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週刊スモールトーク (第464話) 14世紀のペスト(4)~国を滅ぼした黒死病~

カテゴリ : 歴史社会

2020.12.25

14世紀のペスト(4)~国を滅ぼした黒死病~

■ペストで滅んだ元朝

14世紀のペストは、世俗世界と精神世界を変えたが、国を滅ぼすこともあった。しかも、地球の場末の貧乏国ではなく、超大国。

まず、ペストの発生国が滅んだ。中国の元朝である。モンゴル帝国のチンギス・ハンの孫フビライ・ハンが創設した王朝で、中国初の異民族王朝。1271年に建国され、8年後に中国全土を統一した。フビライは優れた統治者だったが、死後、王朝はゆっくり衰退していく。

まず、悪性のインフレが発生した。物価が上がるのに、収入は増えない。民衆の生活は苦しくなるばかり。原因は前王朝の宋から引き継いだ紙幣の乱発。紙幣はコインと違い、製造原価が安い。そのぶん、刷りすぎて「マネー>モノ」でインフレ(物価高騰)になりやすい。精緻なコントロールが必要だが、それを遊牧民に求めるのは酷というもの。狩猟採集民と農耕民では、経済はもちろん、発想も思考ロジックも違うから。

ここで、マネー(通貨)について考えてみよう。

1万円札は、福沢諭吉が印刷され、立派にみえるが、本当はタダの紙切れ。食べることも、暖を取ることも、雨風を防ぐこともできない。それでも、みんなありがたがるのは、モノとサービスと交換できるから。

仕掛けはカンタン、日本政府が保証しているから。じゃあ、日本が中国の自治区になったら?

1万円札はタダの紙切れ。ここが金(ゴールド)との大きな違い。日本列島が日本だろうが、中国だろうが、ロシアだろうが、金は金、その価値はかわらない。金が「無国籍資産」と言われるゆえんだ。

つまりこういうこと。

マネー(通貨)は政府の信用で成り立っている。だから、政権が不安定になると、マネーの信用は失墜する。さらに、モノが不足すると「モノの価値>マネーの価値」になり、民衆は不安になる。そこで、不安を一押するイベントが発生したら一大事。嵐のような買い占めがおこり、モノが消えてなくなる。

それが、今回の新型コロナでもおきた。

トイレットペーパーが、店頭から消えたのだ。SNSで、「トイレットペーパーがなくなる」ウワサが拡散し、買い占めが発生、本当になくなってしまった。一度、買い占めが始まると、在庫は十分ありますよ、買い占めは悪ですよ、は何の意味もない。この手の社会行動は、真実かどうかは重要ではない。真実と信じて行動をおこせば、それが真実になるのだ。

さらに、モノをゲットした方が勝ちというシビアな現実もある。トイレットペーパーならまだしも、食料なら生きるか死ぬか。買い占めが愚行か?はちゃんと考えた方がいいだろう。

そもそも、買い占めを防ぐ方法はない。TV、インターネット、SNS、すべての情報伝達手段を禁止しない限り。でも現実にはムリ。だから、少しづつ備蓄しておけばいい。モノ不足にならないし、混乱もおきないし、みんなハッピー。

今後、ヒトヒト感染鳥インフルエンザのような凶悪なパンデミックが発生すれば、人の動きは完全に止まる。結果、生産と流通も止まり、電気・水道・ガスなど基本インフラも維持できなくなる。マネーをどんなに積んでも、モノ・サービスが手に入らないわけだ。だから、マネーの価値は、政府の信用とモノ・サービスの安定供給にかかっている。

では、14世紀の元朝は?

両方が破綻した。

まず、紙幣を乱発したため、「マネー>モノ」でインフレが発生。つぎに、1331年、中国の河北省でペストが発生し、住民の90%が死んだ。人口激減ではなく、人口消滅である。その後、ペストは中国全土に伝染し、労働人口は激減した。

誰が田畑を耕すのか?

「マネー>モノ」が加速し、インフレはより凶悪なハイパーインフレに。

悪いことは重なるものだ。

1340年に入ると、洪水と干ばつが続く。インフレ(物価高騰)で騒いでいる場合ではない。食う物ががなくなったのだ。餓死者が続出し、民衆の生活は完全に破綻した。各地で暴動が発生し、政権の信用は地に落ちた。そんな政権が保証するマネーなど、誰が信用するのか?

こうして、元朝は最終ステージに突入する。

1351年「紅巾の乱」が始まった。暴動から大乱へ。彼らは「紅い布」を巻いたので、この名がついた。

紅巾軍はいくつも派閥があり、連携することなく戦った。これは元朝にとって不幸中の幸いだった。元朝も、宮廷内の紛争で忙しかったから。ところが、紅巾軍に強力なリーダーが出現する。朱元璋である。

朱元璋は、紅巾軍の弱小派閥で、一兵卒から叩き上げ、頭領にまでのぼりつめる。さらに、他の派閥を各個撃破し、紅巾軍を一つに統合。不思議なことに、これ以降、朱元璋は「紅巾軍」という言葉を使っていない。朱元璋は怪しい「白蓮教」も反社会的な「反乱軍」も嫌いだった。彼は革命軍で、元朝の正統な後継者たらんとしたのだろう。

1368年8月、朱元璋は、元朝の首都、大都(北京)を制圧する。モンゴル人は追放され、中国は統一された。これが明朝である。

朱元璋は不世出の英傑だった。スターリンなみの血も涙もないリアリストで、サイコパス。いや、その上位の「ダークコア」かもしれない。さらに、信長と秀吉と家康の資質もあわせもつ。グランドデザインが描け、戦略・戦術が巧みで、人をたぶらかすのが上手い。しかも、我慢強く忍耐力もある。こんな巨人が、孤児から始まり、一兵卒をへて、中国の皇帝までのしあがる。だから、明の太祖・朱元璋の人生は小説より面白い!

というわけで、元朝が滅んだ主因はペスト、明朝が興った主因は朱元璋だろう。

■ペストで滅んだマムルーク朝

ペストで滅亡した王朝がもう一つある。1250年に成立したエジプトのマムルーク朝である。

「マムルーク」とは、イスラム世界の奴隷のこと。ただし、文字どおりの「奴隷」ではない。騎兵として養成されたエリート軍人で、スルタン(イスラム世界の王)までのぼりつめる者もいた。そのマムルークが、代々スルタンに就いたのが、マムルーク朝である。

マムルーク朝と元朝とペストは不吉な三角関係で結ばれていた。14世紀、モンゴル帝国第4代モンケ・ハーンには、3人の弟がいた。上の2人は優秀だが、末っ子は問題児。優秀な2人は、元朝を興したフビライと、イルハン朝を興したフラグである。問題児はアリクブケ、後に、私利私欲に走り、モンゴル帝国を大混乱に陥れた。

1251年、帝位に就いたモンケ・ハーンは、南宋とイランの征服をもくろむ。南宋方面軍の総司令官はフビライ、イラン方面軍の総司令官はフラグ(フレグ)である。

1255年、フラグは遠征軍を率いて、イランに向かった。まず、要人暗殺で恐れられたイスマーイール暗殺教団を壊滅させる。その後、イランを制圧、1258年にイルハン朝(イルハン国)を建国した。つづいて、マムルーク朝が支配するエジプトに侵攻し、連戦連勝。勝利は目前だった。

ところが、1259年8月、状況が一変する。フラグの元に、本国から訃報が届く。長兄の第4代モンケ・ハーンが崩御したというのだ。順当にいけば、次のハーンは次兄のフビライだが、問題はアリクブケ、何をするかわからない。事実、その後、アリクブケは跡目争いをひきおこし、帝国は大混乱におちいった。

フラグは、本国の跡目争いに備え、主力を率い自領地イルハン国に帰還する。マムルーク朝との戦いは、将軍ケド・ブカに一任された。一方、マムルーク朝はこのチャンスを逃さなかった。

マムルーク朝スルタンのクトゥズは、大軍を率いてパレスチナに進軍する。一方、ケド・ブカもこれに呼応し、軍を進める。1260年9月3日、アイン・ジャールートの戦いが始まった。主力を欠いたモンゴル軍は大敗し、主将ケド・ブカは殺された。西方世界が、無敵のモンゴル軍に初めて勝利したのだ。西方世界は自信をとりもどし、モンゴル軍のヨーロッパ侵攻は止まった。ヨーロッパは救われたのである。

その後、マムルーク朝は繁栄し、イスラム教スンナ派の最強国にのしあがる。領土は、エジプトから、シリア、ヒジャーズまで拡大し、首都カイロは繁栄を極めた。農村は、軍人のたくみな支配で、穀物の収穫量が増え、富も積み上がった。さらに、カーリミー商人が進出し、カイロは東西交易の要衝として栄えた。

1326年、カイロを訪れた旅行家イブン・バットゥータは、その繁栄ぶりを次のように記している。

「カイロには、ラクダで水を運ぶ人夫が1万2000人、ラバやロバを貸す者が3万人もおり、またナイル川には3万6000隻の船があって、上エジプトとアレクサンドリアおよびダミエッタの間を、あらゆる種類の商品を積んで上り下りしている」(※1)

ナイル川に3万6000隻の船・・・歴史のロマンをかき立てる。ところが、その20年後、不吉な予兆が、あのペストである。1347年から1348年、マムルーク朝にペストが大流行し、人口が激減した。生産と流通は停滞し、経済は悪化の一途をたどる。東西貿易の要衝も有名無実となり、二度と立ち上がることはできなかった。1517年、マムルーク朝は東方の新興国オスマン帝国に滅ぼされる。

もし、14世紀のペスト流行がなかったら、マムルーク朝の繁栄はつづいていただろう。その場合、歴史年表に記された「オスマン帝国の繁栄」は怪しい。西方のマムルーク朝と対峙することになるから。かのモンゴル軍を撃退した最強の軍事国家なのだ。さらに、歴史年表に燦然と輝く「1453年、オスマン帝国が東ローマ帝国を滅ぼす」はもっと怪しい。もしかしたら、東ローマ帝国を滅ぼすのはマムルーク朝かもしれない。どのみち、東ローマ帝国は死に体で、滅ぶのは時間の問題だったから。

というわけで、ペストは社会のみならず、歴史まで変えたのである。このような歴史のはかなさは、モンゴル帝国の命運にも見てとれる。

歴史上、モンゴル帝国の西方大遠征は3度行われた。チンギスハーンの遠征バトゥの遠征フラグの遠征である。ところが、後の2回はヨーロッパ征服寸前で頓挫している。理由は、ハーンが「深酒」で急死したから。チンギスハーンの子孫は、ユーラシア大陸の半分を征服し「永遠なる神の子」といわれた。ところが、王様が酒を飲みすぎて、征服事業がパァ。

歴史はかくも不条理なのである。

参考文献:
(※1)週刊朝日百科世界の歴史、朝日新聞社出版
(※2)世界の歴史を変えた日1001、ピーターファータド(編集),荒井理子(翻訳),中村安子(翻訳),真田由美子(翻訳),藤村奈緒美(翻訳)出版社ゆまに書房
(※3)ビジュアルマップ大図鑑世界史、スミソニアン協会(監修),本村凌二(監修),DK社(編集)出版社:東京書籍(2020/5/25)

by R.B

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