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週刊スモールトーク (第514話) 恩知らずの我が祖国よ(5)~スキピオの弾劾~

カテゴリ : 人物戦争歴史

2022.11.04

恩知らずの我が祖国よ(5)~スキピオの弾劾~

■ローマVs.シリア

ハンニバルは、祖国カルタゴに裏切られ、シリアに亡命するしかなかった。

だから、思いはスキピオと安倍晋三と同じ・・・恩知らずの我が祖国よ。

一方、シリアにとって、ハンニバルの亡命は渡りに船。シリアはローマと紛争中で、第二次ポエニ戦争でローマを追い詰めたハンニバルは、価千金だったのだ。

この頃、シリアはセレウコス朝で、第6代目のアンティオコス3世が統治していた。彼が挑んだのは、地中海の女王カルタゴでさえ一敗地にまみれた強国ローマ。

アンティオコス3世は、勇者かタダの蛮勇か?

少なくとも蛮勇ではない。

自力で、西は小アジア、東はインドまで征服しているから。領土をみるかぎり、ローマは西の王者、セレウコス朝は東の王者と言っていいだろう。

ローマ・シリア戦争

【ローマ・シリア戦争】

しかも、セレウコス朝には秘密兵器があった。重騎兵カタフラクトイである。馬の前面を重装甲した騎馬兵で、打撃力は最強。突撃すれば無敵だった。あのヌミディア騎兵でさえ、瞬殺なのだ。

そんな中、軍神ハンニバルが加わったのである。アンティオコス3世が強気になるのもムリはない。

アンティオコス3世は、ローマ領の東端のマケドニア、ギリシャを脅かした。露骨な挑発で、ローマはただちに撤退するよう要求する。ところが、アンティオコス3世は応じない。こうして、紀元前192年、ローマ・シリア戦争が始まった。

■ローマ・シリア戦争

最初の戦いは、紀元前190年のエウリュメドン川の戦い。

この戦いで、ハンニバルが左翼を、アポロニオスが右翼を指揮した。ハンニバルは卓越した用兵で、ローマ軍を追いつめ、包囲殲滅という場面で、アポロニオスが遁走。右翼がとんずらした以上、左翼だけでは、もちこたえられない。モタモタしていると、こっちが包囲殲滅される。ハンニバルは撤退するしかなかった。もし、ハンニバルが全軍の指揮をとっていたら、こんなブザマな負け方はしなかっただろう。

つづく、紀元前190年のマグネシアの戦い。

アンティオコス3世率いるシリア軍と、ローマ軍が激突した。主力同士の決戦である。

ローマ軍の司令官は、スキピオ・アシアティクス。ザマの戦いで勝利したあのスキピオ・アフリカヌス(大スキピオ)の弟である。このとき、大スキピオも助言者として伴っていた。大スキピオは、紀元前199年、監察官を最後に隠遁していたが、再び召喚されたのである。名誉なことだが、これが破滅への一本道とは夢にも思わなかっただろう。

マグネシアの戦いは、想定外の連続だった。

まず、両陣営はそれぞれ楽勝と信じていたが、そうはならなかった。戦いが始まると、想定外の自然現象が発生したのである。これでは、まともな作戦行動がとれない。行き当たりばったりで、戦場は大混乱に陥った。

ローマのスキピオ・アシアティクスは、兄の大スキピオほどの有能さも慎重さも持ち合わせていなかった。シリア軍を甘く見て、歩兵は定石どおりの布陣。あとは、ヌミディア騎兵でシリア歩兵を包囲殲滅すれば楽勝と考えていた。

一方、シリア・セレウコス朝のアンティオコス3世は、重装騎兵カタフラクトイに絶大な信頼をおいていた。無敵のカタフラクトイで、ヌミディア騎兵を蹴散らせば、ローマ軍はカンタンに包囲殲滅できる。そう信じて疑わなかった。

ともに、同じ作戦で、楽勝と信じたのが面白い。とはいえ、スペックでは、重装騎兵カタフラクトイがヌミディア騎兵の上なので、何事もなければ、シリア軍が勝利していただろう。ところが、その「何事」がおこったのである。

アンティオコス3世は、両翼に自慢の重装騎兵カタフラクトイを配置していた。戦闘が始まると、まず、重騎兵カタフラクトイが突撃し、ローマ側のヌミディア騎兵を蹴散らした。次に、ローマ歩兵を包囲殲滅というところで、突如、霧が発生。周囲が全く見えなくなった。これではヘタに動けない。

一方、ローマ軍右翼のエウメネスは、これをチャンスととらえた。先が見えないから、とりあえず、近くのシリア軍左翼を奇襲したのである。それが功を奏して、シリア左翼は大混乱に陥った。見えないところから、いきなり奇襲されたのだから、ムリもない。

アンティオコス3世は、その喧騒をきいて、左翼が健闘していると勘違いした。絶好のチャンスだ。ここで、右翼が勝利すれば、敵を包囲殲滅できる。アンティオコス3世は、右翼の重装騎兵カタフラクトイを、ローマ歩兵に突撃させた。すでに騎兵を失っていたローマ歩兵は、ジリジリ後退し、野営地まで追いこまれた。勘違いが、アンティオコス3世に勝機をもたらしたのである。

あと一歩だ。

ところが、野営地を守備していたのは、マケドニアのファランクスだった。ファランクスは、長い槍を持つ重装歩兵の密集部隊で、守りに強い。この戦いの100年前、マケドニアのアレクサンドロス大王が、ギリシャからインドに至る広大な王国を築いたのも、このファランクスのおかげ。さすがの重装騎兵カタフラクトイも、ファランクスを崩せず、一進一退が続いた。

一方、シリア軍左翼は、ローマ軍に包囲され、崩壊しつつあった。

頼みの重装騎兵カタフラクトイは?

前方が見えないので、得意の突撃ができない。カタフラクトイは、突破力はあるが、守りには弱い。突っ立ったまま、防戦一方で、結局、戦場を離脱するしかなかった。

一方、シリア軍中央のファランクスは善戦していた。ところが、突然、戦象が暴れ出し、大混乱におちいった。視界が悪いため、戦象が怯えたのだろう。一方、ローマ軍はこのチャンスを逃さなかった。ローマ軍は攻勢に転じ、シリア中央は崩壊し始める。

そこへ、アンティオコス3世が戻ってきた。野営地のファランクスを突破できなかったのである。そこで、目にしたのは、崩壊寸前の左翼と中央だ。とはいえ、右翼の重装騎兵カタフラクトイは、まだ健在。すぐに、突撃させれば勝機はあっただろう。

ところが、ここでも想定外。アンティオコス3世は、戦場から逃走したのである。

一体、何を考えているのだ?

だってそうではないか。

逃走すれば、その瞬間、負けが決まる。突撃すれば、勝ち負けは五分五分だ。もし、総司令官がハンニバルだったが、迷うことなく、突撃させていただろう。

こうして、マグネシアの戦いは終わった。ローマがシリアに勝利したのである。

■シリアの凋落

紀元前188年、シリアのアンティオコス3世は、ローマに降伏し、ローマ・シリア戦争は終結した。

ハンニバルがついていながら、なぜ、こんなブザマな敗け方をしたのか?

ハンニバルは、シリア軍の参謀として参加していたが、外様扱いで、意見が採用されなかった。アンティオコス3世は、ハンニバルを囲ったものの、活かせなかったのである。

では、ハンニバルを活かすには?

ハンニバルに全権を与えるしかない。

会戦は、基本戦術と臨機応変の掛け算だ。ハンニバルはその両方に長けた司令官だった。だから、ハンニバルを活かすには、全権を与えるしかなかったのである。

シリア・セレウコス朝は、ローマに匹敵する広大な領土と国力があり、強力な重装騎兵カタフラクトイも保有していた。このパワーを、ハンニバルが縦横無尽に活用していたら、ローマに勝利していた可能性がある。その場合、歴史は一変していただろう。カエサルのガリア戦記も暗殺も、アントニウスとクレオパトラのロマンスも、燦然と輝くローマ帝国も、神々しいビザンティン帝国も歴史から消える。輝けるパクス・セレウコス(セレウコス朝による繁栄)が、その後の歴史を埋めつくすのだ。

だが、現実はそうならなかった。シリアは敗北し、パクス・ロマーナ(ローマによる繁栄)の世界が始まったのである。

その後、シリア・セレウコス朝は、カルタゴと同じ運命をたどった。領土を割譲され、賠償金を課せられ、軍隊も縮小された。それでも、セレウコス朝は生き残った。ところが、アンティオコス3世が死ぬと、お決まりの宮廷劇が始まり、ゆっくり衰退していく。その125年後、紀元前63年、セレウコス朝は滅亡した。シリアはローマの属州になったのである。

■大スキピオ弾劾

ローマ・シリア戦争の結果は、ハンニバルと大スキピオの人生を大きく変えた。

まずは、ハンニバル。

ローマに敗北したシリア・セレウコス朝に、ハンニバルの居場所はない。ローマに引き渡され、処刑されるのがオチだ。そこで、ハンニバルはクレタ島に逃亡した。再び、逃亡の人生が始まったのである。

つぎに、大スキピオ。

大スキピオの弟スキピオ・アシアティクスは、ローマに帰還すると、市民から歓呼で迎えられた。ローマ・シリア戦争の最高指揮官だったからだ。ところが、その直後、元老院に告発される。ローマ・シリア戦争の戦後処理で、シリア側から賄賂を受け取ったというのだ。これを聞いて、兄の大スキピオは激怒した。元老院の議場で、これみよがしに、戦費の記録を破り捨て、こう言い放ったのだ。

「1万5000タレント(賠償金)をどうやって得たかではなく、3000タレント(賄賂)をどうやって得たかを追及するというのは、一体どういうことか!(本末転倒である)」

正論だ。

でも、賠償金の20%が賄賂って、少々高くないですか?

話は比率ではなく、どっちが大きいか。まぁ、賠償金だろう。というわけで、元老院議員たちは、大スキピオの剣幕に気おされ、告発を取り下げたのである。

ところが、紀元前185年、今度は、大スキピオが告発される。シリア側から賄賂を受け取ったというのだ。あわや有罪というところで、弾劾する側の護民官のティベリウス・グラックスが、大スキピオを擁護した。

「救国の英雄を、これ以上追及するのは、ローマ人として恥ずべきことである」

正論である。

賄賂は褒められたものではないが、カルタゴを打ち破り、国を救った功績からみれば、些末なこと。このグラックスの一言で、告発は取り消された。

だが、大スキピオはおさまらない。

大スキピオはローマを怨み、呪った。国を救ったのに、みみっちぃ使途不明金(賄賂)で、告発されたのだ。

大スキピオは、ナポリ近郊のリテルヌムに引きこもり、ローマに二度と戻らなかった。そして、自分の墓石にこう刻ませたのである。

「恩知らずの我が祖国よ、お前たちが我が骨を持つことはないだろう」

気持ちはわかるが、そもそも、これは用意周到に計画された陰謀。なりゆきや、もののはずみで、そうなったわけではない。黒幕の大カトが、意図的に仕組んだのである。恨むなら、ローマではなく、大カトだろう。

紀元前183年、大スキピオは、ローマを呪いながら死んだ。

大スキピオの死には謎がある。晩年の様子も、死因も、埋葬場所もわかっていないのだ。記録好きのローマ人にしては珍しい。そもそも、大スキピオはローマ史にあっては、救国の英雄、特別の存在なのだ。おそらく、大スキピオはローマとの接触を意図的に絶ったのだろう。

それほど、スキピオの怨念は根深かったのである。

■ハンニバルの最期

一方、クレタ島に亡命したハンニバルも、苦難続きだった。

亡命先のクレタ島はギリシャの植民都市で、ギリシャはローマの属州である。つまり、安住の地ではない。身の危険を感じたハンニバルは、つぎに黒海沿岸のビテュニア王国に亡命した。何ごともなく、時は過ぎ、ハンニバルに一時の平穏が訪れた。

ところが、ある日、ビテュニア王国にローマの使者が訪れる。ハンニバルの身柄の引渡しを要求したのである。

じつは、裏で糸を引いていたのは、あの大カトだった。この頃、大スキピオは失脚し、元老院の最大勢力は大カトだったのである。

ハンニバルは、カルタゴを去った後、地中海世界で最も有名な指名手配犯だった。10年の逃亡生活で、疲れ果て、逃げる気力も、生きる気力も失っていた。紀元前183年、ハンニバルは毒杯を仰ぐ。64歳の人生を、自ら絶ったのである。

奇遇なことに、宿敵の大スキピオが死んだのと同じ年だった。こうして、第二次ポエニ戦争の2人の英雄は、哀れな最期を遂げたのである。

このような不遇の英雄は、歴史上枚挙にいとまがない。

第二次世界大戦でイギリスを救ったアラン・チューリングもその一人だ。

チューリングはコンピュータサイエンスの天才で、解読不可能とされたドイツのエニグマ暗号を解読した。結果、ドイツ軍の作戦は筒抜けになり、イギリスの勝利に大きく貢献した。つまり、チューリングは救国の英雄なのである。

ところが、チューリングはゲイだった。当時、イギリスではゲイは犯罪だったため、チューリングは有罪判決をうけた。その後、怪しげな状況で命を落とす。

怪しげな状況?

チューリングの死体のそばに、かじりかけの毒リンゴがあった。そして、チューリングは白雪姫が大好きだったのである。

つまりこういうこと。

大スキピオ、ハンニバル、安倍晋三、チューリングに共通するのは・・・割に合わない人生。

《つづく》

参考文献:
(※1)週刊朝日百科 世界の歴史 20巻 朝日新聞社出版
(※2)世界の歴史を変えた日1001 ピーター ファータド (編集), 荒井 理子 (翻訳), 中村 安子 (翻訳), 真田 由美子 (翻訳), 藤村 奈緒美 (翻訳) 出版社 ゆまに書房
(※3)ビジュアルマップ大図鑑 世界史 スミソニアン協会 (監修), 本村 凌二 (監修), DK社 (編集) 出版社 : 東京書籍(2020/5/25)

by R.B

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