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週刊スモールトーク (第78話) 硫黄島の戦いⅠ~硫黄島からの手紙~

カテゴリ : 戦争

2006.12.24

硫黄島の戦いⅠ~硫黄島からの手紙~

■受難

イエス キリスト最後の12時間を描いた映画「パッション(The Passion of the Christ)」。おそらく、生身の人間が体験しうる究極の受難を描いている。ユダヤ教徒に捕えられたイエスは、恐ろしい責め具でムチ打たれ、皮膚と肉がめくれあがり、身体は血で染まる。しかも、その先に待っているのは「解放」ではなく、十字架刑、つまり「死」なのだ。命を奪うほどの苦痛を強いられたあげく、最後には殺される。これ以上の受難はないだろう。

だが、イエスの場合、苦しみは12時間で終わった。だから、まだ、ましなのかもしれない。そう思わせるほどの受難が、かつての日本に存在した。「玉砕」である。太平洋戦争末期、日本軍が多用した戦術、というより、滅びの哲学と言ったほうがいいかもしれない。

本来、玉砕とは「生き恥をさらすより、玉が美しく砕け散るごとく、いさぎよく死ぬこと」。戦場にあてはめれば、「惨めな捕虜」よりも「美しい死」、視点をかえれば、国家による強制自殺ともいえる。このように、国家が人命に無頓着である事実は歴史のあちこちで確認できる。とはいえ、「人命は尊い」などというマシな概念は、圧倒的質量をもつ現実の前ではほとんど無力である。

太平洋戦争における玉砕はバンザイ突撃とセットであった。アメリカ軍の圧倒的打撃力の前に、なすすべもなく突撃、十字砲火を浴びて全滅。これが玉砕であった。このような受難は、太平洋戦争末期、日本軍の日常だったが、今では想像することすら難しい。

死ぬこと以外に選択の余地がない、そういう世界で人間は何を考え、どう生きるのだろう。1945年2月19日、その答えとなる歴史的な戦闘がはじまった。硫黄島を包囲した25万ものアメリカ軍が、一斉に攻撃を開始したのである。迎え撃つ日本軍は、わずか2万1000。日本兵が生き残る方法は1つ、1人で10人打ち倒すこと。つまり、勝ち目はない。このように玉砕しか解のない時空に、彼らは40日間も戦い抜いたのである。太平洋戦争の歴史上、最大の激戦とされる「硫黄島の戦い」である。

■硫黄島

硫黄島の戦いを知る人は少ない、いや少なかった。太平洋戦争を生きた抜いた人たちか、物好きな戦記マニアぐらいだろう。ところが、2006年12月、クリント イーストウッド監督の映画「硫黄島からの手紙」が封切られるや否や、万人に知られるところとなった。硫黄島の戦いを日本側から描いたこと、ハリウッド映画であること、クリント イーストウッド、渡辺謙などのビッグネームが名を連ねたことが、功を奏したのだろう。司馬遼太郎の「龍馬がゆく」が、無名の坂本龍馬を有名にしたのと同様、「硫黄島からの手紙」がこの戦いを有名にしたのだ。

硫黄島は、周囲22kmの小さな島である。現在、東京都小笠原村に属するが、東京から1220km南方にある。島民は住んでおらず、民間人の渡航も制限されている。自衛隊の基地があるだけ。この島は、1779年、イギリスの有名なジェームズ クック探検隊によって発見され、1891年には日本の領土となった。火山の島であり、黒色火薬の生成に不可欠な硫黄が多く採掘された。住民は、太平洋戦争が激化した1944年には強制疎開させられ、以後日本軍の軍事基地となった。その後、硫黄島の戦いでアメリカに占領されたが、1968年、日本に返還されている。

■日本本土空爆

太平洋戦争末期、アメリカ軍はどんな犠牲を強いてでも硫黄島を占領すべき、と考えていた。日本に王手をかけるには、日本本土への空爆が必須であり、そのためには硫黄島にある飛行場が必要だったからだ。

太平洋戦争末期、日本の敗北は決定的だったが、まだ最終決戦が残されていた。日本本土への上陸作戦である。しかし、本土決戦では、アメリカ軍に多数の犠牲者が出ることが予想された。日本軍は降伏しない、徹底抗戦する。女性が竹ヤリの訓練をしていたほどである。当時小学生だった母は、竹ヤリを念じて突き上げれば、B29だって撃ち落とせる、と信じていたという。恐ろしい訓練、恐ろしい覇気、恐ろしい妄想である。

そのため、アメリカ軍は、日本本土上陸の前に、軍事力と民力を徹底的に破壊しておく必要があった。また、激しい空爆で心が折れ、日本は降伏してくれるかもしれない。つまり、日本本土への空爆は、アメリカ軍にとって最重要課題だったのである。問題はただ一つ、空軍基地の確保だった。

アメリカ軍は、硫黄島の戦いの前に、すでにマリアナ諸島を占領している。1944年7月7日にサイパンが玉砕、同年8月3日にはテニアンが玉砕、そして、翌8月11日にはグアムが玉砕している。アメリカ軍は、この占領地に空軍基地を設置、重爆撃機B29で日本本土への空爆をもくろんでいたのである。

ところが、サイパンから東京までの距離は2400km、往復すれば「4800km」にもなる。一方、B29の最大航続距離は「9650km」なので計算上は空爆可能である。しかし、B29が最大速度576/kmで飛行したとしても、往復に8時間もかかる。現実には、より低速で飛行せざるをえないし、爆撃する時間も必要だ。現実的には往復10時間はかかるだろう。陸上移動なら一息つくこともできるが、空中飛行ではそうはいかない。クルーの精神的、身体的負担も大きい。さらに、これだけの距離をノンストップで飛ぶとなると、故障で墜落する確率も高くなる。

またこの時代、空爆は護衛の戦闘機をつけるのが常識だった。爆撃機は鈍重で、速度も遅い。高速で小回りがきく戦闘機に発見されたら勝ち目はない。この頃、アメリカ軍は「P-51ムスタング」という戦闘機を戦場に送り込んでいた。P-51はレシプロ戦闘機の最高傑作で、太平洋戦争のみならず、ヨーロッパ戦線にも投入されていた。高速で、小回りがきき、強力な火砲をそなえ、航続距離は3700kmにも達する。ドイツの主力戦闘機メッサーシュミットBf109の航続距離は560km、イギリスが生んだ名機スピットファイアは740km、長大な航続距離で世界を震撼させた零戦21型の航続距離でさえ3350km。P-51の航続距離がいかに長大かがわかる。

だが、このP-51の航続距離をもってしても、サイパン-東京の往復距離4800kmはクリアできない。日本本土を空爆するためには、なんとしても中継基地が必要だった。そして、この条件を満たすのが硫黄島だったのである。硫黄島には3つ飛行場があり、硫黄島-東京の往復距離は、約2500km。B29はもちろん、P-51の航続距離でも十分余裕がある。アメリカ軍が硫黄島に執着した理由はここだった。

一方、日本にしてみれば、硫黄島が奪われれば日本全土が空爆範囲に入る。そうなれば、本土決戦の前に国が焦土と化す。つまり、日本にとっては、硫黄島は本土を守る最後の砦であり、この島を失うことは、日本の破滅を意味していた。そして、この事実を誰より理解していたのが、硫黄島防衛の司令官、栗林忠道 中将であった。

■栗林忠道 中将

栗林忠道 中将は、陸軍大学を2番で卒業したいわゆる「恩賜の軍刀組」である。恩賜の軍刀とは、天皇から授与される軍刀で、陸軍大学を優等で卒業した者だけに与えられた。彼らは、「軍刀組」とよばれ、陸軍の中でもエリートコースを歩んだ。海外留学、海外派遣、戦略レベルの作戦立案、戦場では作戦参謀と、主に知的任務についた。この時代、「陸軍幼年学校 → 陸軍士官学校 → 陸軍大学」は、「旧制高校 → 帝国大学」をしのぐエリートコースだった。

太平洋戦争中、陸軍幼年学校に入学した叔父によれば、軍隊で体罰は日常的だったが、幼年学校では、先輩が後輩を殴ることはなかったという。くってかかるときも、手を挙げず、胸を押しあてて挑んできたという。幼年学校に在籍する学生は、やがては、士官、将官となり、帝国陸軍の支配階級へ組み込まれるから、と叔父は説明していた。だが、叔父が入学してまもなく終戦をむかえ、将官への夢は消えうせた。ある時、叔父とこんな会話をしたことがある。

:「戦争があのまま続いていたら、今ごろ、閣下ですね」
叔父 :「ばかいえ。とうの昔に、中国あたりで死んでるよ」
:「本当ですか」
叔父 :「幼年学校、陸士出のエリートは、確かに優秀なんだが、
いさぎよいから、戦場に出ると、すぐ死ぬんだ。
部下といっしょに、バンザイ突撃してね」

この叔父は、戦後、田舎に帰り、九谷焼の会社に養子に入ったが、いつも、場違いな聡明さで目立っていた。死の2日前、見舞いに行くと、モルヒネによる意識混濁の中で、英語でスピーチをしていた。九谷焼のおやじがどこで覚えただろう、見事な英語だった。さすが、帝国軍人、本物の秀才は死ぬまで秀才なんだ、ぼんやりと思った。自分が尊敬する人物で、小さい頃からかわいがってもらい、死の直前まで毅然とした生き様を目の当たりにし、最後の握手の瞬間、悲しみがこみ上げた。

このような人生は、戦後、決して珍しいことはなかった。叔父と同じ村に、もう一人神童がいた。この人物は、陸軍幼年学校を主席で卒業し、恩賜の時計を授与されている。この時は、ちょうちん行列で、村をあげて祝ったという。彼もまた、終戦とともに、将官の夢を断たれた。小さな町工場を継ぎ、倒産寸前でこの世を去ったという。行く末は閣下が、田舎工場のおやじで人生を終える、これも敗戦が生んだ逆転の人生である。

■犠牲者の数

栗林忠道 中将は、恩賜の軍刀組にふさわしく、若い頃、アメリカとカナダに派遣されている。そして、同じ海外派遣組の山本五十六海軍大将同様、アメリカとの戦争に否定的になった。日本とアメリカでは、国力が一桁も二桁も違う、その事実を思い知ったのだろう。

栗林中将は、1944年5月に小笠原諸島全域を管轄する第109師団の師団長に任命された。当初、硫黄島の北方270kmに位置する父島に司令部をおく予定だったが、栗林中将は、硫黄島を司令部とし、自らも硫黄島に赴任した。アメリカ軍が上陸するのは、間違いなく3つの飛行場をもつ硫黄島であり、主戦場に身を置くのが最高指揮官と考えたに違いない。その後も、栗林中将は最後まで硫黄島を離れることはなかった。

栗林中将は、アメリカ軍の指揮官から称賛された希な軍人であった。その理由は、たぶん、硫黄島の戦いによる。硫黄島に上陸したアメリカ軍は、6万1000名で、死傷者数は2万8686名。一方、日本守備隊の総数は2万1000名。ということは、日本守備隊が全員死傷したとしても、アメリカ軍の死傷者数が日本軍を上回ることになる。硫黄島の戦いは、太平洋戦争中、アメリカ軍の死傷者数が日本軍を上回った唯一の戦いであった。つまり、それほどの激戦だったのである。

一方、死者数に限れば、日本軍のほうが圧倒的に多い。死者数は1万9900名で、捕虜は1033名。つまり、戦闘に参加した日本兵の95%が戦死したことになる。さらに、負傷者の数がゼロに近い。なぜか?最後のバンザイ突撃で、重傷者は殺され、軽傷者には自決用の手榴弾が渡され、走れる者すべてがバンザイ突撃を敢行したからである。負傷者も元気な者もすべて死ぬ、これが「玉砕」なのだ。

一方、アメリカ軍は、死傷者2万8686名のうち、戦死者は6821名。日本軍の1/3に過ぎない。アメリカは民主主義の国である。たとえそれが戦争でも、人命をないがしろにはしない。負傷者を自害させるなど論外だ。たとえば、1945年4月に行われた沖縄戦では、アメリカ軍は、1万トン級の医療船を6隻も海上に浮かべ、負傷者の手当にあたっている。ただ、この違いはイデオロギーというよりは、持てる物量によっているのかもしれない。

■アメリカ大艦隊

硫黄島攻略のアメリカ軍の最高司令官は、レイモンド A スプルーアンス大将。1942年6月5日、ミッドウェー海戦で日本の空母部隊を壊滅させた提督である。また、遠征軍の総指揮官はリッチモンド K ターナー大将、硫黄島派遣部隊の総指揮官はホーランド M スミス中将が任命された。

この派遣軍の規模は、2万1000人が守る小さな硫黄島を攻めるには過剰である。ターナー大将率いる部隊だけで、戦艦4隻、空母12隻、巡洋艦19隻、駆逐艦44隻、輸送船43隻。すべて合わせると、艦船数800隻、上陸部隊は11万、海上兵も含めると総数25万人にもなる。こんな大兵力で、艦船ゼロ、総兵数2万1000名の日本軍を叩こうというのだ。恐ろしい兵力差。こんな途方もない大戦力に包囲され、それがただ、自分たちを破滅させるためにいるのだと知ったとき、日本兵はどんな思いにかられただろう。

アメリカ軍は、この圧倒的兵力により、短期決着をもくろんでいた。硫黄島を5日で陥落させる、それまでの戦果を考えれば十分可能な目標だった。ところが、この予想は完全にくつがえされる。硫黄島の日本守備隊にはアメリカ軍が知らない秘密があったのだ。優秀な司令官栗林忠道と究極の玉砕である。アメリカ海兵隊員は何も知らされないまま地獄の戦場へと送り込まれていった。

《つづく》

参考文献:
池田清 編 太平洋戦争研究会 著 【図説】太平洋戦争 河出書房新社
別冊歴史読本 硫黄島の戦い 新人物往来社

by R.B

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