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週刊スモールトーク (第502話) ウクライナ侵攻(8)~ロシア内戦とシベリア出兵~

カテゴリ : 戦争歴史

2022.06.24

ウクライナ侵攻(8)~ロシア内戦とシベリア出兵~

■シベリア出兵

ロシアは、侵略するより侵略された方が多い国だ。

もし、その侵略に日本が加担していたとしたら?

1918年8月、大日本帝国はロシアのシベリアに数万の大軍を派兵した。ただし、派兵したのは日本だけではない。イギリス、日本、フランス、イタリア、アメリカ、カナダ、中華民国・・・なんと7ヶ国。この事件を「シベリア出兵」という。

2022年、ロシアはウクライナに侵攻したが、100年前に7カ国に侵攻されたわけだ。ロシア、ウクライナにかぎらず、西欧、東欧は戦争が絶えない。陸続きなので、徒歩で国境を越えられるからだろう。一方、日本は四方が海なので徒歩ではムリ、感謝感謝ですね。

ところで、1918年のシベリア出兵には謎がある。

まず、なぜロシアは7ヶ国に侵攻されたのか?

この頃、ロシアは革命の最中で、他国にかまっているヒマはない。事実、不利な条件を呑んでまで、第一次世界大戦を離脱している。だから、7ヶ国から恨まれる筋合いはないのだ。

ではなぜ派兵に至ったのか?

じつは、7ヶ国はロシアの「社会主義革命」が気に入らなかったのだ。

社会主義は危険なイデオロギーだ。資本主義を全否定し、君主制も共和制もぶっ潰せなのだから。この時代、ロシア以外は経済は資本主義で、政治は君主制か共和制なので、ロシアを危険視するのもムリはない。

ところで、「共産主義」というのもあるけど、「社会主義」とどう違う?

書籍やネットにはいろいろあるけど、みんな怪しい。理由はカンタン、明快さに欠け、矛盾点もあるから。一応理系出身者なので、「曖昧」は目をつむれても「矛盾」は見逃せない。そこで、理系式で明快に、怪しいイデオロギーを一刀両断にしよう。

■社会主義と共産主義の違い

人間が生きていく上で欠かせないのが、モノやサービス。それを生みだすには、生産手段(工場や生産設備)と労働者が必要だ。このカラクリは、資本主義も社会主義も共産主義もかわらない。違いはその運用形態にある。

まずは資本主義。

生産手段を所有するのは資本家で、労働者は自分の労働力しか所有しない。そこで、資本家は労働者から労働力を買い上げ、自分が所有する生産手段を使わせ、モノやサービスを生産する。成果物の分配は、資本家とその配下の経営者が決定する。当然、資本家と経営者は手厚く、末端の労働者ほど薄い。

だが、重要なのはそこではない。資本家だけが働かないこと(社長も働く)。つまり、資本家とは働かないで富を得る階級。一方、労働者は働く以外富を得るすべがない階級。つまり、自分の時間を切り売りする人生・・・うわー、まるで奴隷じゃん、と悔やんでもどうにもならないから、深く考えないでおこう。それはさておき、これが資本主義の本質なのである。

つぎに社会主義。

生産手段を所有するのは、資本家ではなく国家である。生産を計画・管理するのも、分配するのも国家。資本家が独占しない平等社会がウリだが、現実はそうなっていない。ロシアや中国をみれば明らかだ。格差の大きさは資本主義国家と変わらない。

そこで、中国の習近平は「共同富裕」をかかげ、本来の社会主義に回帰しようとしている。大企業や富豪に圧力をかけ、貧富の差をなくそうとしているのだ。だが、哀しいかな、人間は一度贅沢を覚えると清貧には戻れない。中国にはこんなことわざがある。上に政策あれば、下に対策あり。今後何がおこるかは明らかだ。

最後に共産主義。

生産手段を所有するのは労働者である。生産を計画・管理するのも、分配するのも労働者。資本家も国家も不要な究極の平等社会!素晴らしい!

でも実現できる?

加賀一向一揆はその可能性がある。1488年、加賀の一向宗徒20万人が、守護大名の富樫(とがし)氏の居城を包囲した。日本の半分を征服した織田信長でさえ、動員兵力は10万人。ローカルな守護、冨樫氏がしのげるはずがない。その後100年、一向宗がこの地を支配した。百姓の百姓による百姓のための国・・・マルクスもレーニンもビックリだ。

これで、資本主義、社会主義、共産主義が矛盾なく定義できた。つぎに、歴史の登場人物たちの所属をみていこう。

まずはレーニン。

社会主義者である。レーニンは、工場も土地も国有化し、国による統制経済を推進したから、初めに国家ありき。とはいえ、ボリシェヴィキ(革命左派)の一党独裁なので、ボリシェヴィキが一番エライ

つぎにレーニンの師のカール・マルクス。

共産主義者である。マルクスはこう言っている。

「人間は能力に応じて働き、必要に応じて受けとる」

能力がなけば働かなくていいが、大食漢ならたくさん食べていいぞ!?

というツッコミもあるが、そこは重要ではない。マルクスは、1845年にプロイセン国籍を離脱し、残りの人生を無国籍で通している。「国家」を否定しているのだから、社会主義ではなく共産主義。

というわけで、これでスッキリした。世間の情報に大きく矛盾せず、最終結論も矛盾しないのは、これしかない。理系式単純明快系イデオロギー説とでも言っとこうかな。

■中華民国のシベリア出兵

話はもどって、シベリア出兵。

シベリア出兵にはもう一つ謎がある。侵略国リスト最後の「中華民国」だ。19世紀末から20世紀初頭の中国は、欧米列強に侵略される一方で、他国にかまっているヒマはない。

ではなぜ、出兵したのか?

「中華民国」は20世紀初頭、清朝崩壊後の中国をさす。中国史上、類を見ない革命の時代だが、ことの発端は、俗物の極み、裏切りの殿堂、袁世凱(えんせいがい)。清朝の大臣でありながら、清朝を裏切り、中華帝国を樹立し、自ら帝位に就いたのである。ところが、支持者からも非難されるほどの不人気で、わずか3ヶ月で退位。中華帝国も瓦解した。明智光秀の三日天下ならぬ、袁世凱の三ヶ月天下である。

その後、中国では3つの革命が連続し、地方の軍閥が群雄割拠する時代に突入する。その中で最も有力だったのが北洋軍閥だった。この時代の中国は「中華民国」で、その表の顔は「北京政府」。それを影で操っていたのが北洋軍閥である。

では、その中華民国が、なぜロシア革命を潰そうとしたのか?

それは逆、革命を支援しようとしたのである。中華民国の始祖は、革命家の孫文。私心のない偉大な人物で、格差のない平等な社会を本気で目指していた。だから、レーニンの革命に共感をを覚えたのだろう。レーニンほど過激ではなかったが。

とはいえ、シベリヤ出兵はあきらかに内政干渉だ。いくら帝国主義の時代とはいえ、あからさま過ぎる。というわけで、出兵には大義名分が必要だ。そのとき、都合よくおこったのが「チェコ軍団の反乱」だったのである。

■ロシアの内戦

「チェコ軍団の反乱」がおこったのはロシア革命の最中で、原因はロシアの第一次世界大戦からの離脱にある。

???

話がゼンゼン見えないので、ロシア革命をサクッとおさらい。

1917年3月の二月革命で、ツァーリのニコライ2世は退位し、ロマノフ王朝が崩壊した。なぜ、3月なのに二月革命かというと、3月は現在のグレゴリオ暦で、二月は古いユリウス暦だから。

その後、臨時政府が立ったが、わずか8ヶ月で崩壊。レーニンのボリシェヴィキ(革命左派)に政権を奪われたのである。これが、1917年11月の「十月革命」で、一般にロシア革命と言えばこれ。結果、史上初の社会主義国家「ロシア社会主義ソビエト共和国」が誕生したのである。

ただし、これでボリシェヴィキの革命が成就したわけではない。

反ボリシェヴィキ勢力の反乱が勃発。帝政ロシア時代の将兵が、各地で挙兵したのである。そこで、ボリシェヴィキのトロツキーは「赤軍」を創設し、反乱軍討伐に乗り出す。これ対し、反ボリシェヴィキは「白軍」とよばれた。紅白合戦とシャレている場合ではない。

トロツキーは赤軍を率い、白軍と死闘を繰り広げ、最終的に勝利した。つまり、ロシア革命の大功労者。ところが、後にライバルのスターリンに命を狙われ、哀れな最期をとげる。1940年8月、逃亡先のメキシコで刺客に暗殺されたのである。

じつは、反ボリシェヴィキ勢力は白軍だけではなかった。農民やコサック(ウクライナの軍事的共同体)も立ち上がったのである。これを「緑軍」という。だたし、緑軍は、白軍と連携し、赤軍と戦ったわけではない。白軍と赤軍、両軍と戦ったのである。

なぜか?

革命政権のボリシェヴィキは、内戦に勝利するため、「戦時共産主義」を敷いた。すべての企業を国営化し、生産・分配を国が管理する極端な統制経済である。くわえて、恐ろしい「穀物割当徴発制度」も併用した。農民から、生存に必要な最低限の穀物だけのこして、すべて徴発するのである。当然、農民は猛反発。穀物を隠したり、反乱を起こしたり、抵抗の限りを尽くした。結果、都市部の工場労働者は、深刻な食糧不足におちいった。

農民も労働者もこう思ったことだろう。ボリシェヴィキは、資本家の独占を廃し、平等な社会を約束したのに、搾取するだけ。帝政ロシアとかわらないではないか。

というわけで、「赤軍Vs.白軍Vs.緑軍」の三つどもえの内戦が始まった。

このとき、ロシアは第一次世界大戦を戦っていたが、それどころではない。そこで、レーニンはドイツとの停戦を模索するが、条件がかみ合わない。そうこうしているうちに、1918年3月、ドイツ軍が首都ペトログラードに向け進軍を開始した。首都を占領されたらおしまいだ。そこで、レーニンはモスクワに遷都。それが現在の首都モスクワである。

1918年3月、ロシアはドイツと単独講和し、ブレスト=リトフスク条約を締結した。ロシアは第一次世界大戦から、正式に離脱したのである。

ところが、そこでヒョウタンから駒(意外な所から意外なモノが飛び出すこと)。ロシアとドイツの講和で、チェコ軍団の反乱がおこり、それが冒頭のシベリア出兵につながるのである。

■チェコ軍団の反乱

チェコ軍団とは、ロシアで編成されたチェコスロバキア人の義勇軍である。

???

話がゼンゼン見えないから、もっと詳しく!

第一次世界大戦中、ロシア軍に捕まった捕虜の中にチェコスロバキア人がいた。このチェコ人捕虜で編成したのがチェコ軍団である。ところが、ロシアがドイツと単独講和し、戦争から離脱するとと、戦う敵がいなくなった。そこで、チェコ軍団はロシアを去り、第一次世界大戦が続くヨーロッパ戦線に参戦しようとした。そこで手柄を立れば、チェコスロバキアの独立を援助してもらえるかもしれない。

チェコ軍団の計画は壮大だった。シベリア鉄道でウラジオストクまで行き、アメリカ経由でヨーロッパに渡ろうというのである。

当初、ボリシェヴィキはこの計画を承認していた。ところが、チェコ軍団がウラジオストクに到着すると、トラブルをおこす。どうでもいいことだったが、それにどうでもいいことが重なると大事に発展する。あわてたボリシェヴィキは、チェコ軍団を武装解除しようとしたが、チェコ軍団は応じない。1918年5月、チェコ軍団はロシア反旗を翻した。これが「チェコ軍団の反乱」である。

チェコ軍団はシベリア鉄道を占拠しながら、エカテリンブルクに迫った。ボリシェヴィキにとって一大事だ。エカテリンブルクには、退位したニコライ2世とその家族が監禁されていたのだ。チェコ軍団、白軍、どっちがニコライ2世を奪還しても、反革命派の旗印にされる。革命派が不利になることは明らかだ。そこで、ボリシェヴィキは、1918年7月17日、ニコライ一家を銃殺した。ニコライ2世は、ドイツとロシアの講和が原因で殺されるとは夢にも思わなかっただろう。

さらに歴史は進む。

1918年10月、ドイツとオーストリア・ハンガリーの敗北が濃厚になった。今さら、ヨーロッパ戦線に行ってもしかたがない。そこでチェコ軍団は帰国を画策する。ところが、ボリシェヴィキは許さない。それが、7ヶ国のシベリア出兵の口実になったのである。帰国を願うチェコ軍団がロシアで捕虜になっている。可哀想なチェコスロバキア人を救うおうではないか!もちろん、本当の目的は、ボリシェヴィキの革命を頓挫させることなのだが。

■第一次世界大戦の終結

1918年11月、4年続いた第一次世界大戦が終結した。

ロシアは、ドイツと交わした不利な講和条約をただちに破棄する。敗戦国に遠慮する必要はないから。ロシアは講和条約で独立したウクライナに侵攻し、併合した。ウクライナとロシアの因縁はかくも深いのである。

第一次世界大戦後のパリ講和会議で、ポーランドはロシアからの独立を果たした。一息ついたポーランドは、ロシア領のベラルーシとウクライナに触手を伸ばす。かつてポーランド領だったこと、ロシアは内戦中で今がチャンス、などポーランドなりの都合があったのだ。

こうして、ポーランドとロシアの戦争が始まった。戦況は一進一退だったが、1921年3月に講和条約が締結される。この条約で、ポーランドはリトアニア中部とウクライナのガリツィア地方を併合した。ポーランドとウクライナの因縁はかくも深いのである。

その後、ロシアは内戦に専念する。一時期、白軍はロシアやウクライナのかなりの部分を支配したが、内紛で急速に力を失っていく。ボリシェヴィキの赤軍は、次々と各地を制圧、1920年11月に内戦は終了した。レーニン率いるボリシェヴィキが勝利したのである。

ちなみに、この内戦で白軍にくみした多くのロシア人が国外に亡命した。彼らは、白系ロシア人と呼ばれた。満州の国際都市ハルビンを建設したのも白系ロシア人である。

ボリシェヴィキの勝利が確定したため、7ヶ国が次々とシベリアから撤退。最後まで踏ん張っていた日本軍も1922年に撤退した。他の6ヶ国から、日本はシベリア支配の意図があると疑われたから、という説もあるが、本当は寒かったのである。時は10月、シベリアは寒すぎる。

こうして、ロシアの内戦と干渉戦は終結した。

■ソビエト連邦の樹立

内も外もメンドーばかりでやっとれん・・・これを「内憂外患(ないゆうがいかん)」という。ロシアはこれに10年も耐えたのである。とはいえ、ロシア経済は壊滅的な打撃をうけた。1921年には、工業生産は大戦前の20%、農業生産も30%まで落ち込んだ。

そこで、レーニンは一党独裁を加速させる。ボリシェヴィキ以外のすべての政党を非合法化し、秘密警察「チェーカー」に裁判所の決定なしに逮捕や処刑を行う権限を与えた。恐ろしい独裁である。

1922年12月30日、ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)が成立した。とはいえ、長引いた国内外の戦争で国は疲弊していた。しかも、ソ連は社会主義を掲げていたから、国際的に孤立する。一方、ドイツは第一次世界大戦で敗北し、莫大な賠償金を課せられ、軍備も縮小された。当然、国際的にも孤立する。

つまりこういうこと。

ドイツとロシアは第一次世界大戦では敵だったのに、今はお仲間。両国は、国際社会から孤立し、呉越同舟なのである。ドイツは敗戦し、ソ連はいち早く戦線を離脱したから、戦勝国の恩恵にあずかれない。戦後のヴェルサイユ体制が気に入らないのも、お仲間の理由だった。

そんなわけで、ドイツはソ連と国交を正常化した最初の国となった。こうして、ドイツとソ連の蜜月時代が始まる。ソ連はドイツに軍拡をすすめ、それを支援した。ドイツに兵器を提供し、ソ連国内でドイツ軍の軍事訓練も認めた。ドイツはヴェルサイユ条約で軍縮を義務付けられたのに、ソ連のおかげで軍拡を推進できたのである。それが、ヒトラー政権の誕生で、実を結び、第二次世界大戦へと突き進む。第二次世界大戦の原因の一つが、ドイツとソ連が国際的に孤立したこと、と言っても過言ではないだろう。

■ウクライナ侵攻の行末

1924年、レーニンは病死する。それがウクライナの災難の始まりだった。

レーニンは頑固だが、無慈悲ではなかった。だが、後継者のスターリンは冷酷な男だった。サイコパスを超えるダークコアの可能性もある。ウクライナで人為的飢餓を引き起こし、数百万人を餓死させたのだから。これが歴史上有名な「ホロドモール」である。ウクライナ語で、「ホロド」は飢え、「モール」は絶滅を意味する。ロシア帝政時代も酷かったが、これほど酷くはなかった。ウクライナとロシアの因縁はかくも深い。

ウクライナがロシアに軍事侵攻されても、徹底交戦する理由はここにある。ホロドモールの恨みだけではない。ロシアの軍門に下ればどうなるか、知っているのだ。日本には「人命が大事、降伏も選択肢に入れよ」と主張する識者もいるが、その後が怖いことに気づいていない。とはいえ、今降伏すれば、戦闘で死ぬ人は確実に減る。

ウクライナ侵攻を鳥瞰すると、別の真実も見えてくる。ウクライナなくしてロシアなし。だから、ロシアはウクライナのNATO加盟は絶対に認めない。一方、ウクライナはNATO加盟なくしての安全保障なし。さらに、世界がウクライナに軍事援助するほど、戦争は長引き、戦死者が増え、全面核戦争の可能性も高まる。ウクライナとロシアの因縁はかくも深い。

そして、もっと深刻なことがある。ロシアとウクライナの内戦に、世界中が巻き込まれていること。ロシアは酷い、ウクライナは可哀そうの前に、全面核戦争が射程に入っていることに気づくべきだろう。

というわけで、モノゴトの一面しか見えてない識者や専門家が、マスメディアで発言するのは問題がある。国民をミスリードするから。

では、どうすればいいのか?

「主語」による。

我々国民は自分の頭で考える。

ゼレンスキーは全面核戦争になろうと、世界を巻き込み続ける。なぜなら、この戦争の敗北は核戦争の結末とかわらないから。

プーチンは核を使ってでも勝利を目指す。負ければ自分の命がないから。自分が死ぬくらいなら、核戦争の方がマシ。

米国は現状維持。自国は直接被害をうけていないし、戦争が長引くほど宿敵ロシアが弱体化するから。

ヨーロッパは天然ガスが欲しいからロシアの懐柔に向かう。冬場、暖を取れないと暴動がおきるから。

トルコはウクライナ戦争の地政学的優位を活かして、発言力を高める。さらに、インドともに、ロシアの天然資源を安く買い叩いて漁夫の利を得る。

中国は様子見、台湾の軍事侵攻にどう影響するか、そこしかみていない。

では日本は?

米国のいいなり、というより、神戸大学で発見された古い新聞記事「地底政府」かもしれませんね。

日本の政治家、リーダーに欠けているものがある。それが「歴史観」だ。時間軸が付いた知識は歴史だけ。だから、歴史を知らずして真実は見えこないのだ。

《つづく》

by R.B

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