まず、羊の肉を乾燥させ、それを木槌でたたいてほぐし、脂肪分など余分な成分を排除する。この工程を何度も繰り返すことにより、羊1頭分の肉が袋に入るほど圧縮されるのである。
この「羊肉」携帯食は、携帯に便利なだけではなく、あわただしい戦場で食するにも都合が良かった。お湯にいれるだけで、肉がとけだし、スープのように飲めるのだ。まるでカップラーメン。日本が誇る携帯食「ちまき」もすぐれものだが、圧縮率ではモンゴル食にはかなわない。また、この携帯食の袋の数で、遠征の期間までわかったという。モンゴル軍おそるべし・・・機動力、打撃力、兵站、そして、優れた命令指揮系統、すべてが合理的かつ現実的、これがモンゴル式なのだ。
■ヨーロッパ征服
1229年、第3子オゴタイが大ハーンに就き、つづく1235年、首都カラコルムでクリルタイが開かれた。そこで、歴史的な遠征が決定される。亡きチンギス・ハーンがやり残した事業、ブルガル地方とキプチャク草原の征服である。そして、この遠征がユーラシア大陸の地図を一変させる。
今回の遠征軍は前回を上回る規模で、モンゴル帝室の王族すべてが遠征に参加した。ジュチ家、チャガタイ家、オゴタイ家、トゥルイ家の王子が兵を率い、ジュチ家のバトゥが全軍の総司令官に任命された。歴史上名高い、モンゴル帝国のヨーロッパ第二次西方大遠征である。
1236年春、バトゥ率いる主力はブルガル地方の攻撃を開始した。前回のモンゴル帝国の西方大遠征では、ジェベ・スブタイ軍がこの地を攻めたが、頑強な抵抗に合い撤退している。ところが、今回は新手で、しかも主力。ブルガル地方全土が略奪され、破壊され、住民は虐殺された。
翌年、バトゥ軍はカスピ海、カフカス北方のキプチャク草原をすべて征服し、ルーシ(ロシア)に進出する。さらに、1237年12月21日には、リャザンから、モスクワ、ウラディミール公国に侵入、首都ウラディミールをはじめ14の都市をことごとく攻略した。山のような死体と瓦礫が残された。
ところが、破竹のバトゥ軍はノヴゴロドまで100kmまで迫った後、突如、180度方向転換する。ノヴゴロド公アレクサンドル・ネフスキーとの決戦をさけたのである。モンゴル軍はちまたに流布したイメージとは違い、無謀な戦さはやらなかった。戦う前に、徹底した情報収集と分析を行い、現実的な作戦をとったのである。
おそらく、総司令官バトゥは、アレクサンドル・ネフスキーとは戦っても勝ち目なし、あるいは、甚大な損害を受けると判断したのだろう。あの天下無双のモンゴル主力軍が。ところが、アレクサンドル・ネフスキーは日本では無名に近い。
アレクサンドル・ネフスキーは、中世ロシアの国民的英雄である。1236年にノブゴロド公となり、1240年にネバ川にて強国スウェーデン軍を打ち破った。さらに、1242年には、ドイツ騎士団がロシアに侵入したが、これも阻止している。ドイツ騎士団とは、十字軍遠征の後、異教徒からキリスト教徒を守るために設立されたローマカトリック教会公認の騎士修道会である。ゲームでたまに見かける「チュートン騎士団」はこれ。
ということで、アレクサンドル・ネフスキーはロシアの国難を救った救世主である。また、アレクサンドル・ネフスキーは軍事的才能だけでなく、外交にも長けた人物だった。後にモンゴルが建国したキプチャク・ハーン国に対し、宥和策をとり、巧みに争いをさけている。そのため、キプチャク・ハーン国は、1246年にネフスキーをキエフ大公に任じ、さらにウラジーミル公も兼任させたほどである。その後、ネフスキーは、北部ロシアの統一に大きく貢献する。ロシアのギリシャ正教会は、このような功績を讃え、アレクサンドル・ネフスキーを聖人としたのある。
■東ヨーロッパへの侵攻
1238年の冬から1239年の春にかけて、バトゥ軍はキプチャク草原を平定し、これが後のキプチャク・ハーン国となった。バトゥ軍は、休むことなく進軍をつづける。1239年、ルーシ(ロシア)の母といわれたキエフを攻略、略奪と破壊の限りを尽くした。恐怖に駆られた住民は西方のハンガリーやポーランドに逃げ込み、それをモンゴル軍が追った。モンゴル軍は2手に分かれ、1軍はポーランドへ、1軍はハンガリーへと侵攻。怒濤のモンゴル軍は、ロシアを突き抜け、東ヨーロッパまで迫っていた。
1240年、チャガタイ家の将軍ペタが率いる3万の軍団は、ポーランド王国に侵入、ヨーロッパの一角が崩壊しようとしていた。一刻の猶予もない。恐怖にかられたドイツのシレジア公ヘンリー2世は、ドイツ、ポーランド、チュートン騎士団の大連合軍を編成、ワールシュタット平原に軍を進めた。とはいっても、兵力は1万。これが、歴史上初のヨーロッパ連合Vsモンゴル帝国の会戦となった。
1241年4月9日、両軍はワールシュタットの平原で激突した。歴史上名高いワールシュタットの戦いである。ヨーロッパ軍は重い鎧に身を包み、騎士道精神にのっとり、正々堂々戦いを挑んだが、モンゴル騎馬兵の敵ではなかった。機動力に勝るモンゴル騎馬兵は、戦場を疾駆、ヨーロッパ軍は大混乱におちいった。ヨーロッパの騎士たちはいいように打ち倒され、軍は壊滅し、多くの兵士がなぶり殺しにされた。ヨーロッパ連合軍は完敗したのである。
ワールシュタットの戦いで、ヨーロッパ連合軍を撃破したペタ軍は、ハンガリーまで兵を進め、主力のバトゥ軍と合流した。こうして強大化したバトゥ軍は、そのままカルパティア山脈をこえて、ハンガリー平原中央に突入した。ハンガリー王ベーラ4世は果敢に立ち向かったが、モヒー草原で全滅した。
それにしても、ヨーロッパが滅亡の危機にあるのに、ヨーロッパの王たちはなぜ一致団結しなかったのか?理由は内輪もめ。当時の2大勢力、神聖ローマ皇帝とローマ教皇がイタリアの支配権をめぐり、争っていたからである。主客転倒、ことの大小、軽重を知らない愚か者、と一刀両断にするわけにもいかない。こんな話は歴史にはいくらでもあるのだから。いずれにせよ、ヨーロッパ全土が各個撃破されるのは時間の問題だった。
悪いことは重なるものだ。オゴタイ家のカダン軍が、トランシルバニアからハンガリー東南部に進出したのである。モンゴル軍は、どこにどれだけいるのか、誰にも分からなかった。ただ、重苦しい恐怖感だけがヨーロッパをおおっていた。ハンガリーは破壊、略奪、虐殺にさらされ、大平原は血で染まった。そして、その横には西ヨーロッパが広がっていた。モンゴル軍はついに、ヨーロッパに王手をかけたのである。
■遠征の終わり
中世ヨーロッパは暗黒の時代といわれる。キリスト教の教義が、言論の自由や、科学の合理性まで否定したからである。結果、ヨーロッパ諸国はモンゴル帝国の合理的で科学的な攻撃に手も足も出なかった。つまり、神に祈るしかなかったのである。ところが、ここで奇跡が起こる。
1242年3月、ハンガリーを包囲していたモンゴル軍に訃報がとどいた。オゴタイ・ハーンが死んだのである。資料によれば、大ハーンは1241年12月11日に没している。その訃報がハンガリーに届いたのは1242年3月。つまり、3ヶ月かかっている。また、カラコルムとハンガリーの距離はおよそ7000kmなので、情報伝達速度は、7000km÷90日=78km/日日本の飛脚より遅いが、まだジャムチ(駅伝制)が整備されていないので、妥当な数字だろう。
こうして、遠征中のモンゴル軍はヨーロッパ征服どころではなくなった。次の大ハーンは誰か?モンゴルの王族たちは色めき立った。二代目ハーンは、偉大な創始者チンギス・ハーンによって指名されていた。だが、今回は違う。大ハーンの死は突然で、継承の準備もされておらず、チンギス・ハーンのような求心力もない。
こうして、骨肉の争いが始まったのである。モンゴル帝室の王子たちは、次の大ハーンを決めるクリルタイに出席すべく、ハンガリーから撤退を開始した。オゴタイ・ハーンの死がヨーロッパを救ったのである。まさに、間一髪であった。
参考文献:佐口透「モンゴル帝国と西洋」平凡社
by R.B