BeneDict 地球歴史館

BeneDict 地球歴史館
menu

週刊スモールトーク (第558話) IFの歴史・世界恐慌がない世界(2)

カテゴリ : 戦争歴史社会経済

2023.12.04

IFの歴史・世界恐慌がない世界(2)

■世界恐慌とヒトラー政権

IFの歴史・・・もし、世界恐慌がなかったらヒトラー政権は誕生しない。

エビデンスも明快だ。

世界恐慌がおこった世界では・・・

①1928年、総選挙で、ナチ党は12議席で、第9党。

②1929年、世界恐慌が勃発。

③1930年、総選挙で、ナチ党は107議席で、第2党。

世界恐慌をはさんで、第9党から第2党に大爆進。因果関係は明らかだ。

では、逆に、世界恐慌がおこれば、ヒトラーは政権をとれたか?

絶対とはいえない。

第2党から政権をとるまでの3年間は、ちゃぶ台返しの連続。無数の要因がからみあい、いつ、何がおきてもおかしくなかった。「ヒトラー政権」はそんなカオスが生んだ結末だったのだ。

とはいえ、ヒトラーの性質を考慮すれば、政権をとった可能性は高い。

なぜなら、混沌を制するのは、善悪を超えた「鋼の意志」を持つ者だから。

この時代、ドイツはそれほど混乱していた。

第一次世界大戦末期、1918年11月、ドイツのキール軍港で、水兵が反乱をおこした。それに端を発し、全国規模の民衆蜂起がおこり、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が退位した。結果、帝政ドイツからヴァイマル共和国に移行したのである。これがドイツの11月革命だ。

ところが、ドイツ革命を認めない一派がいた。民族主義を掲げる右翼である。彼らは、共産主義者とユダヤ人による「背後の一突き」でドイツは戦争で負けたと信じていた。こうして、革命後のドイツは、右派と左派が対立し、反ユダヤ主義が高まっていた。

ヒトラー政権誕生の火種は世界恐慌だが、火薬はすでに用意されていたのである。

■ヒトラーの裏取引

第一次世界大戦後のドイツ(ヴァイマル共和国)は、混乱の極みにあった。

世界恐慌で経済システムは破壊され、国民生活は破綻し、政権は目まぐるしく交代した。

世界恐慌がおこる前年の1928年5月の総選挙の結果をみてみよう。

1.社会民主党(153):中道左派

2.国家人民党(78):右派

3.中央党(61):中道

4.共産党(54):左派

5.人民党(45):右派

6.民主党(25):左派

7.ナチ党(12):右派

()は獲得議席数

左派と右派が交互に順位を争うが、いずれも単独過半数にはとどかない。そのため、連立政権で合従連衡をくりかえしていた。

そんな中、1932年5月30日、中央党を核とするブリューニング内閣が瓦解した。

世界大恐慌の対応に失敗したのである。この内閣の仕掛人は、政界のフィクサー、クルト・フォン・シュライヒャーだった。彼は、次期内閣も自分が仕切ろうと画策、1932年6月1日、パーペン内閣を成立させた。

首相に就任したフランツ・フォン・パーペンは男爵で、馬術以外に取り柄のない男だった。外交武官の経験はあったが、政治経験が浅い。周囲の評判は「人の上に立つ器ではない」でほぼ一致していた。

ではなぜ、そんな男が首相に任命されたのか?

第一に、パーペンは、国民的英雄ヒンデンブルク大統領のお気に入りだった。パーペンは貴族出身の退役軍人で、立ち振舞いが上品で、紳士然としていたから。じつは、ヒンデンブルクも貴族出身の職業軍人だった。ただし、ヒンデンブルクは、第一次世界大戦でドイツ軍を指揮して、ロシア軍に大勝利をおさめた真の英雄だったが。

第二に、政界のフィクサー、シュライヒャーが、ヒンデンブルク大統領にパーペンを首相に推したから。

ではなぜ、シュライヒャーは無能なパーペンを選んだのか?

操りやすいから。神輿(みこし)は軽い方がいいというではないか。

日本でもありそうな話だが、そんな軽い理由で、パーペン内閣が誕生したのである。

国民の内閣支持率はゼロに等しかった。閣僚9人のうち7人が貴族で、「男爵内閣」と揶揄されていたから。第一次世界大戦の敗戦と世界恐慌で、国民生活はドン底なのに、貴族の旦那衆に政治を仕切られてはたまらない。

さらに、パーペン内閣は、他の政党の支持率もゼロに近かった。ナチ党をのぞく、すべての政党が内閣を批判していたのだ。

ではなぜ、ナチ党はパーペンに忖度したのか?

ヒトラーはパーペンと裏取引をしていたのだ。

ナチ党はパーペン内閣を批判しない。そのかわり、パーペンはナチ党に便宜を図る。第一に、当時、ナチ党の武装集団「突撃隊(SA)」が数々の暴力沙汰で、禁止命令を受けていたが、それを解除する。第二に、国会を解散する。ヒトラーは、国会を解散し、総選挙に持ち込めば、第1党になれると踏んでいたのである(この時ナチ党は第2党)。

ヒトラーの読みは的中した。

1932年7月31日の総選挙で、ナチ党は、230議席を獲得して、第1党に躍り出たのである。

ここで、一気にヒトラー政権が誕生?

さにあらず。

ナチ党は、第1党とはいえ、得票率は37.4%で、単独過半数に達しない。自力では政権をとれないわけだ。

ここから、奇々怪々の政局が始まる。

■ヒトラーの野望

1932年8月5日、パーペン内閣の生みの親、シュライヒャーはヒトラーと面会した。

ヒトラーを副首相として入閣させるためである。理由は単純明快、議会第1党のナチ党をとりこめば、議会運営がやりやすくなるから。

ところが、ヒトラーは申し出を拒否、首相以外は受けないという。

そこで、シュライヒャーはヒトラーを首相にするよう、ヒンデンブルク大統領に迫ったが、拒否される。

理由は?

ヒンデンブルクは、ヒトラーを「ボヘミアン伍長」と蔑んでいたという説がある。ここでいう「ボヘミアン」は、自由気ままな芸術家をさす。じつはヒトラーは画家崩れだった。また「伍長」は、第一次世界大戦のヒトラーの最終階級である。貴族出身のエリート軍人のヒンデンブルクなら口にしそうな話だ。

一方、ヒンデンブルクは第一次世界大戦で、志願兵として戦ったヒトラーを高く買っていたという説もある。さらに、ヒトラーが愛国者で、国家主義的な思想をもつことに感銘をうけたという。ヒンデンブルクは左派が大嫌いで、国粋主義者なので、これもありそうな話。

というわけで、真偽のほどはわからない。

ただ、この時点で、ヒンデンブルクはヒトラーよりパーペンを買っていたことは確かだ。「ヒトラー首相」案を却下したのだから。

一方、パーペンもヒトラーに首相を譲るつもりなかった。どうでもいい閣僚ポストをくれてやれば、ヒトラーは満足すると考えたのだ。もちろん、パーペンの読みは甘かった。最終的に、ヒトラーに出し抜かれるのだから

1932年9月12日、ドイツで国会が召集された。

ここで、想定外の事件がおきる。

共産党が、パーペン内閣の不信任案を提出したのだ。

パーペンは右派で、共産党は極左だから、提出は想定内だ。問題は、512対42の大差で可決されたこと。なぜなら、第3党の共産党だけで可決するわけがないから。

ではなぜ、大差で可決したのか?

共産党に加担した政党がいたのだ。

第1党のナチ党である。

ではなぜ、ナチ党は、不倶戴天の敵の共産党に手を貸したのか?

ヒトラーは「内閣不信任 → 議会解散 → 総選挙 → ナチ党が単独過半数を獲得」を狙っていたのだ。

内閣不信任案が可決した以上、パーペンに残された道は一つしかない。議会の解散だ。

これで、ヒトラーの思うつぼ?

そうカンタンにはいかなかった。

議会は解散したものの、総選挙でナチ党は議席数を減らしたのだ。

くんずほぐれつ、政治は一寸先は闇である。

■アルトナ血の日曜日事件

1932年11月6日、総選挙で、ナチ党は前回の「230議席」から「196議席」に大きく議席を減らした。

第1党は維持したものの、単独過半数どころではない。

ではなぜ、ナチ党は議席を減らしたのか?

原因は「アルトナ血の日曜日事件」にある。

総選挙の4ヶ月の1932年7月17日、事件はおきた。

ハンブルク近郊のアルトナで、7000人のナチ党の武装集団「突撃隊(SA)」が挑発的に行進、共産党と路上乱闘をおこしたのである。この頃、ナチ党と共産党の乱闘は日常茶飯事だったが、このときは19人が死んだ。

このナチ党の暴力的なやり方に、国民はドン引きした。穏健派の国民はもちろん、反共の財界でさえ心が離れたのである。議席数が激減して当然だ。

これに震え上がったのが、首相のパーペンである。

パーペンは、貴族出身の男爵で、軍人上がりの保守派で、右派だから、左派が大嫌い。ところが、右派のナチ党と中道左派の社会民主党が議席数を減らし、極左の共産党が大躍進したのだ。100議席を獲得して、第2党に迫る勢いだった。

1932年11月9日、危機感をつのらせたパーペンは、ナチ党にすりよる。

ヒトラーに副首相就任を打診したのである。ナチ党も議席数を減らしたから、今度は乗るかもしれないと期待したのだ。ところが、ヒトラーは再び拒否、首相以外は受けないというのだ。

このスッタモンダに、業を煮やしたのが政界のフィクサー、シュライヒャーである。

首相のパーペンは、一体何をやっているのだ(何もやっていない)。

そこで、シュライヒャーは大勝負に出る。

■パーペン内閣の総辞職

シュライヒャーは、ヒンデンブルク大統領に、パーペンの辞職を提案したのである。

ヒンデンブルクはこれに同意し、1932年11月17日、パーペン内閣は総辞職した。わずか半年の短命政権だった。

パーペンはシュライヒャーを深く恨んだ。男の嫉妬、恨みほど恐ろしいものはない。回り回って、いろんなことが重なって、翌年、射殺されたのである。

1932年12月1日、ヒンデンブルク大統領は、パーペンとシュライヒャーを招集した。パーペン内閣総辞職の後処理である。

パーペンは、首相をあきらめるつもりはなかった。そこで、恐るべき計画を提案する。国軍を出動させて、議会を半年間停止し、改憲して大統領権限を強化する。その後、パーペンが首相に返り咲くというのだ。早い話、軍事クーデターである。

シュライヒャーは猛反対した。自分が首相に就任し、ナチ党の分裂させ、一部を取り込むというのだ。ヒンデンブルクはパーペンを支持したが、シュライヒャーは聞く耳を持たなかった。

こうして、結論は閣議にもちこまれた。

1932年12月2日の閣議。

シュライヒャーは、閣僚たちに向かって断言した。

「パーペンの計画は軍事クーデターである。国を混乱に陥れるだけだ。その間、ナチ党が内乱を起こしたらどうするのか?国軍が鎮圧することは不可能だ」

これにビビった閣僚はシュライヒャーを支持した。あわてたパーペンは大統領府にかけこみ、ヒンデンブルクに泣きついたが、ムダだった。大統領もパーペンの無力に気づいたのである。

1932年12月3日、シュライヒャー内閣が発足した。

とはいえ、シュライヒャー内閣はパーペン内閣と顔ぶれはかわらない。このままでは、パーペン内閣の二の舞いだ。政権を安定させるには、議会の支持が欠かせない。そのためには、議会の最大会派のナチ党を取り込むしかない。

ところが、パーペン内閣は何度も失敗していた。勝負師ヒトラーは、自分が首相になることしか頭にないのだ。

だが、シュライヒャーには秘策があった。

ナチ党を分裂させるのである。

■ナチ党分裂計画

ナチ党は一枚岩ではなかった。

ヒトラーのやり方に、批判的なグループがいたのである。

彼らはこう考えていた。

ヒトラーが首相に固執すれば、ナチ党は永遠に野党のまま。それより、副首相で手をうって、とりあえず、与党になった方がいいのではないか。そのグループの代表格が、グレゴール・シュトラッサーだった。シュライヒャーは、シュトラッサーに接触して、説得に成功する。

ここで、IFの歴史・・・もし、シュトラッサーが「ヒトラー副首相」工作を実行していたら?

史実の「1933年1月30日のヒトラー首相就任」は消える。さらに、こんな不安定な状況では、その後、ヒトラー政権が成立する保証もない。つまり、シュトラッサーが歴史を変えたかもしれないのだ。

ところが、土壇場でシュトラッサーは怖気づいてしまう。

ヒトラーに何も言い出せず、党務を放棄し、そのまま引退してしまった。

仰天したのがシュライヒャーだ。

あの作戦は、一体何だったのか?

シュライヒャーさん、お察しします。

ガッカリした人間がもう一人いた。

ヒンデンブルク大統領である。

彼は、これまでの大統領頼みの政治にうんざりしていた。

政府は、議会に多数派を確保できていない。そのため、何かあるたびに、大統領のヒンデンブルクが引っ張り出され、大統領緊急令を発し、大統領の全権を政府に付与するのである。そんないびつな政権運営に嫌気がさしていたのだ。

彼が望んだのは、全権を備えた強力な政府だった。至極真っ当な政治観だが、現状、誰が首相になっても、議会の単独過半数に届かない。

ヒンデンブルクは、その調停役として、パーペンに期待したが失敗した。そもそも、パーペンの目は別の方向に向いていた。シュライヒャーへの復讐である。

つまりこういうこと。

たしかに、ヒトラーはミスをおかした。だが、他の勢力は、もっと大きなミスをおかしたのである。

■翳りゆくナチ党

1932年11月の総選挙で、ナチ党の快進撃は止まった。

年明けの1933年の1月1日、風刺誌「ジンプリチシムス」はこう書いている。

「確かに言えることは一つだけ、俺たちはそれで万々歳さ、ヒトラーはおしまいだ、この『総統』の時代は過ぎた」(※1)

さらに、1933年の年頭、ナチ党にとって、悪いことが重なる。経済状況が好転したのだ。1年前にくらべ、フランクフルト証券市場で、株価が30%上昇した。倒産件数は前年にくらべ、1/3に激減した。

ナチ党の得票率は、失業率と並行して上昇する傾向があった。つまり、経済状況が悪いほど、ナチ党に有利なのだ。危機的状況では、ナチ党の危険なイデオロギーに賭けるしかないから。ところが、景況は好転しつつあった。

というわけで、政治は一寸先は闇。

たとえ、世界恐慌がおきても、ヒトラー政権が誕生しない世界があったのだ。

《つづく》

参考文献:
(※1)ヒトラー権力掌握の20ヵ月グイドクノップ(著),高木玲(翻訳)中央公論新社

by R.B

関連情報