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週刊スモールトーク (第50話) キリスト教異端 ~聖書の歴史~

カテゴリ : 思想

2006.06.09

キリスト教異端 ~聖書の歴史~

■歴史は繰り返す

ダン・ブラウンの「ダ・ヴィンチ・コード」がブームになっている。原作本はもちろん、映画、関連グッズも大売れで、商売繁盛。書店では類似品も並べられ、「ダ・ヴィンチ・コード」特需を狙っている。歴史は繰り返すのかもしれない。じつは、1990年代初頭、似たようなブームが起こっている。「イエスのミステリー~死海文書で謎を解く~」が世界10ケ国でベストセラーになったのだ。それが引き金になり、死海文書ブームとなったわけだ。

だが、今回の盛り上がりは、15年前のはるか上を行く。聖書に無関心な人まで巻き込んでいるからだ。一見すると、この2つのブームの源はキリスト教に見えるが、「宗教」だけで世界中を騒がせるのは難しい。もっと分かりやすいモチベーションが必要だ。ということで、根は「陰謀」。古今東西をとわず、人間は「陰謀」が大好きなのだ。退屈でつまらない現実から逃れるために。

■死海文書

「死海文書」とは、死海に近い洞窟で見つかった古代の写本のことである。ベドウィン族の少年が遊んでいる時、たまたま見つけたもので、「死海写本(Dead Sea Scrolls)」とも呼ばれている。死海文書を書いたのはクムラン宗教団、古代ユダヤ教エッセネ派、もしくはその分派とされる宗派だ。

死海文書には、旧約聖書、クムラン宗教団の教義が含まれていた。中でも、旧約聖書はそれまで発見されたどの聖書よりも古く、古代ユダヤ教を知る重要な資料となっている。そういう意味で歴史的な発見と言っていいだろう。では、そんな古文書にどんな陰謀がからんでいるというのか?死海文書が発見されたのは1947年だが、公表がかなり遅れた。そこで、出てきたのがヴァチカン陰謀説。死海文書にはキリスト教にとって都合の悪いことが書かれていたので、ローマカトリック教会の総本山ヴァチカンが公表を妨害したというのだ。

では、何が都合悪かったのか?死海文書に書かれたクムラン宗教団の教義がイエス・キリストの教えに似ていたからである。クムラン宗教団は独身主義、菜食主義を押し通し、禁欲的な共同生活をおくっていたとされる。「洗礼者ヨハネ」もクムラン宗教団の一員だったといわれるが、ヨハネはイエスを洗礼した人物だ。とすれば、イエスとクムラン宗教団にも接点があってもおかしくない。つまるところ、ヴァチカンはイエスの教えがオリジナルではなく、ユダヤ教の一派だったとは認めたくない、というわけだ。

そもそも、イエスはユダヤ教徒によってローマ帝国の官憲に引き渡され、磔刑に課せられたのだから。とはいえ、イエスの教えはユダヤ教と異なる部分も多い。これがイエスやキリスト教をおとしめるとは思えないのだが。死海文書が発見されたのは1947年だが、「イエスのミステリー」が出版されたのはその45年後。今回ブレイクしたダ・ヴィンチ・コードも、元ネタは60年前にすでにあった。古きを尋ねて新しきを知る。これも、立派な金儲けの方程式。だが、相手は神、バチが当たらないことを祈っている。

■ダ・ヴィンチ・コードの功績

原作者ダン・ブラウンが告白しているように、。ダ・ヴィンチ・コードは古ネタの焼き直しに過ぎない。当然、非難する人も多い。だが、どんな作品でも過去のピースは混ざっているもの。完全無欠のオリジナルなどありえない。実際、ダ・ヴィンチ・コードに埋め込まれたピースは、イエスと聖杯伝説、マグダラのマリア、モナリザとレオナルド・ダ・ヴィンチ、アナグラムに暗号解読・・・

とまぁ、これほど徹底したウケ狙いも珍しい。本、ゲーム、映画、それが何であれ、公表するならまずは金儲けだが、どこかに、作者のこだわりとか、意気込みを感じるものだ。ところが、そんなものは皆無で、カネカネカネ?もっとも、ダ・ヴィンチ・コードの価値は別の所にある。聖書の真実を伝えたことだ。我々が知る聖書とは、キリスト教の「正典」のことである。ということは、外典、異端の聖書も存在するわけだ。歴史上第1位のベストセラー、絶対的権威をもつ聖書も、ある意図で取捨選択されたのである。だから、正典が真実とは限らない。

■異端のキリスト教

ここで、キリスト教の聖書を整理しよう。キリスト教の聖書は、旧約聖書と新約聖書からなる。旧約聖書は「創世記」や「出エジプト記」のように、物語性が強く、読んでいて面白い。一方、新約聖書はイエスの生涯と教えが中心で、読むには気合いがいる。新約聖書はさらに「4福音書」、「使徒の言行録」、「使徒の手紙」、「ヨハネの黙示録」からなる。中でも、キリスト教会にとって重要なのは、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの「4福音書」だ。そして、これらを含む27の文書が、聖書、つまり、キリスト教の正典となっている。

問題は正典以外にも多くの聖書が存在したことだ。しかも、その内容は、正典と大きく食い違う。つまり、イエスの言行録や、神のとらえ方に、異なる解釈が存在するということ。中でも有名なのは、イエスの神性をめぐる論争だ。325年、この論争に決着をつけるべく、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世は、ニカエア公会議を開催した。これは歴史の教科書にも載っているキリスト教世界の大事件である。

この会議で、アレクサンドリアの司祭アリウスはこう主張した。「神は絶対の存在であるがゆえに、始まりはなく、生まれることもない。しかし、キリストは生まれた者であるゆえ、神と同一ではない。キリストは神の子、つまり、神の意志によって存在するのであり、神のような絶対的な神性をもつものではない」単純にして明快、恐ろしい説得力である。さすが、ニュートンが信奉しただけのことはある。

これに対し、アレクサンドリアの主教アタナシウスは、父である神と、子であるキリストが同じ神性をもつと反論した。これは、父と子と聖霊という3つの位格が1つとなって神の存在とする三位一体を支持するもので、以後、キリスト教の主流となった。一方、先のアリウスが主張したアリウス主義は異端とされ、アリウス自身はリビアに追放されている。

■消された聖書

ところが、キリスト教の異端はアリウス主義だけではない。アリウス主義よりはるかに危険な異端(正典にとって)が存在するのだ。

イエスの言行録は、イエスの死後、紀元1世紀~2世紀に書かれたが、その数は数十種類にものぼるといわれる。そして、現在、正典として認められているのは「27の文書」にすぎない。残りの文書は、歴史から完全に消されたか、異端として排斥されたかのどちらかだ。このように聖書を取捨選択したのは先のアタナシウスである。367年、ニカエア公会議で勝利したアタナシウスは、先の4福音書を含む27の文書を正典、つまり「新約聖書」としたのである。これが、今日のキリスト教世界のデファクトスタンダードとなった。

また、正典として認められなかった異端の書は、「新約聖書外典(アポクリファ)」と呼ばれ、一部の信者によって支持されている。文書の取捨選択、あるいは、ねつ造は、歴史の常だが、問題は選択基準、つまり、目的にある。まぁ、大抵は、支配する側の都合なのだが。キリスト教の場合、創始者のイエスと後継者たちの教えは必ずしも一致していない。

イエスの後継者たちは、キリスト教が世俗の王と並ぶ精神世界の王たらんことをめざし、選択基準を設定した可能性がある。ダン・ブラウンのダ・ヴィンチ・コードにはこのような視点が感じられる。そして、ダ・ヴィンチ・コードや異端の外典の背景に潜んでいるのが「グノーシス主義」だ。

■グノーシス主義

グノーシス主義は、紀元1世紀頃に生まれた思想である。そのユニークな世界観はイスラム教やキリスト教にも影響を与えている。中でも、キリスト教と融合したグノーシス派キリスト教が正統派キリスト教会にとって、最も危険な異端なのである。

グノーシス主義は、物質と霊を区別し、霊を至高のものとし、物質を下等な悪とみなしている。物質世界は物質であるがゆえに悪であり、創造神デミウルゴスも偽りの神とする。旧約聖書の創世記を否定することにもなり、正典入りはさすがにムリ。当然、人間も物質(肉体)なので「悪」となるが、本来の姿である「光霊」を認識することにより、至高神に帰還できるとしている。

■トマスの福音書

この異端のグノーシス主義を代表する書がナグ・ハマディ文書だ。1945年、エジプトで発見され、グノーシス主義の研究を一気に前進させた。ナグ・ハマディ文書には、トマスの福音書、ピリポ福音書、真理の福音などキリスト教の教えを記した文書が、10点以上も含まれていた。中でも興味深いのは「トマス福音書」。

著者のトマスはイエスの十二使徒の一人である。トマスの言行は、新約聖書の正典の一つ「ヨハネによる福音書」でも確認できる。それによると、トマスは、イエスの神性や奇跡をなかなか信じなかったようだ。そのため、「信じないトマス」とまで言われた。トマスの福音書を読むと、イエスが並みの知能の持ち主ではないことがわかる。いわゆる知の巨人の延長上にあるのではなく、まるで別の幹から派生したかのようだ。文面の裏に、ただならぬ知性、得体の知れない真実が隠されている気がする。ちまたの宗教家の「説法」とは次元が違う。

ここで、トマスの福音書がからむイエスのエピソードを紹介しよう。イエスは、エルサレムにのぼり、積極的に説教を行った。一方、それを快く思わないユダヤ教のパリサイ人や立法学者たちは、イエスをやり込める妙案を思いつく。それは次のような問いであった。

「カエサル(ローマ皇帝)に税金を納めることはよいことか?」

もし、イエスが税金を納めてはならないと答えれば、反逆者としてローマにひきわたす。逆に、税金を納めるべきだと答えれば、ユダヤの民を救うメシアがそんなことを言うはずがない。つまり、イエスはメシアではないことになる。これは、イエスをおとしめる無敵の質問となるはずだった。ところが、イエスの答えは驚くべきものだった。

「デナリウス銀貨の肖像はだれか?」

銀貨にはカエサルの肖像が彫られていた。イエスはつづける。

「カエサルのものはカエサルに返しなさい。神のものは神に。そして私のものは私に返しなさい」

このような問答をとっさに思いつくのは、並の知力ではない。一方、この質問を予知し、答えを準備していたとすれば、さらに上をいく知力。

■トマスによるイエスの幼児物語

不思議なことに、正典の新約聖書には、イエスが生まれてから12歳までの記述がない。これは、いかにも不自然だ。このような偉人を語り継ぐには、幼年期の非凡なエピソードは欠かせない。記録がなければ、ねつ造してでも付け加えるのが普通だ。一方、キリスト教の外典の中には、イエスの少年期を記したものが存在する。「トマスによるイエスの幼児物語」だ。この書は、キリスト教の正典の空白を埋めてくれる都合のよいものだが、正典からは除外されている。

理由は内容をみれば一目瞭然・・・

あるとき、イエスが村の道を歩いていると、一人の少年が走ってきてイエスの肩にぶつかった。イエスは腹を立て、「この道を二度と歩けないようしてやる」と言い放った。すると、その子はすぐに死んでしまった。その子の親は、驚き、怒り、イエスの父であるヨセフの家にやってきて文句を言った。「こんな恐ろしい子と同じ場所に住むことはできない。この子を連れて、村を出て行くか、それとも、このような呪いの言葉を二度と口にしないよう教育することだ」ヨセフは、イエスを呼び、叱ったが、イエスは次のように答えた。「お父さんの気持ちもわかりますから、そのようなことは口にしないようにします。でも、あの人たちは、必ず罰を受けることになりますよ」まもなく、イエスを訴えた人たちは、みな目が見えなくなった。それを知った人々は怖れおののき、イエスが口にすることは、善いことも悪いことも、必ず成就すると言い合った。

イエスのイメージが一変する恐ろしいエピソードだ。これでは、正典入りはムリだろう。もちろん、これが真実か否かはわからない。一方、正典である新約聖書には、成長後のイエスの奇跡が数多く記されている。だが、先の書によれば、イエスの超人的な能力は、少年期にすでに顕れていたことになる。ちなみに、この書の著者は、先の「信じないトマス」とは別人と言われている。つまり、著者不明。

■ユダの福音書

2006年5月号のナショナルジオグラフィックで、驚くべき事実が公表された。1970年代、エジプトで発見されたパピルスが、「ユダの福音書」の写本と判明したというのだ(※)。

ユダの福音書は、先のナグ・ハマディ文書と同じく、グノーシス主義、つまり正統派キリスト教にとって最大の異端の書である。もし、事実なら歴史的な発見だ。この写本は、高額な値がつけられたため、20年もの間、買い手がつかず、世界中をさまよっていた。その後、2000年に、チューリッヒの古美術商フリーダ・ヌスバーガー=チャコスが購入、5年がかりで修復と解読がすすめられ、その80%が完了したという。紙くずのような断片をつなぎ合わせる作業は、困難を極め、コンピュータによる画像処理も使われた。また、その信憑性も折紙つき。

放射性炭素年代測定法で、紀元220~340年の書と判定されたが、他の聖書が書かれた時期と一致している。また、紀元180年に、ユダを崇拝する一派が存在したことも分かっているので、つじつまがあう。ユダの福音書の秘密のベールは、まさにはがされようとしている。そして、その詳しい内容は、後日、出版される本で明らかにされるという(※)。

ユダの福音書の主役は、言わずと知れた「イスカリオテのユダ」。イエスを売った裏切り者だ。イエスの最後の12時間を映画化した名作「パッション」を観ればユダの罪状は明白だ。この映画のテーマはたった一つ、イエスの受難にあるが、イエスが、ムチ打たれ、磔刑に課せられるまでが延々と描かれている。むろん、その原因はユダの裏切りにある。ユダは銀貨30枚で、イエスを売ったユダヤ人として、2000年の呪いがかけられているのだ。しかも、この呪いは「世界の終わり」まで続く。ユダの福音書は、このユダの呪いを解こうとするものだ。

ユダの福音書によれば、ユダがイエスを売ったのは、イエスの指示によるものであり、イエスの霊を肉体から解放するためだったという。このくだりは、霊を至高のものとするグノーシス主義そのもの。さらに、ユダはイエスの最高の弟子であり、イエスの使徒にあって、唯一イエスの教えを正しく理解していたと主張する。いずれにしても、正典とは真逆。一方、このような「ユダの裏切り」に対する疑惑は、キリスト教の正典からも読み取れる。ユダは銀貨30枚でイエスを売り渡した。

ところが、その直後、銀貨をすべて返し、首を吊っている。カネで主を売り飛ばすような人間が、急に懺悔して、首を吊る?これはおかしい。謎はまだある。イエス・キリストだ。あれほどの高い知能、奇跡を起こすパワーをもつ者が、最後の晩餐まで、側近の裏切りに気付かない?裏切りを知りつつ、ある目的のために、放置したと考えるのが自然だろう。ユダの歴史を決めたのはユダではなく、他にいる(イエス・キリストⅢ~神の計画~)。

■聖書の真実

もし、先のアタナシウスが正典と外典を意図的に取捨選択したとして、その理由は何か?イエス・キリストの「愛」の教えは画期的なものだった。欧米世界で「家族愛」が生まれたのは産業革命以降のことである。その愛を2000年も前に説いたのである。しかも、比類なき絶対愛。このような教えを広めるためにはイエスの神性は不可欠で、それに合致した書を選択する必要があったのかもしれない。ある意味、正統派キリスト教会の良心の選択だったともいえる。

宗教には、大きく二つの使命があるように思える。人々に安心立命を与えること、そして社会の秩序を維持すること。このような観点にたてば、興味本位に外典を煽り、正典と対決させ、金儲けのネタにするのは、バチあたりな所業とも言える。

一方、仏教徒にしてみれば、キリスト教は知的好奇心の範囲を超えないため、このような所業もありがたい。その結果が、金儲けにつながったとしても・・・いずれにせよ、陰謀や謎は間違いなく、カネを生む。そして、キリスト教と聖書の世界は陰謀と謎に満ちている。

参考文献:(※)ナショナルジオグラフィック2006年5月号「ユダの福音書を追う」弓削達「ローマ帝国とキリスト教」河出書房新社

by R.B

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