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週刊スモールトーク (第561話) IFの歴史・世界恐慌がない世界(5)

カテゴリ : 戦争歴史社会経済

2023.12.25

IFの歴史・世界恐慌がない世界(5)

■ヒトラーの粛清

ヒトラーは「首相」の椅子を手に入れても、満足しない。

「完全なる独裁」をめざし、全力疾走したのである。

ようこそ、ヒトラーのモノトーン世界へ。

政権樹立からわずか数日後、ナチスは国内の重要拠点を制圧した。

行政の要職もナチスが独占した。

官公庁、大学、協会、団体、あらゆる組織で、ナチスが主導権を握った。

つぎに政敵への粛清がはじまった。

ナチスを口汚くののしった共産党は、最悪だった。

1933年1月30日、共産党の新聞「ローテ・ファーネ(赤旗)」が発禁処分になった。共産党の集会は禁じられ、見つかると、ナチ党の武装集団「突撃隊(SA)」がおしかけ、武力排除された。

殺人も日常的に行われた。

製塩で有名な都市シュタースフルトでは、社会民主党の市長が殺害された。

宗教改革者ルターの生地アイスレーベンでは、共産党員が射殺された。

実行犯は、たいてい、ナチスの突撃隊(SA)だった。彼らは、目的のためなら(左派弾圧)手段を選ばない行動派なのだ。といえば、聞こえはいいが、早い話、節操のないゴロツキ集団。

でも、やっぱり、やりすぎは良くないですね。

最終的に、突撃隊は親分のヒトラーに粛清されたので。

■長いナイフの夜

1934年6月30日から7月2日にかけて「長いナイフの夜」事件がおきた。

この事件には背景がある。

ドイツ国軍は、突撃隊を忌み嫌っていた。突撃隊はナチの武装集団で、ヒトラーの後ろ盾があるので、やりたい放題。無節操で野蛮な連中だ、と。

そこで、ドイツ国軍はヒトラーに迫った。

「国軍をとるか、それとも、突撃隊をとるか」

突撃隊の指導者エルンスト・レームは、ヒトラーの古い友人だったが、背に腹は代えられない。国軍の協力がないと、征服事業は不可能だ。ヒトラーは「泣いて馬謖(ばしょく)を斬る」しかなかったのである(三国志の故事で、けじめをつけるためにお気に入りを処分すること)。

この粛清で、突撃隊トップのエルンスト・レームをはじめ、多くの幹部が処刑された。

ここまでは想定内だが、突撃隊と関係のない者まで殺されている。

1人目の犠牲者は、グレゴール・シュトラッサー

彼はナチ党幹部だったが、ヒトラーと距離をおいていた。当時、首相だったシュライヒャーがヒトラーに副首相をオファーしたが、ヒトラーは拒否。一方、シュトラッサーの考えは違った。副首相をうけて、まず与党になるのが先と考えたのだ。そんなナチ党の不協和音を察知したシュライヒャーは、秘密裏にシュトラッサーに接触する。副首相をのむようヒトラーを説得してくれと頼んだのだ。シュトラッサーは快諾したが、土壇場で怖気づく。何も言い出せず、そのまま引退したのである。ところが、これが命取りになる。

シュトラッサーは、ヒトラーの熱烈な賛美者ではないが、引退しているから、何の害もない。ところが「長いナイフの夜」で逮捕され、密かに射殺されたのである。

2人目の犠牲者は元首相のシュライヒャー。

先のシュトラッサーをたぶらかした人物だが、ヒトラー内閣誕生で、要職をとかれ、何の権限も影響力もなかった。

ところが、シュライヒャーは夫人といっしょに自宅で射殺されたのである。

ではなぜ、ヒトラーは2人の殺害を命じたのか?

昔、嫌な思いをしたから、ついでにやっちまえ!・・・では身もフタもない。

これは私見だが、ヒトラーに迷いがあったのではないか。

古い友人のレームを処刑し、党に尽くしてきた突撃隊を解体するのだ。そんな心の闇には、しばしば亡霊が現れる。この2人はその犠牲者だったのだろう。

この一連の粛清には、ヒトラーの強い意志が現れている。

敵であれ、中立であれ、日和見であれ、同志であれ、ヒトラーの信奉者以外はすべて始末する。

これが「完全なる独裁」なのである。

■東方生存圏

ではなぜ、ヒトラーは「完全なる独裁」にこだわったのか?

望みを達成するため、それに尽きるだろう。

ヒトラーにとって、「首相」は通過点にすぎず、究極の目標は「東方生存圏の獲得」である。

ではなぜ、「東方生存圏の獲得」には「完全なる独裁」が必要なのか?

「東方生存圏の獲得」は、具体的にはソ連(ロシア)の征服である。

当時、ソ連はアメリカにつぐ世界第2位の工業生産力を誇り、人口はドイツの2.4倍だった。そんな大国と戦争しようというのだ。

議会で承認を得るのは至難だろう。さらに議会で政策論争する時間も惜しい。

そこで、ヒトラーは、自分の信奉者以外すべて排除しようとしたのである。つまり、「完全なる独裁」はヒトラーの最終目的「東方生存圏の獲得」を手っ取り早く実現する手段だったのだ。

一方、「東方生存圏」にはノスタルジックな響きがあるが、実体は民族絶滅(ジェノサイド)である。東方のロシアを征服し、スラヴ人を排除し、ドイツ人を入植させるのだから。

これは歴史によくある「領土拡張主義」とは違う。

「人種主義(レイシズム人)」が潜んでいるのだ。

人種主義とは、人種間に優劣の差があるというイデオロギーで、ヒトラーの中には明確な序列があった。

ゲルマン民族(ドイツ人)>スラヴ民族(ロシア人)>ユダヤ民族

科学的根拠はないが、本来、イデオロギーとはそういうものなのだ。

つまり、ヒトラーの「東方生存圏の獲得」は、ドイツ民族の生存圏拡大にくわえ、スラヴ民族の排除だったのである。

ヒトラーは、この征服事業を2段階で進めようとしていた。

第1段階は、ドイツの西方のフランスと、東方のチェコスロバキアとポーランドを併合する。

第2段階は、東方のロシア(ソ連)を征服し、スラヴ民族を駆逐し、ドイツ民族の生存圏を獲得する。

史実では、第1段階は成功したが、第2段階は失敗した。

やはり、国力でソ連がドイツに勝っていたから?

そうではない。

第2段階の「独ソ戦」は、ドイツ軍が勝利寸前だったのである。

■独ソ戦

独ソ戦は、1941年6月22日に始まった。

ドイツ側の作戦名は「バルバロッサ作戦」で、史上最大の陸上戦となった。

緒戦はドイツ軍が連戦連勝、ドイツとソ連の国境戦は、わずか2週間で決着した。開戦3週間後には、ドイツ軍はソ連領に500kmも侵攻し、ベラルーシとウクライナを占領した。

ソ連軍の被害は甚大だった。

兵員65万人を失い、航空機数千機、大砲1万門が破壊された。兵器、軍需物資の半分が喪失したのである。

この快進撃に、ヒトラーも前線の指揮官も勝利を確信した。

首都モスクワが陥落するのは時間の問題だと。

ところが、それからわずか1ヶ月後、状況が一変する。

ソ連軍が反撃に転じたのである。

兵員も、航空機も大砲も戦車も武器弾薬も枯渇しているはずなのに、一体何が起こったのか?

前線のドイツ軍指揮官がこんな記録を残している。

「あちこちで、ロシア軍は攻撃に転じようとしている。 彼らは途方もない物資を持っているに違いない」

一方、ドイツ軍は補給がおいつかず、兵員と武器弾薬が不足していた。12月になると、ソ連軍は反撃に転じ、首都モスクワを脅かすドイツ軍は一掃された。バルバロッサ作戦は失敗したのである。

ではなぜ、ソ連はドイツに逆転勝利できたのか?

歴史家の定説によれば・・・

第一に、ロシアの冬将軍(ロシアの冬は最強の将軍)。

冬季のロシアの寒さは想像を絶する。兵士は凍傷にかかり、戦車や車両のエンジンがかからない。砲弾が大砲に張り付いて、発射できない。戦うどころではなかったのだ。とはいえ、寒さはドイツ軍とソ連軍にわけへだてなくふりかかる。ただ、ソ連軍は寒さ対策はドイツ軍に勝るから、少しは有利だったろう。とはいえ、戦局をひっくり返すほどの理由にはならない。

第二に、大日本帝国が北進ではなく、南進を選択したから。

当時、大日本帝国は、ソ連に侵攻する「北進」と、東南アジアに侵攻する「南進」の2つの選択肢があった。史実では、石油資源の獲得を優先し、南進と決まった。結果、日本軍が北方のシベリアに侵攻する「北進」は消えた。そのため、ソ連はシベリアに展開していた極東方面軍を、ドイツ軍に振り向けることができたのである。たしかに、この増援は戦局に大きな影響を与えただろう。

ここで余談。

じつは、日本は石油資源を優先し、南進する必要はなかった。当時、日本が支配していた満州には大油田が眠っていたからだ。ところが、日本側は油田調査を実施したものの、発見できなかった。発見されたのは、戦後、1959年である(現在の大慶油田)。

ここで、IFの歴史。

もし、1930年代に大慶油田が発見されていたら、日本は北進を選択しただろう。膨大な石油を確保したのに、アメリカと戦争してまで、南進にこだわる必要がないから。その場合、ソ連はドイツと大日本帝国に挟撃されるので、敗北する可能性が高い。

結果、歴史は一変していただろう。

ドイツがヨーロッパとウラル山脈以西を支配し、日本が極東を支配する世界。

一方、実史は、ドイツと日本は敗戦国となり、国の資源、民族の文化と誇り、すべて奪われたのである。

どちらが現実になるかは、日本が油田調査で「どこを掘るか」で決まったわけだ。

■ドイツが勝利する世界

「ドイツがソ連に負けた理由」に話をもどそう。

先の2つの定説は否定はしないが、もっと決定的な理由がある。

戦況が一変したときのドイツ軍指揮官の記録を思い出してほしい。

「あちこちで、ロシア軍は攻撃に転じようとしている。 彼らは途方もない物資を持っているに違いない」

そう、一番の理由はアメリカ合衆国の「レンドリース法(武器貸与法)」なのだ。

アメリカは、1941年以降、イギリス、ソ連、中国に大量の軍需物資を援助していた。それも想像を絶する規模で。

アメリカがソ連に贈った機関車は約2000両、これはソ連の全機関車の95%にあたる。ソ連は兵員と軍需物資の輸送を鉄道に頼っていたから、この95%がなかったら、ソ連は戦争ができない。

さらに、ソ連空軍が受領した航空機は約2万機。ちなみに、日本でもっとも多く生産されたゼロ戦は約1万機。つまり、ソ連はもらった分だけで、日本が作った分を凌駕したわけだ。さらに、毛皮のブーツまでもらったというから、至れり尽くせり。

では、アメリカは、この膨大な軍需物資をソ連にどうやって運んだのか?

海上輸送である。

ソ連側の軍需物資の受け入れ港は、アルハンゲリスクとムルマンスクだった。アルハンゲリスクは冬季は氷結したため、ソ連の唯一の主要不凍港ムルマンスクが使用された。

ここで、IFの歴史。

もし、ドイツがこの補給に気づいて、受け入れ港を制圧していたら?

とくに、重要な不凍港ムルマンスクは、フィンランドの国境からわずか170kmしか離れていない。じつは、当時、フィンランドはドイツの同盟国としてソ連と戦っていた。つまり、ドイツ・フィランランド連合軍でムルマンスクは容易に攻略できたのである。

もし、ムルマンスクがドイツ軍に制圧されれば、アメリカの膨大な軍需支援は歴史から消え、首都モスクワは占領されていただろう。アメリカの軍需支援があった実史でも、ドイツ軍はモスクワの40kmまで迫っていたのだから。その場合、スターリンとソ連政府はウラル山脈以東のシベリアに遷都しただろう。

一方、ドイツ軍もシベリアまで侵攻する余力はない。たとえ、侵攻して、スターリンの社会主義政権を倒したとしても、シベリアは間接統治になるだろう。

というわけで、ウラル山脈以西のロシアはドイツの直轄領、ウラル山脈以東のシベリアはドイツの間接統治か、ソ連のゆるやかな支配になるだろう。

じつは、このIFの歴史では、もっと重要なことがある。

1944年6月にはじまる連合軍のノルマンディー上陸作戦が、阻止される可能性が高いのだ。

理由は2つ。

第一に、ドイツは、ウラル山脈以西のソ連の工業力と石油を確保し、史実より、はるかに強大な戦力を確保する。

第二に、ソ連は敗北しているので、史実のように、西方の連合軍と東方のソ連軍でドイツを挟撃できない。

連合軍のノルマンディー上陸作戦が頓挫すれば、第二次世界大戦は膠着するだろう。

アメリカ兵の損害が増え、ルーズベルト政権の存続があやしくなる。アメリカは民主主義の国である。若者がたくさん死ねば政権がもたない。そもそも、アメリカは、モンロー主義をかかげ、ヨーロッパの戦争に干渉しない主義だったのだ。

このIFの歴史が現実になれば、歴史は今とは大きく変わっていただろう。

少なくともドイツの敗北はない。

というわけで、アメリカの軍需支援は、独ソ戦だけではなく、第二次世界大戦の結果も左右したのである。

つまりこういうこと。

われわれの現実世界は、1ミリの差で生まれた偶然の産物なのである。

《つづく》

参考文献:
(※1)ヒトラー権力掌握の20ヵ月グイドクノップ(著),高木玲(翻訳)中央公論新社
(※2)ヒトラー全記録―20645日の軌跡、阿部 良男 (著)、出版社‏ : ‎柏書房
(※3)第二次世界大戦 上・下、リデルハート著、上村達雄訳、中央公論新社刊

by R.B

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