明の太祖・朱元璋(6)~運命のわかれ道~
■支配者を浄化する
中国で100年続いた元朝を倒し、明朝を打ち立てたのは紅巾の乱ではない、乱を平定した朱元璋である。
ただし、この乱が元朝を弱体化させたことは確かだ。これがなければ、朱元璋の明朝は成立していないから。そもそも、元朝末期の元軍は、ちまたに流布されるほど弱兵ではなかったのだ。
たしかに、元軍は緒戦で連敗したが、主力が戦っていたわけではない。主力は、宮廷内の権力闘争にあけくれていたのだ。国中で反乱の火の手が上がっているのに、派閥抗争とは余裕ですね。
元軍の手強さは歴史年表にも表れている。
紅巾の乱がはじまったのは1351年。朱元璋が明朝を開き、大都(北京)を占領し、モンゴル人を中国から追い出しのは1368年。ところが、それで元朝が滅亡したわけではなかった。モンゴル高原に撤退し、王朝を存続させたのである(北元)。
その北元が滅んだのは1388年、明朝創立から20年、紅巾の乱がはじまってから37年後のことだった。しかも、北元を滅ぼしたのは明朝ではない。内戦で自滅したのである。
つまり・・・
教科書でおなじみの「元朝は紅巾の乱でイチコロ」はウソ。イチコロどころか、37年も生きながらえたのだから。
朱元璋が一代の英雄であったことは疑う余地はない。とはいえ、単独で元朝を倒すのはムリ。つまり、朱元璋にとって、紅巾の乱”様様”だったのである。
紅巾の乱は、白蓮教・明教の乱といわれるが、実体は農民一揆だった。このような農民による大乱を「起義」とよんでいる。中国史ではよくあるイベント、王朝交代の風物詩でもある。
事実、中国では、起義で王朝が何度も交代している。見方を変えれば、起義は「支配者浄化」システムなのだ。現在の中国共産党が、起義の温床「デモ・暴動」にナーバスなのはそのためである。
たとえば、中国では「天安門事件」はタブー中のタブー。中国政府が「日本は歴史を直視せよ」というから、「じゃあ、中国も天安門事件を直視したら」と反論したら、マジギレでとりつくしまがない。
事実、キーワード「天安門事件」は中国当局の厳しいネット検閲を受けている。そのため、天安門事件を知らない若者も多いという。
ちなみに、天安門事件とは、1989年6月4日、北京の天安門広場で、デモ隊と軍が衝突した事件。民主化を求めて集まった学生と市民に、中国人民解放軍が発砲し、装甲車でひき殺し、多数の犠牲者がでたのだ。
とはいえ、中国共産党も反乱で成立した政権である。1911年の辛亥革命で清朝が倒れ、袁世凱、張作霖、蒋介石とトコロテン式に主役が押し出され、最後に残ったが中国共産党の毛沢東だったのだ。
歴史は繰り返すのである。
■紅巾の乱の勢力図
紅巾の乱に話をもどそう。
乱の実働部隊は、貧乏な農民、流民、海賊、山賊、密売人・・・食いっぱぐれたアウトローである。カネも知識も教養もないけど、時間と体力だけは腐るほどある。そんな連中を宗教で洗脳し、命知らずの戦闘員にでっちあげた集団だ。
この集団には、大きく2つの系統があった。
白蓮教・明教(弥勒教)の教主が率いる「紅巾派」と、海賊や塩の密売人の頭目が率いる「非紅巾派」である。紅巾派は、頭に紅巾をかぶったので紅巾軍(紅巾賊)とよばれた。さらに紅巾系には、東系紅巾軍と西系紅巾軍があった。
ここで、紅巾の乱の百花繚乱(ひゃっかりょうらん)ぶりをみてみてみよう。
1.1336年、周子旺(しゅうしおう)と彭瑩玉(ほうえいぎょく)の起義(紅巾系)。
紅巾の乱の序章である。
袁州で、周子旺が「周王」を名乗って、旗揚げしたが失敗。周子旺は殺されたが彭瑩玉は逃げのびた。その後、彭瑩玉は、淮河流域で怪しい治療と明教(弥勒教)で農民を洗脳した。のちに、徐寿輝を頭目とする西系紅巾軍を組織する。
2.1348年、方国珍(ほうこくちん)の反乱(非紅巾系)。
浙江で、方国珍が旗揚げした。海賊の濡れ衣を着せられ、しかたなく立ち上がったのである。方国珍は海上輸送を生業とする豪族で農民反乱ではない。海戦が苦手な元朝は、”海の男”方国珍に連戦連敗、鎮圧に失敗した。浙江で一大勢力になる。
方国珍は朱元璋の征服戦争ではラスボス。ただし、方国珍が最強だったわけではない。誰よりも環境に適応したのである。強い者が生き残るではなく、環境に適応した者が生き残る、つまり、ダーウィンの進化論。
3.1351年、韓山童の起義(紅巾系)。
韓山童は、代々、趙州・欒城(らんじょう)で白蓮教の教主をつとめた韓家の跡取りだった。その立場を利用して、起義をもくろんだのはいいが、直前に発覚し殺された。「明王」という立派な王名まで用意していたのに。
一方、息子の韓林児は母親と、間一髪で逃げのびた。その後、黒幕の劉福通の助力もあって、「小明王」を名乗り、東系紅巾軍の頭目にのしあがる。
4.1351年、徐寿輝の起義(紅巾系)。
湖北で、布売り商人の徐寿輝が皇帝を称し、国号を「天完」と定めた。黒幕は先の彭榮玉(ほうえいぎょく)。徐寿輝は見てくれが立派だったので、弥勒の生まれ変わりにされ、弥勒教(明教)の教主に祭り上げられた。仕掛けたのは黒幕の彭榮玉である。
ところが、9年後、クーデターが勃発。陳友諒(ちんゆうりょう)が徐寿輝を殺し、帝位を奪った。これが、西系紅巾軍で、朱元璋の最大のライバルになる。
5.1352年、郭子興の反乱(紅巾系)。
豪族の郭子興が、夜陰にまぎれて、濠州を占領した。小明王の東系紅巾軍の末端組織で、郭子興の他に4人の元帥がいた。朱元璋が弟子入りしたのは郭子興である。
6.1353年、張士誠の反乱(非紅巾系)。
蘇州で、塩の密売人、張士誠が旗上げした。翌1354年、「誠王」と称し、国号を「大周」と定めた。朱元璋にとって、陳友諒につぐ強敵である。人望はあったが、大望がなく、優柔不断が災いし、朱元璋に滅ぼされた。
7.1355年、韓林児の起義(紅巾系)。
亳州で、先の韓山童の息子、韓林児が旗揚げした。「小明王」を名乗り、国号を「宋」と定めた。紅巾軍の総本山、東系紅巾軍の本隊でもある。
これら百花繚乱の勢力をマップにプロットすると・・・
これは面白い!
地政学の視点からみると、意外な事実が浮き彫りになる。
■紅巾の乱の地政学
まず、華北(中国北部)は、首都・大都(現在の北京)を中心に元朝が支配していた。
つぎに、長江(揚子江)以南は、郭子興(紅巾系)、徐寿輝→陳友諒(紅巾系)、張士誠(非紅巾系)、方国珍(非l紅巾系)が割拠していた。
鳥瞰(ちょうかん)すると・・・
中国北部(華北)は元朝、中国南部(江南)は反元朝、その間に小明王。そして、地政学上の鍵となるのが小明王だ。理由は2つある。
第一に、小明王は紅巾軍の総本家で、強力な東系紅巾軍の本隊を率いていた。
第二に、大都に近く、元朝の圧力を直接受けていた。
つまりこういうこと。
小明王は、江南の反元朝勢力を元朝から守る強力な防波堤だったのである。
江南勢、ラッキー?
トンデモない!
江南は「死の組」だったのだ。
最終的に朱元璋が勝利したものの、血で血を洗う消耗戦が17年も続いたのである。
もし、陳友諒、張士誠、方国珍の3人が同盟していたら、朱元璋はイチコロだっただろう。いや、2人が組んでもイチコロだ(マップ参照)。
事実、陳友諒は張士誠に使者を送って、朱元璋を東西から挟撃しようともちかけている。この2人は、江南の「死の組」の2強だったので、実現していたら、朱元璋の命数は尽きていただろう。
そんな状況で、亳州の小明王が敵に回ったら最後、瞬殺はまぬがれない。朱元璋はそれが痛いほどわかっていた。だからこそ、江南を制圧するまで、小明王を盟主と仰ぎつづけたのである。事実、自軍が危機的状況なのに、小明王に援軍を出したこともある。
つまり、朱元璋にとって、小明王は元朝に対する防波堤であり、江南の「死の組」を戦うための同盟軍だったのである。
ところが、朱元璋は、小明王が用無しとみるや、あっさり殺してしまう。さすが、史上最強のリアリスト、やることがわかりやすいですね。
さて、その朱元璋だが、紅巾の乱が始まった頃、どうしていたのだろう。
■運命の人、郭子興
方国珍が反乱をおこした1348年、朱元璋は古巣の皇覚寺に戻っていた。反乱で、故郷(安徽省・鳳陽)が不穏になったからである。朱元璋は4年の「托鉢行脚(たくはつあんぎゃ)=乞食旅」を終え、立派な若者に成長していた。
このとき、朱元璋は21才で、「朱重八」と名乗っていた。寺にもどった重八は、下働きをしながら、読み書きに励んだ。じつはこれが大きな財産になる。
というのも・・・
重八が紅巾軍に入ったとき、ほとんどが農民や流民や密売人で、文字が読める者がいなかった。そのため、重八は、命令書の伝達など重要な任務を与えられたのである。指揮官との距離も近く、出世に有利だったのは言うまでもない。
そして、ここで重八は運命的な出会いをする。
胸を焦がす絶世の美女・・・ではなく、紅巾軍の頭目の一人、偏屈で嫉妬深い郭子興(かくしこう)である。
郭子興の父はしがない占い師だったが、裕福な地主の娘と結婚することができた。怪しい占いで娘と父親をたぶらかしたわけではない。娘が盲目だったので、父親がよろこんで嫁がせたのである。その娘との間にできた子が郭子興だった。郭子興には商才があったので、土地の大地主、顔役にのしあがった。
ところが、地方の官吏が、羽振りのいい郭子興を見逃さなかった。なんだかんだ因縁をつけて金品をせびるのである。もっとも、郭子興だけがたかられたわけではない。この時代、元朝は上から下までワイロ漬けだった。大官が小官を喰い、小官が民衆を喰う・・・たかりの食物連鎖ができあがっていたのである。
とはいえ、このような中国の腐敗構造は今も変わらない。ワイロ、不正蓄財、資金の海外シフトなど腐敗官僚「裸官」のニュースが後を絶たないから。
郭子興はこれが気に入らなかった(気に入る人などいないですよね)。
そこで、郭子興は明教(弥勒教)に入信した。
悟りをひらいて、怒りをおさめるため?
ノー!
宗教を利用し、意のままにあやつれる組織をつくるため。
郭子興は、教団をとおしてカネをバラまき、江蘇、湖南一帯の農民をてなづけた。
1352年2月27日、時いたれり、郭子興は、数千人の手下を率いて、濠州に攻め入った。州の長官を殺し、町を占領したのである。もう後戻りはできない。反元朝でツッパるしかないのだ。
■ルーク・スカイウォーカーと朱元璋
郭子興が占領した濠州は、重八の故郷に近かった(現在の安徽省鳳陽)。
身近でおきたこの事件は、重八に衝撃をあたえた。紅巾の乱が中国全土に拡大している。隣の濠州でも、紅巾軍が町を占領したのだ。
モタモタしていると、元朝が倒れ、新体制が確立する。そうなれば、重八のような下層民にチャンスはないのだ。
では、極貧の小倅(こせがれ)が、出世するにはどうすればいいのか?
勝ち馬に乗るしかない。
誰が勝ち馬?
それがわかるくらいなら苦労はない。インターネットもTVもない時代だから、情報を得ることもままならないのだ。
しかも、勝ち馬判定は正真正銘の「未来予測」、今流行の人工知能「弱いAI」でもムリ。一部、「予測マシン」、「予期知能」という言葉が使われだしたが、一般には認知されていない。
では、どーする?
一番近い郭子興で手を打つ!
安直だが、悪くない選択だ。
そもそも、まともな情報も入手できないのだから、ヘタな考え休むに似たり。走りながら、考えるしかない。事実、重八は郭子興を選んだのだが、電光石火で決断したわけではない。濠州に行くか死ぬほど迷ったのである。
アーデモナイ、コーデモナイ、歴史上の英傑では考えられないほどの優柔不断さだ。
では、なぜ、重八はそれほど迷ったのか?
濠州の紅巾軍の5人の元帥が仲が悪く、お互いに疑心暗鬼だったから。誰かが他の元帥を捕らえて官憲に売り飛ばす・・・そんなウワサまで流れていた。これほどバラバラなら、いずれ、元朝軍か他の勢力に滅ぼされる、と考えたわけだ。
そこで濠州に行くか迷ったのだが、このとき、幼友達から貴重なサジェスチョンを得ている。
重八には、3人の幼友達がいた。湯和(とうわ)、周徳興(しゅううとくこう)、徐達(じょたつ)である。
この3人は、子供の頃、重八と牛泥棒をした悪ガキ仲間だ(正確には牛を盗んだのではなく焼いて食べた)。彼らは、のちに、重八を助けて、明朝創立の大功労者になる。3人は、勝ち馬を引き当てたわけだが、運以外のなにものでもない。
はじめに、湯和から手紙がきた。湯和は、濠州の紅巾軍に入り、すでに千戸を封じられたという。モタモタしていると、昔の仲間にも後れを取る。
さらに、皇覚寺の兄弟子がこんな警告をしてくれた。
「(湯和の)手紙のことを、役所にバラそうとしている奴がいる。早く逃げた方がいい」
絶体絶命。
ところが、それでも重八は決心がつかなかった。そこで、生まれ故郷の孤荘村へ行って、周徳興に相談することにした。悩みを打ち明けると、周徳興はこう言い切った。
「生きのびるには、紅巾軍に投じるしかない」
わかっちゃいるけど、決められない。重八は煮え切らない気持ちで、皇覚寺にもどった。
ところが、そこで、驚くべき光景を目にする。
皇覚寺が焼け落ちていたのである。皇覚寺には弥勒仏の像があり、「皇覚寺=弥勒教=紅巾軍」とみなされたのだ。そこで、元軍が掃討作戦で皇覚寺を焼き払ったのである。
これは、スターウォーズ第1作目「エピソード4/新たなる希望」を彷彿させる。
ルーク・スカイウォーカーは、両親を失い、叔父の家で農作業を手伝っていた。そこへ、謎の人物オビワンケノービーが現れ、ルークをジェダイの道に誘う。それを断って帰ると、家は焼き払われていた。帝国軍が無差別の掃討作戦を展開していたのだ。こうして、ルークはジェダイへの道へと進む。
一方、重八は・・・両親を失い皇覚寺に預けられ、乞食旅や下働きなど夢のない人生を送っていた。そこに、紅巾の乱が勃発し、転機が訪れる。それでも決心がつかず迷っていると、皇覚寺が焼き払われてしまう。居場所がなくなったのだから、紅巾軍に身を投じるしかない。
つまり、こういうこと。
ルークも重八も、初めは地味な人生を送っていたが、あるとき、転機が訪れる。そこで決めかねていると、自動的に選択肢が一つになり・・・
重八は明朝の皇帝、ルークは帝国軍の英雄!輝かしい未来が待っていたわけだ。これが運命というものなのだろう。
こうして、重八は故郷を後にして、濠州に向かった。重八、25歳の春であった。
参考文献:
「超巨人朱元璋・運命をも変えた万能の指導者」原作:呉晗、堺屋太一、志村嗣生、志村三喜子、講談社
by R.B