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週刊スモールトーク (第523話) 鎌倉殿の13人(3)~ファイナル・承久の乱~

カテゴリ : 人物戦争歴史

2023.01.14

鎌倉殿の13人(3)~ファイナル・承久の乱~

■後鳥羽上皇の院宣

承久の乱は、後鳥羽上皇が朝廷の復権をもくろんだ戦いだった。

この戦いには2つの「日本史上初」がある。

一つ、「朝廷 Vs. 武家政権」の戦いだったこと。

二つ、「全国区の武家政権」を誕生させたこと(それまでの鎌倉幕府は関東の地方政権)。

この乱には背景がある。

平安時代末期、貴族階級(公家)が没落し、武士階級(武家)が台頭していた。武士階級の決勝戦「源平合戦」で、源氏が勝利すると、平氏は滅び、鎌倉幕府が成立した。ところが、初代将軍の源頼朝が、怪しげな状況で命を落とし、2代将軍の頼家は謀殺され、3代将軍の実朝は暗殺された。わずか27年で、創業家が絶えたのである。

この連続不審死の黒幕は、北条氏だろう。物的証拠はないが、動かぬ状況証拠がある。3代実朝が死んだあと、北条氏が鎌倉幕府の実権を握ったからだ。

このタイミングで起きたのが承久の乱だった。

これは偶然ではない。3代実朝の暗殺と承久の乱には、強い因果関係がある。

鎌倉幕府の初代頼朝から3代実朝までは、清和天皇の血を引く清和源氏で、後鳥羽上皇の血縁者である。だから、何があっても大事にはならない。

ところが、源頼朝の直系が絶え、北条氏が鎌倉幕府を支配すると、状況は一変する。どこの馬の骨ともわからない、関東の田舎武士が、武家政権を乗っ取ったのだ。後鳥羽上皇はこれが気に入らなかった。

そこで、後鳥羽上皇は、執権の北条義時に無理難題をふっかける。それを義時が拒否すると、待ってましたと「北条義時追討」の院宣(いんぜん)を発した。

「京から派遣した公家将軍(三寅・みとら)をないがしろにし、政治を好き放題にする北条義時は、不忠であるから、それをとめて、天皇自らが命令を下す。決定に叛くものは成敗する」

あからさまな、北条義時狙い撃ち。

ところで、公家将軍・三寅とは?

3代将軍の実朝暗殺の後、4代将軍として、朝廷から送り込まれた公家将軍である。当初、4代将軍は、後鳥羽上皇の皇子、雅成親王(まさなりしんのう)が就くことになっていた。ところが、実朝が暗殺されて、ビビった後鳥羽上皇が、九条家の人間を送り込んだのである。

院宣を発した以上、後鳥羽上皇は後戻りできない。だが、上皇には勝算があった。

朝廷が発する院宣は絶大である。背けば「朝敵」になるからだ。諸国の武士はこぞって京方(朝廷)につくだろう。そもそも、鎌倉幕府は関東の地方政権にすぎない。守護と地頭を配して警察権を掌握するが、東国中心で、西国は不十分。つまり、この時代、日本は幕府(鎌倉)と朝廷(京)の二元統治だったのである。

京方の公家衆も、調子のいいことを言って、後鳥羽上皇を盛り立てた。

鎌倉や東国にも、北条の横暴を苦々しく思う武士がいます。彼らが京方につけば、北条義時の元に馳せ参じるのは、せいぜい1000人でしょう。我が方の勝利は間違いありません。

後鳥羽上皇はそれを真に受けた。

鎌倉幕府から北条を一掃したら、あらためて、自分の皇子を将軍として送り込む。そうすれば、武家も掌握できるから、朝廷は無敵。古代より続く朝廷の復権がなるわけだ。メデタシ、メデタシ、上皇は取らぬ狸の皮算用に夢中だった。

■幕府軍の出陣

一方、鎌倉幕府は・・・

上皇挙兵の報に、鎌倉武士は動揺した。それはそうだろう。下手をすれば「朝敵」になるから。

そこで、尼将軍・北条政子は、歴史に残る有名な演説をする。

鎌倉幕府の正史「吾妻鏡(あずまかがみ)」によれば、御家人の前に進み出た政子のそばで、安達景盛が政子の声明文を代読したという。

「みな、こころをひとつにして聞きなさい。これが私の最期の言葉です。頼朝公が朝敵を征伐し、鎌倉に幕府を打ち立てて以来、官位も俸禄も、その恩は山よりも高く、海よりも深い。感謝の気持ちは浅くないはずです。しかるに、逆臣の諫言により、理不尽な院宣が発せられた。名声を大切にしようと思う者は、藤原秀康・三浦胤義(※)を討ち取り、源氏三代の将軍(頼朝・頼家・実朝)が遺したものを最後まで守りなさい。ただし、後鳥羽上皇のもとに参じたい者は、今すぐ申し出なさい」

※藤原秀康と三浦胤義は、京方についた御家人。

感動的な演説だが、敵が「北条義時」から「鎌倉幕府」にすり替わっている。

武士はこう考える。

朝敵にはなりたくないが、自分の領地の方が大事。もし「北条義時討伐」なら、潰されるのは北条義時で、自分ではない。だが、敵が「鎌倉幕府」なら、自分(鎌倉武士)の所領が危ない。だから、鎌倉と東国の武士は、北条義時についたのである。

1221年5月19日、鎌倉方の軍議がおこなわれた。

当初、箱根で迎撃する作戦が有力だった。

ところが、源頼朝恩顧の重鎮・大江広元は、これに異議を唱える。ただちに京へ攻め上るべし、と。敵は、武家ではなく、至高のブランドをもつ朝廷である。時が経てば、鎌倉方の団結が揺らぐと言うのだ。尼将軍・政子も、広元に賛同した。

この判断は正しい。

第一に、鎌倉方が守りに入れば、戦いの主導権は京方に行く。もし、京方が持久戦にもちこんだら、一大事だ。錦の御旗(にしきのみはた)は京方にあるから、「京方は官軍、鎌倉方は賊軍」がジワジワ浸透する。諸国の武士は京方につき、鎌倉方にも離反者が出るだろう。

第二に、鎌倉方が一気に京に攻め上がれば、京方は想定外で、大混乱に陥る。いろいろミスをおかしたあげく、準備が整う前に合戦に突入。これでは、相手がヘマをやらない限り、勝てない。

つまりこういうこと。

スピードは最強の武器になる。これは戦争にかぎらず、普遍的ルールなのだ。

たとえば、羽柴秀吉の「中国大返し」。

1582年6月21日、本能寺の変が勃発、明智光秀が織田信長を弑逆した。そのとき、尾中で陣を張っていた羽柴秀吉は、毛利攻めを手仕舞いし、直ちに京に向かった。そして、1582年7月2日、山崎の戦いで、明智光秀を討ち取ったのである。本能寺の変からわずか11日。

明智方は、羽柴方が京に来るのは早くて3ヶ月後とみていた。その間に、同盟者を増やし、朝廷を懐柔し、謀反を正当化し、準備万端、迎え撃つつもりだった。

ところが、たった11日!?

明智光秀は、準備不足で、手持ちの兵をかき集めるので精一杯だった。それが兵力差にあらわれている。

・羽柴軍:4万

・明智軍:1万6000

勝負になりません。

では、兵力とスピード、どっちが大事?

スピード!

想定外のスピードで急襲すれば、戦いは局地戦になり、大軍のメリットが活かせないから。

そのわかりやすい例が、桶狭間の戦いだろう。

ではなぜ、みんなそうしない。

わかっていても、そんなスピード、誰かれ出せません。

ところが、このときの北条氏はそれができた。

「尼将軍・政子&執権・義時」体制は、それほど強力だった。

それまでやってきたことを見れば明らかだ。

源頼朝を担ぎ、鎌倉幕府を成立させると、源頼朝一族を滅ぼし、幕府を乗っ取った。その後、承久の乱で朝廷を倒し、幕府の支配地は東国から日本全国に拡大した。その頂点に立ったのが、北条得宗家なのである。

ところが、その100年後、北条得宗家は、新田義貞にあっけないほどカンタンに滅ぼされる。このときの北条得宗家の当主は、14代執権の北条高時。政務に無関心で、闘犬、田楽にうつつを抜かしていたから、当然だろう。

というわけで、国も組織も行き着くところ、トップリーダーなのである。

北条義時は、東国15カ国の武士に動員令を発した。

しかもここが凄い。

兵が集まるのを待たず、北条義時の嫡男・泰時を出陣させたのである。付き従う者、わずか18騎。このスピード感は、織田信長、羽柴秀吉を彷彿させる。後鳥羽上皇は有能だったが、相手が悪すぎたのだ。

鎌倉方は、三方から京を目指した。

・東海道(総大将:北条義時の嫡男・泰時)

・東山道(総大将:甲斐源氏・武田信光)

・北陸道(総大将:北条義時の次男・朝時)

道中、各地の御家人が幕府軍に次々と馳せ参じ、19万の大軍に膨れ上がったという。

ただし「19万は盛りすぎ」が定説だ。

300年後の戦国時代、最大兵力を誇った織田軍でも、動員兵力は10万なので。

とはいえ、織田軍の10万は、信長が銭できちんと雇った兵。一方、幕府軍は、進軍中、雪だるま式に膨れ上がった烏合の衆。それなら、19万は盛り過ぎとしても、10万ぐらいはいたかもしれない。話半分というから。

■承久の乱の戦況

鎌倉方の幕府軍19万、京に迫る!

この知らせに、後鳥羽上皇は飛び上がった。

北条義時の元に馳せ参じるのは、せいぜい1000人のはずでは?

話が違う!

1221年6月5日、武田信光率いる東山道軍5万は、大井戸渡の京方2000を瞬殺した。この有様に、主将の藤原秀康と三浦胤義は驚愕。宇治・瀬田で京を守ると言い残し、早々に退却した。

同年6月6日、北条泰時の率いる主力の東海道軍10万が、尾張川に侵攻、京方は総崩れとなった。この敗報が届くと、京の町は大混乱に陥った。

溺れるものはワラをもつかむ。後鳥羽上皇は比叡山に登り、延暦寺に軍事援助をこうた。ところが、延暦寺は拒否。寺の僧兵で、幕府軍19万にどうやって立ち向えというのだ?

自殺行為です。

そもそも、宗教は自殺を禁じているからムリ。

そこで、京方は残る兵力をかき集め、宇治川で最終防衛戦を敷いた。

6月13日、京方と幕府軍は衝突した。京方は、宇治川の橋を落とし、雨のように矢を射かける。京方も必死なのだ。この防衛戦を突破されたら、後がないので。だが、幕府軍はひるまなかった。多数の溺死者を出して、宇治川を強行渡河したのである。これを見た京方は、這々の体で潰走した。

宇治川の防衛戦が突破される!

追い詰められた京方は、最後の切り札を使う。西国の武士に、公権力による動員令を発したのである。西国は、朝廷の力が強いから、兵は集まるはずだ。だが、一つ誤算があった。鎌倉方の進撃が早すぎたのである。西国武士が到着する前に、決着が着いてしまった。

幕府軍が、鎌倉を出陣して京に達するまで、わずか22日。これでは、どうしようもない。

幕府軍は、京の町に雪崩れ込み、京方の公家と武士の屋敷に火を放った。殺戮と略奪が始まったのである。6月15日、進退きわまった後鳥羽上皇は、幕府軍に使者を送り、弁明する。

「今回の一件は、側近にだまされただけで、朕はいっさいかかわりがない」

どの口が言う?

あげく、北条義時討伐の院宣をとりけし、京方の主将、藤原秀康、三浦胤義の逮捕を命じたのである。見捨てられた御家人は哀れだ。三浦胤義は最後まで戦って、自害。藤原秀康は逃亡したものの、河内国で捕縛された。

こうして、熾烈な戦いは終わった。

だが、戦後処理も過酷だった。

京方にくわわった貴族と武士は死罪か追放。反幕府に加担した3人の上皇は流罪、首謀者の後鳥羽上皇は隠岐(おき)に流され、一生を終えた。

北条泰時と時房は、そのまま京都にとどまり、朝廷を監視した。これが六波羅探題の起源である。以後、六波羅探題は、朝廷、畿内、西国を管理する拠点となった。

さらに、重要なことが2つ。

第一に、鎌倉幕府は、京方の貴族と武士の所領3000ヶ所を没収し、東国の御家人に分配した。そのため、東国武士が、畿内や西国に進出し、結果として、鎌倉幕府の支配地が西方に拡大した。こうして、史上初の「全国区の武家政権」が誕生したのである。

第二に、後鳥羽上皇に加担した御家人は、源頼朝の縁者が多かった。これは北条氏に大きく利した。目障りな源氏将軍一派を一掃できたから。結果、100年続く北条得宗家の支配体制が実現できたのである。

つまりこういうこと。

地味な鎌倉時代の、誰も知らない承久の乱は、日本史上画期的な事件だったのである。

by R.B

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