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週刊スモールトーク (第92話) 奴隷貿易(3)~アメリカ奴隷制度の歴史~

カテゴリ : 歴史

2007.06.16

奴隷貿易(3)~アメリカ奴隷制度の歴史~

■奴隷制プランテーション

奴隷制度には3つのタイプがあるが、15世紀から始まったアフリカ黒人奴隷制度は、地球をまたにかけ、奴隷の数も桁違いだった。この奴隷制度は、19世紀にアメリカ南部の産業をささえたが、それがもとで暗部と北部は対立し、南北戦争にまで発展した。

翌年、1862年9月、アメリカ合衆国大統領リンカーンは「奴隷解放宣言」を行ったが、解放された奴隷はわずかだった。この奴隷制度で、1000万人以上の黒人奴隷が西アフリカからアメリカに送り込まれたが、そのほとんどを、アメリカ南部の奴隷制プランテーションがのみこんだ。奴隷制プランテーションとは、奴隷を使って単一作物を栽培する大規模農園のことである。

16世紀、アメリカ南部の奴隷制プランテーションは、タバコ栽培から始まった。ところが、タバコは価格が不安定で、投機性が高かった。タバコ栽培に嫌気がさしたプランター(プランテーションのオーナー)は、作物をタバコから綿花に切り替えた。イギリスの綿花需要に目をつけたのである。産業革命が起こったイギリスでは、工場の生産性が劇的に向上し、綿布と綿織物で世界最大の生産量を誇った。ところが、その分、原料の綿花が不足した。そこに目を付けたのが、アメリカ南部のプランターだった。

その結果、1800年初頭には、イギリスで消費される綿花の80%を、アメリカ南部のプランテーションが供給したのである。その労働力をささえたのが、黒人奴隷だった。こうして、アメリカ南部の大プランターは、綿花栽培で巨万の富を築いた。その優雅な暮らしぶりは、映画「風と共に去りぬ」でもうかがえる。この映画は、主人公スカーレット・オハラの人生を通して、アメリカ南部の大プランターの光と影を描いている。つまり、南北戦争以前の栄華と、その後の没落。

アメリカ南部の綿花栽培が、大成功を収めた理由は2つある。アメリカ南部の気候と土壌が綿花栽培に適していたこと。そして、アフリカから膨大な数の黒人奴隷が供給されたこと。綿花栽培は、典型的な労働集約型産業であり、安価な労働力が不可欠だったのである。

■アメリカ南部の黒人奴隷

一方、アメリカ南部の奴隷制度には他にない特徴があった。プランターが奴隷を家族丸ごと囲ったことである。奴隷を家族で所有すれば、奴隷が老いてもその子が新たな奴隷となる。奴隷が死ぬたびに、奴隷市場で奴隷を買う必要がなくなるわけだ。言葉は悪いが、奴隷の再生産のようなもの。奴隷の家族が住む居住区は、プランテーションの一画にもうけられた。そこは、見知らぬ奴隷たちが寝泊まりする殺ばつとしたキャンプではなかった。家族がともに暮らす家であり、「人としての暮らし」があった。この奴隷の家族が集い、大きなコミュニティが形成され、やがて独自の文化も生れた。黒人の嘆きの音楽「ブルース」もその一つである。

一方、黒人奴隷の中には、自由を得る者もいたが、長続きはしなかった。奴隷商人が解放された黒人の一家を襲い、再び奴隷として売り飛ばしたからである。苦心惨憺、勝ち得た自由の身から、再び奴隷の身へ。これ以上の、落胆、苦しみはないだろう。まるで、ギリシャ神話の「シシュポスの呪い」である。

神ゼウスの怒りに触れたシシュポスは、罰として重い苦役が課せられた。大きな石を山のふもとから山頂まで運ぶのだが、悪魔のような仕掛けが隠されていた。シシュポスが石を山頂まで運んだ瞬間、石は元の場所まで転がり落ちる。そこで、もう一度、山頂まで石を運ぶが、また石は転がり落ちる。気が狂うほどのこの繰り返し作業を、世界が終わる日まで続けるのである。

■サマセット事件

18世紀後半、イギリスで、奴隷制度にからむ歴史的事件がおこった。「サマセット事件」である。1765年、グランヴィル・シャープという人物が、通りがかりに、路上に捨てられた一人の黒人奴隷を見つける。名をジョナサンストロングといった。

シャープに助けられたストロングは、自由の身となり職を得るが、ある日、元主人のデビッド・ライルに発見される。ライルは、ストロングをつかまえ、奴隷市場に売り飛ばそうとした。それを知ったシャープは、ライルをジョナサンに対する暴行の罪で訴える。一方、ライルは、他人の財産を奪った罪で、逆にシャープを訴えた。人権を尊重すれば、奴隷を解放すべきだろうが、そうすると、所有者の財産権(奴隷)が奪われる。人権と財産権どっちが大事?

一見、究極の選択にも見えるが、そうでもない。奴隷を人と認めれば人権を、奴隷をモノとみれば財産権を優先させるべきだろう(法律的には)。当初、シャープが圧倒的に不利と思われたが、1772年にシャープが勝訴する。「たとえ奴隷であっても、イギリスに一歩でも入れば、自由人となる」画期的な判決だった。この判決で、多数の奴隷が解放されたが、反面、保護者を失うことになり、奴隷の生活は悪化した。

■ヨーロッパの奴隷解放

19世紀に入り、産業革命が本格化すると、奴隷制度への非難が一気に高まった。こうして、奴隷貿易はイギリスは1807年、フランスは1817年、スペインは1820年に廃止された。

ところで、なぜ、産業革命が奴隷貿易を廃止に追いこんだのか?奴隷商人が悔い改めた?そんなわけがない。理由は、お・カ・ネ。1769年、ワットが蒸気機関を発明し、イギリスで産業革命が起こった。工場は機械化され、生産性は飛躍的に向上したが、反面、生産過剰で製品があふれかえった。富裕層を相手にしていたのでは、らちがあかない。あらたな顧客が必要だった。そのターゲットになったのが、貧しい労働者階級だった。

資本家は、労働者に物を買わせるために、賃金労働者として雇用し、賃金を払い、その賃金で商品を買わせようとしたのである。結果、「労働力=奴隷→労働力=賃金労働者」これが、産業革命が奴隷制度を廃止に追い込んだ理由である。ということで、やっぱり、お・カ・ネ。

■アメリカの奴隷解放宣言

1840年、アメリカでも産業革命が始まり、北部では工場が次々と建設された。新しい時代のページがめくられようとしていたのである。こうした息吹を感じとった北部の商工業者たちは、先進的な思想と自由な気風を好む傾向があった。一方、アメリカ南部では、あいかわらず奴隷を酷使する綿花栽培が中心で、プランターたちは保守的で、王侯貴族のような暮らしをしていた。このような南部は、北部の人々にとって、嫌悪すべき対象だった。

そもそも、アメリカ憲法には万民平等の思想があり、奴隷の犠牲の上に成立する社会なぞ悪にしか見えなかったのである。北部と南部の対立は、日を追うごとにエスカレートしていった。奴隷制度だけではなく、貿易政策でも対立したのである。南部はイギリスに綿花を輸出していたので、イギリスが標榜する自由貿易に同調する立場にあった。

一方、北部が目指したのは工業立国で、そのためには、ヨーロッパ諸国に打ち勝つ必要があった。ところが、当時のアメリカは工業後進国で、自由貿易を認めれば、ヨーロッパに勝ち目はなかった。ということで、北部は保護貿易を望んでいたのである。このような対立は、やがて、アメリカ史上初の内戦にまで発展する。

1861年、南北戦争が勃発、最終的には工業力で優る北軍が勝利したが、リー将軍率いる南軍は強かった。そのため、終息するまでに5年の年月を要したのである。南北戦争が終わった後、3年前に交付された「奴隷解放宣言」により、多くの黒人奴隷が解放された。

ところが、南部では、黒人に対する差別や偏見が消えることはなかった。たとえば、南北戦争直後、テネシー州で創設されたKKK(クー・クラックス・クラン)。KKKはアメリカの白人至上主義団体で、白人支配の復活をめざし、黒人や黒人に好意的な白人を襲い、リンチをくわえたのである。

■イスラム世界の奴隷

このように、奴隷制度はヨーロッパとアメリカで悲惨をきわめたが、そうでない奴隷制度もあった。たとえば、イスラムの奴隷制度である。イスラム教の経典コーランには、「奴隷を親切に扱うべきである」と説かれているという。先ず、イスラム世界では、ヨーロッパ世界のように、だれかれ捕まえて、勝手に奴隷にすることはできなかった。

イスラム法によれば、奴隷にできるのは、生まれつきの奴隷か、異教徒の戦争捕虜のみ。ここで、生まれつきの奴隷とは、母親が奴隷身分の子をさす。ただし、もし父親が自由人で、その子を認知すれば、その子は奴隷身分から解放される。奴隷制度を認めた上で、奴隷の苦しみやハンディをできるだけ軽減しようとする意図が感じられる。

もちろん、イスラム世界でも、奴隷はモノ扱いだった。売買、相続、贈与の対象となったのである。一方で、さまざまな制限ももうけられていた。奴隷の刑罰は自由人の半分ですんだし、7歳未満の奴隷は母親から離して売ることは禁止された。奴隷は権利も半分なら、罪も半分?ん~、筋は通っている。

イスラム世界の奴隷が恵まれていた証拠はまだある。なんと、奴隷に自分の子供の教育を任せることもあったらしい。教育とは、教え、育(はぐく)むこと。高い知性と高潔な人格の持ち主なら、たとえ奴隷でも、子供の教育を任せる?イスラム世界では、奴隷に対する偏見や差別はかなり希薄だったのではないだろうか?黒人の幼児が家庭のペットにされたヨーロッパとは天地の差。

さらに、イスラムの教えでは、奴隷に教育をほどこし、奴隷身分から解放することは、天国への近道とされた。奴隷に対する意識の中に、ヨーロッパ世界では悪意が、イスラム世界では善意が感じられる。もちろん、あくまで一般論。

■モンゴルを討ち破った奴隷

イスラム世界は、奴隷に優しいだけでなく、奴隷に政治や軍事を任せる制度もあった。1255年、フラグ率いるモンゴル軍はイラン遠征に出発した。モンゴル帝国の3度目のヨーロッパ遠征である。前回同様、モンゴル軍は快進撃をつづけたが、1260年9月3日アイン・ジャルートの戦いで思わぬ敗北を喫する。将軍ケド・ブカ率いるモンゴル軍を破ったのは、エジプトのイスラム国マムルーク朝だった。イスラム世界は歓喜に包まれた。局地戦とはいえ、無敵のモンゴル軍に勝ったのである。

マムルーク朝は、じつは奴隷が建国した王朝だった。マムルーク朝は、13世紀から16世紀に栄えたイスラム王朝で、カイロに都をおき、エジプトからシリアまで支配した。マムルークとは「アラブの白人奴隷兵」をさすが、彼らが創設した王朝なので、こうよばれた。マムルークは奴隷兵とはいえ、イスラムの最高指導者スルタンの親衛隊で、エリート戦士だった。

1453年、ローマ帝国を滅ぼしたオスマン帝国の奴隷兵イェニチェリと同じような位置づけだ。一方、マムルークはスルタンの私兵だったので、宮廷内で勢力を伸ばし、やがて、政治にも口出しするようになった。

■女性スルタン

興味深いことに、マムルーク朝の初代スルタンはなんと女性であった。エジプトを支配したイスラム王朝の中でも、女性スルタンはこのシャジャル・アッドゥッルのみ。

とはいえ、ジャンヌダルクのように自力でその地位を勝ちとったわけではない。そもそも、アッドゥッルは宮廷奴隷の出身で、勇ましい軍歴とは無縁である。じつは、アッドゥッルの夫はマムルーク朝の前王朝アイユーブ朝のスルタン・サーリフ。つまり、彼女は王の妻だったのである。夫サーリフが死に、後継者争いが起ったとき、マムルーク軍団長バフリーヤはアッドゥッルをかつぎ、マムルーク朝を創設したのである。これこそ、歴史上最大の「棚からぼたもち」?

マムルークは、白人の奴隷兵だったが、エジプトのイスラム王朝には、黒人の奴隷兵もいた。彼らは、「アビード」と呼ばれ、10世紀から11世紀のファーティマ朝では、マムルークをしのぐ勢いとなった。ところが、不出の英雄サラディン(サラーフ・アッディーン)によって、その力は完全に断たれた。サラディンは十字軍と戦ったイスラムの指導者で、戦いに勝利した後も、キリスト教徒にも慈悲を示し、ヨーロッパ世界からも尊敬された。軍事と政治に長け、高い知性と教養を備えたイスラム世界屈指の指導者だった。

■チェルケス娘

イスラム世界の奴隷は、マムルーク、イェニチェリのような汗臭い兵士だけではなかった。「チェルケス娘」。この意味深なキーワードは、インターネットで検索してもなかなかヒットしない。チェルケス人は、カフカス地方一帯に暮らす遊牧民族で、侵略や圧政に屈しない勇敢な民族で知られた。そのため、古くから奴隷兵を輩出している。

たとえば、1382年から1517年の後期ブルジー・マムルーク朝を支配したのは、チェルケス人のマムルークだった。さらに、チェルケス人には兵士とは別の奴隷もいた。チェルケス娘・・・彼女たちは、美しく魅力的なので、小さい頃から家事の奴隷として好まれたのである。つまり、性の奴隷。このように、歴史に登場する奴隷は多様である。奴隷を辞書的に表現すれば、「牛馬のように売り買いされる人間で、人の所有物」と、身もふたもない。だが、奴隷制度の歴史をみれば、奴隷制度には光と影がある。マムルークの栄光と、アフリカ黒人奴隷の闇である。

人間の潜在意識には、格差を好む性質がある。隷属的な境遇に反発し、自由と平等を求め立ち上がり、事が成就すると一転、民を弾圧した例は歴史上枚挙にいとまがない。また現代の「お受験」を見れば、平凡な主婦にも格差を望む本性が見える。格差願望は人間の普遍的性質なのだろう。この魔性を抑えることができるのは、人間が持つもう一つの特質、知性と善意かもしれない。

《完》

参考文献:朝日百科世界の歴史89朝日新聞社

by R.B

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