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週刊スモールトーク (第68話) モンゴル帝国Ⅱ~ヨーロッパ遠征~

カテゴリ : 歴史

2006.10.15

モンゴル帝国Ⅱ~ヨーロッパ遠征~

■西方大遠征

地球の歴史は、6億平方キロメートルの大空間と、50億年という長大な時の流れで構成されている。まさに、時空の大器だが、その中に地球を股にかけた大遠征が4つある。アレクサンドロス大王の東方大遠征、ナポレオンのロシア遠征、ヒトラーのバルバロッサ作戦、チンギスハーンの西方大遠征である。中でも最も長躯の遠征は、チンギスハーンによる遠征であった。

チンギスハーンの遠征の目的はホラズム王国抹殺だったが、実際は、遠く東ヨーロッパまで侵攻している。遠征の目的は別の所にあったのかもしれない。たとえば、陸地が続く限り、地の果てまで征服するとか。チンギスハーンなら普通にありうる。とはいえ、やはり、直接原因はオトラル事件。チンギスハーンの使節が、ホラズム王国の知事によって殺害された事件である。

チンギスハーンは、その目覚ましい業績により、歴史的英雄とされているが、心理学で計れば、異常者に近い。破壊し、虐殺し、辱め、その泣き叫ぶ顔を見るのが無上の幸福、と公言しているのだから。現代なら、立派な?犯罪者だが、このような英雄は歴史上枚挙にいとまがない。いずれせよ、1キロ離れていても気疲れする人物だ。上司にはしたくない。

このような恐ろしい指導者に率いられた大軍が、西方に向け解き放たれたのである。その地に暮らす住民にとって、災難以外の何ものでもない。1219年9月、モンゴル帝国の大軍は進軍を開始、その兵数は15万~20万に達した。一方、迎え撃つホラズム王国の兵力は約40万。数ではホラズム王国が圧倒したが、”質”が伴わなかった。

モンゴル軍を直接指揮するのは、ノヤンと呼ばれる千人隊長だが、彼らは、チンギスハーンに絶対の服従と忠誠を誓う指揮官だった。さらに、兵も熾烈なモンゴル統一戦争を勝ち抜いた戦闘のプロであり、酷寒に耐え、わずかな食物で生きのびることができた。この鋼のようなモンゴル軍にくらべれば、ホラズム王国の将兵などバターのようなものだった。平和と贅沢に慣れ、訓練も怠り、忠誠心が何かさえ忘れていた。これが誇張でないことは、後の歴史が証明している。

モンゴル軍は軍を4つに分け、面で攻撃を仕掛けた。第1軍は第2子チャガタイと第3子オゴタイ(ウゲディ)が指揮し、第2軍は長子ジュチ、第3軍は子飼いの将軍たち、主力の第4軍は末子トゥルイ、そして総司令官はチンギスハーン。また、モンゴルの使節団を殺害した怨念の町オトラルの攻略を命じられたのは第1軍である。

オトラルの攻略は、1219年9月から始まったが、たちまち陥落、とはいかなかった。意外にも、5ヶ月ももちこたえたのである。町の守将は、使節団殺害を命じた知事ガイルハーンで、逃げるチャンスはあったが、自らの責務を全うした。最終的にオトラルは陥落し、ガイルハーンはサマルカンドにいたチンギスハーンのもとに引き出された。

ガイルハーンは身の毛がよだつような恐ろしい方法で処刑された。体のすべての穴に融けた金属を流し込まれたのである。さらに、オトラルの町は跡形もないほど破壊され、住民のすべてが殺された。歴史に名高い、モンゴル帝国の大殺戮の始まりだった。

■ブハラ

一方、チンギスハーン率いる主力の第4軍は、1220年2月ブハラを包囲した。ブハラは中央アジア最大の都市で、2万の守備隊がいた。ところが、無数のモンゴル軍を目の当たりにし戦意喪失、戦う前に降伏した。ブハラ市に入城したチンギスハーンは、イスラム教の聖典コーランを運ばせ、自分の馬のエサとした。モンゴル兵は酒宴をもよおし、イスラムの聖職者たちはモンゴルの馬の世話をさせられた。イスラム教徒にとって、これ以上の屈辱はなかった。

ここで、チンギスハーンは全市民をあつめて歴史的な演説を行う。この演説は、チンギスハーンが中央アジアで吐いた初めての言葉として知られている。

「おまえたちが大きな過ちを犯したこと、おまえたちの首領たちが最大の犯罪者であることを知れ。もし、おまえたちが余にいかなる根拠にもとづいて、この演説をするのかと問うならば、、余は余こそ神意を受けた者であると答えよう。もし、おまえたちが罪人でなければ、神は余をおまえたちの頭上に差し向けないだろう」(※1)

論理的で、象徴的で、詩的だ。もし、この演説が本当ななら、チンギスハーンは並々ならぬ知性の持ち主だった?ところが、せっかくの名演説も、世に広く知られることはなかった。証人のブハラ市民を殺害したからである。助命していれば、彼の名声はあまねくとどろいただろうに。やはり、そこはチンギスハーンである。

■サマルカンド

チンギスハーンの第4軍は、つぎにサマルカンドに向かった。サマルカンドは、中央アジア最古の町で、古くは、ペルシャ帝国の州都として栄えた。アレクサンドロス大王によって征服された後は、東西交易で繁栄し、8世紀頃にはイスラム文化の中心となった。

モンゴル軍がサマルカンドを目指していた頃、ホラズム国王スルタン ムハンマドは、防衛の準備に追われていた。彼は、モンゴル軍の主力がサマルカンド東方に現れるとふんで、町の東側の防備を固めていた。西方には全幅600kmにもおよぶキジルクム砂漠が広がり、馬も通れない難所だったからである。

ところが、モンゴル軍の主力は、西方に姿を現した。前人未踏のキジルクム砂漠を踏破したのである。これを目にしたときのムハンマドの恐怖は想像に余りある。裏をかかれた、などと悔やむ次元の話ではない。このとき初めて、ムハンマドは気づいた ・・・ 自分の敵はヒトではない、と。一方、サマルカンドには、北方からはモンゴル第1軍、東方から第2軍、南方から第3軍が接近しつつあり、ムハンマドは己の不運を嘆いているヒマもなかった。

その後のスルタン ムハンマドの行動は、迅速を極めた。軍事作戦ではなく、脱走のことである。彼は、サマルカンドに自軍をおきざりにし、南方に逃げのびたのだ。しかも、戦いが始まる前に。もっとも、戦いが始まってからでは遅い。注目すべきは、彼のすべての行動が、初めから負けることを前提にしている点だ。未来を見切って、目先の状況には目もくれず、意識を「逃亡」一点にしぼりこんでいる。これは、ある意味、傑出かもしれない。とはいえ、置き去りにされ、皆殺しにされた将兵や市民は浮かばれない。

上司がチンギスハーンなら、気疲れは絶えないが、スルタンムハンマドなら、見殺しにされる。凡人はよい馬(親分)に乗るのが一番だが、長い歴史をみても、良い馬はなかなかいないものだ。

1220年3月17日、スルタン ムハンマドが逃げ出した後、サマルカンドは陥落した。例によって、市民は虐殺されたが、職人3万人は助命された。そして、皇子、王妃、将軍たちに分配されたのである。つまり、モンゴル帝国の虐殺は合理的かつ選択的で、怒りや嗜好によるものではない。もっとも、このほうがよっぽど怖いのだが。人間を道具としてしか見ていないのだから。さらに、市場、寺院、塔、家々、あらゆる建物が破壊された。一つの町が消滅し、平地に還ったのである。

この歴史的大破壊は、中世最大の旅行家イブン バトゥータの「三大陸周遊記」にも記されている。イブン バトゥータがサマルカンドを旅したのは、この戦争の100年後だが、生々しい爪痕(つめあと)はまだ残っていた。彼は、サマルカンドが世界でもっとも大きく美しい町の一つとしながらも、市街の大部分が廃墟となっていると書いている(※2)。三大陸周遊記のこのくだりは、リアルリティがあり、詩的で、印象的だ。その後、サマルカンドは、ティムール帝国の首都になり、再び繁栄をとりもどす。

■ホラズム王の最期

こうして、中央アジアの諸都市はモンゴル軍によって徹底的に破壊された。モンゴル軍の作戦はおおむね順調だったが、チンギスハーンにはまだやり残したことがあった。後は野となれ山となれ、自分だけ逃げのびたホラズム王スルタン ムハンマドである。チンギスハーンは、将軍ジェベとスブタイにホラズム王追撃を命じた。ムハンマドは巧みに逃げまどったが、カスピ海沿岸の小さな島で病死する。イランの支配者、西方イスラムの覇者アッバース朝とも対峙した名君は、すり切れた着衣のままひっそり埋葬されたという。

こうして、モンゴル軍は不敗神話をつくりあげた。では、その強さの秘密はどこにあったのか?圧倒的な機動力を誇る騎馬兵、わずかな睡眠と食料で戦い続ける不死身の兵士。そして、もう一つ。情報収集力である。長躯の遠征は、地の利に優る守備側が有利になるが、チンギスハーンはこれを相殺していた。たとえば、モンゴル軍はホラズム王国の中枢であるトランスオクシアナ地方の地理情報を知り抜いていた。では、その情報をどうやって知り得たか?サルト商人である。彼らは、自分たちの商圏を保護してもらう見返りに、チンギスハーンの目と耳、つまりスパイになっていたのである。

サルト商人のスパイ活動がモンゴル軍を勝利に導いた?ちょっと大げさでは?いや、それを示す証拠もある。チンギスハーンの西方遠征の前半は好調だったが、後半は苦戦が目立つようになる。戦闘の疲れもあるだろうが、情報収集力が低下したのである。前半の戦場はオトラル、ブハラ、サマルカンドなど、アムダリア河とシルダリア河をはさむトランスオクシアナに集中している。この地方は、サルト商人のテリトリーだ。一方、苦戦したホラーサーン、アフガニスタンはサルト商人の活動地域ではない。

もう一つ、理由がある。モンゴル軍は全軍が騎馬兵なので、平地の戦闘は有利だが、山岳地帯では不利になる。作戦が好調だったトランスオクシアナは平地で、ホラーサーン、アフガニスタンは山岳地帯が多い。つまり、騎馬兵の地形上の相性が影響したのである。

ただ、モンゴル軍は苦戦はしたものの敗けたわけではない。そして、最後にはお決まりの破壊と殺戮が待っていた。特にホラーサーン州は目をおおうほどだった。バルフ、メルヴ、ヘラート、ニシャブールなど主要都市はほぼ壊滅
「知識の樹は聖地メッカに根を張り、その実はホラーサーン州で結ぶ」
と讃えられたホラーサーンのイラン文化は地上から完全に消滅したのである。

■勇者ジャラール アッディーン

ホラズム王スルタン ムハンマドが死んだ後、ホラズム王国の命数は断たれたかのように見えた。ところが、降って湧いたように英雄が出現する。ムハンマドの後を継いだ長子ジャラール アッディーンである。この若き王子は、ホラズム王国創設の血統を彷彿させる傑物であった。

ホラズム王国の創始者は、セルジューク朝のホラズム総督アヌーシュティギーンである。彼はマムルーク、つまりトルコ人奴隷兵の出身であった。マムルークとは騎馬民族の出身で、幼少時に金で買われた奴隷だが、ただの奴隷ではなかった。あらゆる戦闘訓練を受けた騎兵のエリートだった。このような血が脈々と流れるジャラール アッディーンは、勇敢で誇り高く、強い使命に突き動かされていた。ホラズム王国の復興である。その後、彼の人生はイランで語り継がれる伝説となった。

ジャラール アッディーンは、父スルタン ムハンマドの死後、ホラズム王国の本拠地ウルゲンチによっていた。ウルゲンチは、祖母テルケン ハトンが支配する町だったが、すでにモンゴル軍に包囲されていた。ジャラール アッディーンは、町を奇跡的に脱出、モンゴル軍の厳重な警戒網をくぐり抜け、自領地ガズナに移った。その地で、トルコ諸部族とゴール人からなる6万の軍を編成したのである。さらに、カーブル東北のパルワーンに侵攻し、シギ クトク麾下(きか)のモンゴル帝国軍を撃破した。局地戦とはいえ、モンゴル軍に勝利したのである。しかも、シギ クトクはチンギスハーンの第5子と称されるほどの名将であった。

一方、敗北を聞きつけたジンギス ハーンの行動も速かった。バルフ、バーミヤーンと主要拠点を次々と攻略、ジャラール アッディーンをインダス河畔まで追いつめた。チンギスハーンの出現に、ジャラール アッディーン軍は狼狽し、大混乱に陥った。しょせん、かき集めの混成軍、崩壊もまたたく間であった。ところが、戦いには負けたものの、ジャラール アッディーンは最後の見せ場をつくる。危険をかえりみず、馬もろともインダス河に飛び込み、そのまま逃げ切ったのである。チンギスハーンは感心し、部下の面前で、その勇敢さを誉めたたえたという。こうして、九死に一生を得たジャラール アッディーンはインドに身を隠した。

その後、チンギスハーンの帰還すると、ジャラール アッディーンは、再びイランに潜入、ホラズム王国復興を画策した。そして、1225年、タブリーズを奪還、この地を首都とし、ホラズム王国再建をなし遂げたのである。一方、モンゴル帝国もこれを見逃さなかった。チョルマグーンが指揮するモンゴル軍が派遣されたのである。結局、ジャラール アッディーンは、追いつめられ、逃走中、住民によって殺された

ジャラール アッディーンは武人のエリート「マムルーク」の血統で、チンギスハーンが讃えるほどの勇者だったが、組織的抵抗をつくりあげることはできなかった。一方、土地の民衆の間で、ジャラール アッディーンは伝説の英雄となった。無敵のモンゴル軍に立ち向い、幾たびか勝利したのである。そして、ジャラール アッディーンの死によって、150年つづいたホラズム王国は歴史から姿を消した。

■ルーシー連合軍の大敗

チンギスハーンが帰還した後も、王子と将軍たちによる征服は続行された。スルタン ム ハンマドの死を確認したジェベ・スブタイ軍は、つぎに北イランに侵入、ライ、カズビーン、ウズベク、マラーガ、ハマダーン、バイラカーンを攻略した。町は、例によって破壊され、略奪され、辱められ、住民は何万人も殺された。一方、モンゴル軍は相手が手強いと見るや、貢納させることで折り合いをつける柔軟性も持ち合わせていた。

ジェベ・スブタイ軍は、休むことなく、さらに西方に侵攻した。ルーシの地、つまり、現在のロシアに達したのである。1222年、ジェベ・スブタイ軍に圧迫されたキプチャク族はルーシに逃げ込み、救いを乞うた。ところが、ルーシにはまだ統一国家はなかった。それでも、ルーシの領主であったキエフ公、チェルニゴフ公、ガリチ公らはありあわせの連合軍を編成し、モンゴル軍に挑んだ。有名なカルカ河畔の戦いである。1223年5月31日、ルーシ軍はモンゴル軍に大敗し、領主たちは降伏したにもかかわらず、全員なぶり殺しにされた。

■遠征の終わり

その後、ジェベ・スブタイ軍は、さらに、西方のブルガル王国に侵攻する。ブルガル王国はブルガル人が支配する国で、現在のブルガリアにあった。ところが、ブルガル人の抵抗はおそろしく頑強だった。しかも、モンゴル軍の疲労はピークに達していた。征服をあきらめたジェベ・スブタイ軍は、ようやく帰国の途につく。

一方、モンゴル第2軍を率いる長子ジュチは、カスピ海と黒海のキプチャク草原の征服を命じられていたが、実行しなかった。こうして、モンゴル帝国の西方大遠征は終わった。ブルガル地方とキプチャク草原は皮一枚で、首がつながったのである。難を逃れた支配者とその住民たちは、ほっと胸をなでおろしたが、それもつかのまだった。さらに恐ろしい大遠征が待ち受けていたのである。

《つづく》

参考文献:
(※1)佐口透「モンゴル帝国と西洋」平凡社
(※2)「三大陸周遊記 抄」 中公文庫 イブン・バットゥータ著 前嶋信次 翻訳
ブラウジン著 飯村 穰譯 注「大統率者ジンギス汗の謎」叢文社
週刊朝日百科 世界の歴史 53

by R.B

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