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週刊スモールトーク (第70話) モンゴル帝国(4)~チンギスハーンの子孫〜

カテゴリ : 歴史

2006.10.29

モンゴル帝国(4)~チンギスハーンの子孫〜

■永遠なる神の子

永遠なる神の子、チンギス・ハーンの子孫はこう呼ばれた。ユーラシア大陸をまたぐ広大な支配地、無敵の騎馬軍団が彼らに永遠の支配を約束したかのようにみえた。だが、彼らは神の子ではなかった。

1241年、モンゴル帝国の第2代オゴタイ・ハーンは、遊牧民によく見られる深酒がもとで急逝する。後継者は指名されておらず、モンゴルの主力軍は遠くヨーロッパにいた。訃報を聞いたモンゴル軍はハンガリーの包囲を解いて、あわただしく帰国の途についた。こうして、ヨーロッパは再び破滅から救われたのである。

モンゴル帝国の創始者チンギス・ハーンが死んだ時、帝国がゆらぐことはなかった。オゴタイ・ハーンを中心に、ジュチ家、チャガタイ家、オゴタイ家、トゥルイ家が結束したからである。ところが、3代目になると、創始者の記憶は薄れ、外敵の脅威もなく、チンギス・ハーンの子孫たちは内を見るようになっていた。永遠なる神の子が、あさましいお家騒動、骨肉の争いを始めたのである。

激しい家督相続の末、第3代ハーンになったのは、オゴタイの息子グユク・ハーンだった。ところが、病弱のグユク・ハーンは、わずか2年で死ぬ。再び、骨肉の争いが始まった。第4代ハーンをめぐり、オゴタイ家とトゥルイ家が激しく争ったのである。オゴタイ家は3代続けてハーンを出すことを目論んだが、それに立ちはだかったのがトゥルイ家の長子モンケだった。結局、モンケが第4代目ハーンになるが、トゥルイ家とオゴタイ家の対立は決定的となり、後のモンゴル帝国大乱の原因となった。

■トゥルイ家の秘密

モンゴル帝国第4代ハーン、モンケは優れた人物だったが、2人の弟も負けず劣らず優秀だった。モンケ・ハーンの弟フビライは、中国の元朝の創始者で、元寇をしかけた人物でもある。また、2番目の弟フラグは、ヨーロッパに進出し、後にイル・ハン国を建国した。

また、この3人は兄弟仲が良く、トゥルイ家復興のために結束した。ところが、末弟のアリクブケは違った。アリクブケは他の3人の兄たちとは違い、自分の損得のためなら、他家にくみするほどだった。そして、このアリクブケの存在が、後にモンゴル帝国を大混乱に陥れることになる。それでも、4人中3人が優秀であれば、個人の資質のみならず、親の教育も優れていたに違いない。

トゥルイ家の王子を育てたのは、母ソルコクタニ・ベキだった。ソルコクタニ・ベキは、チンギス・ハーンの末子トゥルイに嫁いだ王妃だが、なんとキリスト教徒だった。広大な大地、モンゴル式テント、馬や羊に素朴な遊牧民たち。そこに十字架と教会?イメージするのは難しい。「モンゴル帝国に十字架」を理解するには、3世紀の小アジアまでさかのぼらなければならない。

昔、小アジアの西方にエフェソスという町があった。世界の七不思議の一つ「アルテミスの神殿」があった場所である。アルテミス神殿の壮麗さは、西方世界にも広く知られていた。正面の長さが55m、奥行き115m、高さ18mと、古代の神殿としてはかなり大きい。

エフェソスは、紀元前1000年頃、古代ギリシャ人がアジア交易の出発点として建設した町である。交易の要衝で、アレクサンドロス大王が征服した後、大いに繁栄した。ところが、中世に入ると没落し、歴史から完全に忘れさられてしまう。町の発掘が始まったのは19世紀に入ってからで、先のアルテミスの神殿をはじめ、多くの建造物が見つかっている。

431年、このエフェソスで歴史的な宗教会議が開かれた。エフェソス公会議である。会議の目的は、キリスト教の2大勢力、ネストリウス派とキュリロス派の論争に決着をつけるためであった。テーマは、
イエス・キリストの母マリアは神の母と呼べるか?
キュリロス派はマリアを「テオトコス(神の母)」と呼んだが、ネストリウス派はそれに反対を唱えた。

この会議ははじめから大荒れとなった。ネストリウスは身の危険を感じ、会議への参加を遅らせたが、その間にキュリロス派がネストリウス派を弾劾、一方、後にネストリウス派もキュリロス派を弾劾するという混乱ぶりだった。最終的には、ビザンティン帝国皇帝テオドシウス2世の裁定で、ネストリウス派が異端と決まった。

こうして、ローマ帝国内で居場所を失ったキリスト教ネストリウス派は、布教活動をアジアに向けた。その後、ペルシア帝国で大きな成功をおさめ、ゾロアスター教、マニ教と並ぶ三大宗教勢力にまで発展する。さらに、唐代では、シルクロードを通り、中央アジアから中国にまで伝わった。これが「景教」である。つまり、アジアで普及したキリスト教は、ヨーロッパでキリスト教異端となったネストリウス派なのである。

その過程で、ネストリウス派は中央アジア北部のモンゴル部族にも伝わった。中でも、積極的に受け入れたのがケレイト族だった。先のモンゴル王妃ソルコクタニ・ベキもケレイト族。彼女がキリスト教の熱心な信者だったのは、このような理由による。歴史の因果は長くて深くて面白い。

モンゴル帝国は多神教だが、キリスト教は一神教である。多神教と一神教の一番の違いは、「神の数」ではなく「道徳の概念」にある。
「汝、隣人を愛せ。汝、殺すなかれ」
などなど、一神教の道徳や戒律は厳しい。さらに、「愛」の教えもある。

このようなキリスト教の教えを、ソルコクタニ・ベキは聖書から学んだに違いないが、これは、彼女が文字を読めたことを意味している。時代は11世紀、文字が読める人が少ない時代である。読み書きができて、異国の知識に通じ、道徳と愛を教える王妃が、モンゴル帝室にあって、良妻賢母の鏡とされたのは必然である。このような「知と道徳と愛」に満ちた教育が、野蛮で殺ばつとしたモンゴル社会にあって、王子たちに豊かな人格を形成したことは間違いない。

このソルコクタニ・ベキの第3子フラグの正妃がドクズ・ハトンである。彼女もまた、ソルコクタニ・ベキ同様、ケレイト族出身で、熱心なキリスト教の信者であった。正妃ドクズ・ハトンの聡明さは特に有名で、モンゴル帝国の大ハーンモンケが、フラグに対し、ドクズに意見を求めるよう助言したほどである。このような環境で育ったフラグは、キリスト教に深く関わり、後に歴史に大きな影響を与えることになる。ケレイト族の王女たちが歴史を創ったのである。

■トゥルイ家の野望

大ハーンに即位した後、モンケはただちに征服事業にとりかかったが、それは私欲によるものだった。つまり、モンゴル帝国のためではなく、トゥルイ家のための征服。理由は、モンゴル帝室の複雑な所領が関係していた。

モンゴル帝室のジュチ家、チャガタイ家、オゴタイ家は、それぞれ所領をもっていたが、トゥルイ家には所領がなかった。モンゴル帝国は末子相続である。そのため、チンギス・ハーンの末子トゥルイは、チンギス・ハーンの所領を受け継いだが、その領地は、2代目ハーン、オゴタイの管理下にあった。つまり、トゥルイは自分の所領をオゴタイに預けたのである。このような経緯で、トゥルイ家は自分の所領をもたなかったのである。

こうして、モンケ・ハーンは、トゥルイ家の所領を得るため、征服事業を開始した。まず、弟のフビライを中国の総督に任じ、南宋征服を命じる。この中国征服事業には、後に、モンケ・ハーン自身も参加した。さらに、2番目の弟フラグにはイラン征服を命じた。フラグの任務はイラン全土を征服し、バグダッドのアッバース朝を倒し、シリアまで征服することにあった。

1251年、フビライは中国に進出する。その後、1253年には中国の辺境の地、雲南に遠征し、苦難の末、大理城を陥落させた。また、1258年には、モンケ・ハーンも兵を率い、中国の四川にまで進出した。一方、モンゴル本土の留守は、末弟アリクブケに任された。ところが、不思議なことに、ジュチ家、チャガタイ家、オゴタイ家に大きな動きはない。つまり、作戦に参加したのはモンゴル帝国軍というよりは、トゥルイ家の私軍なのだ。これが、前に行われた2回の遠征と大きく違う点だ。

■謎の暗殺教団

11世紀、イランの山岳地アラムートを根拠地とする暗殺教団があった。この暗殺教団はいわゆる反体制勢力で、周辺国の重要人物を暗殺することで知られていた。暗殺者はハシーシュという麻薬を常用したため、ハシュシュアシン(麻薬愛用者)とも呼ばれた。映画やドラマでおなじみの「アサシン(暗殺者)」はここからきている。この教団は、イスラム教シーア派の一派であるイスマーイール派に属していた。イスマーイール派とは、イスラム世界にあって神秘的な教義をもつ一派で、グノーシス主義の影響も見られる。

グノーシス主義は神秘思想の一つで、キリスト教と融合し、さまざまな異端の聖書を生んだ。これが、小説や映画の格好のネタとなっている。世界的にブレイクしたダン・ブラウンのダビンチ・コードもこれ。

イスマーイール派は暗殺教団のからみがあり、ダーティなイメージがあるが、元々はいたって真面目な宗派えある。彼らの一部が、暗殺教団へと走ったのには、それなりの理由があった。時代を少しさかのぼってみよう。

10世紀、イスラム世界は混乱の中にあった。各地で独立政権が乱立し、アッバース朝は統率力を失い、その母体となる正統派スンニー派も、人々の信頼を失いはじめていた。このような状況で、シーア派の一派であるイスマーイール派の運動が活発化したのである。彼らは、イスラム教の創始者ムハンマドの血統をひくアリーの直系子孫が指名した教主(イマーム)のもと、世界を再構築しようとしていた。いわば、イスラム教の宗教改革である。

このようなイスマーイール派の活動は、11世紀前半、大きく開花する。イスマーイール派が、エジプトを中心に新たにファーティマ朝を建国したのである。この事件は、アッバース朝スンニー派を根底から揺るがすことになった。ところが、11世紀半ば、さらに大きな事件が起こる。新興勢力セルジューク朝が、中央アジアからシリアにいたる広大な地域を支配下においたのである。この王朝もイスラム教だったが、彼らが支持したのはスンニー派であった。状況は再び逆転、スンニー派が優勢となる。セルジューク朝の宰相ニザーム・アルムルクは、その強大な軍事力をバックに、スンニー派の巻き返しを図ったが、それはイスマーイール派への弾圧を意味していた。

このような宗教的混乱の中、ハサン・サッバーフは学び、覚醒していった。ハサンは長じて、イスマーイール派に転向し、イランにおけるイスマーイール派のリーダーとなった。いつの世でも、出る杭は打たれる。その積極的な活動は先のセルジューク朝の宰相ニザーム・アルムルクの目にとまり、彼は追い込まれていった。

1090年、ハサンは、イラン北部のエルブルズ山脈にあったアラムート要塞を奪取し、そこを大要塞を築いた。この要塞は、イラン東部からシリアにいたる山岳地帯に築かれ、発見されにくく、攻めるに困難な、難攻不落の要塞であった。実際、度重なるセルジューク朝の攻撃をすべて退けている。とはいえ、イスマーイール派が攻めに転じ、セルジューク朝を粉砕できるほどの軍事力はなかった。そこでハサンが思いついた戦術が「要人暗殺」である。

暗殺は、いきあたりばったりではなく、緻密な計画と周到な準備ともとづいていた。暗殺者はフィダーイー(献身者)とよばれたが、厳しい訓練で鍛え上げられ、暗殺は象徴的に実行された。金曜日にモスクなどの公共の場で、1本の短剣だけ暗殺するのである。そして、その最初の生贄(いけにえ)となったのが、先の宰相ニザーム・アルムルクだった。

その後、カリフ、スルタン、将軍、知事など、スンナ派の要人たちが次々と犠牲になった。ハサンの時代だけで、48人も暗殺されたという。このような事態に直面したセルジューク朝は、イスマーイール派の拠点、アラムート要塞を再三攻撃したが、落とすことができなかった。ところが、彼らの前に思いもよらぬ強敵が現れる。モンゴル軍である。

■イラン遠征

1255年、フラグ率いるモンゴル軍はイラン遠征に出発した。フラグが、まず目標にしたのは、イスマーイール暗殺教団だった。フラグは、徹底した情報収集により、イスマーイール暗殺教団がただのテロ集団ではなく、軍事勢力であることを見抜いていた。1256年、モンゴルの大軍はアラムート要塞を包囲、かつてセルジューク朝でさえ落とせなかった要塞をあっさり攻め落とす。

フラグは、つづいて、イスラム教の最大拠点バグダッドを包囲し、1257年2月に陥落させる。フラグはバグダッドの町を焼き払い、8万人を虐殺したが、カリフ(王)の処刑は念入りだった。カリフを袋に縫い込み、これを馬蹄でふみにじって、殺したのである。一見、残酷にみえるが、これはモンゴルの王族の処刑でもある。この方法なら、血が大地に流れない。つまり、高貴な血を大地に流してはならない、というモンゴルのしきたりによっている。

モンゴル帝国にあって、フラグはまだ慈悲深いほうだった。バグダッド城内の多くのキリスト教徒が助命されたのである。フラグの正妃ドクズ・ハトンが助命を嘆願し、将軍ケド・ブカもこれに従った。じつは、将軍ケド・ブカもキリスト教徒であった。一方、この慈悲がイスラム教徒にむけられることはなかった。アッバース朝の滅亡は、西アジアに住むイスラム教徒たちに、はかりしれない衝撃を与えることになる。

一方、イランに住むネストリウス派や他のキリスト教徒たちは、フラグを宿敵イスラム教徒を討ち破った救世主として、歓呼で迎えた。キリスト教の聖職者たちは、次々とフラグを表敬訪問し、その保護を求めたのである。こうして、モンゴル帝国はキリスト教の庇護者、つまり、イスラム教の天敵という構図ができあがる。

モンゴル帝国は明らかに変質していた。創始者チンギス・ハーンは、土着の宗教を保護したが、意識の中心は征服にあり、ある意味、純粋だった。そのため、あらゆる宗教に対し、中立だったのである。ところが、フラグの時代になると、モンゴル帝国の純粋さは失われ、宗教に浸かることで、むしろ世俗化していった。

■モンゴル帝国の運命

フラグ軍はイランの制圧につづき、エジプトとシリアの攻撃を開始した。当時、シリアはキリスト教フランク王国と、イスラム教マムルーク朝の2つの勢力に分かれ、相争っていた。かつてのモンゴル軍なら、両者ともに一刀両断だっただろう。ところが、1258年、フラグはこの地のキリスト教勢力と同盟する。

この妥協の理由は2つ考えられる。1つは、フラグの正妃ドクズ・ハトン。彼女は熱心なキリスト教徒なので、この同盟に積極的だっただろう。もう1つは戦力の問題。このときのモンゴル軍は、前回のヨーロッパ遠征のように、モンゴル帝室すべてが参加したわけではない。フラグの孤軍といったほうがいい。モンゴルの主力はモンケ・ハーンとフビライとともに、遠く中国で戦っていて、援軍は望めなかった。

キリスト教徒と同盟したフラグは、イスラム教マムルーク朝の攻撃を開始する。1260年2月にはアレッポ城を攻略。1260年3月にはフラグ配下の将軍ケド・ブカが、シリアのダマスカスに入城した。結果として、モンゴル軍がキリスト教徒をイスラム教徒から解放したのである。

モンゴル帝国に追い風が吹きはじめていた。このままいけば、キリスト教世界の擁護者として、ヨーロッパ全土に支配のクサビを打ち込めるかもしれない。ところが、モンゴル帝国とキリスト教徒との蜜月時代はやがて終わる。モンゴルの野蛮さに嫌気がさしたフランク人は、今度は、マムルーク朝と同盟したのである。つまり、キリスト教とイスラム教が手を組んだのである。

悪いことは重なるものだ。1259年8月、フラグの元に本国から訃報が届く。中国の四川に進出していたモンケ・ハーンが崩御したのである。前回の遠征ではオゴタイ・ハーン、今回はモンケ・ハーンの死がヨーロッパを救ったのである。

モンゴル帝国は不思議な運命(ほし)を背負っている。歴史上、モンゴル帝国の西方大遠征は3度行われた。チンギス・ハーンの遠征バトゥの遠征、そして今回のフラグの遠征である。このうち2回が、敵を圧倒しながら、ハーンの死で撤退を強いられている。また、極東の征服でも同じことが起きている。2度の元寇はいずれも失敗したが、その原因はなんと台風だった。モンゴルの軍事力をもってすれば、史上初の世界帝国を築いたかもしれないのに、見えざる手によって、すべて挫折したのである。

■不敗神話の終わり

モンケ・ハーンを継ぐのは誰か?チンギス・ハーンの子孫たちは、再び骨肉の争いを始めた。シリアに進出していたフラグは、この事態に対処するため、将軍ケド・ブカを残し、イランに帰還する。一方、エジプトのマムルーク朝は、このチャンスを逃さなかった。マムルーク朝のスルタンクトゥズは大軍を率いて、パレスチナに進軍した。留守を任された将軍ケド・ブカも、これに呼応し、軍を進める。1260年9月3日、アインジャルートにて、マムルーク朝軍とモンゴル帝国軍が激突した。数で優るマムルーク朝軍は、モンゴル軍を巧みにさそいだし、包囲、殲滅、将軍ケド・ブカも殺された。

このアイン・ジャールートの戦いは、西方世界がモンゴル軍を初めて討ち破った戦いとして、長く語り継がれることになった。そしてこの戦いにより、「モンゴル不敗神話」も崩壊したのである。しかし、この戦いを冷静にみれば、敗れたケド・ブカ軍はシリアの守備隊にすぎず、あくまで局地戦の敗北に過ぎない。つまり、モンゴル帝国の敗北とは言い難い。それでも、イスラム世界は喜びに沸いた。モンゴル軍は不死身ではなかったのだ。

■モンゴル帝室の黄昏

一方、モンゴル本国では、熾烈な大ハーン争いが始まっていた。この争乱では、2度の大きな内戦があり、その後、モンゴル帝室が一枚岩に戻ることは二度となかった。モンケ・ハーンが没したとき、弟フビライは中国にいた。そのため、中国およびモンゴル東部の軍はフビライを支持したが、この軍は最強であった。一方、モンゴルの帝都カラコルムの留守居役の末弟のアリクブカは、首都をおさえ、モンゴル中枢勢力を見方につけた。つまり、この2人が大ハーンの有資格者となったのである。

次弟のフラグは、イラン征服の功績があったが、モンゴル本国から遠く離れ、大ハーンの候補から外された。フラグは、フビライの支持を宣言したものの、軍勢を引きつれて、長駆モンゴルまで駆けつける余力はない。将軍ケド・ブカがマムルーク朝に敗北し、シリアを失った今、イランを離れるわけにはいかなかった。1258年、フラグは帰還をあきらめ、イランで自国経営に専念することにした。これが後のイル・ハン国である。

1260年、フビライは、モンゴル東部にある本拠地ドロンノールで、フビライ支持派だけでクリルタイを開催し、大ハーンに即位した。一方、アリクブケもこれに対抗し、大ハーン即位を宣言する。モンゴル帝国は2人のハーンが立ったのである。この内戦では軍事的に優勢だったフビライが、シトムノールの戦いに勝利し、中国とモンゴル高原の大半を支配下においた。その後、アリクブケは徐々に追い詰められ、1264年、ついに降伏する。こうして、トゥルイ家の骨肉の争いは終わった。ところが、モンゴル帝国の大乱には第2幕が用意されていた。

オゴタイ家は、第2代、3代と、大ハーンをだしたものの、第4代はトゥルイ家のモンケ・ハーンに玉座を奪われ、両家は激しく対立していた。大乱の第2幕は、オゴタイ家とトゥルイ家の戦いである。主役はオゴタイ家のハイドゥ。モンゴル帝国にとって最大の悲劇は、ハイドゥが優秀すぎたことだった。ハイドゥは武勇に優れ、聡明で、高潔で、その上、人望があった。このハイドゥを駆り立たてたものはただ一つ、名門オゴタイ家の復興である。

1269年、ハイドゥは、オゴタイ家、チャガタイ家、ジュチ家との連合に成功する。フビライはすでに大ハーンの地位にあったが、敵はモンゴル3王家である。頼みのフラグは、遠いイランの地で軍を動かすこともできない。この内乱は単なる相続争いを超え、モンゴル帝国全土を巻き込む内戦となった。これが有名なハイドゥの乱である。フビライとハイドゥ、2人の巨人による骨肉の争いは、彼らが存命中に決着することはなかった。指導者2人の甲乙つけがたい資質が、内戦を長引かせ、帝国にはかりしれないダメージ与えたのである。

■その後のモンゴル帝国

永遠なる神の子、チンギス・ハーンの子孫たちは、優れた資質をもつ君主を多数輩出しながら、互いに反目し、自らを窮地に追い込んでいった。その結果、歴史上最大版図を誇ったモンゴル帝国も、5つの国に分裂する。中国とモンゴル本土を含む元朝、ロシアのキプチャク・ハン国、イランのイル・ハン国、中央アジアのチャガタイ・ハン国、後にチャガタイ・ハン国に併合されるオゴタイ・ハン国である。

その後、元は明に滅ぼされ、キプチャク・ハン国はモスクワ大公国の台頭で消滅し、チャガタイ・ハン国とイル・ハン国はティムール王国に吸収された。こうして、1500年ごろには、モンゴル帝国は地図の上から消滅した。永遠なる神の子、あれほどの繁栄を誇った帝国がわずか300年で地球上から消滅したのである。

イスラム世界の知の巨人イブン・バトゥータが記した「三大陸周遊記」。マルコポーロの「東方見聞録」に並ぶ、歴史的な旅行記である。イブン・バトゥータが旅したのは、この物語の100年ほど未来だが、チンギス・ハーンの子孫の王国も登場する。そこには、キリスト教やイスラム教など多様な文化を受け入れ、豊かに暮らすモンゴル帝室が活き活きと描かれている。かつて、ユーラシア大陸を破壊と殺戮で蹂躙した恐怖は微塵も感じられない。

「三大陸周遊記」の正式な題名は「諸都市の珍奇さと旅の驚異に興味をもつ者への贈り物」だが、モンゴル帝国は、まさに、珍奇と驚異の歴史である。

《完》

参考文献:
佐口透「モンゴル帝国と西洋」平凡社
週刊朝日百科世界の歴史43朝日新聞社出版

by R.B

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