BeneDict 地球歴史館

BeneDict 地球歴史館
menu

週刊スモールトーク (第81話) 公開死刑~サダム フセインと銭屋五兵衛~

カテゴリ : 人物歴史

2007.01.27

公開死刑~サダム フセインと銭屋五兵衛~

■公開された死刑

公開死刑は、日本人にとって衝撃的である。日本で廃止されてもう久しいので。

2006年12月30日、サダム・フセイン元イラク大統領の死刑が執行された。その一部始終が撮影されたが、マスメディアで流されたのはその一部である。一方、国の法律や習慣などおかまいなしのインターネットでは、すべて観ることができる。その映像を観ると、死を前にして、取り乱すことなく、運命を受け入れたフセイン元大統領の姿があった。刑の執行直後、絶命したと言われるが、首の骨が折れたのだろう。それを示すよう映像もあり、さすがに胸が悪くなった。サダム・フセインであると同時に、息子であり、父であり、夫であり、もし家族がこれを見たら、と思うと気が滅入った。

落ち込んだ気持ちを回復させようと、たまたま遊びに来ていた母にこの話をすると、驚くべき答えが返ってきた。「小さい頃、日本で公開死刑を見物した叔母の話を聞いたことがあるよ」日本で?公開死刑を見物した叔母から?母が直接話を聞いた?ありえんやろ、と思ったが、ここにその話をそのまま記す・・・

「わしが、ちんこいとき(小さい時)、親に連れてってもろて、人がいっぱい死刑になるのを見物したわいね(見物した)。食物持っとる人もおったわ。一の槍突け!二の槍突け!の号令で、竹槍で脇腹を突き刺すげんちゃ(突き刺した)。今でも覚えとる・・・」

そりゃ、忘れられんやろ、死ぬまで。この叔母は、この公開死刑が銭屋五兵衛の一族、及びその使用人の死刑だったことを後で知ったという。資料によれば、この死刑は1852年に執行されている。ということは、今からおよそ155年前。母の叔母はだいぶ前に他界しているが、叔母と母の年齢を考慮すると、時系列的にはつじつまがあう。それにしても、すごい話だ。まさか、日本で行われた公開死刑の目撃談を、母から聞かされるとは。日本で公開死刑が行われていたのは、そんなに遠い昔ではないのだ。しかも、弁当持参で、子供まで連れて?信じられん。

■銭屋五兵衛

銭屋五兵衛は、江戸末期の加賀百万石の豪商だが、その最期は謎が多い

銭屋五兵衛は17才で家督を継いだが、才覚のある人物で、質屋、呉服で商売を繁盛させた。そして、39才の時、転機がやってくる。古船を改造して、海運業を始めたのである。成功した多くの商人がそうであったように、銭屋五兵衛もまた、時の政権内部に食い込もうとした。その努力は、やがて実を結む。加賀八家の一人、年寄衆筆頭の奥村栄実(ひでざね)の後ろ盾を得たのである。ボロ船一艘で始めた銭屋五兵衛の海運業は、その後、大発展する。加賀藩の御用船をしきる御用船裁許(さいきょ)に任じられ、成長はさらに加速、200数十艘の船、34の支店、使用人160人を擁するに至った。国内屈指の貿易商にのし上がったのである。

もちろん、時代も良かった。この時代、日本の大流通は、日本列島を海岸沿いに周回する海上交通によっていた。歴史に名高い「東廻り海運」と「西廻り海運」である。東廻り海運は、東北の酒田、津軽を経由した後、太平洋沿岸に出て江戸に到るルートである。日本海岸沿岸を時計回りに航行するわけだ。

西廻り海運はその逆で、酒田、金沢、関門海峡から瀬戸内海に回り込み、堺を経由して、太平洋沿岸に沿って江戸に到る。この2つの海上ルートにより、米や海産物が運ばれた。その運搬に使われたのが有名な「北前船(きたまえふね)」である。

Ship_Kitamae北前船は、全長30メートルほどの小船で、主帆は横帆が1枚しかなかった(左のイラスト)。船体は見てのとおり、脆弱で、水密甲板もなかった。そのため、大波を受けると、簡単に浸水し、ヘタをすると船体が真っ二つ。もちろん、こんな船で大海に乗り出すのは死にに行くようなもの。陸を見ながら、海岸沿いに航海するしかなかった。

一方、16世紀のヨーロッパでは、横帆や三角帆など複数の帆を備え、風さえ吹いていれば、どの方向でも航行でき、大海の荒波にも耐える堅牢なガレオン船が主流だった。ヨーロッパ人たちは、ガレオン船と大砲でアフリカ、アメリカ、アジアを侵略し、世界中に植民地を築きつつあった。銭屋五兵衛は、海運業で大成功を収めたが、再び、転機が訪れる。銭屋五兵衛の後ろ盾、奥村栄実が死んだのである。

その後、加賀藩では黒羽織党が台頭し、奥村栄実派だった銭屋五兵衛は冷や飯を食わされる。銭屋五兵衛の転落が始まったのである。次に銭屋五兵衛を襲った災難は、河北潟の毒流出事件だった。この事件は、銭屋五兵衛が手がける河北潟干拓事業に端を発するが、周辺住民はこの事業に反対していた。

そんなある日、河北潟で無数の魚が浮かんだ。漁民たちは、「銭屋五兵衛が河北潟事業の反対運動をつぶすために、河北潟に毒を流し込んだ」とお上に訴えた。ところが、不思議なことに、加賀藩は漁民の主張をスンナリと認めたのである。そして、銭屋五兵衛の一族を投獄し、家名断絶となった。さらに、財産300万両(現在の500億円)は没収、家財もすべて競売にかけられた。銭屋五兵衛は容疑を否認したまま獄死、一族と使用人は磔(はりつけ)になる。この磔が、母の叔母が目撃した公開死刑だったのである。

現在は、銭屋五兵衛・冤罪説が有力になっている。元々、銭屋五兵衛は庶民に人気がなかった。天保の飢饉では、人々が飢えと病で苦しんでいるとき、隠居所を建てかえ、庶民の反感を買った。この工事が大きな雇用を生んだのにもかかわらず。また、埋め立て工事が難航したため、北部の能登から優秀な職人を雇ったが、それが地元の職人の反感を買った。結局のところ、庶民にしてみれば、魚が死ぬのも、仕事を失うのも、疫病が流行るのも、みんな銭屋五兵衛のせい・・・

この事件は、歴史上よく見られる、政権交代につきものの権力闘争。時の政権が、財産目当てに商家を取りつぶすのも、よくある話。一方、もう一つの謎、河北潟に毒を流したのは誰か?はいまだに謎である。銭屋五兵衛が、埋め立てた土を固めるため石灰を入れさせたが、それが溶け出して、魚が死んだという説もある。また、その魚を食べて漁民が死んだと言うウワサもあるが、真実かどうかわからない。すべてが謎に包まれている。ただし、銭屋一族の公開死刑だけは事実である。母の叔母、つまり、目撃者がいるから。

この河北潟干拓事業は、銭屋五兵衛が獄死した後、一時中断していたが、現代に入って、再開された。最終的には、1100ヘクタールの農地が造成されたが、現代の技術をもってしても、難工事だったようだ。銭屋五兵衛の怨念のうわさまで流れている。ところが、肝心の干拓地の利用が進まず、漁場だけが消滅してしまった。今では、市民のかっこうの釣りスポットになっている。330年もかかった大事業なのに、最後は釣り場とは・・・

■フセイン裁判

サダム・フセイン元大統領に話をもどそう。公開死刑の是非はさておき、裁判そのものに疑問が投げかけられている。公正な裁判だったのか?さらに、判決の4日後の死刑執行は妥当だったのか?日本なら、死刑が確定しても、法務大臣のハンコがないと、刑は執行されない。これはこれで、かなりヘンなのだが。日本は、司法・立法・行政が三権分立のはずなのに、司法が死刑を確定しても、行政が拒否できる・・・

一体どこが三権分立なのだ?

サダム・フセイン元大統領の罪状は「人道に対する罪」だった。死刑に問われたのは、イラク中部で起こったシーア派住民140人の虐殺である。ただ、告訴された罪状の中には、他の多くの罪も含まれている。たとえば、1980年のクルド人への弾圧、1988年のハラブジャでの化学兵器による住民虐殺、そして、1990年のクウェート侵攻。ところが、死刑が執行されたため、これらの罪状に対する調査はすべて打ち切られている。このような迅速な裁判と刑の執行は、イラクのマリキ政権が裁判の長期化を恐れたからだと言われている。フセイン元大統領が生きているかぎり、旧勢力が台頭し、政権を転覆しかねない、というのがその理由だ。

イスラム教のシーア派とスンニー派の対立が根が深いことは歴史的事実である。このような状況下、シーア派がマリキ政権を支持、スンニー派がサダム・フセイン元大統領を支持するという構図が、が先の説を支えている。ところが、フセイン元大統領の死刑を執行すれば、スンニー派の反発をかい、マリキ政権の支配力はさらに弱まるとも言われていた。どっちに転んでも混乱、という話。しかも、ややこしいことに、シーア派がマリキ政権を全面的に支持しているわけではない。また、中東に影響力を行使したいアメリカの存在が話をさらにややこしくしている。これだけからみが多いと、次に何が起こるかは予測不能である。

《つづく》

by R.B

関連情報