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週刊スモールトーク (第498話) ウクライナ侵攻(4)~ロシアの起源~

カテゴリ : 戦争歴史

2022.05.01

ウクライナ侵攻(4)~ロシアの起源~

■ロシアはアジアかヨーロッパか?

ロシアは特異な国だ。

地理上はアジアだが、人種は白人で、文化はヨーロッパ・・・どっちやねん?

しかも、白人といってもじつはスラヴ人で、ヨーロッパのゲルマン人、アングロサクソン人、ラテン人とは違う。

さらに、アジアの文化ではないが、ヨーロッパ文化とも違う。事実、ヨーロッパ人たちは、ロシアの音楽や芸術を垢抜けない二流の文化と蔑んでいた。

とはいえ、アジア人にとっては、ロシアはハイカラさん、一番身近な「ヨーロッパ」だ。

ロシア人は色白で美形で、文化も西洋風で洗練されている。とくに、日本人は舶来好みで「西洋かぶれ」という言葉があったほど。そんな西洋への憧れが具現化されたのが、満洲国のハルビンだった。

満洲国は、20世紀初頭、中国東北部に13年間だけ存在した幻の国。中国・清朝を興した満州人の国だが、実権は日本の関東軍が握っていた。ところが、中国にはもっと短命な国がある。1915年、袁世凱が建国した「中華帝国」だ。存在期間はなんと3ヶ月。ちなみに、袁世凱は中国・清朝の元大臣だったから、中国の短命政権にはなぜか清朝がからむ。清朝は古代ローマ帝国に比肩する大帝国だが、ローマ帝国同様、おあとがよろしくない。

話をハルビンに戻そう。

ハルビンは「満洲の心臓」とよばれた。日本人は人口の1%にすぎず、ロシア人、イギリス人、アメリカ人、ドイツ人、フランス人、中国人、朝鮮人、蒙古人が共存する超多民族都市だった。しかも、建物は石造りで、街並みもヨーロッパ風。ワクワクするような造形と色彩が混ざり合う街。松本大洋原作の劇場アニメ「鉄コン筋クリート」を彷彿させる。

じつは、ハルビンを創設したのは白系ロシア人である。白系ロシア人とは、ロシア革命時に社会主義を嫌い、極東に逃れてきた人々だ。だから、ハルビンは大連と同様、根っこはアジアではない。中心街のキタイスカヤは、パリのシャンゼリゼ通りと肩を並べ「パリの流行は2週間にしてハルビンに飛ぶ」とまで言われた。ハルビンは、極東に忽然と出現した「ヨーロッパ」だったのである。

でも、気になることが。

ハルビンは東洋のパリ?

ということは、ハルビンは似非パリ?

ヨーロッパに似ているけど、なりきれない、それがロシア?

このどっちつかずの立ち位置は、国民の意識にも現れている。興味深いデータがあるのだ。

■ウクライナとロシアの因縁

2022年4月のウクライナの世論調査によれば、「ロシア人とウクライナ人は一体」と考える人は、この1年で41%から8%に激減したという。逆に「ウクライナ人がヨーロッパ人」と考える人は、27%から57%に倍増。原因は、2022年2月のロシアのウクライナ侵攻にあることは間違いない。

一方、これをロシア視点でみると、ウクライナは裏切り者。なぜなら、ウクライナとロシアは同根。共通の祖先をもち、民族も文化も同じで、切っても切れない歴史を共有しているから。つまり、プーチンが言うように、ウクライナとロシアは兄弟なのだ。

ところが、ウクライナ視点でみると、ロシアは残虐な圧政者。1932年から1933年に、ロシアの最高指導者スターリンは、ウクライナ人数百万人を餓死させたのだ。自然発生の飢餓ではない。村単位で包囲し、穀物を強制的に奪って、人為的に餓死させたのである。死者があまりに多いので、埋葬することもできず、道端に死体がころがっていたという。この人工的飢餓を「ホロドモール」とよんでいる。ウクライナ語で「ホロド」は飢え、「モル」は絶滅を意味する。

ウクライナがロシアからうけた仕打ちはこれだけはない。つまり「切っても切れない歴史」も、中身が問題なのだ。ロシアの侵攻に対し、ウクライナ人が徹底抗戦する理由はここにある。

ところが、日本では「ウクライナは降伏も選択肢にいれた方がいい」と公言する識者もいる。ウクライナとロシアの歴史を理解していれば、口が裂けても言えない。それ以前に、こんな人間がオピニオンリーダーなら、ロシアが北海道に侵攻しても、中国が沖縄に侵攻しても、北朝鮮がミサイルを日本に撃ち込んでも「とりあえず降伏も選択肢に入れましょう」。

全然笑えない。

ウクライナもロシアも、侵略するより侵略された方が多い国だ。

13世紀のモンゴル襲来、19世紀のフランスのナポレオンの侵略、20世紀のナチスドイツの侵攻、いずれも国が滅ぶ寸前までいっている。そこまでいかなくても、軽めの侵略なら、ポーランド、スウェーデン・・・数知れず。先日、フランスの大統領とドイツの首相が「ロシアの軍事侵攻は許されない」と発言したが、プーチンにしてみれば「どの口が言うのか? お前には言われたくない」だろう。

この度重なる侵略で、同根のウクライナとロシアの関係はこじれにこじれ、因縁の歴史を形成していく。その歴史をみれば、「話し合い」がいかに無力か。そもそも、歴史を見ると、人間の問題は「話し合い」より「暴力」で解決した方が多い。でなければ、軍隊も警察もいらないではいか。こんな現実に目をそむけ、空想的平和主義をひけらかし、いい気分にひたる識者たち。平和ボケと言われて当然だろう。

ウクライナ侵攻は骨肉の戦いである。攻めるロシアは容赦しないし、守るウクライナも命をかけて徹底抗戦。どれだけ犠牲者が出ても降伏する気配はない。

同じ民族で、同じ文化、同じ制度をもつ国同士が、なぜここまで戦うのか?

じつは、ウクライナとロシアは、先祖は同じだが、今は似て非なる国。長い歴史をへて、別の国になってしまったのだ。この歴史を理解しない限り、ウクライナ侵攻の真実はみえてこないだろう。

そこで、ウクライナとロシアの1000年にわたる因縁の歴史をみていこう。始まりは、ヴァイキングの侵略までさかのぼる。

■ロシアの起源はヴァイキング

8世紀、北欧ヴァイキングのヨーロッパ侵略が始まった。

ヴァイキングは、デンマーク人とノルウェー人とスウェーデン人の3派があったが、団結して戦ったわけではない。部族の首長が指揮し、バラバラに戦ったのである。もし、ヴァイキングが統一国家を形成していたら、歴史は大きくかわっていただろう。イングランドも、フランク王国も、東ローマ帝国もひとたまりもない。早々に歴史から退場していただろう。ヴァイキングはそれほど強かった。13世紀、ユーラシア大陸を席巻したモンゴル帝国のように。

一方、ヴィキングの侵略は、歴史によくある「征服事業」ではない。土地を占領して、民を支配し、国を経営するのではなく、その場限りの略奪。侵攻して、獲るだけ獲って、撤収する。早い話「権兵衛が種まきゃカラスがほじくる」。このような経済を「略奪経済」とよんでいる(ホントだぞ)。

ヴァイキングの3派は敵対していたが、すみ分けもあった。

デンマーク派は、主に西ヨーロッパとイングランドに侵攻した。

ノルウェー派は、主にアイスランド、グリーンランドに侵攻したが、北アメリカにも移住している。しかも、1492年のコロンブスのアメリカ大陸発見より500年も早い。

では、アメリカ大陸を発見した最初のヨーロッパ人はコロンブスではない?

はい、ヴァイキングです。そもそも、コロンブスが発見したのは、アメリカ大陸ではなくバハマ諸島、というケチまでついているから、勝ち目なし。

一方、スウェーデン派は、ロシアの創設者となった。スウェーデン・ヴァイキングの王族リューリクが、バルト海を渡ってロシア平原に進出したのだ。そこには、紛争にあけくれるスラヴ人がいた。そこで、リューリクは紛争をおさめ、スラヴ人の首長に推戴された。これがロシアの起源である。

ヴァイキングのロシア進出
【ヴァイキングのロシア進出】

ところで、なぜ、少数民族のヴァイキングが、多数民族のスラヴ人を支配できたのか?

ヴァイキングは、金髪碧眼で、背が高く、筋骨隆々で、猛々しい。スラヴ人が畏怖したことは想像に難くない。それに、紛争中の当事者より、第三者に任せた方がまとまることも多い。さらに、ヴァイキングの制度「スイング」が関係しているかもしれない。

スイングとは自由民の男子が集まる民会で、けんかやもめごとを解決した。犯罪には、あらかじめ賠償金も決められていた。ヴァイキング社会は、独裁制ではなく、法に基づく民主制だったのである。紛争が解決できないスラヴ人には、ヴァイキングは頼もしくうつったことだろう。

■キエフ大公国

リューリク朝はノヴゴロドを拠点にしたが、あまりにも寒かった。そこで、南下してキエフに公座に移す。これがロシアの母「キエフ大公国(キエフ・ルーシ)」である。ウクライナは、キエフ大公国の中心に位置するから、ウクライナは「ロシアの母」なのである(図「ヴァイキングのロシア進出」を参照)。

つまりこういうこと。

ロシアを創設したのはヴァイキングのリューリク。ところが、支配者層のヴァイキングは少数派なので、多数派のスラヴ人に同化してしまう。さらに、1598年にはリューリク朝の血統も絶えるので、現在のロシアはスラヴ人の国と言っていいだろう。

ヴァイキングもスラヴ人も多神教だったから、キエフ大公国も多神教だった。ところが、現在は、ウクライナもロシアも東方正教会。東方正教会とは、キリスト教の一派だが、カトリック教会とは大きな違いがある。カトリック教会はローマ教皇を頂点とする階層組織だが、東方正教会はローマ教皇を認めないフラットな組織である。

ではなぜ、キエフ大公国は、東方正教会(キリスト教)に鞍替えしたのか?

キエフ大公国の南方は、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)とイスラム帝国が支配していた(図「ヴァイキングのロシア進出」を参照)。東ローマ帝国の国教は「東方正教会」、イスラム帝国は「イスラム教」である。つまり、キエフ大公国はこの2つの帝国から宗教の勧誘をうけたのである。多神教は邪教だから、一神教にしなさい、と。

では、キエフ大公はどっちを選んだか?

東方正教会。

キエフ大公ウラジーミル1世は大酒飲みだった。飲酒はキリスト教は大丈夫だが、イスラム教はダメ。あらら、こんなことで歴史が・・・これを「キエフの洗礼」という。もし、キエフ大公が下戸だったら、今頃、ロシアはイスラム教国だっただろう。その場合、世界史が一変するのは間違いない。どんな世界になったか、興味津々だが、パラメータが多すぎて予測不能。

リューリク朝は、スラヴ人を使って、東ローマ帝国相手に毛皮の商売に励んだ。くわえて、奴隷売買にも手を染めていた可能性がある。というのも、この時代、東ローマ帝国の奴隷はほとんどスラヴ人だったのだ。「奴隷(slave)」は「スラヴ(slav)」からきているから、間違いないだろう。

それでも、この時代、スラヴ人はまだ幸福だった。

奴隷なのに?

幸福とは相対的なもの。この後、スラヴ人に想像を絶する災いがふりかかるのだ。モンゴルの襲来、この史上最大の侵略が、ウクライナとロシアを分断し、因縁の歴史を形成していくのである

《つづく》

参考文献:
・バイキングとアングロサクソン (ニュートンムック―古代遺跡シリーズ) 、フランチェスコ・レカーミ (著), ビアンカ・スフェッラッツォ (著), 土居 満寿美 (翻訳)出版社 ‏ : ‎ ニュートンプレス 

by R.B

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