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週刊スモールトーク (第518話) 毛沢東の革命(1)~日中戦争と国共内戦~

カテゴリ : 人物思想戦争歴史

2022.12.03

毛沢東の革命(1)~日中戦争と国共内戦~

■日中戦争(日本 Vs. 中華民国)

日本と中国は、かつて8年も戦争した。

遠い昔の話ではなく、1937年から1945年のこと。

これを日中戦争という。

一方、「日華事変」とよぶこともある。宣戦布告なき戦いだったので、戦争ではなく事変と言う方が正しい。ちなみに、事変とは、「事件」以上「戦争」未満。

さらに「支那事変」ともいうが、太平洋戦争後、ほとんど使われなくなった。「支那(シナ)」は蔑称だからという説があるが、「シナ」は「China(チャイナ)」のローマ字読みなので、しっくりきますね。

ところで、日本も中国も、なぜ宣戦布告しなかったのか?

米国には「中立法」があり、戦争中の国には、武器を輸出できなかったから。当時、日本も中国も、米国から武器を大量に輸入していたのである。

一方、日中戦争は、日本にとって想定外の展開となった。

まず、3ヶ月で終了する予定が、8年もかかったあげく、勝てなかった。原因は、日本陸軍トップの判断の甘さにあるが、それを象徴するような話がある。

1941年9月5日、日本が米国との開戦に突き進む中、不安を覚えた昭和天皇は、杉山元・参謀総長に問いただした。

「日米が開戦したら、陸軍はどのくらいの期間で勝つ確信があるのか」

杉山元・参謀総長は即答する。

「南洋方面は3ヶ月ぐらいです」

昭和天皇は切り返す。

「汝は、支那事変(日中戦争)の時、陸軍大臣だったが、その時、1ヶ月ぐらいで片づくと言った。それが、4ヶ月たった今も片づかんではないか(実際は8年かけて敗北)」

焦った杉山元・参謀総長は、クドクド弁解を始める。

「支那(中国)は奥地が開けているため、予定どおりはいきません」

昭和天皇はこれを一蹴。

「支那の奥地が広いと言うなら、太平洋はなお広いではないか。どのような確信があって3ヶ月と言うのか」

ぐうの音もでない。

時代も違うし、陸軍には陸軍の言い分があっただろうが、軍事作戦には正確な予測が欠かせない。でないと、国が滅ぶから。事実、その寸前までいったのである。

日中戦争(支那事変)は、1ヶ月が8年に延びただけではない。米国とイギリスも戦争に巻き込み、戦域はアジアと太平洋に拡大、太平洋戦争(大東亜戦争)に突入したのだ。あげく、原子爆弾まで落とされた。

広島に原子爆弾が投下されたとき、爆心地の地表温度は3000~4000度と推定されている。4000度に融けた都市を想像してほしい。広島に原爆を投下したB-29「エノラ・ゲイ」の砲撃手ロバート・キャロンはこう証言している。

「キノコ雲や荒れ狂う塊が見える。まるで都市全体が『溶岩』か『糖蜜』でおおわれ、それが山麓に向かって登っていくように見えた」(※1)

真っ赤な溶岩におおわれた都市・・・これが原子爆弾の正体、地上に出現した地獄なのだ。

こんな大惨事は、二度と起こしてはならない。原子爆弾を落とされたくなかったら、原子爆弾を保有するしかない。これを「核の抑止」という。

お互いに核兵器を保有している状態で、核を使用すれば、核の報復を受ける。つまり、核戦争は敵を倒すことと、自殺することが一組になった戦争なのだ。これが「核の抑止」の根拠である。裏を返せば、核の抑止が崩壊したとき、人類文明も崩壊する。

さらに、戦争はやるからには勝たねばならない。勝てない戦争はやってはならない。これが大鉄則だ。さもないと、国が灰燼(はいじん)に帰しますよ。

相対性理論で有名なアインシュタイン博士は、こういっている。

「狂気とは、同じことを何度も繰り返し、異なる結果を期待することだ」

というわけで、日中戦争が太平洋戦争の遠因になったことは間違いない。ところが、日中戦争の原因ははっきりしない。

原因は「盧溝橋事件」とされるが、因果関係があいまいだ。

1937年7月7日、中国北京郊外の盧溝橋で、日本軍と中国軍が対峙していた。そのとき、日本軍陣地に向け、実弾が発射された。たまたま、日本兵が1人所在不明だったため、日本側は中国側の攻撃と判断、戦闘が始まった。ところが、所在不明の兵士はすぐに帰還する。だが、覆水盆に返らずで、戦闘は止まらない。その後、一時停戦したものの、最終的に全面戦争に突入したのである。

というわけで、「日中戦争→太平洋戦争」は確かだが、「盧溝橋事件→日中戦争」は怪しい。当時の状況を俯瞰するに、盧溝橋事件に関係なく、日中戦争は起きていただろう。

この時代、日本は大日本帝国、中国は中華民国とよばれた。

ただし、中国が一枚岩だったわけではない。

まず、蒋介石が率いる国民党政府が統治する中華民国。それに、毛沢東が率いる共産党がいどむ。つまり、内戦状態だったのである。ただし、日中戦争が始まった頃は、蒋介石の国民党が優勢だったから、「中国=中華民国」と考えていいだろう。

1941年12月8日、太平洋戦争が勃発すると、日本の主敵は中国から米国にかわった。

緒戦は日本軍が優勢だったが、米国のサイエンスと物量におされ、開戦2年後には、一方的な戦いになった。日本軍は劣勢を挽回できず、1945年8月14日、ポツダム宣言を受諾した。無条件降伏したのである。

■国共内戦(蒋介石 Vs. 毛沢東)

太平洋戦争が終わると、日中戦争も終結した。

中華民国は、連合国側だったため、戦勝国になり、国連安全保障理事会の常任理事国に選ばれた。蒋介石率いる国民党(中華民国)が、正式な中国として承認されたのである。

ところが、その後、毛沢東率いる共産党との国共内戦が激化した。当初、米国の軍事支援をうけた国民党(中華民国)が優勢だったが、米国のソ連スパイ活動が功を奏し、国民党への援助が打ち切られる。一方、共産党は、ソ連から大規模な軍事支援を受け、国民党軍を各地で撃破した。

1949年4月23日、中華民国の首都・南京が陥落。毛沢東の共産党は、中国本土を制圧し、1949年10月1日、中華人民共和国を建国した。一方、内戦に敗れた蒋介石は残党を率い、台湾に逃れる。蒋介石は、その地で、1950年1月、台湾国民政府(中華民国政府)を建国した。

こうして、中国の国共内戦は決着する。

ところが、ここで問題発生。

中国は、毛沢東の中華人民共和国政府か、蒋介石の中華民国政府か?

両政府は、自分こそが中国の唯一の合法的な政府であると主張した。それはそうだろう。中国の代表は、国連安保理・常任理事国という巨大利権が付くので、かんたんには譲れない。

では、どっちが正当な中国か?

蒋介石は、8年にわたる日中戦争を主導した。さらに、戦後、中華民国を国連に加盟させ、常任理事国入りを果たした。とはいえ、その後、毛沢東の共産党との内戦に敗れ、台湾一島を支配するだけ。一方、毛沢東は広大な中国本土を支配している。

つまり、日中戦争の功労者か、中国本土の実効支配者か?

ソ連は中華人民共和国政府を支持した。同じ社会主義陣営だから当然だろう。一方、自由主義陣営の盟主、米国は蒋介石の中華民国政府を支持した。これも当然である。

早い話、外交に正義も道理もない、究極の自国ファーストだ。外交は倫理ではなく、損得勘定の世界。でもそれは、あたりまえ。国益より、実のない正義を優先すれば、おまえはどこの国の代表だ。報酬は他の国からもらえ!で終わり。

こうして、中国の代表問題は解決不能に思われた。ところが、1970年代に入り、状況が一変する。

米ソが緊張緩和に向かい、中ソ対立が深刻化したのである。そこで、米国は中華人民共和国に急接近する。1971年、米国のキッシンジャー大統領補佐官が、中国を電撃訪問した。

同年、10月25日、国連総会で「アルバニア決議」が採択される。中華人民共和国は中国代表になり、国連・常任理事国になったのである。一方、中華民国(台湾政府)は国連を脱退する。

翌1972年、米国のニクソン大統領が訪中し、中華人民共和国を事実上承認した。同年、日本の田中角栄首相が訪中して日中共同声明を発表して、日華平和条約は破棄された。

台湾にとって、冷酷な現実だが、この世界は弱肉強食、是非もない。

■朝鮮戦争(北朝鮮 Vs. 韓国)

こうして、毛沢東は中国の最終勝者となった。

宿敵の蒋介石を倒し、国連の常任理事国まで手に入れたのである。

毛沢東の人生は、順風満帆?

さにあらず。

その後も、ジャンボ機を地上50メートルで操縦するような人生が続く。「波乱万丈」という言葉がのどかに思えるほど。

まず、建国直後、1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発した。

北朝鮮軍が、韓国に軍事侵攻、またたくまに韓国の9割を制圧した。ところが、国連軍が出動すると、北朝鮮軍は、一気に首都・平壌まで押し戻される。国連軍最高司令官マッカーサーの大胆な作戦が功を奏したのである。

もし、北朝鮮が負ければ、朝鮮半島は西側陣営になる。その場合、中国は西側と直接対峙し、国家安全保障の一大事だ。とはいえ、人民解放軍(共産党軍)を派遣すれば、米国と直接対決になり、勝ち目はない。そこで、毛沢東は、義勇軍を募って、派遣した(実体は人民解放軍)。これが功を奏し、1951年春には、北緯38度線をはさんで戦線は膠着する。

国連軍にとって、人民解放軍は恐怖だった。倒しても倒しても、大地から沸いてくる。これが、毛沢東の人海戦術なのだ。米軍の指揮官たちは、それがトラウマになり、中国との戦争を恐れるようになった。

業を煮やしたマッカーサー最高司令官は、トルーマン大統領に戦術核を使用する許可を求める。ところが、トルーマンは拒否。あげく、マッカーサーを解任してしまう。それほどの大激戦だったのである。

1953年7月27日、北緯38度線の板門店で、休戦協定が締結された。戦線が膠着してから、戦争は2年も続いたわけだ。両軍とも精根尽き果てていた。

ところで、終戦ではなく休戦?

信じがたい話だが、69年経った今も、戦争は継続中。

もし、毛沢東の支援がなかったら、北朝鮮は負けていただろう。その場合、朝鮮半島は西側陣営になり、歴史は大きく変わっていた。

だから、毛沢東は軍事援助をおしまなかったのである。ところが、スターリンは何もしていない。

なぜか?

朝鮮戦争は、スターリンにとっては対岸の火事、毛沢東には隣家の火事、といえば身もフタもないが、ここぞというときに、敢然と立ち向かうのが毛沢東なのである。切れの良い決断力と強靭な忍耐力、そして、どんな犠牲もいとわない達観力。雨は降るものだし、娘は嫁に行くものだ・・・毛沢東の言葉である。この稀有の資質が、毛沢東を歴史の巨人たらしめたのだろう。

ところが、朝鮮戦争が一段落しても、毛沢東の苦難は続いた。

中華人民共和国は、1950年建国当初、共産党の一党独裁ではなかった。民主党派と協調体制をとっていたのである。ところが、1957年、それがあだとなって、民主党派が共産党支配を非難し始めた。徐々にエスカレートし、「共産党と民主党派が交互に政権をになうべし」という発言まで出る始末。

そこで、毛沢東は反体制狩り「反右派闘争」を発動する。目障りな抵抗勢力を一掃するのである。その結末は・・・凄まじい。翌1958年、数十万人の右派が、辺境の地に送られるか、命を落とした。

さすが、中国は大陸の国、権力闘争も命懸け?

では日本は?

二世・三世のボンボン議員、知名度がウリのタレント議員、学芸会のノリのサラリーマン議員、一度でいいから、命懸けで政治に取り組んだらどうでしょう。皮肉ではなく、本気で言ってます。

でないと、日本は中国に併呑されますよ。

そうなれば、やわな旧日本の政治家は、中国式権力闘争の結末として、辺境の地に送られるか、命を落とす・・・コワイコワイ。

それが嫌なら、命懸けで政治に取り組みましょう。

独裁体制を確立した毛沢東が、つぎに取り組んだのは国造りだった。歴史に名高い「大躍進」である。ところが、これも一筋縄ではいかなかった。

人の一生は重荷を背負うて、遠き道を行くが如し、急ぐべからず ~徳川家康~

《つづく》

参考文献:
(※1)原子爆弾の誕生(下)リチャードローズ(著),RichardRhodes(原著),神沼二真(翻訳),渋谷泰一(翻訳)出版社:紀伊國屋書店

by R.B

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