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週刊スモールトーク (第562話) IFの歴史・世界恐慌がない世界(6)

カテゴリ : 戦争歴史社会経済

2024.01.01

IFの歴史・世界恐慌がない世界(6)

■異質の独裁

この世界は1ミリの誤差で生まれた偶然である。

もしそうなら、歴史も必然ではなく偶然と考えるのが道理だろう。

ここで深い話。

歴史とは、原因と結果が織りなす長大な時空連続体である。

多数の原因が作用しあい、無数の可能性から1つの結果が選択される。ところが、それが選ばれた確固たる根拠も証拠も存在しない。だから、歴史は偶然の産物なのである。

さて、小難しい話はここまで。

話をヒトラーの「完全なる独裁」にもどそう。

「完全」を冠したのは理由がある。ヒトラーの独裁は、近代国家ではありえないほど特殊なのだ。

敵、中立、日和見、同志を問わず、熱烈な崇拝者のぞいて、すべて排除する。これだけなら、ありがちな独裁だが、ヒトラーはさらに上をいく。ヒトラー「個人」が「国法」の上に立ったのだ。

ヒトラーは神の座を望んでいたかもしれない。

じつは、もっと古い時代でも国法は尊重された。

古代ローマが歴史的成功をおさめたのは法を重んじたから、は事実である。

紀元前18世紀、古代バビロニアのハンムラビ王は、ハンムラビ法典を制定した。「目には目を、歯には歯を」で知られる最古の法典の一つだが、法文は硬い石柱に刻まれ、王都バビロンのマルドゥク神殿におかれた。国法がいかに尊重されたか。

19世紀の独裁者ナポレオンは、ナポレオン法典を制定し、それを人生の誇りとした。彼はコルシカ島の貧乏貴族だったが、自分の手でフランス王位をもぎとったのである。そんな野心的な独裁者でも、法を重んじたわけだ。

ところが、20世紀の近代国家ドイツで、国法を超越する個人崇拝が出現したのである。

おきたことを不思議がってもしかたがないから、前に進もう。

問題はどうやって実現したか?

ふつうに考えれば、クーデターか革命。

クーデターは「暴力」によるちゃぶ台返しだが、革命には「大義名分」が欠かせない。民主主義とか社会主義とか俗にいうイデオロギーだ。やることは同じなのに、ちょっと面倒くさいですね。

だが、ヒトラーはどちらでもなかった。

選挙で選ばれたのである。

では、合法的?

半分アタリで、半分ハズレ。

「正当な手続き」を装いながら、巧みな非合法で成し遂げたのである。

それはヒトラー年表を読み解けば明らかだ。

■ヒトラーの独裁年表

1933年1月30日、ヒトラー内閣が発足する。

翌日の2月1日、いきなり議会を解散。総選挙に打って出て、単独過半数をねらったのである(この時点でナチ党の議席数は37.4%)。これは正当な手続きをへているので、非合法ではない。

2月27日深夜、ドイツの国会議事堂が炎上する。ヒトラーの独裁と何の関係もなさそうだが、じつは直結していた。

第一に、これは放火である。

しかも、命じたのはナチ党最高幹部のゲーリング。仲間うちで自分がやったと自慢しているし、強い動機があったから。ゲーリングは、この事件の直後、「やったのは共産党主義者だ!」と触れ回り、共産党員を根こそぎ逮捕したのである。宿敵の共産党を潰し、ナチ党一党独裁を狙ったことは明らかだ。

2月28日、ヒトラーはヒンデンブルク大統領をそそのかし、恐ろしい大統領緊急令を発令させる。憲法の基本的人権条項を停止したのである。これで、法的手続をとらず誰でも逮捕できるようになった。目的は、政敵(とくに共産党議員)を逮捕、拘束すること。フェアではないが、正当な手続きをふんでいるので、非合法とはいえない。

3月5日、総選挙で、ナチ党は288議席を獲得。だが、全議席数の45%にとどまり、単独過半数は達しなかった。

では、ヒトラーの思い通りにはならない?

思い通りになりました。

巧妙なカラクリが仕掛けられていたのである。

5日前の大統領緊急令で、共産党議員とナチ党に批判的な議員は全員逮捕されていた。そのため、ナチ党は、憲法改正的法令に必要な3分の2の賛成を獲得できたのである。やり方はえげつないが、正当な手続きをふんでいるから、非合法ではない。

3月24日、国家人民党(保守派)と中央党(中道)の協力を得て、全権委任法が可決された。結果、議会と大統領の権限は形骸化し、すべての権限はヒトラーに集中した。あからさまな独裁化だが、これも正当な手続きをふんでいるので、非合法ではない。

1934年8月2日、ヒンデンブルク大統領が死去し、国家元首法が発令された。これがまた恐ろしい法律で、「大統領(国家元首)+首相(政治の最高権力者)」の大権を、ヒトラーに与えたのである。怖気ついたドイツ国防軍は「ヒトラー個人」に対し忠誠を誓った。

まるで、映画かドラマだが、すべて事実である。

「完全なる独裁」まであと一歩。

8月19日、国家元首法の賛否を問う国民投票が行われた。結果は、賛成89.9%で可決。ヒトラーは大統領と首相をこえる「総統(フューラ)」として、国法の上に立ったのでる。

お気づきだろうか?

ヒトラーは、正当な手続きを装い、国民を油断させ、せっせと非合法を積みあげた。結果、史上まれにみる「個人崇拝政権」が誕生したのである。

もちろん、ヒトラーを非難するつもりはない。

日本の政治家も似たようなものだから。

たとえば、2023年10月に発覚した「政治資金パーティー収入の裏金問題」。

詳細をあーだこーだは文脈からはずれるので、カンタンに言うと・・・

自民党5派閥が、違法な政治資金パーティーを繰り返し、せっせと裏金づくりに励んだ。これはヒトラーとやり方が似ている。法律を自分たちの都合の良いように解釈して、正当な手続きをとったようにみせかけて、違法行為をやっていたのだ。

とはいえ、政治はお金がいるし、こうなるのは自然の成り行きだ。だが、それを認めれば、ヒトラーの独裁化手法も正当化される。

さて、どうしたものか?

話はカンタン、政治もAIに任せればいいのだ。

すると、正義漢ぶったへそ曲がりはこう反論するだろう。

AIも間違えるから危険である!

いえいえ、人間はもっと間違えるでしょう。

しかも、確信犯的に。

■真の独裁

話を「完全なる独裁」にもどそう。

ヒトラーは、人の道に外れた非合法を、法的手続きという合法に包み隠し、総統(フューラ)の椅子を入れた。

だが、これは「形式的な独裁」にすぎない。

ヒトラーが望んだのは「真の独裁」だった。

国民の圧倒的多数が、ヒトラーの熱烈な信奉者になり、絶対的忠誠を尽くすこと。つまり、ヒトラーは、国民の心が欲しかったのである。

1933年1月、ヒトラー政権が誕生したとき、国民感情はそこまで行っていなかった。

その頃の記録をみてみよう。

やはり、ヒトラー肯定派が多い。

「我々ドイツ人が、再び陽の当たる所へ出られるように、これは主なる神が遣わされた男です」

「多くの人にとって、真っ黒な空が、一転して明るく晴れ渡ったかのようでした。突然、未来が現れました」

一方、冷ややかな目でみる否定派もいた。

「ヒトラーは動員する。彼はまさに人間を機械にせんとしていました。道具のように利用できる機械、戦争を遂行し、人間を殺し、焼却炉を建設するための機械、このパレードはそのリハーサルでした」(※1)

まるで預言者ではないか。

6年後に一字一句、的中するのだから。

ただし、予言するだけでは絵に描いた餅、行動しないと意味がない。このときは、それが生死をわけた。

ヒトラー政権が誕生したとき、否定派の選択肢は2つあった。

肯定派に鞍替えするか、それとも、ドイツを脱出するか?

難を逃れたのは後者だけだった。

■ヒトラー狂騒曲

1933年2月1日、ヒトラーは、首相就任後、初の所信表明演説を行った。

ここで、ヒトラーは一芝居うつ。

「尊敬する(ヒンデンブルク)大統領閣下が、かくも寛大な御心で、我々と手を携えてくださったからには、我々も国家の指導者として、神に、我々の良心に、我々の民族にかけて、ここに誓おう。国民的政府として、我々にゆだねられた使命を断固として屈することなく、果たさんことを」

歯の浮くようなヨイショだが、これが効いた。

国家元首のヒンデンブルク大統領がヒトラー側に立ったのである。もとより、外交方針では、ヒトラーとヒンデンブルクは「国家主義」で一致していたのだが。

ヒンデンブルク大統領の支持をえたヒトラーの人気は急上昇していく。

1933年2月10日、ベルリン・スポーツ宮殿でナチ党の集会のこと。

この一大催し物が、来るべき「ナチスドイツ」の手本となった。

無数のハーケンクロイツ旗、危険なスローガンが書かれた横断幕が、空間を覆い尽くす。

開幕と同時に、軍隊行進曲と通俗的なメロディーが鳴り響き、最後にドイツ国歌が円形ホールに轟く。しだいに高まる「ハイル」の呼び声のもと、ついに主役が舞台に登場する。

ヒトラーだ。

この集会を取材したフランスの新聞記者ステファーヌ・ルッセルは、こう記している。

「突然、雷鳴が轟きます。皆が席を求めます。どこでもかまいません。その間もずっと歓声をあげ、歌っています。気がつくと、私は天井を見上げています。2万人の観衆の上げる『ハイル・ヒトラー』の反響で、天井が落ちるのではと恐れるかのように。一斉に皆が立ちます。すると、ヒトラーがそこにいます・・・数千の人々が弾かれたように、立ち上がり、総統に向かって、両腕をさしのべます。人々は笑い、泣き、口を大きく開けますが、一言も声が出ません。興奮のあまり、胸がしめつけられているのです。私は隣にいる女の人を見ます。大きな汗のしずくが顔を流れています。暑いですね、とその人は私に囁(ささや)きます。2時間もかかって、やっとそれに気づくのです」(※1)

これは映画の1シーンではない、史実である。

本来、無味乾燥なはずの「言葉」を介して、ヒトラー狂騒曲が聴こえてくるようだ。

この様子は、ナチ党が統括する放送局と週刊ニュース映画で、ドイツ中に拡散された。

局所的なベルリンの熱狂が、全ドイツの熱狂にすり替えられたのである。

まさに、プロパガンダの勝利だった。

このナチスの宣伝手法が、現在も広告のお手本とされていることは、あまり知られていない。それはそうだろう。ナチを讃えることになりますからね。

■ユングの心理学

じつは、「プロパガンダの政治利用」はナチの専売特許ではない。

古くは、紀元前16世紀のヒッタイト帝国までさかのぼる。

ヒッタイトといえば、歴史上「鉄の帝国」として知られる。鉄剣でオリエントの強国にのしあがったのである。その偉大な王、ハットゥシリ1世は、宣伝の名手だった。王都ハットゥシャで発掘された粘土板には、楔形文字でこう記されている。

「(ハットゥシリ1世)王の頭は錫(スズ)できている。口はライオンの歯で、鷲の眼を持っている。王はライオンの化身であり、万能である」

誇大広告の感もあるが、占いや呪術の時代なら通用しただろう。ハットゥシリ1世は、政治には強力なプロパガンダが欠かせないことを知っていたのである。

話をヒトラーにもどそう。

ヒトラーも、ヒッタイト王同様、プロパガンダが政治に有効であることに気づいていた。

ところが、ヒトラーはさらに強力な方法を発見する。

ユングの心理学である。

ユングによれば、人間の心は3層からなるという。一番上が意識、その下に個人的無意識、さらにその下に普遍的無意識がある。この3層を統合するのが「心像」で、その中で最強のエネルギーをもつのが「象徴」だという。ユングは、象徴を人間本来がもつ超越的機能と呼んで、重視した。

ヒトラーは、その「象徴」を使って、国民に絶対的忠誠心を植え付けたのでる。

ただし、それは結果論であって、ヒトラーがユングの心理学を学んだという記録はない。

《つづく》

参考文献:
(※1)ヒトラー権力掌握の20ヵ月グイドクノップ(著),高木玲(翻訳)中央公論新社
(※2)ヒトラー全記録―20645日の軌跡、阿部 良男 (著)、出版社‏ : ‎柏書房
(※3)第二次世界大戦 上・下、リデルハート著、上村達雄訳、中央公論新社刊

by R.B

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