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週刊スモールトーク (第84話) 呉越戦争(2)~臥薪嘗胆~

カテゴリ : 戦争歴史

2007.02.25

呉越戦争(2)~臥薪嘗胆~

■呉の国

伍子胥(ごししょ)は、楚の平王と奸臣、費無忌(ひぶき)に、燃えるような復讐心を抱いていた。無実の罪で、父と兄を殺されたからである。伍子胥は、激しい気性の持ち主だったが、一方で、思慮深い面もあった。このとき、伍子胥の味方は、亡き太子健の子、勝だけで、守ってくれる兵卒は一兵もいなかった。一方、宿敵の楚は、兵は精強、国力も充実、春秋時代の覇者となる可能性もあった。伍子胥が復讐を遂げるためには、呉の力を利用するしかなかった。

楚の名門出身の伍子胥が、呉王、僚(りょう)に拝謁するのに時間はかからなかった。伍子胥は、さっそく、呉王に対し、
楚を討つことが呉の利にかなう
と説いた。呉王、僚が、領土拡大の野心を抱いていることを知っていたのである。もっとも、呉王、僚が抱く野望は、中国全土を統一するような大それたものではなかった。

周が弱体化し、都を洛邑に移してから、秦が中国を統一するまでを春秋戦国時代とよぶ。この間、多くの国(諸侯)が現れては消えていった。中国は広く、大軍が移動するには時間がかかる。しかも、この時代の兵器は殺傷力が低く、中国全土を統一するのは至難であった。そのため、諸侯の間でたびたび同盟がむすばれた。これを会盟といい、会盟の盟主国には最強国が選ばれた。盟主国の王は覇者と呼ばれ、周王に対し臣下の礼をとった。周は有名無実化していたが、権威の象徴として利用されたのである。もし、異民族が侵入すれば、盟主の元、一致団結して戦うが、国によって法律も貨幣も制度も違う。いわゆる封建国家である。呉王、僚の望みは、おそらく、この程度のものだったろう。

いずれにせよ、呉王、僚が春秋の覇者を狙っていることは確かであり、そのためには、ライバルの楚を倒す必要があった。伍子胥は、そこを突いたのである。さらに、伍子胥が楚の出身で地理に精通していることから、合戦時には、自分が助けになることも付け加えた。伍子胥の熱弁で、呉王、僚はすっかりその気になったが、呉王の側近の公子光(こう)は、これに反対した。
「伍子胥は、父と兄の恨みをはらすために、あのように言っているのです。呉のためを思ってのことではありません。そもそも、呉は国力において、楚に遠く及びません。時期尚早です」
呉王、僚は、公子光の意見に従い、楚を攻めることをあきらめた。

それを聞いた伍子胥は、公子光に対し疑念をいだいた。呉の力が楚に劣ることはないし、聡明な公子光がそれが分からぬはずがない。不自然なことには理由があるものだ。伍子胥は、公子光が王位を狙っているのではないか?と考えた。そう考えれば、つじつまがあう。これから国内で大事を起こそうとするときに、大軍を派遣して、わざわざ国外に憂いをつくることはない。では、なぜ、公子光は王位を狙うのか?伍子胥は、公子光の「きまりの悪い立場」に注目した。呉の王家にまつわる王位継承問題である。

■呉の王位継承問題

先代の呉王、寿夢(じゅぼう)には4人の息子がいた。上から順に、諸樊(しょはん)、余祭(よさい)、夷昧(いばい)、季札(きさつ)である。呉王は人望のある季札を後継者に指名したが、呉王が死ぬと、季札は王位に就くことを辞退した。やむえず、長兄の諸樊が王位に就いたが、自分の死後は、息子の光(公子光)ではなく、弟たちが順に王位につくよう決めた。そうすれば、やがては、季札に王位が回るからである。こうして、兄弟で順番に王位を継承するという奇妙な不文律ができあがった。そのため、本来、太子となるべき諸樊の実子、光は公子に留め置かれたのである。これが、公子光である。

この一風変わった王位継承は、当初はうまくいった。諸樊、余祭、夷昧と王位は継承され、夷昧が死んだ。いよいよ、季札の番である。ところが、季札はまたもや王位を辞退した。そこで、やむなく、夷昧の息子、僚が王位に就いたが、これが呉王、僚である。当然、公子光は面白くない

公子光が不満に思った理由はこうである。季札が王位を辞退した点で、すでに兄弟による王位継承のルールは反古になっている。僚が王位に就くなら、それは実子相続への変更であり、とすれば、公子光が王位に就いてしかるべきである。なぜなら、公子光は、先の4兄弟の長子、諸樊の実子だからである。三男の子、僚が継ぐなら、長兄の子である自分が継いで当然だ、と。

伍子胥は、公子光の言い分を認めたわけではなかったが、公子光が有能で、事をなし遂げる人物であることを見抜いていた。楚の平王と費無忌への恨みを晴らすには、呉の力が必要で、そのためには、公子光を助け、王位に就かせることが先決。もしそうなれば、公子光は伍子胥に恩を感じ、楚を攻めることに同意するかもしれない。伍子胥は、呉王、僚を暗殺するため、専諸(せんしょ)という刺客を推挙し、野にくだって、公子光が事を成し遂げるのを待った。

■呉王暗殺

紀元前512年、楚の平王が死に、費無忌が推す軫(しん)が王位に就いた。楚の昭王である。昭王は、太子健に嫁ぐはずだった秦の公女と平王との間に生まれた子である。平王は太子健の実父なので、昭王と太子健は異母兄弟になる。このような破廉恥でややこしい事態になったのも、すべて奸臣、費無忌の出世欲のせいだった。一方、昭王にしてみれば、この世に生を受けたのも、王位に就けたのも、すべて費無忌のおかげ。それをかさにきて、費無忌はやりたい放題であった。ところが、それがもとで内紛が起こり、結局、費無忌は反対勢力に殺される

春秋の覇者を夢見る呉王、僚は、楚の内紛を絶好のチャンスとみた。2人の弟に大軍をさずけ、楚を攻めさせたのである。さらに、諸侯の動静をさぐらせるため、人望の厚い叔父の季札を晋に使わした。季札は呉の王位継承を固辞した末弟である。事はうまく運ぶように思われたが、一つ誤算があった。楚軍の強さである。後の漢帝国の創始者、劉邦(りゅうほう)を破滅寸前まで追い込んだのは項羽率いる楚軍であった。楚の兵は歴史上精強で知られている。

この楚軍が、呉軍の背後にまわり込み、包囲したのである。攻め込んだ呉軍は退路を断たれ、身動きできなくなった。しかも、呉王、僚を支える季札も、遠国に出向いている。呉王、僚は国内で孤立した。伍子胥は、今がチャンスと公子光にサインを送り、公子光はそれを見逃さなかった。

公子光は奇策を用いた。呉王、僚を宴席に招いて暗殺しようとしたのである。一方、呉王、僚も、公子光のたくらみに気づいていた。公子光の公邸までの道筋すべてに護衛の兵を並べ、宴席にも護衛を同伴させた。少しでも怪しい動きがあれば、公子光を斬り殺す段取りだった。一方の公子光は、呉王、僚を安心させるため、自らの取り巻きを数名とし、一切の帯剣を許さなかった。ところが、公子光の精兵は地下に潜んでいたのである。

宴席がはじまると、世話係が宝魚を盛った大皿をもって、呉王の前に進んだ。以前、伍子胥が推挙した刺客、専諸(せんしょ)である。専諸は、魚の腹の中に隠していた短剣を引き抜き、呉王を一刺しにした。専諸は凄腕の刺客で、呉王は即死した。ところが、呉王を守る衛兵の行動も迅速だった。専諸をすぐに斬り殺したのである。その直後、地下室に潜んでいた公子光の精兵が飛び出し、呉王の衛兵を討ち果たした。

こうして、クーデターは成功し、公子光は王位に就いた。これが、呉王、闔閭(こうりょ)である。闔閭は、自分が王位に就くのを助けてくれた伍子胥を重用し、孫武(そんぶ)を軍師に任命した。孫武は、「孫子の兵法」の著者としても知られる。孫子は歴史上もっとも有名な兵法書だろう。武田信玄が軍旗にかかげた「風林火山」もここからきている。また、

「彼を知り己を知らば、百戦してあやうからず」

も孫子。また、楚に攻め入り包囲された呉王、僚の弟2人は、帰る場所を失い、楚に降った。

■孫子の兵法

あるとき、呉王、闔閭は、孫武を試そうと、次のように命じた。
「兵を用いるのは容易なことではない。言うは易く行うは難しとも言う。そちの兵法が、現実に役立つかものかどうか見てみたい。自ら兵を動かしてみよ」

そこで、宮中で呉王に仕える美女180人が集められた。孫武は、この美女軍団で自分の兵法が有効であることを示さねばならない。孫武は、180人を2隊にわけ、王の寵姫(ちょうき)2人を、2隊の隊長に任命した。そして、孫武は言った。
「わたしが前と言ったら胸を、左といった左を、右といったら右を、後ろといったら、背の方を見よ」

次に、孫武が「右!」と言うと、美女たちは、右を向く者、左を向く者、ばらばら。あげく、顔を見合して、くすくすと笑い出すしまつだった。それを見た孫武は言った。
「命令が行き届かないのは、指揮官であるわたしの罪である」

孫武は、もう一度、命令を説明した後、同じように号令をかけたが、結果は同じだった。孫武は言った。
「命令が実行されないのは指揮官であるわたしの罪である。だが、わたしは何度もくりかえし説明したので、命令は明らかである。それでも命令に従わないなら、それは隊長の罪である」

孫武は隊長の寵姫2人を斬ろうとした。孫武は真剣で、余興やざれごとには見えない。呉王、闔閭は、あわてて止めさせようとしたが、孫武は毅然として言った。
「わたしは、すでに命令を受けて指揮官となった以上、兵の指揮権はこのわたしにある」
こう言って、寵姫を斬り捨てた

つぎに、孫武は新たに2人の隊長を任命し、同じように号令をかけたが、命令は完全に実行された。孫武は呉王、闔閭に言った。
「すでに兵は整いました。ためしに、王みずから号令をかけてみてください。王の意のままに、兵は動くでしょう」
呉王、闔閭は憮然として言った。
「試すまでもない」

■屍(しかばね)にむち打つ

紀元前514年、楚で、再び内紛がおこった。楚の権臣、伯州黎(はくしゅうり)が、昭王に殺されたのである。楚の平王が没した時、費無忌がかついだ軫が王位に就き、昭王となった。それがもとで、費無忌の専横は目に余るようになったが、それを見かねて、伯州黎が費無忌を殺したのである。ところが、費無忌は昭王にとって、命と王位をくれた恩人である。昭王は、費無忌のかたきをとるために、伯州黎を殺したのである。この内紛で、伯州黎の孫伯ひが呉に逃れたが、この後、伯ひは呉越の戦いで重要な役割を果たすことになる。

呉王は、伯ひを快くむかい入れ、大夫に任じた。大夫とは、貴族の一身分で、卿につぐ高位である。伍子胥、孫武、伯ひが呉王、闔閭(こうりょ)をささえ、国力は増した。伍子胥は、今回の楚の内紛を絶好のチャンスととらえ、楚に攻め込むよう進言した。長年の恨みを晴らす時が来たのである。

紀元前513年、呉王、闔閭は、伍子胥と伯ひをともなって、7万の大軍で楚に攻め入った。一方、楚は10万の大軍でこれを迎え討つ。激戦が繰り広げられたが、紀元前506年、呉は楚の都、郢(えい)を制圧する。楚の昭王は隋に逃れた。

ついに、伍子胥に父と兄の恨みを晴らす時がきた。ところが、仇の平王も費無忌も、すでにこの世にはいない。怒りのやり場を失った伍子胥は、恐るべき行動に出る。亡き平王の墓をあばき、白骨化した死体を、何度もむち打たせたのである。これが「屍(しかばね)にむち打つ」の語源となった。「死んだ者への悪口を言う」という意味である。

■臥薪嘗胆(夫差臥薪)

ところが、呉王、闔閭と伍子胥が、楚の都(郢)にいる間に、思いもよらぬ事態が起こった。紀元前504年、越の大軍が呉の都に攻め入ったのである。呉王、闔閭にとって、青天の霹靂(へきれき)だった。まさか、あの小国の越が、呉に攻め込むとは。越王、允常(いんじょう)は、名臣、范蠡(はんれい)と5万の大軍率いて、呉の都、姑蘇城(こそじょう)を占領した。呉王、闔閭は、兵の半分を姑蘇城に向かわせ、残り半分で、郢に踏みとどまった。楚が秦に援軍を要請したため、秦の軍が攻め込んだからである。

悪いことはさらに続く。呉王、闔閭の弟、夫概(ふがい)が、こっそりと帰国し、呉王を称したのである。ここに及んで、呉王、闔閭は楚から全軍撤退を決めた。小国の越は、気づかれないよう国力を充実させ、虎視眈々と呉を狙っていたのである。呉越の戦いの始まりであった。

その後、呉王、闔閭は太子の夫差に命じて、楚を攻めさせたが、そのたびに昭王は都(郢)から逃げ出した。もちろん、深追いはできない。越がいつ攻め込むか分からないからだ。越は国力で、楚や呉に及ばなかったが、家臣に恵まれていた。戦略と軍事に長けた范蠡(はんれい)と、内政や交渉に長けた文種(ぶんしょう)である。范蠡は、呉と楚が相争い、消耗していく間に、国力を充実させたのである。范蠡は、中国史上最も優れた戦略家で、ナポレオンが残した名言を2300年も前に実践している。
敵が間違いを犯している時は、それを邪魔してはならない

越王、允常(いんじょう)は呉を攻めた9年後に死んだが、その後、王子の勾践が後を継いだ。呉王、闔閭は、越王、允常の死を知ると、その混乱に乗じて越を滅ぼそうと大軍を送り込んだ。この戦いで、范蠡は歴史に残る奇想天外な策略を用いる。

先ず、越軍の一隊が、呉の陣地の前まで進み出て、剣を抜き、自らの首をはねる。呉の兵士たちは、何ごとかと驚きいぶかる。すると、別の一隊が呉の陣地まで進み出て、また自分の首をはねる。敵の前まで進軍し自分の首をはねる自殺隊。この夢幻のような光景が3度も続いたので、呉軍は思考が停止してしまった。そして、4度目の一隊が前進してきた時も、呉軍はただぼんやりと見守るだけ。ところが、この一隊は自殺隊ではなく、越の精兵だったのである。

越軍は、あっけにとられる呉軍に猛然と襲いかかった。夢から覚め、パニックに陥った呉軍は、算を乱して遁走した。この謎の自殺隊は、越で死罪を宣告された重罪人で、残された家族の面倒をみてもらう代わりに、自らの首をはねたのである。范蠡の恐るべき奇策だったが、効果は絶大だった。撤退していた呉軍に、さらなる不運が襲う。呉王、闔閭は敵の矢に当たり、その傷が悪化したのである。闔閭は、楚から逃れてきた伍子胥に助けられ、呉王になり、春秋の覇者を夢見たが、ここまでだった。

呉王、闔閭は、志半ばでこのような惨めな最期を遂げるのが無念でならなかった。死ぬ間際、呉王、闔閭は太子、夫差にこう遺言した。
「夫差、よく聞け。そなたの父を殺したのは越王勾践であることを忘れるな。必ず越を滅ぼし、父の恨みをはらせ」
夫差は父に誓った。
決して忘れません。3年以内に必ず越を討ちます

呉の王位を継いだ夫差は、毎夜、薪(たきぎ)の上に臥(ふ)して、その痛みで、父の遺恨を思い出し、復讐を誓った。これが、「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」の「臥薪」の語源である。目的を達成するまで苦労に耐える意味で使われる。また、「臥薪嘗胆」の「嘗胆」も同じ意味だが、これはこの時の勝者、越の勾践が後に体験する苦難が語源となっている。

呉越の戦いの主人公、呉王、夫差と越王、勾践が、時期を違えて屈辱と忍耐を強いられ、その体験が合わさって「臥薪嘗胆」となったのである。「呉越同舟(ごえつどうしゅう)」同様、中国の故事から生まれた有名な格言である。

呉の王位に就いた夫差は、父闔閭の遺言に従い、伍子胥を宰相に任じて、重用した。伍子胥もこれに応え、呉王夫差を叱咤激励し、ひたすら、富国強兵に務めた。そして、毎日、何度も何度も、父への誓いを復唱するのだった。
「父上の恨みは決して忘れません。3年以内に必ず越を討ちます」

《つづく》

参考文献:
後藤基巳駒田信二常石茂他著新十八史略天の巻河出書房新社

by R.B

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