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週刊スモールトーク (第83話) 呉越戦争(1)~呉越同舟~

カテゴリ : 戦争歴史

2007.02.18

呉越戦争(1)~呉越同舟~

■叙事詩

語るに値する歴史や伝説を、物語として伝えたものを叙事詩という。

古代シュメールの半神半人ギルガメッシュ王を讃えた「ギルガメッシュ叙事詩」、ギリシャの神々の物語「イリアス」、「オデュッセイア」、中世ドイツのジークフリート英雄伝説「ニーベルンゲンの歌」、そして、歴史上最大の叙事詩インドの「マハーバーラタ」等々。ところで、アジアは?じつは、一編も思い浮かばない。もちろん、英雄伝や歴史書ならアジアにもたくさんある。

日本では、織田信長の「信長公記」、中国では、史記、三国志(三国志演義)、十八史略と有名どころがそろっている。じつは、叙事詩も英雄伝説なのだが、半ば神格化された武勇伝にフォーカスされている点で、歴史書とは異なる。叙事詩は史実というよりは、英雄の大冒険活劇なのだ。

とはいえ、信長公記、三国志、史記、十八史略も英雄活劇のたぐいだし、広い心でとらえれば、叙事詩にくくれるかもしれない。もっとも、荒唐無稽が過ぎると、歴史好きはそっぽを向く。そんな”びみょうな”落としどころをおさえたのが、三国志だろう。本家中国のみならず、日本でも、戦国時代を超えるほどの人気だ。

■三国志とドンキホーテ

三国志は表向き大人気だが、最後まで読んだ人は少ないかもしれない。まるで、「ドンキホーテ」である。スペインが生んだ偉大な作家ミゲル・デ・セルバンテスが書いたこの大作は、人気という点で、聖書やアンデルセン童話とならぶ。つまり、地球史上、最大のベストセラー。

ただし、ここで言う「ベストセラー」は最後まで読んだ正統な読者の数ではなく、印刷された部数による。日本でも事情は変わらない。ただ、大筋だけは超がつくほど有名だ。しかも、「ドンキホーテ」は妄想と道化の比喩として、広く使われている。たとえば、「あいつは、ドンキホーテだ」これが意味するところは、ドンキホーテで働く店員ではなく、「妄想癖のある道化師」。

「ドンキホーテ」はジョナサン・スウィフトの「ガリヴァ旅行記」と同じ風刺小説である。

巧みな風刺で、社会や人間の愚かさをえぐりだす。痛快で、笑えるのに、どこかもの哀しい。さて、ここで、「ドンキホーテ」のあらましを丸かじりしよう。

ラ・マンチャの片田舎に、初老の貧しい下級貴族がいた。彼は、騎士道物語に熱を上げた結果、気が触れて自分が騎士だと思い込んでしまった。騎士道物語のルールにのっとれば、身分の高い騎士には、立派な馬とたくましい従士、そして、恋い焦がれる高貴な美女がつきもの。そこで、家にいた駄馬をロシナンテと名づけ、同郷のしがない農夫サンチョ・パンサを従士に、近くに住む粗野な田舎娘をドゥルシネア姫に仕立て、自らをドンキホーテと名乗った。

ドンキホーテは、サンチョを引きつれ、遍歴の旅に出た。小説「ドンキホーテ」では、2つの世界が同時に描かれる。ドンキホーテに見える世界と、現実の世界である。あるとき、ドンキホーテの目の前に、巨人が立ちはだかった。ドンキホーテは勇気を奮い立たせ、巨人に突進するが、跳ねとばされてしまう。ところが、従士サンチョの目に映ったのは、恐ろしい巨人ではなく、ただの風車だった。またあるとき、偶然、公爵夫妻と知り合いになる。この夫妻は、ドンキホーテが狂人で、サンチョが愚鈍であることを見抜き、適当に合わせて、笑いものにしたのである。

やがて、奇行を見かねた友人が、ドンキホーテを故郷に連れ帰る。ドンキホーテは衰弱し、深い眠りに落ちた。そして、目を覚ました瞬間、これまで体験したことすべてが、自分の妄想だったと知る。ドンキホーテは、自分のあやまちを悔い、サンチョにわび、司祭を通して自らの罪を告げ、神の許しを乞うた。ドンキホーテは、サンチョと数人の友人に見守られて死んだ。

これが、ドンキホーテのあらまし。滑稽で可笑しいのに、どこかもの哀しい。とはいえ、それなりに面白そうだから、ちょっと読んでみようか・・・ところが、すぐに挫折する。全体がダラダラしているし、冗長的だし、すぐに読むのが辛くなる。そもそも、日本での完訳は少なく、ほとんどがつまみ食い本(妙訳)。というわけで、この大作を最後まで読んだ人は少ないだろう。そもそも、本国スペインでさえ、最後まで読んだ人はほとんどいないというのだから。

■中国史の面白さ

三国志もドンキホーテ同様、最後まで読んだ人は少ないだろうが、こちらは間違いなく”面白い”。ところが、話は長いし、登場人物も多いので、大筋をつかむには、3回読む必要がある(頭の良い人は別)。忙しい現代人にとってはかなりの難物だ。ところが、さすが中国5000年の歴史、少し時代をずらせば、短時間で読めて、面白く、人生の教訓にもなる歴史がある。

たとえば、「呉越の戦い」。時代は、中国の春秋戦国時代。あまりに面白ので、史実かどうか疑うほどだ。呉越の歴史に登場するエピソードは、中国の格言になったものが多い。まずは、「呉越同舟(ごえつどうしゅう)」。誰もが知るこの格言は、敵同士でも同じ船に乗ったら、危険なときは助け合う、という意味である。つまり、歴史上、呉と越は不倶戴天(ふぐたいてん)の敵であった。また、「臥薪嘗胆」(がしんしょうたん)も呉越の歴史からきている。こちらは、究極の「我慢・忍耐」を意味している。さらに、死者の悪口を言う「屍(しかばね)にむち打つ」も呉越の歴史。呉越の歴史はまさに格言の宝庫なのである。

格言はさておき、呉越の歴史はストーリーが面白い(史実なのだが)。三国志の「桃園の誓い」のような前置はないし、テンポが良くて、ストーリーに華がある。しかも、人生を深く考えさせるエピソードが多い。そのため、ヘンに主観が入った小説より、史実中心の歴史書のほうがいい。たとえば、「十八史略」なら、陳舜臣の「小説十八史略」より、河出書房新社の「新十八史略」がお勧めだ。

呉越の歴史は春秋戦国時代の覇権争いである。ことの始まりは、命を賭けた復讐。歴史に欠かせないバカ殿と、それを取り巻く名臣、奸臣が入り乱れ、隣国、遠国の利害もからみ、複雑な歴史模様を描いている。中国史特有の怨み、復讐、裏切り、欲望が底流にあり、ストーリーは波乱に満ちている。歴史にしては出来すぎ?

■春秋戦国時代

紀元前1600年頃、中国最古の王朝・殷(商)が興った。その後、周が殷にとってかわるが、その周も没落し、やがて、混乱の時代に入る。それが春秋戦国時代である。この混乱は、紀元前221年、秦が中国を統一するまでつづく。春秋戦国時代は、紀元前403年に晋が韓・魏・趙の三国に分裂するまでの春秋時代、それ以降の戦国時代に分けられる。

春秋時代、楚(そ)の国があった。起源は不明だが、現在の湖北省付近を本拠地とし、中原諸国と対立し、文化も異なっていた。ここで、中原とは黄河中流域をさし、多くの中国王朝の発祥地で、中国の文明の中心と見なされている。楚は有名無実となった周王朝に対抗して、王号を称していた。また、中原の強国、晋(しん)とも対立し、春秋時代当初は、この2国が覇権を争うことになる。周辺の陳(ちん)、鄭(てい)、宋(そう)などの小国は、晋と楚の抗争の中でほんろうされ、併合されていった。

春秋時代の初め、楚は強国だったが、その末期に台頭した呉と越の攻撃をうけ、滅亡寸前に追い込まれる。ところが、呉と越が弱体化すると勢力を盛り返し、「戦国の七雄」の一つにのしがある。やがて、春秋時代が終わり、戦国時代に入ると、西方の秦が勢力をのばし、楚を脅かすようになった。秦は、発祥の地である西方から長江流域に沿って東方に進出し、紀元前222年には楚を滅ぼした。ところが、楚は独立心が強くプライドの高い国であった。中原と異なる独自の文化を持ち、長江中流域の豊かな物資にも恵まれていた。しかも、兵は精強。そのため、楚は秦の支配に反抗的で、秦の始皇帝の死後、多くの反乱軍をだした。

中でも、楚の項羽(こうう)率いる軍は当時、最強であった。項羽は楚の将軍家の血統で、軍事的才能とカリスマを備えた優れたリーダーだった。中国全土で反乱が起こると、楚は連戦連勝、無敗の記録を更新していった。そのままいけば、秦に取って代わるのは楚・・・ところが、無敵の楚は、最後に一度だけ敗北する。相手は、同じ反乱軍の盟友・劉邦(りゅうほう)、後の漢帝国の創始者である。

■呉越の戦い

呉越の戦いは、先の項羽と劉邦が戦った300年前にさかのぼる。紀元前522年、楚の平王は世継ぎの太子健の妃として、秦の公女を迎えることにした。楚と秦は同盟していたが、それを深めるためである。太子健には2人の家臣がいた。太傅(たいふ)の伍奢(ごしゃ)と、少傅(しょうふ)の費無忌(ひぶき)である。太傅とは太子の侍従長で、少傅はその副官である。伍奢は気骨のある人物だったが、一方の費無忌は悪徳の権化であった。小者だが、己の利にさとく、国益をかえりみず、私利私欲に走った。

呉と越の波瀾に満ちた物語は、費無忌の貪欲から始まる。費無忌の望みは、楚の平王に取り入り、上司の伍奢を飛び越え、己の利をむさぼることにあった。ある日、費無忌は、先の太子健の公女を迎えに行くように命じられた。費無忌は秦に出向き、太子に嫁ぐはずの公女を一目見て驚いた。絶世の美女だったのである。

日頃から、ゴマスリに余念のない費無忌はすぐに恥知らずな迷案を思いつく。あろうことか、太子健の妃となる秦の公女を、父である平王の側室にしようとしたのである。平王の歓心を買うためなら、何でもやる・・・費無忌はさっそく行動に出た。愚鈍で知られた平王も、さすがに躊躇した。

ところが、公女を見て、気が変わった。この功績?で、費無忌は太子付きから、平王の側近に大出世する。しかし、この恥知らずな行為は、楚を根底から揺るがす。秦の公女が平王の男児、軫(しん)を産んだのである。その結果、楚の後継者は2人になった。平王の実子、太子健と、平王の側室が生んだ軫である。何かが起こるのは時間の問題だった。

費無忌は己の野望を成就するため、勝負に出る。平王に、太子健を中傷したのである。愚かな平王は、それをうのみにし、太子健に不信感をつのらせていった。そして、側室の子、軫を後継者しようと考え始めたのである。費無忌の際限のない貪欲は、未来にも向けられた。平王が死に、太子健が王になれば、自分はただではすまない。その前に、太子健を破滅させ、次の王を、軫にすえるのである。そうなれば、軫は費無忌に感謝するだろうし、自分は孫の代まで安泰だ。費無忌は、太子健に対する誹謗中傷を加速させた。

やがて、費無忌の中傷は実を結ぶ。平王は、太子健を東北の国境に追いやったのである。ところが、それでも費無忌は安心できなかった。太子健が生きている限り、王位につく可能性がある。費無忌は、念には念を入れることにした。太子健を謀反人にしたてたのである。費無忌は平王に吹き込んだ。

「太子は、都から遠く離れた国境の地で、謀反をたくらんでいます。自分に嫁ぐはずの秦の公女を王に横取りされたことを、恨みに思っているのです」

平王は仰天したが、心当たりもあった。費無忌は、狼狽する平王にたたみかけた。

「太子が周辺の諸侯に号令をかけ、大軍で攻め込めば、都はひとたまりもありません。ことが起こる前に、太子を殺すのです。そうなれば、軫公子が王位を継ぐことに、口をはさむ者もいなくなるでしょう。これこそ、一挙両得というものです」

さらに費無忌は、王が溺愛する側室も喜ぶこともつけくわえた。平王は、太子健の太傅である伍奢をよびつけ、太子健の謀反の件をきびしく責め立てた。ところが、伍奢は猛然と言い返す。

「奸臣(かんしん)の讒言(ざんげん)を信じて、実の子である太子を疑うとは何ごとです!陛下、目を覚ますべきです」

平王は逆上し、伍奢を幽閉したあげく、太子健の殺害を命じた。太子健は、何の落ち度もないのに、奸臣一人の思惑で、ここまで追い詰められたのである。コミュニケーションの欠如は疑心暗鬼を生み、親子のきずなさえ断ち切る。そして、これが後の呉と越の戦いの序章となった。

平王に、太子健を殺すよう命じられた将軍、奮揚(ふんよう)は、わざと、ゆっくりと進軍した。奮揚は、太子健が費無忌の讒言で陥れられたことを知っていたのである。太子健は、このはからいにより、宋の国に逃れることができた。こうして、費無忌の目的は達せられた。太子健は国外に逃亡し、目の上のたんこぶ伍奢は幽閉されたからである。だが、欲にとらわれた人間は小心になる。

費無忌には、もう一つの不安があった。伍奢の2人の息子、兄の伍尚(ごしょう)、弟の伍子胥(ごししょ)である。息子たちが費無忌を怨んでいると考えたからである(当然だが)。費無忌は、次の標的をこの2人にすえた。伍尚と伍子胥を殺すのである。費無忌は、平王に言葉巧みに讒言した。

「太子健の謀反は、じつは伍奢の2人の息子がたくらんだものです。また、父の伍奢が幽閉された今、それを恨み、王に弓引くに違いありません。しかも、伍一族はわが楚の国の名門、彼らになびく者もいないとも限りません。あの2人は、楚の国にとって、大きな禍(わざわい)です。先手をうって、伍尚と伍子胥を殺すべきです」

もちろん、平王は費無忌の讒言を信じた。伍奢の2人の息子は優れた人物だった。事前に逃亡、または謀反を起こすかもしれない。費無忌は、またもや、陰湿な方法を思いついた。2人に使者を送り、出頭すれば幽閉している父を許すが、来なければ父を殺す、と脅したのである。聡明な2人は、これがワナであることを知っていたが、兄の伍尚はあえて出頭することした。父を見殺しにできなかったのである。

一方、気性の激しい弟の伍子胥は、出頭を拒否、父と兄の恨みを晴らすため国外に逃がれた。紀元前522年、幽閉されていた伍奢と出頭した伍尚は、首をはねられた。逃亡中の伍子胥はそれを知り、悲しみ、怒り、平王と費無忌への復讐を誓った。この時の伍子胥の煮えたぎる復讐心が、呉越の戦いの前半の中心にとなる。

伍子胥は、すでに宋に逃れていた太子健と合流し、後に鄭に逃れた。小国の鄭は彼らを手厚くもてなしたが、あるとき、思いもよらぬ事件がおこる。中原の覇者、晋が鄭を攻めるため、鄭の客人となっていた太子健に内応するよう誘ったのである。晋の狙いは、鄭を外と内から同時に攻め、一気に制圧することにあった。太子健には、事が成就したあかつきには、鄭の国王に封じるという条件がつけられた。太子健は流浪の身ではあったが、元々は、楚の帝位をつぐ血筋である。そのため、魔が差した太子健は内応を承諾する。

ところが、このくわだては事前に発覚、太子健は、鄭の定公(ていこう)によって殺された。鄭で居場所を失った伍子胥は呉へ逃れた。太子健の忘れ形見、勝(しょう)を連れて。伍子胥が誓った楚の平王と費無忌に対する復讐は、叶いそうになかった。楚は大軍を擁する強国で、伍子胥には、太子健の子、勝しかいない。ところが、呉に逃れた伍子胥には、思いもよらぬ運命が待っていた。

《つづく》

参考文献:後藤基巳駒田信二常石茂他著新十八史略天の巻河出書房新社

by R.B

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