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週刊スモールトーク (第60話) ユダヤ人が迫害される理由(1)~ユダヤ人の歴史〜

カテゴリ : 歴史

2006.08.19

ユダヤ人が迫害される理由(1)~ユダヤ人の歴史〜

■ユダヤ人

ユダヤ人は、なぜ差別され、迫害されるのか?

なぜ、多数のユダヤ人が虐殺されてきたのか?

ユダヤ人の受難はいつまで続くのか?

そして、この問いは、ユダヤ人と対立するパレスチナ人にも、同じ意味を持っている。ユダヤ人国家イスラエルと、アラブ諸国との紛争は、4度の中東戦争をへて、いまだ終結していない。2006年7月12日から始まったイスラエルとヒズボラとの紛争では、すでに1200人が死亡したが、このような犠牲はすでに日常化している。

ユダヤ人が最新兵器でパレスチナ人に対抗するのは、彼らのテロを怖れてのことだが、パレスチナ人がテロ的行動に出るのは、ユダヤ人のようなハイテク兵器を持たないからである。「人を殺すのは間違っている」的論法で解決できる世界に、彼らは生きていない。彼らは、迫害と虐殺の被害者であり、同時に、加害者でもあるのだ。そして、いつ終わるともしれないこの戦いは、すでに3000年の歴史を刻んでいる。この歴史の底流には、個体を超えた民族遺伝子が潜んでいる。

ユダヤ人は、ヘブライ人、イスラエル人とも呼ばれるが、その定義は難しい。宗教的要素と人種的要素の二つの面をもつからである。一般論として、

1.ユダヤ教徒であること。

2.母親がユダヤ人であること。

のどちらかを満たせばユダヤ人となる。前者は宗教的要素から、後者は人種的要素から定義されている。実際、イスラエルの国会は、「ユダヤ人とは、ユダヤ人ないしユダヤ教への改宗者を母として生まれた者」という定義を立法化している。このような、ユダヤ人のアイデンティティへのこだわりは、迫害、差別、虐殺の歴史によっているのかもしれない。

■迫害の始まり

「ユダヤ人」から連想されるのは、アウシュビッツ強制収容所、ホロコースト、ナチス、ヒトラー、人種差別、迫害、虐殺、どれもこれも暗く陰惨なものばかりだ。そして、これらすべては、たった1つのキーワードに集約される。差別と迫害。ユダヤ人に対する差別と迫害の歴史は、古くて長い。

歴史上、最初に確認される迫害は、紀元前13世紀の「出エジプト」である。内容は、旧約聖書の「出エジプト記」に詳しいが、チャールトン・ヘストン主演の映画「十戒」で、日本でも知られるようになった。この頃、ユダヤ人の一部はエジプトの地で暮らしていたが、すでにエジプト新王国による差別と迫害を受けていた。やがて、予言者モーセが現れ、ユダヤの民を率い、エジプトを脱出。その後、聖なるシナイ山の頂上で神ヤハウェとの契約をさずけられた。これがのちのユダヤ教へとつながる。

この出来事は、ユダヤ人にとって、とりわけ重要な意味をもっている。なぜなら、これがユダヤ人への最初の迫害であり、ユダヤ教の起源となったからである。モーセの死後、後継者ヨシュアにひきいられたユダヤ人は、ヨルダン川をわたり、イェリコの町とその地域を征服する。

その後、紀元前11世紀頃には、サウル王のもとで建国を成し遂げ、後継者ダビデ王およびソロモン王の治世で、最盛期をむかえる。ところが、その繁栄も長くは続かなかった。ソロモン王の死後、王国は北方の北イスラエル王国と、南方のユダ王国に分裂したのである。その後、北イスラエル王国はアッシリア帝国に(紀元前8世紀)、ユダ王国は新バビロニア王国に(紀元前6世紀)、それぞれ征服された。このとき、ユダ王国の人々はバビロンに強制移住させられたが、これが教科書にも出てくる「バビロンの捕囚」である。ただ、「捕囚」とはいえ、全員が捕虜になったわけではない。多数のユダヤ人が虐殺されている。出エジプトにつづく、第2のユダヤ人迫害であった。

ところが、その新バビロニアもアケメネス朝ペルシャに滅ぼされてしまう。新しい支配者ペルシャは、新バビロニアやアッシリアに比べ、寛大な帝国であった。納税を怠らず、謀反や反乱をおこさなければ、生活はもちろん、習慣や文化も保護されたのである。一方、アッシリアは歴史上最も過酷な属国支配で知られている。反乱でも起こそうものなら、首謀者と側近は、身体の皮をはがされ壁に貼りつけられた。これ以上の見せしめはないだろう。

ペルシャの寛大さはユダヤ人に平和をもたらした。紀元前538年、ユダヤ人はエルサレムに帰還することが許されたのである。彼らは帰還後、神殿を再建し、その後、唯一神ヤハウェを信じるユダヤ教が成立した。これ以降、彼らはユダヤ人と呼ばれるようになった。

■イエス

「出エジプト」と「バビロン捕囚」をみれば、ユダヤ人が3000年も前から差別と迫害を受けていたことがわかる。しかも、国や集団ではなく「民族」というくくりで。さらに、その1000年後、ユダヤ人迫害を決定づける歴史的大事件がおこる。イエス・キリストである。なぜ、イエス・キリストがユダヤ人迫害を決定づけたのか?映画「パッション」を観れば、2時間で理解できる。

この映画のテーマはたった一つ、イエス・キリストの受難。イエスは、ひたすらムチ打たれ、血まみれになり、ゴルゴダの丘で十字架刑に課せられる。そして、イエスをローマ帝国に告訴したのはユダヤ教徒。さらに、銀貨30枚でイエスを売ったユダも、ユダヤ人。イエスを迫害し、抹殺したのは、ローマ帝国でも、ヘロデ王でもなく、ユダヤ人である、という主張がそこにある。このことは、キリスト教本流をなす宗派や、イスラム教の信者たちに、ユダヤ教徒への根強い不信感と憎悪を植えつけた。そして、このユダヤ人への黒いフィルタは、差別と迫害とともに、イエスの死後2000年経過した現代まで存続している。神道や仏教そして、クリスマスまで祝う無宗派的日本人には理解しがたいだろう。

イエスの死後、キリスト教はヨーロッパで急速に広まっていった。ローマ帝国時代、キリスト教徒はさまざまな差別、迫害、虐殺に受けたが、313年、ミラノ勅令が公布される。この勅令で、キリスト教が公認されただけではなく、教会がそれまでうけた損害の賠償まで保証されたのである。こうして、キリスト教は完全な勝利をおさめ、それに反動するように、ユダヤ人への差別と迫害がはじまった。中世に入っても、ユダヤ人への迫害はつづいた。たとえば、十字軍。1096年、聖地エルサレムはイスラム教徒の支配下にあったが、それを奪回すべくキリスト教「十字軍」の遠征が始まった。

ところが、エルサレムを奪回した十字軍は、イスラム教徒だけでなく、ユダヤ人も虐殺したのである。ユダヤ教とキリスト教はともに旧約聖書を聖典とする同根の宗教であるにも関わらず。この虐殺はユダヤ人への差別や迫害が、いかに根深いものかを示している。また、1881年には、東ヨーロッパで「ポグロム」とよばれる大規模なユダヤ人迫害が起こっている。「ポグロム」はロシア語で、ユダヤ人にたいする略奪、虐殺を意味する。ユダヤ人への差別や迫害は地球規模であり、全時代におよんでいることがわかる。

■ヒトラー

そして、ナチスによるユダヤ人迫害。歴史上最も有名なユダヤ人迫害である。この時、ユダヤ人の迫害は1933年頃からはじまったが、初めは宗教というよりは人種的理由によっていた。1850年代、フランスの外交官ゴビノーは、人種的な優劣を論じた「人種不平等論」を発表し、その中で、アーリヤ人種の優越性を唱えた。そもそも、DNAの構造が解明されるは1953年で、ゴビノーの説に科学的根拠があったわけではない。

また、アーリア人とは中央アジアの遊牧民で、紀元前1500年以降、西北インドやイランに進出した人々をさしている。人種としてのアーリヤ人が存在するわけではない。ところが、ナチス政権はこの書をユダヤ人の差別と迫害を正統化するバイブルとして利用した。これに、先の宗教的な憎しみも加わり、単なる差別から、迫害、虐殺へとエスカレートしたのである。ナチス政権下のユダヤ人の差別、迫害、虐殺は凄まじいものだった。信じられないことに、ユダヤ人を法律の保護から外すという特別立法も可決された。これは、財産権・生存権・裁判権の消失を意味する。ユダヤ人は財産を没収されたり、不当に逮捕されたり、裁判もなく処刑されることが認められたのである。

この時のユダヤ人への迫害は、正気の人間がどれほど簡単に狂気に走れるかを証明している。ドイツは歴史的にみても、勤勉と合理性を重んじる大国である。しかも、ナチス政権が誕生する前のワイマール憲法は、世界でもっとも民主的な憲法と称賛された。このような国が豹変したのである。

ドイツの強制収容所で起こった迫害や虐殺や人体実験は、人間の中に悪魔がまぎれ込んでいることを示唆している。最終的に、600万人のユダヤ人が殺害されたといわれるが、さらに恐ろしいのは個別の所業である。「夜と霧」に書かれた人体実験や虐殺は想像を絶する。

「夜と霧」はユダヤ人フランクルがアウシュビッツ収容所での体験をもとに著した書で、既に歴史的な名声を得ている。しかし、読むべきかどうかは人による。感受性が強い人なら、トラウマになるかもしれないから。たとえば、ブッヒュンワルト強制収容所長の妻が作った電気の笠。この笠は、彼女が殺した囚人の皮膚で作られていた。このような犯罪が二度と起こらないよう、詳細を公表すべきだ、というのは正論かもしれない。

しかし一方で、犯罪を犯す資質のある者に「こういうのもアリ」と教えることにもなる。つまり、犯罪の「ハウツー本」。作り手がどんなに正当性を主張しようが、価値を決めるのは受け手。善を生むか悪を生むかは、受け手次第。作り手の意図など関係ないのだ。また、ナチスによるユダヤ人の差別や迫害にまぎれて、露見が遅れた虐殺もある。第二次世界大戦中に起こった「カチンの森の大虐殺」である。この事件は、政治的理由で、永らくタブーとされたこと、アウシュビッツ収容所などの虐殺に隠れて目立たなかったことから、意外に知られていない。この時代、ユダヤ人を迫害したのはナチスドイツだけではないのだ。

この事件は、1943年4月、ロシアのスモレンスク郊外のカチンの森で、ドイツ軍が4000名を超えるポーランド軍将校の遺体を発見したことに始まる。ドイツのゲッベルス宣伝相は、ラジオでこの事実を公表し、ソ連側を激しく非難した。一方、ソ連側もドイツ軍の犯行だと反論した。この事件は、早くからソ連側の犯行とわかっていたが、ナチスドイツを悪者にしたい連合国側の思惑から、長い間、タブーとされたのである。1990年に入って、やっと、ソ連は自国の虐殺であることを認めた。

■ユダヤ人を救った人々

ほとんどの人は、「民族や宗教で差別したり、迫害することは正しくない」と思っている。ところが、迫害が国家の方針なら、非難するには勇気がいる。そんな希有の勇気をもっていたのが、シンドラーや杉原千畝(すぎはらちうね)だろう。

ドイツの実業家オスカー・シンドラーは、強制収容所に送られるはずだったユダヤ人を自分の工場に雇い入れ、命を救った。さらに、ドイツの敗戦が濃厚になった1944年秋、シンドラーは工場を故郷のチェコに移転する。このとき、いっしょに連れて行った従業員のリストは「シンドラーのリスト」とよばれた。そして、リストのユダヤ人1200名の命が救われたのである。

シンドラーは戦後イスラエルに招待され、「正義の人賞」が贈られている。この実話は、スピルバーグの映画「シンドラーのリスト」によって、広く知られるところとなった。あえてモノクロフィルムを使い、作り手の感情を抑えて、淡々と描かれているが、逆に、深いリアリティを感じさせる。作品の評価も高く、作品賞をはじめアカデミー賞7部門を獲得した。

杉原千畝(すぎはらちうね)は、「日本のシンドラー」と言われている。第二次世界大戦でドイツがポーランドを占領した時、多数のユダヤ人が隣国のリトアニアに逃れてきた。彼らは日本の領事館にもおしかけたが、日本経由で外国に逃れるための通過ビザを取得するためであった。日本の通過ビザの発給条件は厳しいものだったが、リトアニア領事館員の杉原千畝はほとんど無制限にビザを発給した。その数は数千枚を超えるといわれる。

こうして、多数のユダヤ人の命が救われた。杉原千畝も、戦後、イスラエルから「正義の人賞」が贈られている。

■パレスチナ問題

そして現代、ユダヤ人迫害の問題は形を変え、より深刻になっている、パレスチナ問題・中東問題に発展し、宗教的憎悪を超えて、ユダヤ民族とアラブ民族のハルマゲドン(最終戦争)さえ予見させる。すでに、迫害や虐殺の次元を超えているのだ。では、どういう経緯で、こんな状況に陥ったのか?

事の発端は、イギリスの2枚舌外交。1916年、イギリスのエジプト高等弁務官マクマホンとアラブの指導者フサインとの間に書簡がかわされた。この協定は、アラブがオスマン帝国に反乱をおこす見返りに、第一次世界大戦後、イギリスがアラブ国家の独立を約束するというものだった。アカデミー賞7部門を獲得した映画「アラビアのローレンス」はこの歴史を描いている。広漠たる砂漠、戦い、陰謀、裏切り、友情・・・男のロマンをかきたてる筋立てで、映画史にその名を刻んだ。

イギリスは、アラブに対しこのような甘い約束をする一方で、1917年、ユダヤ人にも同じような約束をした。バルフォア宣言である。パレスチナにユダヤ人国家の建設を容認するというものだった。イギリスは、このユダヤ人国家をとおして、パレスチナに支配力を保持するつもりだった。

しかし、どこからどう見ても、ダブルブッキング。その後何が起こるかは、火を見るより明らかだ。ユダヤ人とアラブ人の根幹をなすのは、ユダヤ教とイスラム教。つまり、一神教だ。一神教の神は一つであり、他の神々はすべて偽りの神となる。神と悪魔、善と悪、勝利か敗北か、完全な二元論が支配するのがこの世界だ。彼らは、日本人が好む妥協や落とし所というものがない。生存を賭けた戦いなのだから、仕方がないのだが。だから、中東紛争は歴史の必然なのである。

《つづく》

参考文献:フランクル著作集「夜と霧」みすず書房

by R.B

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