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週刊スモールトーク (第309話) 歴史上の一番出世(1)~朱元璋Vs.秀吉~

カテゴリ : 人物歴史

2015.11.21

歴史上の一番出世(1)~朱元璋Vs.秀吉~

■日本の一番出世

出世とは、読んで字のごとく、「世に出る」こと。

官僚や弁護士や医者のような難しい職業に就いてもダメ。歴史にのこる偉業を成しとげて、組織の頂点にのぼらねばならない。ただし、頂点といっても、町内会の会長や、学校の校長先生や、会社の社長ではちょっと・・・

では、ノーベル賞をとったら?

無条件でOK!

カネや権力では得られない至高の名誉だから。だから、あれだけの驚嘆と賞賛をもって祝福されるわけだ。

じゃあ、総理大臣は?

ビミョー・・・

親の地盤を継いで政治家になって、総理大臣にのぼりつめても、誰も驚かないだろう。もちろん、賞賛もナシ。

事実、歴代の総理大臣は、ほとんどがエスタブリッッシュメント、つまり、エリート階級の出身なのだ。ただし、例外もある。第64・65代内閣総理大臣「田中角栄」である。

農家に生まれ、最終学歴は高等小学校なので、ほぼゼロスタート。そこから、総理大臣にまでのぼりつめたのだから、マスコミも国民も大騒ぎだった。ついたニックネームが「今太閤」、最高レベルの出世といっていいだろう。

つまり、「出世」には「人生の幅」が必要なのだ。それも特大の。

ところで、「今太閤」って?

本来、「太閤」とは、摂政や関白を禅譲した人を指す。摂政?関白?

メンドーくさい話になりそうなので、ここは「出世の代名詞」でとめおこう。事実、「太閤」と聞くと、豊臣秀吉を思い浮かべる人が多い。

というわけで、日本史上、最も出世した人物は「豊臣秀吉」、現代なら「田中角栄」?

もちろん、経済・文化の世界にも「人生の幅」が大きい人はいる。ただし、

人生の幅=「ゴール」ー「スタート」

なので、ゴールは最大でなければならない。つまり、天下人。

■中国の一番出世

では、お隣の中国の一番出世は?

「朱元璋(しゅげんしょう)」で決まり!

誰、それ?

明王朝の創設者。

朱元璋の「人生の幅」は中国史上最大といっていいだろう。スタートは最低で、ゴールは最大だから。

この時代、中国は元朝が支配していた。かのチンギス・ハーンが建国したモンゴル帝国の後継国である。つまり、中国の大多数を占める漢族は、少数民族のモンゴル人に支配されていたわけだ。

朱元璋は、この元朝を打ち倒し、漢族の明王朝を打ち立てた。中国統一にくわえ、モンゴルのくびきから漢族を解放した民族の英雄なのだ。

平民から身を起こし、漢王朝をおこした「劉邦」も大出世だが、「出世の幅」では朱元璋にはおよばない。朱元璋のスタートは、平民どころではなかったから。

さらに、「明」と言えば、豊臣秀吉が朝鮮を攻めたときの中国王朝。NHKの大河ドラマではおなじみなので、「明」を知らない人はいないだろう。

ところが、その「明」の創始者が日本で無名?

事実、朱元璋を知っているのは、歴史家か、受験で世界史を選択した学生か、歴史オタクぐらいだろう。

もちろん、日本人は中国史に興味がないわけではない。たとえば、三国志は日本では大人気だ。中でも、諸葛孔明を知らない人はいないだろう。ところが、諸葛孔明は、負けた「蜀」の人間で、しかも、王ではなく丞相(総理大臣)なのだ。

つまり、明王朝の建国者が、滅んだ国の丞相より知名度が低い・・・一体、どうなっているのだ?

理由はカンタン、朱元璋は、日本どころか、中国でも人気がないから。日本で無名は当然だろう。

半分ナットク、半分疑わしいが、その前に、検証することがある。

朱元璋の「出世」は本当に最大?

百姓の小せがれから天下人になった秀吉より、本当に上?

そこで、朱元璋と秀吉の「人生の幅」を精査してみよう。

■秀吉の人生の幅

朱元璋と豊臣秀吉は、ゴールは同じ「天下人」。ところが、スタートがゼンゼン違う。

秀吉は百姓の小せがれとはいえ、父の遺産をわけてもらい、放浪の旅に出たという説がある。少なくとも、「極貧」の証拠はない。

ところが、朱元璋は極貧どころではなかった。物心がついたときから、生きるか死ぬか・・・

事実、朱元璋が15歳のとき、飢餓と疫病で、家族が次々と死んだ。生き残ったは朱元璋と兄の二人だけ。その兄とも、生き別れとなり、天涯孤独となった。その後、朱元璋は寺に預けられたが、その寺も食うや食わず。50日後に寺を追い出されてしまう・・・これが朱元璋の人生の始まりだった。

これより下は?

「死」しかない。

貧乏、極貧どころか、生きるか死ぬか、究極のゼロスタートである(マイナススタートかも)。

それでも、朱元璋は生きのびた。そして、成人して、やっと仕官にこぎつけたのである。それも一兵卒として。

ここで、「仕官」までの境遇を比較すると、

朱元璋<秀吉

ところが、仕官した後は、

朱元璋<<<秀吉

具体的にみていこう。

秀吉が仕官したのは、言わずと知れた「織田信長」。最終的に、日本の半分を征服した巨人である。ここまでくれば、天下統一は時間の問題だった。あの本能寺の変さえなければ。

「戦国時代」は日本史上最大の内戦だった。今川、武田、北条、上杉、毛利などの強豪が割拠し、誰が天下をとってもおかしくない。裏を返せば、ドングリの背比べで、誰も天下をとれない。

ところが、織田信長は、今川、武田、さらに、天敵の「本願寺」を滅ぼし、本能寺の変の頃には、上杉と毛利と北条を同時攻撃するほどになっていた。

ではなぜ、信長だけがドングリの背比べを抜け出すことができたのか?

信長も他の大名も目指すところは同じ「富国強兵」、ところが、信長の手法だけが違った。

他の大名は・・・兵を鍛え、敵国に攻め入り、領地を広げる。つまり、石高主義。

ところが、信長は・・・カネ、カネ、カネ!

具体的には、楽市楽座で経済を活性化し、巨額のマネーを集める。つぎに領内の浮浪者をカネで雇って兵に仕立てあげる。そうすれば、農民を徴兵する必要はない。兵士は戦いに、農民は農業に専念できるわけだ。これが兵農分離である。

この時代、ほとんどの領国は「農民=兵士」だった。そのため、農繁期に戦さができない。食糧を作る者がいなくなり、国中が飢えるから。

ところが、織田軍は兵農分離なので、一年中戦さができるのである。

では、兵農分離の方が有利?

ビミョー・・・

兵農分離=カネで雇われた兵=忠誠心と戦闘意欲に欠ける?

あたらずとも遠からず!

事実、武田、上杉、徳川の兵は強かった。当主の信玄、謙信、家康の資質に負うところが大きいが、「兵士=農民」のモチベーションが高かったのである。戦争に負けたら、自分の田畑が荒らされ、家も焼かれるから。

一方、カネで雇われた兵士は、戦争で負けても、田畑を失うわけでも、国を追われるわけもでない。もともと、食い詰めた浪人なので、失うものは何もないのだ(命を除いて)。だから、負けが見えたら、さっさに逃げればいい。だから、モチベーションはボトム・・・

ところが、カネでこしらえた兵団にも良いところがあった。

田畑を耕す必要がないので、一年中戦える。事実、織田軍は、農繁期に国境を脅かして、敵をイライラさせたものだった。さらに、カネにモノを言わせて、長大な槍、立派な防具、鉄砲も大量に買いそろえた。

戦国時代、鉄砲といえば信長だが、他の大名も鉄砲の価値は理解していた。軍神、上杉謙信もその一人だったが、入手できたのはわずか300挺。おカネも入手先も限られていたから。

とはいえ、カネ兵団の最大のアドバンテージは「補充力」だろう。

戦争で何百人、何千人死のうが、大勢に影響はない。カネでいくらでも補充できるから。

つまり、「信長脳=物量」だったのである。

この発想の有効性は、400年後の太平洋戦争で証明された。開戦当初、精強な日本軍は、局地戦で勝利を重ねたが、ミッドウェー海戦で大敗すると、その負けを取り返すことができなかった。つまり、最後に物を言うのは物量なのである。

このルールは戦国時代も変わらない。

織田軍は今川、武田、上杉などのライバルの数倍の兵を動員できた。そのため、織田軍は一つの戦いで敗北しても、致命傷にはならない。一方、「物量」がないと、一度の敗戦が致命傷になることがある。長篠の戦いで足腰を砕かれた武田勝頼のように。

もちろん、織田信長は兵の訓練をないがしろにしたわけではない。最終的に事を決するのは質ではなく物量であることを知っていたのである。

ところが、その信長をしても、天下統一は困難をきわめた。尾張平定に8年、その後、日本の半分を征服するまでに、23年もかかっている。この間の信長の戦いは凄まじいの一言だ。太田牛一が記した「信長公記」にはその様子が活き活きと描かれている。「信長」書で最も信憑性が高いとされるので、一読の価値アリ。

このような難事業を、織田信長は一代で成しとげたのである。武田信玄や上杉謙信は、動員兵力がせいぜい2~3万なので、長生きしてもムリ(信長は10万)。まして、秀吉なんか逆立ちにしてもムリ。

では、なぜ、秀吉は天下を取れたのか?

タナからボタモチ。

織田信長が日本統一に王手をかけたところで、死んでくれたから。明智光秀が、織田信長と嫡男の信忠を弑逆(しいぎゃく)したのである。とくに、信忠が殺されたことが大きい。信長が死んでも、信忠が生きのびていたら、秀吉の出番はなかったから。

結果、織田信長の全遺産が秀吉の足元に転がり込んだ。とはいえ、秀吉は口を開けて待っていたわけではない。主人殺しの明智光秀と、ライバルの柴田勝家を自らの手で葬ったのだから。

とはいえ、これを「タナからボタモチ」と言わずして何という?

しかも、このボタモチは並のサイズではない。超特大、日本の領土の半分なのだ。

早い話・・・

秀吉は、信長の背中を見ているだけで良かった。前面の難敵は、すべて信長がなぎ倒してくれたから。そして、いいところで、死んでくれた。そこで、ライバルの明智光秀を謀反のとがで成敗し、返す刀で、目ざわりな柴田勝家を滅ぼした。そしたら、天下が転がり込んだ・・・

こんな秀吉のラッキー&ハッピー人生をみたら、朱元璋は仰天したことだろう。彼が仕官した親分とは天と地だから。

一体、朱元璋の親分ってどんな人?

■朱元璋の人生の幅

朱元璋が仕官したのは「郭子興(かくしこう)」という地方軍の指揮官だった。

ただし、地方軍といっても正規軍ではない。農民が蜂起した反乱軍、つまり、「賊軍」である。この賊軍は、赤い布で頭を包んだので「紅軍」とよばれた(いかにも怪しい)。

しかも、郭子興はその紅軍の頭領ではなかった。紅軍にはいくつもの分派があり、その末端部隊の指揮官だったのである。さらに、その末端部隊の総大将というわけではない。5人いる指揮官の一人だったのである。

問題はまだあった。

郭子興は他の4人の指揮官と反目し、いつ殺されてもおかしくなかった。事実、暗殺未遂事件が何度かおこっている。

それでも、郭子興に人徳があればまだ救われた(漢の劉邦のように)。ところが、郭子興は、嫉妬深く、疑り深く、カンシャク持ちだった。事実、朱元璋は、誠心誠意仕えたのに、疑われ、叱責をうけ、あげく、投獄されたのである。

つまり、こういうこと。

朱元璋が仕官したのは、吹けば飛ぶような賊軍の末端部隊の、いつ失脚してもおかしくない、器の小さな指揮官だった。しかも、誠心誠意仕えても、信用してもらえない・・・

ところが、朱元璋の真の敵は賊軍の外にいた。賊軍と敵対する勢力である。

中国全土に、元朝側の地方軍と反元朝の独立勢力が点在し、首都近辺には、強力な元朝の主力軍がいた。これらの外敵からみれば、郭子興の内敵などゴミ。ところが、郭子興はそのゴミに手を焼いていたのである。

朱元璋の仕官したのはその郭子興だった(織田信長とは比ぶべくもない)。

こんな逆境から、どうやって中国を統一するのだ?

だから・・・

朱元璋は歴史上、「出世ナンバーワン」なのである。「人生の幅」が最大という意味で。

《つづく》

参考文献:
「超巨人朱元璋・運命をも変えた万能の指導者」原作:呉晗、堺屋太一、志村嗣生、志村三喜子、講談社

by R.B

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