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週刊スモールトーク (第520話) 毛沢東の革命(3)~文化大革命と紅衛兵~

カテゴリ : 人物思想歴史

2022.12.17

毛沢東の革命(3)~文化大革命と紅衛兵~

■官製暴動

1966年8月、毛沢東は「プロレタリア文化革命」を発動した。

世にいう「文化大革命(文革)」である。

古色蒼然とした響きがあるが、実体は「官製暴動」だ。政府が民衆を扇動し、気に入らない勢力を迫害・弾圧するのである。

たとえば、ナチス政権下でおきた「水晶の夜事件」。

1938年11月、ドイツ各地で、ユダヤ人の居住区や商店街が焼き討ちにされた。ヨーロッパでは、ユダヤ人迫害は珍しくないから、当初は「民衆暴動」と思われた。ところが、後に「官製暴動」と判明。首謀者もわかっている。ナチス宣伝相のヨーゼフ・ゲッベルスと保安警察長官ラインハルト・ハイドリヒだ。

ゲッベルスは、ヒトラーの最大の崇拝者で、最期まで付き従った。ハイドリヒは「死刑執行人」の異名をとり、ユダヤ人絶滅政策「ホロコースト」の最高責任者と目されていた。

というわけで、水晶の夜事件はナチスの官製暴動の可能性が高い。

一方、文化大革命は、毛沢東が復権するための権力闘争である。ところが、毛沢東は直接手を下さず、紅衛兵(こうえいへい)を使って迫害・弾圧した。紅衛兵とは、毛沢東によって動員された全国規模の学生運動、またその集団をさす。彼らは「毛主席語録(毛沢東語録)」をバイブルとし、毛沢東に忠実に従った。つまり、文化大革命は半分が官製暴動なのである。

ではなぜ、文化大革命はおこったのか?

1958年5月、大躍進は数千万人の餓死者をだして失敗した。発案者の毛沢東は、責任を取って辞任。劉少奇(りゅうしょうき)が跡を継いだ。国家主席となった劉少奇は、共産主義から資本主義へと大きく舵を切る。このような資本主義推進派は「実権派」とよばれた。ところが、毛沢東は実権派が大嫌いだった。

毛沢東の意を汲んだ紅衛兵は、1966年から、実権派を徹底的に弾圧する。結果、数百万人から数千万人が命を落としたのである(虐殺も含む)。

ところが、1967年、治安の悪化をおそれた毛沢東は、一転、紅衛兵の排除に乗り出す。人民解放軍が出動し、多数の紅衛兵が処刑された。

ではなぜ、毛沢東は実権派に禅譲したのに、一転、復権をもくろんだのか?

実権派が大嫌いだったから・・・では身もフタもない。

毛沢東は筋金入りの共産主義者だった。共産主義で理想社会を建設するのが、自分の使命と考えていたのである。「プロレタリア文化革命」の命名が、それを示唆する。

プロレタリア?

古代ローマでは、何も持たない、何も産まない(子供は産む)無産者を、プロレタリウスとよんだ。そこから、自分の労働力以外に何も持たない賃金労働者「プロレタリアート」という言葉が生まれた。

その反対言葉が「ブルジョアジー」だ。その最上位に君臨するのが「資本家」で、プロレタリアートを雇って働かせ、自分は働かない階級である。

毛沢東はプロレタリアートの守護者だった。だから、資本主義もブルジョアジーも資本家も大嫌い。毛沢東の革命が「プロレタリア文化革命」といわれるゆえんである。

■文化大革命

1966年8月、毛沢東は、共産党の中央委員会で「司令部を砲撃せよ」と発信した。「司令部」とは実権派率いる劉少奇のこと。ところ、本人は気づかない。劉少奇は副主席を解任されたが、最上位の政治局常務委員(7人)に残れたからだ。

その後、劉少奇への当たりが強くなり、砲撃されるのは自分だと初めて気づいた。あわてた劉少奇は、「すべて役職を辞任し、農業をして暮らしたい」と申し出たが、時すでに遅し。

劉少奇は、大衆の面前で、吊し上げられ、罵られ、自己批判させられた。さらに、1968年10月、「党内に潜んでいた敵の回し者、裏切り者、労働貴族」と指弾され、中国共産党から除籍されたのである。

労働貴族?

労働者をよそおった貴族(ブルジョア)、共産主義世界では最悪の蔑称である。

ところが、除籍ではすまなかった。

1969年10月、劉少奇は、コンクリートむき出しの暗く冷たい倉庫に移された。寝台にしばられ、身動き一つできない。病気をかかえていたが、治療もしてもらえず、1969年11月12日に死んだ。中国人民6億人の頂点に立った国家主席の哀しい最期だった。

一方、彭徳懐に代わりに抜擢された国防部長の林彪(りんぴょう)も、哀れな最期をとげた。世にいう「林彪事件」である。

劉少奇が死ぬ半年前のこと。

1969年4月の党大会で、林彪は毛沢東の後継者に任命された。だが、これが林彪の絶頂期だった。その後、高転びに転げ落ちていく。毛沢東が、国家主席の廃止を表明したとき、林彪は同意しなかった。そのため、林彪に野心あり、と疑われたのである。

1970年8月、あわてた林彪は、毛沢東・天才論をぶち上げて、ヨイショしたが、時すでに遅し。毛沢東の疑いは深まるばかり。そこで、林彪は起死回生のクーデターをもくろむが、事前に発覚。自分の娘にチクられたという哀しい説もあるが、そこは重要ではない。

1971年9月、万策つきた林彪は、飛行機で飛び立った。ソ連に亡命しようというのである。ところが、搭乗機はモンゴルで墜落。側近が争ったはずみで墜落したという説、直接撃墜されたという説、はたまた燃料切れという情けない説もあるが、真相はわからない。まぁ、そこも重要ではないだろう。

■四人組

林彪が墜落死した後、粛清は一息ついた。

だが、文化大革命(文革)は続く。歴史上有名な「四人組」事件である。

江青(こうせい)、張春橋(ちょうしゅんきょう)、姚文元(ようぶんげん)、王洪文(おう こうぶん)ら四人が、文化大革命を掲げ、実権派を弾圧したのである。ちなみに、江青は毛沢東の第4夫人である。

1973年8月の党大会で、四人全員が中央政治局委員(上位25人)に入り、勢力を急速に伸ばす。

四人組が、最大の標的にしたのが鄧小平だった。鄧小平は、劉少奇とともに資本主義政策をすすめたが、文化大革命で失脚。その後、副総理に復活していた。だから、四人組に目の敵にされたのである。

ところが、1974年7月の中央政治局会議で、毛沢東は「四人で小さな派閥をつくってはならない」と江青、張春橋らを牽制。つづく1974年10月、今度は王洪文が、鄧小平の筆頭副総理就任を阻止しようとしたが、毛沢東から叱責された。

ではなぜ、毛沢東は鄧小平を擁護したのか?

鄧小平は使える男だから。それに尽きるだろう。

その6年前のこと。

1968年の文化大革命で、鄧小平は劉少奇と枕を並べて失脚した。劉少奇は惨めな最期をとげたが、鄧小平は首の皮一枚でつながった。党籍は剥奪されず、強制労働ですんだのである(命が危なかったが)。その後、1973年3月、鄧小平は周恩来の助力で副総理に復活した。芸(能力)は身を助けるとはこのことだろう。

毛沢東には、人を見る目があった。そうでなければ、トップリーダーにはなれない。

鄧小平は、プラグマティズム(実用主義)で、問題解決に長け、忍耐強かった。必ず結果をだすタイプだ。毛沢東はそこを買ったのだろう。一方、四人組は、毛沢東の文化大革命をヨイショするが、非難するだけで価値をうまない。毛沢東はすべてお見通しだったのである。

一方、毛沢東は、四人組を失脚させなかった。

なぜか?

鄧小平のような能力のある人間は、使えるだけ使う。一方、力を持ちすぎないように、四人組に適度に邪魔をさせる。微視的にはバタバタしているが、巨視的には大きな目的に向かっている。こんな人事がやれるのは、巨人だけ。それが毛沢東なのである。

■第一次天安門事件

こうして、中国中枢部で、新たな権力闘争が始まった。

では、中国の民はどう考えていたのだろう?

毛沢東を絶対視することに疑問を持ち始めていた。

それが、周恩来(しゅうおんらい)総理の死で、一気に表面化する。

周恩来は、毛沢東の腹心の中の腹心で、中国革命の大功労者だった。さらに、革命後も、中国の国際化に大きな功績があった。一方、資本主義路線にも理解を示し、失脚した鄧小平を、副総理に復活させている。

1976年1月8日、その周恩来が死去した。

同年4月4日、北京市民が、周恩来を讃え、天安門広場をデモ行進した。最後に、周恩来の記念碑に花輪を捧げたが、当局が撤去してしまう。これに激怒した民衆が、建物や自動車に放火し、大騒乱となった。このとき、民衆は「反四人組」のプラカードを掲げ、「四人組=文化大革命=毛沢東」への叛意を表した。

これが、有名な第一次天安門事件である。

この事件は、毛沢東体制に対する最初の民衆反乱という意味で、画期的だった。ところが、その後、当局によって徹底的に弾圧される。あげく、副総理の鄧小平はその黒幕とされ、1976年4月、すべての職を解かれた。不倒翁、鄧小平は再び失脚したのである。

■毛沢東の死

第一次天安門事件の後、総理になったのが華国鋒(かこくほう)である。

周恩来亡き後、毛沢東が最も信頼した人物だ。

その5ヶ月後、1976年9月9日、毛沢東が死去した。建国の父、中国人民の家長が、中国から消えたのである。新たな権力闘争が始まろうとしていた。

まず、四人組。

毛沢東が死してなお、文化大革命の大弾幕をかかげ、資本主義・実権派を敵対視していた。潮目が変わったことに、気づかなかったのである。

つぎに、総理の華国鋒。

当初、文化大革命の推進派だったが、空気を読んで、反文化大革命に転身。1976年10月6日、四人組を逮捕した。なんともあっけない結末である。

1977年8月、党大会で、文化大革命の終結が正式に宣言された。1966年以来、11年続いた暗黒時代は終わったのである。

1980年11月20日、四人組を裁く最高人民法院特別法廷が開廷した。罪状は、クーデター計画、幹部や大衆への迫害。裁判の結果、4人全員が有罪となった。四人組は失脚し、華国鋒が勝利したのである。

翌1981年、今度は華国鋒が失脚し、鄧小平が実権を握った。

華国鋒は四人組を失脚させ、文化大革命を終わらせたのに、なぜ?

華国鋒は、元々、文化大革命派だったから。鄧小平はそこを突いて、華国鋒を失脚させたのである。その後、鄧小平は資本主義の「改革開放路線」を推進し、中国は大きく発展する。2033年には、中国のGDPは米国を超えるという予測もあった。

ところが、2022年12月、日本経済研究センターは、中国のGDPは米国を逆転しないと発表。

あらら、どっちやねん?

2022年10月の第20回党大会で、習近平は方針を一変させたのだ。鄧小平の改革開放から、毛沢東の共産主義への回帰。習近平は、経済的豊かさより共産主義的な秩序を優先させたのである。それは習近平の「共同富裕」にも表れている。「共同」は「平等」を意味し、共産主義的発想である。

■文化大革命が残したもの

文化大革命は中国に深い傷を残した。

資本主義・実権派が右翼と批判され、裕福な人たちがブルジョアと蔑まれ、大衆の前で晒し者にされたのである。命を落とした者もいた。文化大革命の犠牲者は、死者40万人、被害者1億人と推定されている。

その文化大革命を推進した四人組も、哀れな最期をとげた。

江青は、死刑判決を受けたが、後に無期に減刑。最後まで非を認めず、毛沢東を讃えながら、1991年、自ら命を絶った。やったことの是非はさておき、筋の通った人生だ。

張春橋は、無期懲役の判決を受け、仮出所後、2005年4月に病死した。姚文元は、懲役20年の判決をうけ、2005年12月に病死。王洪文は、終身刑の判決を受け、1992年8月、獄中で病死した。

結局、大躍進、文化大革命の最終勝者は鄧小平だった。

鄧小平の人生は、戦国時代の徳川家康に酷似している。巨人たちに囲まれ、身動きできず、何度も危ない目にあいながら、しぶとく生き残った。そして、最後の最後で、勝利をかたどったトロフィーを手にしたのである。

鄧小平は、共産主義よりプラグマティズム(実用主義)を好むリアリストだった。つねに冷静で、現実を受け入れながら、問題解決に集中する。何度失脚しても、首の皮一枚でつながって、復活する。おきあがりこぶし、不倒翁とよばれるゆえんだ。

その鄧小平も、1997年2月19日、この世を去った。鉄人だろうが、超人だろうが、凡人だろうが、「人」は必ず死ぬ。これが世の定めだなのだ。

その後、中国の最高権力は、江沢民、胡錦濤、習近平へと禅譲されていく。彼らに共通するのは、14億人の競争を勝ち抜いた実力者であること。だから中国は強いのである。

いつの日か、日本もそうなることを願っている。だが、我々庶民にできることは限られている。

どうする庶民?

みんなで投票に行こう。おバカな議員を当選させないために。

(総務省の回し者ではありません)

by R.B

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